日曜日, 3月 31, 2019

時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(や は ら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は 珮後 (はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。

時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(や は ら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は 珮後 (はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。



万葉集
梅花の歌三十二首幷に序

梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」

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天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き[良き]月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
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この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。
その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。
当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。

この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。
我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。

この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。



令月(レイゲツ)とは - コトバンク

kotobank.jp/word/令月-660939

デジタル大辞泉 - 令月の用語解説 - 1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」2 陰暦2月の異称。

令月(れいげつ)の意味 - goo国語辞書

dictionary.goo.ne.jp>...>国語辞書>品詞>辞書>国語辞書>品詞

れいげつ【令月】とは。意味や解説、類語。1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰 (かしん) 令月」2 陰暦2月の異称。

嘉辰令月(かしんれいげつ)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書

dictionary.goo.ne.jp>辞書>四字熟語>辞書>四字熟語

嘉辰令月(かしんれいげつ)の意味・使い方。めでたい月日のこと。よい日とよい月の意。 ▽「嘉」も「令」も、よい意。「辰」は日の ...



【備忘録 〜令和〜🖋】


調べてみた!

『令和』の語源はどこからか?_φ(・_・メモメモ


万葉集巻五 

梅花の歌三十二首、并せて序


「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」


初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。


令月 

2月の意 

冬に枯れた草花が再び芽生え始める季節 

令和:復活


「令和」の典拠とされる『万葉集』が更に参照していたのは後漢の張衡の賦だろうが、この張衡という人、古代中国科学史では天文学の観測器具「渾天儀」を最初に作ったり、地震計を作った人としても知られている。巡り巡って、日本の年号の出典となってしまったというのは、何というか面白い。




https://www.kyotocity.net/diary/2019/0401-reiwa/

『萬葉集』(萬葉集)の「梅花謌卅二首」并序より。
「梅花歌三十二首」に序を合わせる、つまり、この後に続く歌の序文です。

梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠
『紀州本萬葉集巻第五』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
紀州本では「于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」となっていますが、「于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」。
この後、大貳紀卿らの歌に続きます。

江戸時代中期~の国学者である本居宣長の『萬葉集略解』より解説を引いておきますと、

梅花歌三十二首并序
目録に太宰師大伴卿宅宴梅花云云と有り。

天平二年正月十三日。萃于帥老之宅。申宴會也。于時初春令月。氣淑風和。梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。夕岫結霧。鳥對穀而迷林。庭舞新蝶。空歸故雁

帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅化粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動霧穀以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。
『萬葉集略解』

太宰師として大宰府に着任していた大伴旅人宅での宴会。
ただし、この序文は山上憶良が作ったのであろうと、やはり江戸時代中期の国学者である契沖が言っている、としており、筆者である本居宣長も同意しています。
山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、筑前守として筑紫に着任していました。
そのため、大宰府周辺で歌を多く詠んでいます。
また、本居宣長は「鏡前之粉」の話を引き合いに出し、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)の名前も挙げています。
このエピソードを見ると、万葉の時代の日本に南北朝時代の中国の話が伝わっていた可能性もあるでしょうね。

歸田賦
張衡
遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁殳以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼望舒極盤遊之至樂雖日夕而忘劬感老氏之遺誡將廻駕乎蓬蘆彈五絃之玅指詠周孔之圖書揮翰墨以奮藻陳三皇之軌模苟縱心於域外安知榮辱之所如
『文選正文巻之三』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

明治3年(1870年)の宝文堂版を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
本によっては「倉庚」は「鶬鶊」。ウグイス(鶯)の意味。

張衡は後漢時代の人。
『歸田賦』(帰田賦)は南北朝時代の蕭統(昭明太子)が編纂したとされる『文選』に収められました。
日本の古人も目を通したかもしれませんね。





恥ずかしながら張衡を知らずwikiを覗いただけですが、あまりの経歴の持ち主に驚きました。

政治家として優秀で30代のうちに世界最初の水力の渾天儀(天球儀)、水時計、世界初の地動儀(地震感知器)発明をしたばかりでなく、文学にも才あり功績を収めているなんて超人じゃありませんか…すごい人だ…


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%A1%A1_(%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85)



張衡の切手(1955年発行)
張衡の地動儀(模型)

張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は、後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。平子南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。

目次

経歴編集

没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元十四年(102年)、張衡24歳の時,南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。永初元年(107年)には、29歳で洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初五年(111年)、張衡34歳の時、京官の郎中として出仕した。元初三年(116年)張衡38歳の時、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光二年(122年),公車馬令に出任した。永建三年から永和元年(128年-136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。

30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。

張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという[1]

そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。

月光生于日之所照,魄生于日之所蔽;当日則光盈,就日則光尽也。

また続いて以下の記述があり、

当日之冲,光常不合者,蔽于地也,是謂暗虚,在星則星微,遇月則月食。

張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。

月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。

関連項目編集

張衡を扱った作品に1983年中国映画「張衡」がある。

脚注編集

註釈編集

出典編集

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  1. ^ 今村明恒「地震漫談 (其の30)、千八百年前の地動儀」 、『地震 第1輯』第8巻第7号、日本地震学会、1936年、 347-352頁、 doi:10.14834/zisin1929.8.347、 ISSN 0037-11142014年9月1日閲覧。

外部リンク編集



歸田賦(帰田賦)と萬葉集(万葉集)に見る「令和」 新元号の発表直後にどこぞで指摘したことですが、こちらにもいちおう。

『萬葉集』(萬葉集)の「梅花謌卅二首」并序より。
「梅花歌三十二首」に序を合わせる、つまり、この後に続く歌の序文です。

梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠
『紀州本萬葉集巻第五』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
紀州本では「于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」となっていますが、「于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」。
この後、大貳紀卿らの歌に続きます。

江戸時代中期~の国学者である本居宣長の『萬葉集略解』より解説を引いておきますと、

梅花歌三十二首并序
目録に太宰師大伴卿宅宴梅花云云と有り。

天平二年正月十三日。萃于帥老之宅。申宴會也。于時初春令月。氣淑風和。梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。夕岫結霧。鳥對穀而迷林。庭舞新蝶。空歸故雁

帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅化粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動霧穀以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。
『萬葉集略解』

太宰師として大宰府に着任していた大伴旅人宅での宴会。
ただし、この序文は山上憶良が作ったのであろうと、やはり江戸時代中期の国学者である契沖が言っている、としており、筆者である本居宣長も同意しています。
山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、筑前守として筑紫に着任していました。
そのため、大宰府周辺で歌を多く詠んでいます。
また、本居宣長は「鏡前之粉」の話を引き合いに出し、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)の名前も挙げています。
このエピソードを見ると、万葉の時代の日本に南北朝時代の中国の話が伝わっていた可能性もあるでしょうね。

歸田賦
張衡
遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁殳以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼。


ツガンー・バラノーフスキー 『英国恐慌史論』(正式標題『イギリスにおける商業恐慌の理論および歴史の研究』)、1901刊独語版初版。TUGAN-BARANOWSKY,von M., Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskreisen inEngland,&マルクス論1905



ツガン-バラノフスキー『英国恐慌史論』1901



TUGAN-BARANOWSKY, von M., Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskreisen in England, Jena, Verlag von Gustav Fischer, 1901, ppvii+425, 8vo.

 ツガンーバラノーフスキー 『英国恐慌史論』(正式標題『イギリスにおける商業恐慌の理論および歴史の研究』)、1901刊独語版初版。
… 
 ツガンの恐慌論では、必ずその再生産表式を中心に論じられるので、ここで、テキストを離れて再生産表式の注釈を入れる。私の見た範囲での、彼の表式に対する批判二つを取り上げる。一つは、置塩信雄が『蓄積論』で論じているものである。置塩によると、ツガン・バラノフスキーの「奇説」は、トートロジー(同義反復)である(置塩、1976、p.162-3)(注6)。上記のごとく、ツガンは「前記の表式は、…資本主義的生産はそれ自身のために市場を創出するという原則を、明らかに立証したに違いない。」と云う。しかし、これは拡大再生産が可能な条件を備えた表式を作成しておいて、逆にこの表式から拡大再生産が可能なことが立証されたといっているように思える。この辺のことを捉えて、置塩はトートロジーだとしているようである。
 …

 これらの表式によりツガンが云いたいのは、蓄積によって消費は減退するが、生産は増大する。そして、生産の増大は、自ら需要を生み出すとのことであろう。消費財需要の減退分の生産手段需要が創出される。蓄積が行われても、需要と供給との均衡は保持される。それは、「小麦の需要が減って銑鉄の需要がこれに代って現れる、ただそれだけである」(青山、1950、p.3)。
 第Ⅰ表式では、消費財の生産量が、1,440 ( 720 の労働者消費財と 720 の資本家消費財)であり、総商品生産量が 2,880 である。第Ⅱ表式第二年度では、消費財生産が 1,400 (同 980 と 420 )であり、総商品生産量が 3,260 である。両者を比較すれば、総商品生産は大きく増加したが、消費財生産は減少している。「それは、資本主義経済においては、商品の需要が社会的消費の総規模とは、ある意味において無関係であるという結論、すなわち、「常識」の見解からすれば、いかに不条理に見えようとも、社会的消費の総規模が縮小しながら、それと同時に、商品に対する社会的総需要が増大することがあり得るという結論である」(p.33)(注9)。そして、この表式では極めて重要な契機を考慮していない。技術の進歩である。技術の進歩により、生産過程で機械の需要性が増大する。労働者の重要性ひいては、労働者消費財の需要が、生産手段需要に比べて減退する。「人間の欲望を充たす手段としての生産と、資本の創出における技術的契機としての、すなわち自己目的としての生産との間の矛盾が、資本主義経済秩序の根本矛盾」(p.35)となる。資本主義経済では、資本家ですら生産の召使いと化す。
 このように、資本主義経済は、矛盾を孕みながら生産力を増大させる。資本主義経済は、「すでに見た通り、社会的生産の比例的配分が存在する場合には、商品の需要が供給自体によって創出される。しかし、完全な比例に到達することは、克服しがたい困難をそこに含んでいる。社会的資本が比例的に配分されなければ、それ以外のあらゆる配分は、一部の商品の過剰生産を生じせしめる。しかも、すべての生産部門が互いに密接な関連を持っているから、一部の商品における部分的な過剰生産が、全般的な商品過剰生産に容易に転化する」(p.39)であろう。「もし社会的生産が計画的に組織されているとすれば、もし生産の指揮者が需要について完全な知識と、労働と資本を或る生産部門から他の生産部門へ移動させる勢力とを併せ有しているならば、いかに社会的消費が減少しようとも、商品の供給が需要を上回るということは起こり得ないだろう。ところが、社会的生産がまったく、無計画な場合、無政府性が商品市場を支配している場合には、資本の蓄積が不可避的に恐慌の原因となるのである」(p.41)。こうして、無計画・無政府的な資本主義経済にとって、再生産表式どおりの生産は不可能であり、不比例生産とならざるを得ない。従って、恐慌は不可避となるのである。ツガンは最初に、表式を用いて、ある一定条件下で(可能性にすぎないが)一般的過剰生産が起こり得ないことを示した。今や、それを元に、その一定の条件が成立しないことにより、一般的過剰生産の不可避を論証するのである。

 これまでが、第一章の分析である。「不比例生産説」が真実であるならば、一般的過剰生産は恒常的現象ではないのだろうか。しかしながら、現実には、景気変動は周期的に起こっているのである。周期性の説明は別に必要である。これは、「第八章 産業循環と恐慌の周期性の諸原因」でなされる。「ある一生産部門における生産拡大が、他の産業によって生産される商品需要を強める。このようにして、生産拡大の推進力が次々と一産業部門から他の部門に伝わり、したがって、生産拡大が伝染的に作用し、つねに総国民経済をとらえる傾向をもつ。この理由によって、固定資本の新創出期には、すべての商品の需要が増大する」(p.254)。「しかしなぜに、新固定資本の生産が漸次的でなしに、痙攣的に大幅の飛躍をとげるのであろうか。この原因は、資本主義経済秩序における資本蓄積の諸条件から説明される」(p.255)。

青山秀夫 『景気変動理論の研究 (第二巻)』 日本評論社、1950年
置塩信雄 『蓄積論』 筑摩書房、第二版1976年


Tugan-Baranowskyの部門間比例説と高田=久留間論争 山内 清 
Tugan-Baranowsky’s Proportion Theory in Production Sections and Takada=Kuruma Dispute Kiyoshi YAMAUCHI  2012
http://www.tsuruoka-nct.ac.jp/wp-content/uploads/2013/04/kiyou47_01-10.pdf
理 論 的 基 礎 』( Theoretische Grundlagen des. Marxismus,1905,SS24-5)の中で 、「社会的消費の絶対的. 減少のもとでも拡大再生産が可能である」の証明として、. 次 のような表式を提出する。その条件とは、①全部門の資. 本構成が3:1→4:1→5.33:1  ...


は じめに――ツガン部門比例説論争と考察の限定 M・ツガンーバラノフスキー(以後ツガンと略記する)は『英国恐慌史論』(注1)他で、マルクスの再生産表式を独自に拡張して、蓄積が社会的消費から独立 して無限に進行しうる、あるいは恐慌は部門間の不比例で起こるなどの説を展開したことで有名である。従来、彼の恐慌論は過少消費説の対極にあるものとし て、日本のどの恐慌論の研究者も言及しているが、彼の説のもとになった3部門拡大再生産表式そのものの検討は少ない。その批判の際も、その設定の矛盾や ルール違反を指摘するだけで、拡大再生産条件に「部門間比例(比率)の維持」を付け加えるツガン説への根本的な批判はなされていない。 
日 本でツガン説を採用し、マルクス批判をしたのは高田保馬(注2)である。1932年、高田は単なるツガンエピゴーネンとしてではなく、ツガンではなしえな かった部門間で資本構成が不均等な場合をとりあげ、蓄積率(剰余価値のうち追加資本に回る比率)の概念を用い、拡大再生産条件(以後Ⅰv+mk+mv=Ⅱ c+mcの意味で使う)に、「二部門のあいだには一定の釣合いがあるはず」(355頁)、つまり「部門間比率の維持」を付け加えるべきだと主張し、マルク スには「見落としがある」と攻めた。当然マルクス擁護の久留間鮫造(注3)から反批判があり、Ⅰ部門蓄積率の主導により部門間比率は従属的に変化するとさ れた。両者の応酬は昭和ひとけた時代の高田=久留間論争として有名である。
し かし、戦後日本では高田説は影響力をなくし、久留間説が有力な恐慌論の一つとなったため、論争は久留間説で片が付いたと見なされていた。 しかし1970年代論争は別の形で再燃した。久留間編『マルクス経済学レキシコン』の「栞№6」で、大谷禎之介は富塚良三恐慌論らにある「均衡蓄積率」の 考え方は、「蓄…
(注 1)Tugan-Baranowsky,Studien zur Theorie und  Geschichte der Handelskrisen in England,1901.救仁郷繁訳『英国恐慌史論』ぺりかん社、1972年。初版は露語版(1894年)。 
(注2) 高田保馬の1932年から1934年までの初出の雑誌、新聞論文は高田保馬『マルクス経済学論評』改造社、1934年に部分修正を経て再録されている。以下、高田の文章は改造社版で示す。
1頁より

ツ ガンは、カウツキーらのツガン表式は「めったに起こりえないケース」だとの批判を受けて、『マルクス主義の理論的基礎』(Theoretische Grundlagen des Marxismus,1905,SS24-5)の中で、「社会的消費の絶対的減少のもとでも拡大再生産が可能である」の証明として、次のような表式を提出 する。その条件とは、①全部門の資本構成が3:1→4:1→5.33:1のように年々高度化する。②賃金は年々減少する。③したがって剰余価値率もまた、 100%→166.7%→255.6%と上昇する。③第1年度はⅠ、Ⅱ、Ⅲ部門の剰余価値総額800のうち200つまり25%が蓄積に回る。しかし、Ⅲ部 門は全く蓄積せず生産物価値的には成長しないと想定する。Ⅲ部門はその代償として、先のように賃金が25%下げられ、剰余価値額は25%上昇する。ツガン は拡大再生産の資本家的典型像をこのように描くのである。それで、彼は3部門とも資本構成が3:1で均等な表式を提出した。 
【表式4-1】 
第1年度 
Ⅰ1632c+544v+544m=2720 
Ⅱ408c+136v+136m=680 
Ⅲ360c+120v+120m=600 
Ⅲ 部門の不変資本cと総生産額c+v+mは変わらないとする想定であるから、vが120から90になれば、第2年度の価値生産物v+mは90v+150mと なる。ここから剰余価値率166.7%が計算され、それに等しくなるようにⅠ、Ⅱ部門の剰余価値率も決まる。しかし、蓄積率は3…
5頁より

ミハイル・トゥガン=バラノフスキー - Wikipedia 
ミハイル・トゥガン=バラノフスキー(Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovsky、1865年1月8日 - 1919年1月21日)は、ウクライナ出身、ロシア経済学者
(ツガン=バラノフスキーと呼ぶひとも多い。)
高畠素之『唯物史観の改造』(新潮社,大正13年12月)……Theoretische Grundlagen des Marxismus(『マルクス主義の理論的基礎』),1905年の部分訳である。 

ミハイル・トゥガン=バラノフスキー (Mikhail I. Tugan-Baranovsky)
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ミハイル・イワノヴィッチ・トゥガン=バラノフスキー (Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovsky), 1865-1919.


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 ウクライナの経済学者ミハイル・トゥガン=バラノフスキーの貢献は、二つの関連する分野でのものだ:景気循環論マルクス派危機理論だ。
 景気循環をめぐるトゥガン=バラノフスキーの理論は 1894 年著書で解説されており、初めて一貫性のある完全に「経済学的」な景気循環の理論として有名だ。この理論は、セイの法則を否定する信用理論と、ケインズ的な乗数理論の原始的なものに基づいており、景気循環は独立した投資関数によるもので、最終的には不景気の原因は「過剰投資」であると論じた。この画期的な研究のおかげで、ヨーロッパでは多種多様な景気循環論、たとえばシュピートホフ から カッセル やロバートソン、果てはキール学派 や ハイエクまでが登場した。
 この景気循環理論を基盤として、 1905 年には マルクスの 資本主義危機理論に対する批判が生まれた。景気循環論で、すでに資本主義においては「破壊/崩壊」に向かう動きが必ずしもあるわけではなく、単に波となる パターンがあるだけなのだ、ということは示された。1905 年の著作では、この議論を拡張し、資本主義経済は条件次第で「定常状態」に達して崩壊への動きが止まることもあり得ることが示された。
 トゥガン=バラノフスキーの批判は、 マルクス派の中で、支持者 (e.g. ヒルファディング) と、崩壊必然という古い協議の信奉者 (e.g. カウツキー や アードラー) との大論争を巻き起こした。これは後に、帝国主義に関する論争にまで発展した。やがてトゥガン=バラノフスキーはルーツであるマルクス主義を放棄して、かつての論敵だったナロードニキたちの社会主義的な見方である協同主義的経済を支持するようになった。

ミハイル・トゥガン=バラノフスキーの主要著作

  • The Industrial Crises in England, 1894.
  • The Russian Factory, 1898.
  • Theoretical Groundwork of Marxism, 1905.
  • Modern Socialism in its Historical Development, 1906.

ミハイル・トゥガン=バラノフスキーに関するリソース







TUGAN-BARANOWSKY, von M.
, Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskreisen in England, Jena, Verlag von Gustav Fischer, 1901, ppvii+425, 8vo.

 ツガンーバラノーフスキー 『英国恐慌史論』(正式標題『イギリスにおける商業恐慌の理論および歴史の研究』)、1901刊独語版初版。
 著者略歴:ツガンーバラノーフスキー Mikhail Tugn-Baranowsky (1865-1919) 。現ウクライナのハリコフ州の寒村の生まれ。父はタタール(韃靼と訳していいのかどうか)の血を引く。母はウクライナ人。自然科学・数学と法・経済学を学び、1888年ハリコフ大学を卒業。1892年英国で6か月の研究生活を過ごす。本書の元となる英国産業循環の論文で1894年モスクワ大学から修士の学位を受ける。同年出版。ペテルブルグ大学私講師をはじめとして、種々の地方工芸学校や研究所で経済学を講じる。ペテルブルグ大学では不遇で、故郷ウクライナに帰り、キエフ大学法学部の学部長に就く。この間、もう一つの主著となる『過去および現在のロシアの工場』で、博士号を受ける。長期波動のコンドラチェフは、彼の教え子である。新カント派の立場から、マルクス主義を修正した折衷派とされる。
 政治的には「合法的マルクス主義」者として、ロシア資本主義発展の立場に立ち、ナロ-ドニキを批判した。1905年の第一次ロシア革命にはカデット(立憲民主党)に入党する。1917年の十月革命時には、民族主義で自治権を掲げるウクライナ中央ラーダ(地方評議会、議会とも)(注1)に参加した。同年、キエフに樹立された中央ラーダ臨時政府の蔵相に就任する(注2)。しかし、ウクライナの事実上の独立を主張した第三次ウニヴェルサール(宣言)に抗議して、最高執行委員(内閣にあたる)を同年11月に辞任する。1919年フランス行の船に乗るためオデッサ港へ向かう途中死亡と書かれている。54歳であった。

 本書の標題には、「理論および歴史の研究」と記されている。本独語版は、二篇よりなる。「第一篇 恐慌の理論および歴史」全八章のうち、「第一章 資本主義経済における恐慌の根本原因」、「第六章 大衆の過少消費によるとする恐慌説明」、「第七章 マルクスの恐慌理論」および「第八章 産業循環と恐慌の周期性の諸原因」が理論部分である。他の、四章が歴史部分となる。「第二篇 商業恐慌の社会的影響」では、全四章があげて歴史部分である(章とされていない「結論」部分は全体の結論で一部理論部分を含む)。理論部分のうち、先行理論批判ではない、ツガン自身の積極的な理論部分は、第一章と第八章のみである(注3)。
 ページ数でいえば、歴史部分がほぼ7割を占める。現在となっては、経済史部分の意義は少ないと思われるので、以下理論部分について述べる。しかし、その前にツガンの理論的な考察の本となった(と私が考える)彼の記した歴史的事実をあげておく。ツガンの大部の叙述のなかで二点のみを取り上げる。
 まず、第一は恐慌の周期性である。18世紀にも恐慌はあった。しかし、19世紀第二四半期に入って、「最近の諸恐慌は一つの点において、他のあらゆる恐慌とまったく違っている。以前の恐慌は何らかの例外的な、たいてい政治的な事情によってひき起こされ、その繰り返しは周期性を示さなかった。ところが、この周期性こそ現代の諸恐慌、発達した資本主義的生産様式の諸恐慌の特徴なのである。…その周期性こそ、諸恐慌が外部の事情からではなしに、現代経済秩序そのものの内的本質から発生することを証明している」(ツガン、1972、p.74:以下訳書は頁数のみ表示)。恐慌が周期的に発生するという事実そのものが、その原因が偶然な経済外的要因によるものではなく、資本主義経済の経済体制そのものから発生するものであることを強く示唆しているのである。
 第二に、19世紀末になっての恐慌の一特徴として、産業の好不況が消費財産業ではなく、生産財産業に強く現れるようになったことである。「イギリス産業それ自体の本質に著しい変化が生じた。すでにしばしば指摘した通り、最近のイギリスにおいて最大の変動が起こっているのは、以前と違って繊維工業ではなしに、製鉄業、機械工業、石炭生産、その他の生産手段産業部門である」(p.188)。ツガンは産業循環の指標として鉄価格をしばしば用いている(世紀前半についても)。これは、鉄が、機械・器具・船舶等生産手段を制作ための最も重要な材料であるので、鉄の需要と価格から、固定資本の新創出量を判断することができるからであるという。消費財産業の需要の相対的な安定性と生産財産業の需要の激変。この産業間の需要変動の相違について、ツガンは考えることが多かっただろう。

 19世紀後半からツガンの時代に至るまで、英米経済学の世界では、ミクロ経済学的な極大化分析と均衡分析が。研究の中心であった。「恐慌と不況の問題に経済学の中の地位を与えたのは、正統学派の学者たちではなくして、彼等の教えによって啓発され、然も彼ら正当学派に反発した懐疑派の人々であった。…古典派の大学者達は、彼等の体系的な著述の中では、景気のリズミカルナな変動については、ほんの付随的な注意しか払わなかった。彼らは、『結局において』妥当とされ、あるいは『正常状態』に適用されるような諸原理を解明することに、第一義的な関心を持っていた。彼らにとって恐慌や不況は第二義的な関心事でしかなかった。――それらは、特殊研究、あるいは時に言及されるのに適した問題ではあっても、経済理論の中心問題ではなかった」(ミッチェル、1961、p.5:ハチスンの引用訳を参照して一部改訳)。時に、経済循環が取扱われることがあっても、ジェヴォンズの「太陽黒点説」のようにその原因を「外生的」に説明されることが多かった。この状況は、マルクスという偉大な例外を別とすれば、大陸でも大きくは異ならなかったであろう。
 ようやく、世紀の変わり目の頃から、マルクスの影響も受けて、ツガンを先陣として、シュンペーター(『経済発展の理論』1912)、シュピートホフ(「景気理論」1925)、らが、景気循環を正面から扱い、それもその原因を外生的・偶然的なものでなしに、内生的・必然的なものとする理論を展開しはじめた。マルクス的はないが、アフタリオン(『過剰生産による周期的恐慌』1913)も、しかりである。その後に英米における、ミッチェル(『景気循環』1913)、ロバートソン(『産業変動の研究』1915)、ピグー(『産業変動論』1927)、ホートレー(『景気と信用』1929)等の研究が続く。
 景気変動理論は、大別すると、過少消費説と過剰投資説とに分かれる。前者は有効需要の諸理論が含まれるし、後者は過剰消費あるいは、不均等投資(生産)の諸理論が含まれるといってよい。ツガンの説は、過剰投資説の不比例生産説と分類される。
 「不況が起こるのは、商品の販売が妨げられているためであり、もっと正確にいえば、商品を売り捌くことのできる価格が企業者にとって採算に合わないから、という理由によるのである」。よって、市況の改善すなわち商品価格の小幅な上昇でさえ、産業の操業度を上げ、雇用を増大させる。「それ故に、現代の国民経済における市場の役割を解明する上で最も困難な点は、需要機構の分析にある」(p.13)。「商品の全般的な過剰生産――すなわち、あらゆる商品に対する、支払い能力を持つ需要が供給に及ばない、それが全般的な価格低落となって現れている、そういう市場状態…をみずから経験したことのない資本主義国は一つもないからである」(p.19)。そして、後の記述では「恐慌史全体が次のことの歴史的証明となっている。それは、現代の国民経済において需要が重大な意義を有することと、国民生産が、資本量が不変な場合においても、著しく増大し得る能力を有することを証明している。」(p.196-7)とケインズの有効需要論を想起させるような箇所もある。
  これらを見るに、ツガンは過少消費説の徒と思いきや、「全般的な過剰生産の基礎となるのは、部分的な過剰生産である。」(p.20、下線は訳書では傍点)として、「不比例生産説」を取る。「われわれは、比例性の欠如と過少消費とを、二つの特別な恐慌原因として同時に数えるべきではない。―この二つはある意味で同一のものである。」(p.218)とも、書かれている。ツガンの「不比例生産説」は、よく知られた彼の再生産表式を使って証明される。しかし、それを解説する前に、(彼の考える)経済史上の事実から過剰生産の発生を説明している所に触れる。資本主義社会の過剰生産の説明の伏線が張られていると考えるからである。

 物々交換の世界では、他人の生産物を入手するのに必要なものは、自分の生産物の供給である。需要の規模は供給によって確定される。自己の欲望以上の生産はなされないだろう。そこでは、価格は相対的な交換比率であり、ある財の価格上昇は、必ず交換される財の価格を下げる。しかるに貨幣が導入されると、例えば、穀物生産者が入手した貨幣が少なくなると、彼が布地代金として支払う貨幣も減少する。従って、穀物価格の下落が布地価格の下落をも招く。物々交換の場合には相反する方向に動いた両商品価格は、どちらも同一方向に変動するのである。そのうえ、貨幣を貴重品として手元に保蔵することによる購買力の消失もある。「交換の媒体のとしての貨幣の導入によって、市場が根本的に変革される。市場が生産の支配力となる。市場の悪気配は、別に過剰に生産されていない各商品の価格に対してまで、不利な跳ね返り作用を与える。各商品の価格が、他のあらゆる商品の価格に密接に依存するにいたる。…貨幣の媒介による商品交換において、物々交換では、まったく知らなかった、まったく新しい現象――全般的な過剰生産――に出会う。一商品の過剰生産が貨幣経済においては全商品の過剰生産に転化」(p.19)する。
 しかしながら、貨幣経済であっても、単純商品生産あるいは独立小生産者経済では、「商品の全般的な過剰生産の可能性を含んではいるが、過剰生産の必然性をもつものでは決してない。それどころか、…この可能性がきわめて稀にしか現実と化することがない」(p.21)。なぜなら、この経済は、自家消費のためではなく他人との交換のための生産であるには違いないが、それでも、そこではほとんどすべての商品が、直接に消費のために生産されるからである。欲望は著しい安定性を持っている。需要は人口増加に比例して緩慢にしか伸びない。「したがって、生産物の直接交換においては生産物の全般的な過剰生産がまったくあり得ないとすれば、単純商品経済が支配的な場合は全般的な過剰生産が、たとえ可能であっても、必然的ということは決してない」(p.22)。
 それでは、商品経済の現代的形態である、資本主義経済ではどうか。資本家的企業者は、利潤を目的に、賃金労働者を働かせる。この利潤の一部は資本家的企業者の個人的消費に回され、残りは蓄積されてふたたび資本に転化される。資本家から見れば、労働者は機械や道具と同じ生産手段である。資本主義経済は、また人間をいわば物に変えてしまう。人間の労働力が、人間の生み出した生産物と同じように、市場で売買される商品となる。もし、技術上・経済上から見て、機械が労働者より有利な生産手段とみなされるなら、労働者は解雇され、機械が導入される。そして、労働者の消費手段生産に代わって、機械の燃料が生産される。「資本の社会的再生産過程の分析においてわれわれが決して見落としてはならないは、社会的資本が消費手段の生産のためのみならず、生産手段の生産のためにも充用されるという点である」(p.28)。アダム・スミスからJ・S・ミルに至までの経済学は、社会的生産物を賃金・利潤・地代の範疇に帰してしまったため、生産手段の重要性を見失っていた。マルクスは、資本の社会的再生産過程分析における生産手段の重要性に気付いた。
 資本主義社会では、消費財の生産よりも、生産手段の生産の割合が増加する傾向にある。「もし国民生産が国民消費よりも早いテンポで増大するならば、社会的生産物の実現は、したがって資本の価値増殖は、果たして可能なのだろうか。」(p.24)との問いをツガンは発する。そこでまず、再生産表式によって、いわば「比例生産による均衡生産」の可能性を検証する。そして、逆説的ながら、その論証を逆用して、資本主義経済が生み出す不比例生産による過剰生産を証明するのである。

 いよいよ、「ツガンの再生産表式」である。この再生産表式は、「マルクスの有名な表式を手本にして作成したもの」(p.26)である。しかし、マルクスのように二部門ではなく、三部門から成る。第一部門は生産手段を、第二部門は労働者消費財を、第三部門は資本家消費財をそれぞれ生産する。また、マルクスは不変資本・可変資本・剰余価値の三項目を用いたが、ツガンは生産手段価値 (p) ・労賃 (a) ・利潤 (r) に別ける(注4)。
 なお、表式には次のことが仮定されている。これらの仮定は、第Ⅱ表式の拡大再生産において生産年度を通じて一定である(仮定(1)のみ単純再生産でも適用)。仮定(1):三部門を通じて p:a:r = 2:1:1 の比率が保持されている。従って、産出量で、生産手段価値・労賃・利潤の各投入量を除した比率(産業連関論でいう投入産出係数)は、それぞれ 0.5、0.25、0.25 となる。仮定(2):利潤の半分が(商品で)貯蓄される。仮定(3):各部門の全産業に占める割合は、一定である。第一、第二、第三部門の大きさは、14:7:3 のウェイトとなる(注5)。
 

  第Ⅰ表式 社会的資本の単純再生産

   第一部門  720p + 360a + 360r  =  1,440 
   第二部門  360p + 180a + 180r  =   720  
   第三部門  360p + 180a + 180r  =   720 
 ―――――――――――――――――――――――――――
         1,440   720   720    2,880

  第Ⅱ表式 社会的資本の拡大再生産(資本蓄積)

  第一年度
  第一部門  840p + 420a + 420r  =  1,680  (+240)
  第二部門  420p + 210a + 210r  =   840  (+120)
  第三部門  180p + 90a + 90r  =   360  (-360)
  ―――――――――――――――――――――――― 
          1,440  720   720     2,880

 第二年度
 第一部門  980p + 490a + 490r  =  1,960   (+280)
 第二部門  490p + 245a + 245r  =   980   (+140)
 第三部門  210p + 105a + 105r  =   420   (-420)
 ――――――――――――――――――――――――――――――――
        1,680   840  840     3,360 

 第三年度
 第一部門  1,143・1/3p + 571・2/3a + 571・2/3r  =  2,286・2/3  (+326・2/3)
 第二部門   571・2/3p + 285・5/6a + 285・5/6r  =  1,143・1/2  (+163・1/3)
 第三部門      245p + 122・1/2a + 122・1/2r  =    490     (-490)
 ――――――――――――――――――――――――――――――
          1,980     980      980        3,920 

      
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (参考表式) [記者作成]
 第二年度
 第一部門  770p +    385a +    385r  = 1,540   (+200)
 第二部門  385p + 192・1/2a + 192・1/2r  =  770   (+100)
 第三部門  165p +  82・1/2a +  82・1/2r  =  330   (-300)
 ―――――――――――――――――――――――――――――    
         1,320   660       660      2,640


 * x・y/z は、x と z 分の y を表す(分数表示がうまく表せないため)。
 * 各行の最後の()内は、投入量と比べての増加額である。
 *ツガンの表には、()や合計額表示はない。

 
 ツガンの作成した表式を見る。第Ⅰ表式は、単純再生産の例である。第一部門では、720 の生産手段と 360 の賃金とが投入され、360 の利潤(仮定により賃金と同額)を加えて、1,440 の生産財が産出される。第二部門の労働者消費財、第三部門の資本家消費財でも、横(行と称す)に読めば同様である。生産手段 p 投入量の縦(列と称す)の合計は、生産手段の総生産額(第一行計) 1,440 に等しい。賃金 a 合計(第二列計)は、第二部門の労働者消費財生産量に等しく 720 である。単純再生産では、利潤 r は資本家によって資本家消費財に消費尽くされるから、総利潤(第三列計)もまた、第三部門の資本家消費財生産額(第三行計) 720 に等しい。以上三部門とも需給が一致している。単純再生産では、この表式の生産が毎年繰り返されるのである。
 さて、第Ⅱ表式の拡大再生産(資本蓄積)の場合である。まずは、第一年度を見る。産業の総生産量(=総投入量) 2,880 は、第Ⅰ表式の単純再生産と同じ額である。生産手段・賃金の投入量総計と総利潤それぞれ 1,440、720、720 も、第Ⅰ表式と同じ額である。ただ、資本家は第Ⅰ表式と比べて、自らの消費分の生産を半分の 360 に減らして、減らした分の 2/3 である 240 を第一部門の生産物の生産に充て、残り 1/3 の 120 を第二部門の生産に充てる。こうして、総利潤額を含む投入額は単純再生産と同じだが、第一年度の終わりには、240 の生産手段と 120 の労働者消費財が増産されて、それぞれ全体で 1,680 と 840 が生産される。この増産分は資本家の節約によって生み出されたものである。
 さて、ここで第二年度への移行が問題となる。「われわれの課題は、資本家の消費手段(消費財のこと:引用者)需要が半減しているにもかかわらず、いかにして、蓄積された資本の生産的利用が可能であるかを説明することにある」(p.31)。ツガンの説明を聞こう。第二年度の生産手段需要は、初年度を 240 超過する 1680 (第二年度第一列計)であり、労働者消費財需要は 120 超過する 840 (第二年度第二列計)である。それらは、初年度に生産された生産手段・労働者消費財の価値に等しい。よって、初年度に増産された生産手段と労働者消費財は、第二年度の生産の需要によって吸収される。そして、資本家の消費財は初年度360生産された。仮定(2)により資本家は利潤の半分しか消費しないので、(初年度の)第一部門の資本家は利潤 420 の半分 210 を消費し、第二部門の資本家は利潤 210 の半分 105、第三部門資本家は 90 の半分45を消費する。資本家消費需要の合計は 210+105+45=360 である。こうして、資本家消費財の需要供給は一致することになる。「こうして初年度の生産物全部が第二年度に販路を見つけたわけである」(p.32:下線引用者:この点は後述)。
 第三年度も、表式が掲げられており、同様の拡大再生産が継続するようになる。前年度の生産手段・労働者消費財の価値が決まれば、仮定(2)、(3)により次年度以降の表式が作成可能だから、拡大再生産は永久に続くことになる。当然、疑問が生じるであろう。前年度増産した生産物に相応するだけの需要が次年度に増加するかとの疑問である。これに対してツガンは、「前記の表式は、それ自体きわめて簡単な原則ではあるが、社会的資本の再生産過程の理解が不十分なら異議を招き易い原則を、すなわち、資本主義的生産はそれ自身のために市場を創出するという原則を、明らかに立証したに違いない。」(p.33)と記している。「すでに見た通り、社会的生産の比例的配分が存在する場合には、商品の需要が供給自体によって創出される」(p.39)とするのである。

 ツガンの恐慌論では、必ずその再生産表式を中心に論じられるので、ここで、テキストを離れて再生産表式の注釈を入れる。私の見た範囲での、彼の表式に対する批判二つを取り上げる。一つは、置塩信雄が『蓄積論』で論じているものである。置塩によると、ツガン・バラノフスキーの「奇説」は、トートロジー(同義反復)である(置塩、1976、p.162-3)(注6)。上記のごとく、ツガンは「前記の表式は、…資本主義的生産はそれ自身のために市場を創出するという原則を、明らかに立証したに違いない。」と云う。しかし、これは拡大再生産が可能な条件を備えた表式を作成しておいて、逆にこの表式から拡大再生産が可能なことが立証されたといっているように思える。この辺のことを捉えて、置塩はトートロジーだとしているようである。
 今一つは、青山秀夫の批判である。青山は、拡大再生産の均衡条件である、「社会的生産物の比例的配分」を生産部門間の生産に比例的関係が維持されることと解する。すなわち、第一部門と第二部門比率が2:1であり、第二門と第三部門比率が7:3であることが保持されることであると解する。しかし、この「比例的配分」を保持するだけでは、拡大再生産は保証されない。「この条件は拡張再生産の進行のための必要条件であっても十分条件ではないのである」(青山、1950、p.15)。第一部門、第二部門の生産について、前年度の増産分に相当する今年度の需要増があることは、「各部門の生産の相対的比率を規定するのみならず、その絶対的規模をも規定する((注5)を参照せよ:記者)に反して、社会的生産の比例的配分ということは単に相対的比率にしか関しないのである。ところで以上の表式の分析が明らかにしたところによれば、夫々の年度の生産が単に相対的比率に於いてのみならず、その絶対的規模に於いても一定の条件を満足することが、再生産の円滑なる進行乃至生産拡張に応ずる販路の確保のために必要なのである。この意味に於いて、社会的生産の配分が比例的でありさえすれば、需要も亦生産拡張に応じて増大する、とするツガンの主張は誤謬である。」(p.15-16)とツガンを批判する。青山によれば、生産の比例性を維持しても、次年度の生産規模が、前年度の資本形成(生産物)に等しい需要量を生むより少ない場合は、生産過剰が起こると云っているのである。これは例えば、生産部門間の比例性は保持しているが、第一・第二部門生産物ついて、第二年度の需要(生産)が第一年度からの供給に不足する例を考えてみれば歴然である。「参考表式」として作例してみたものを下に掲げる。
 ただし、青山自身が前年度の増産分に応じた今年度の生産拡張のあることを、「此の一致は此の表式が前提する条件――あるいは此の条件の性質上隔時的均衡条件と呼んでよい――の一つと解されねばならぬ。」(p.11:下線は引用者)というように、ツガンが「比例的生産」と云うとき、その意味については、狭義の生産部門間の比例性の他に、相応する需要増大も前提として含意されているように私には思える。ただ、確かに生産部門の(狭義の)比例性のみからは、上記の「商品の需要が供給自体によって創出される」ことは云えない。ツガンが、「この分析の結果、社会的生産物の比例的配分が存在する場合には、必ず生産物の需要と供給が一致するという原則が明らかにされた。」(p.192)とするとき、その証明手段である彼の表式は、「隔時的均衡」を前提としながら、「隔時的均衡」が成立することをもって比例生産の均衡成長可能性を証明したように思える。置塩と青山の批判を併せ考えると、トートロジーの意味がより明確になるように私には思える。 
 最後に、小生の疑問である。上記のように、ツガンは、初年度の生産物全部が第二年度に販路見つけたとしながらも、資本家消費財については、当年度(初年度)需要で説明している。ツガンは矛盾したことを書いている。青山・波多野・市原等の解説書にも、このあたりのことは書かれていない(注7)。私の云う(仮定3)から、第三部門のウェイトは全生産量の 1/8 である。p, a, r の投入量は全産業を通して、2:1:1 [(仮定1)]であり、 r の合計も全産出量の 1/4 である。生産構造の仮定から、各年度において、必然的に r の総計は第三部門生産量の 1/2 となる。ツガンの云う資本家消費財が同年度内で、需給一致するのは当然である。
 しかし、表式においては、第一、第二部門の取扱いを見ても、当年度に生産された生産物が、次年度に使用されるとされるとの前提であろう。ならば、第三部門生産物も次年度にどう消費されるかが問題であろう。当年度生産された資本家消費財量が、次年度に供給量となる。普通に考えれば、次年度の資本家財の需要は総利潤の1/2だから、経済拡大率(成長率)の1/2の率だけ需要が供給を上回るようにも思える。
 この点について、自分なりに考えてみた。答えは、とりあえず、次のようなものではないかと思っている。“(注5)”に書いた(1)~(4)の方程式で、各年度の pi , ai , ri , wi は求められる。青山によると、「かくて方程式の数と未知数の数と一致し、一定状況の端緒年度が与えられれば、その後は年々歳々一義的に確定した形に於いて ad infinitum に発展が進行することになる。」(青山、1950、p.14)とある。第一部門と第二部門の当年度生産物が翌年度に需要されること(式(4))は、比例均衡成長の必要条件であり、他の三つの条件(式(1)~(3))とともに必要十分条件をなす。第三部門の生産について、何らかの必要条件は、追加する必要はない。それなしで、比例成長の条件は完結する。それゆえ、第三部門生産においては、需給の一致は考慮の外にあるのではないのではないか。
 後にツガンは、第三部門の生産量が、年度を通じ一定とした表式を発表している。論文「国民経済学から見た資本主義経済制度の崩壊」(1904:Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpoltik,Bd.19 )に掲載されたものである(注8)。この表式では、年度を通じ資本家消費財生産量は一定である。第三部門の生産量になんら制限がないから、このような例が作れるのであろう。もっとも、この論文自体を読んでいないので詳細は不明だが、下記に述べるように、本論文は別目的で作られたようである。

 これらの表式によりツガンが云いたいのは、蓄積によって消費は減退するが、生産は増大する。そして、生産の増大は、自ら需要を生み出すとのことであろう。消費財需要の減退分の生産手段需要が創出される。蓄積が行われても、需要と供給との均衡は保持される。それは、「小麦の需要が減って銑鉄の需要がこれに代って現れる、ただそれだけである」(青山、1950、p.3)。
 第Ⅰ表式では、消費財の生産量が、1,440 ( 720 の労働者消費財と 720 の資本家消費財)であり、総商品生産量が 2,880 である。第Ⅱ表式第二年度では、消費財生産が 1,400 (同 980 と 420 )であり、総商品生産量が 3,260 である。両者を比較すれば、総商品生産は大きく増加したが、消費財生産は減少している。「それは、資本主義経済においては、商品の需要が社会的消費の総規模とは、ある意味において無関係であるという結論、すなわち、「常識」の見解からすれば、いかに不条理に見えようとも、社会的消費の総規模が縮小しながら、それと同時に、商品に対する社会的総需要が増大することがあり得るという結論である」(p.33)(注9)。そして、この表式では極めて重要な契機を考慮していない。技術の進歩である。技術の進歩により、生産過程で機械の需要性が増大する。労働者の重要性ひいては、労働者消費財の需要が、生産手段需要に比べて減退する。「人間の欲望を充たす手段としての生産と、資本の創出における技術的契機としての、すなわち自己目的としての生産との間の矛盾が、資本主義経済秩序の根本矛盾」(p.35)となる。資本主義経済では、資本家ですら生産の召使いと化す。
 このように、資本主義経済は、矛盾を孕みながら生産力を増大させる。資本主義経済は、「すでに見た通り、社会的生産の比例的配分が存在する場合には、商品の需要が供給自体によって創出される。しかし、完全な比例に到達することは、克服しがたい困難をそこに含んでいる。社会的資本が比例的に配分されなければ、それ以外のあらゆる配分は、一部の商品の過剰生産を生じせしめる。しかも、すべての生産部門が互いに密接な関連を持っているから、一部の商品における部分的な過剰生産が、全般的な商品過剰生産に容易に転化する」(p.39)であろう。「もし社会的生産が計画的に組織されているとすれば、もし生産の指揮者が需要について完全な知識と、労働と資本を或る生産部門から他の生産部門へ移動させる勢力とを併せ有しているならば、いかに社会的消費が減少しようとも、商品の供給が需要を上回るということは起こり得ないだろう。ところが、社会的生産がまったく、無計画な場合、無政府性が商品市場を支配している場合には、資本の蓄積が不可避的に恐慌の原因となるのである」(p.41)。こうして、無計画・無政府的な資本主義経済にとって、再生産表式どおりの生産は不可能であり、不比例生産とならざるを得ない。従って、恐慌は不可避となるのである。ツガンは最初に、表式を用いて、ある一定条件下で(可能性にすぎないが)一般的過剰生産が起こり得ないことを示した。今や、それを元に、その一定の条件が成立しないことにより、一般的過剰生産の不可避を論証するのである。

 これまでが、第一章の分析である。「不比例生産説」が真実であるならば、一般的過剰生産は恒常的現象ではないのだろうか。しかしながら、現実には、景気変動は周期的に起こっているのである。周期性の説明は別に必要である。これは、「第八章 産業循環と恐慌の周期性の諸原因」でなされる。「ある一生産部門における生産拡大が、他の産業によって生産される商品需要を強める。このようにして、生産拡大の推進力が次々と一産業部門から他の部門に伝わり、したがって、生産拡大が伝染的に作用し、つねに総国民経済をとらえる傾向をもつ。この理由によって、固定資本の新創出期には、すべての商品の需要が増大する」(p.254)。「しかしなぜに、新固定資本の生産が漸次的でなしに、痙攣的に大幅の飛躍をとげるのであろうか。この原因は、資本主義経済秩序における資本蓄積の諸条件から説明される」(p.255)。
 今日の発達した資本主義経済においては、富裕層がどの産業とも結びつくことのない自由な資本を急速に蓄積する。それらは、貨幣市場において貸付資本に転化する。私人の手持資金や投資先を見つけられなかった資本である。当然ながら、貸付可能な貨幣資本の増加は、必ずしも現実の資本蓄積、または再生産の拡大を意味するものではない。「貸付資本の蓄積は、生産および生産資本の現実的増加とは、全く異なるものである。貸付可能な貨幣資本は、生産拡大の場合のみならず、生産の停滞・縮小の場合においても、蓄積が可能である。しかもこれはこのような状況にもとで蓄積の可能性があるというだけでなく、実際に蓄積される」(p.256)。その理由は次の通り。企業者の利得は景気変動に影響を受ける。それよりも少ないであろうが、労働者所得も影響を受ける。しかし、それ以外の財産所有による所得は景気変動の影響が少ない。国債・各種債権等に対する利子収入は固定的である。地代収入も長期的にしか景気変動の影響を受けない。不況期には生活費が低下するから、金利生活者は、むしろ貯蓄を増加させることができる。しかも、「イギリス全国の所得税統計によれば、土地・家屋・国債・外国債・植民地債による所得の総額が、イギリスの課税国民所得総額のほとんど半分を占めるものと判断される。」(p.256)のである。
 貸付可能な貨幣資本の蓄積は、比較的一様に進行するのに比べて、その生産資本への転化は断続的に現れる。貸付資本の生産資本への転化、すなわち産業への資本投下は抵抗を受ける。不況期には資本が充満している、過剰生産を生じないように生産資本を比例性を保持しつつ配分投下するのは容易ではない。間断なく蓄積される貸付資本は、投資先を求める。しかし、それは見つからない。投下されない資本は利子を生まないから、ますます熱烈に投資先を求めて殺到する。一方では産業がそれ以上の新資本を受け入れようとしないし、他方では、新資本がますます強い力で産業界に押し入ろうと努める。「ついには産業の抵抗が征服せられ、蓄積された貸付資本が産業界に投資先を見つけて、生産資本に転化するにいたるような時機が到来するに違いない。ここで高揚期に入るのである」(p.259)。
 産業高揚期が不況に終わる原因としては、「信用の緊張と投機思惑とは、それだけでも不可避的に、信用破綻とパニックを引き起こす」(p.262)ことをあげるだけでよい。産業高揚の原因は、過去数年間に蓄積された、潜在的購買力としての貸付資本が支出され、新しい商品需要となることによる。物価が騰貴し、やがて市況は正常な限度を越えて、投機に変化し、暴落で終わる。物価騰貴が暴落を招くほどでない場合でも、反動は避けられない。以上のメカニズム全体の作用を、ツガンは蒸気機関に例えて、次のように「美しく説明している」(青山)。「シリンダー内の蒸気の役割を果たすのは、自由な貸付資本の蓄積である。ピストンに対する蒸気圧が一定の大きさ達すると、ピストンが動き、シリンダーの端まで行って、蒸気に自由に発散する出口を開いてやり、ピストンは元の位置に戻る。これと同じことで、蓄積された自由な貸付資本は、一定の大きさに達したのち、産業界に侵入し、産業を稼働させ、この資本が支出され、産業がふたたび以前の状態に戻る。このような条件のもとで恐慌が必ず周期的に反復されるのは当然である。資本主義産業は、つねに同じ発展の輪を回らねばならない」(p.266)。以上の景気変動の説明は、アフタリオンによって、「貯蓄学説」と呼ばれた。ツガンの学説は貨幣面と実物面との関連が有機的に説明されていないという批判がある。投資資金の動きと不比例生産が統一的に扱われていないということであろう。

 最後に、ツガンの資本主義観について。「概して私はマルクス学派に属しており、『資本論』の天才的著作に最大の尊敬を払っている者である。」とする著者は、「本書で展開した販売市場および恐慌の理論は、著者の見解によれば、古典学派国民経済学の学説と、『資本論』第二巻におけるマルクスの業績の総合たるべきものである。」(p.2)と自ら評価している。恐慌については、「資本主義経済を廃絶することなしには、不況の周期的反復を予防することが不可能である。」(p.443)との認識を示している。しかし、マルクスの恐慌理論は欠点があるとする。資本の有機的構成の高度化による「利潤率の傾向的低下の法則」は、真の法則ではないとする。その「論証」も示している。「マルクスが特徴づけた、資本主義的生産の諸限界も、やはり現実に存在しない。」(p.245)のである。そして、資本主義的経済秩序から社会主義への転化は、強制の資格を帯びない。社会主義の必然性は、資本主義が社会的総生産力を十分発揮することができない無能力による。「したがって、純経済的に考察すれば、この発展段階においては、社会主義の方が資本主義よりも高度の経済秩序なのである。しかし、それにもかかわらず、この場合においても、資本主義経済が不可能になるのではなくて、社会主義経済よりも進歩的でなくなるのであり、社会的生産力の発展を促進する力が社会主義経済よりも劣るようになるのである。」(p.246)と。

 救仁郷の訳書解説によれば、「わが国ではこのドイツ語版原書がロシア語版の単なる翻訳であるかのように、誤伝または誤解されてきた。このドイツ語版が他の諸版と異なる独特の価値をもつ、再生産論および恐慌理論に関する古典的名著」である。
 ドイツの古書店からの購入。製本されていない、出版された紙装のままの状態である。コンデションは非常に良い。
 
(注1) 経済学辞典等には、ラーダを反革命評議会、臨時政府を中央評議会反革命政府等記されているが、余りに「官軍」用語だと思えるため、こう表記した。
(注2) 蔵相就任を、訳本の救仁郷の「解説」では1918年と、『経済思想史辞典』は1919年と記載されている。ラーダの活動は1917年が最盛期で、1918年4月には終焉しているので、ここでは、1917年とした。
 なお、最高執行委員の辞任が蔵相辞任と同時であるかはよく解らなかった。
(注3) 鍵本博訳の仏訳本は、見られなかった。救仁郷の解説によると、仏訳版では、ツガンの理論部分は第二篇第三章部分のみである。
(注4) 「私は通例のマルクスの用語法(不変資本、可変資本、剰余価値)を用いない。というのは、私はマルクスの剰余価値説を基礎としていないからである。」(p.26)
(注5) 青山(1950、p.3)参照。但し、この本には仮定3は書かれていない。
 青山によると(p.13-14), 
 (1) pi + ai + ri  =  wi
 (2) pi : ai : ri  =  2 : 1 : 1  (i=1,2,3)         {仮定(1)}
 (3) (w1 - Σpi) +  (w2 -Σai)  =  1/2Σri   {仮定(2)}
 (4) (今年度の Σpi) - (前年度の Σpi) = 前年度の (w1 - Σpi
    (今年度の Σai) - (前年度の Σai) = 前年度の (w2 - Σai
の式から、w1 : w2  =  2 : 1 および w2 : w3  =  7 : 3  が導出できる。
むしろ、(4)を仮定とすべきかも知れない。そうすれば、(下記の)置塩の「トートロジー」の意味が明確になるのかも知れない。
(注6) ついでながら、置塩はツガンを論じた2ページの文章の中、その4分の1ほどを費やして、『英国産業恐慌史』邦訳 p.215 からとする興味い記述を長々と引用をしている。しかし、この文章は、本書には見当たらない。市原の本を参考するに、ツガンの雑誌論文「国民経済学から見た資本主義経済制度の崩壊」(1904:詳細は本文で後述及び(注8)参照)中の文章と思われる。
(注7) 市原の本(2000、p.69)には「各年度の部門Ⅰ、Ⅱの総生産物はそれぞれ、次年度の p (不変資本)、a (可変資本)総額と等しく、また、剰余価値の半分が蓄積されるとの前提から、部門Ⅲの総生産物は次年度の r (剰余価値)総額の半分に等しくなるように作成されている。」(下線は引用者)と書かれている。利潤(市原は剰余価値と表記)も、次年度と関連付けているのである。しかしながら、ツガンの表式の数値はそのようになっていない。勘違いだと思われる。
 なお、山田盛太郎『再生産過程表式分析』においても、第三部門生産財の次年度に消費されることを書いているが、結論的には「ツガンの表式は維持しがたい」としている(中田、2011参照)。山田の対象としたのは、雑誌論文掲載の表式である。
(注8) ツガンの修正された雑誌論文中の表式は下記の通り。市原と中田の本を参照して作成。第二部門の資本の消耗および利潤の中資本家消費財生産に用いられない貯蓄で、第一部門の資本蓄積がなされている。

 第Ⅱ表式 社会的資本の拡大再生産第二表
 第一年度
 第一部門  1632p + 544a + 544r  =  2720  (+320)
 第二部門   408p + 136a + 136r  =  680   (-120)
 第三部門   360p + 120a + 120r  =  600  (-200)     
 ―――――――――――――――――――――――――
        2400   800    800    4000

 第二年度
 第一部門  1987.4p + 496.8a + 828.1r  =  3312.3  (+592.3)
 第二部門   372.6p +  93.2a + 155.2r  =   621   (- 59)
 第三部門    360p  +  90a +  150r  =   600   (-533.3)
 ――――――――――――――――――――――――――――
          2720    680   1133.3    4533.3

 第三年度
 第一部門  2585.6p +484.6a + 123.9r  =  4309   (996.7)
 第二部門   366.9p + 68.9a + 177.5r  =   611.3   (-9.7)
 第三部門     360p + 67.5a + 177.5r  =   600   ( -987)
 ――――――――――――――――――――――――――――
         3312.3    621   1587      5520.3 

*()内は、その年度の投入量との比較した増減額。原表にはない。

(注9) ツガンは、第Ⅰ表式と第Ⅱ表式第二年度とを比較してこの結論を出した。しかし、第Ⅱ表の第一年度と第二年度、第二年度と第三年度等拡大再生産の場合を比較すると、総需要と消費財需要が共に拡大する。消費財消費が減少するのは、単純再生から拡大再生産への移行期だけであって、拡大再生産へ入ればツガンの云うようなことは起こらない。こうカウツキーは批判(波多野も同じことを指摘している)した。この批判に答えて、ツガンは拡大再生産においても、消費財消費が減少する表式を作成した。これが、(注7)にあげた論文である。

(参考文献)

1.
青山秀夫 『景気変動理論の研究 (第二巻)』 日本評論社、1950年
2.市原健志 『再生産論史研究』 八朔社、2000年
3.置塩信雄 『蓄積論』 筑摩書房、第二版1976年
4.ツガン・バラノーフスキー 救仁郷繁訳 『英国恐慌史論』 ぺりかん社、1972年
5.中田常男 『金融資本論と恐慌・産業循環』 八朔社、2011年
6.波多野鼎 『景気学説批判』 日本評論社、1937年
7.ハチスン 『近代経済学説史 (下)』 東洋経済新報社
8.W・C・ミッチェル 春日井薫訳 『景気循環Ⅰ 問題とその設定』 文雅堂書店、1961(原著は1927発行で、1913年発行の同名Business Cycles とは別の本である)
9.Nove, Alec “ Tugan-Baranovsky, Mikhail Ivanovich (1865-1919) ” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998
10.“ Mikhail Tugan-Baranovsky " from Wikipedia (2012) <http://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Tugan-Baranovsky> (2012/6/13アクセス)


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ツガン・バラノヴスキイ 著[他]、唯物史観の改造 - 国立国会図書館デジタルコレクション



永続的識別子
info:ndljp/pid/1183857
タイトル
唯物史観の改造
著者
ツガン・バラノヴスキイ 著[他]
出版者
新潮社
出版年月日
大正13
シリーズ名
社会哲学新学説大系 ; 第1巻

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183857?tocOpened=1

唯物史観の改造 [128]
  • 標題
  • 目次
  • 序文
  • 第一章 唯物史觀の根本觀念/3
  • 一 生產力の槪念/3
  • 二 經濟の物的因子/10
  • 三 階級鬪爭說/25
  • 第二章 唯物史觀の心理的起點/43
  • 一 マルクスとヘーゲル/43
  • 二 歷史の起動力としての意志と悟性/45
  • 三 心理學上の主意的傾向/49
  • 四 十八世紀啓蒙學派とマルクス/53
  • 第三章 社會的發展の起動力としての欲望/56
  • 一 自己保存慾/56
  • 二 性的衝動/66
  • 三 同情的衝動/72
  • 四 優越的衝動/80
  • 五 超利害的欲望/86
  • 第四章 經濟及び社會生活/106
  • 一 生物界竝びに人類史上における生存競爭/106
  • 二 經濟の槪念/109
  • 三 一切の活動の基礎としての經濟/115
  • 四 多數人民の最重要なる活動部面としての經濟/124
  • 五 經濟の物的要素/128
  • 六 意識と社會的存在/139
  • 第五章 社會階級及び階級鬪爭/146
  • 一 現社會の階級組成/146
  • 二 社會的鬪爭の働因/147
  • 三 階級鬪爭と精神的活動/160
  • 四 階級鬪爭竝びに近時の社會運動/170
  • 第六章 資本主義經濟制度の崩壞/182
  • 一 經濟的發達と社會主義/182
  • 二 販路缺乏の學說/183
  • 三 利潤率低減の法則/219
  • 四 社會主義制度の實現/225


Theoretische Grundlagen des Marxismus | Duncker & Humblot

Theoretische Grundlagen des Marxismus 

1905. VIII, 239 S.





カント全集11:




ミハイル・トゥガン=バラノフスキー

Mikhail Tugan-Baranovsky
Mykhaylo Tuhan-Baranovsky
Михайло Іванович Туган-Барановський 
Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovskij.jpg
ウクライナ財務大臣
任期
1917年8月13日 – 1917年11月20日
首相Volodymyr Vynnychenko
前任者Khrystofor Baranovsky
後任者Vasyl Mazurenko
個人情報
生誕1865年1月20日
village of Solonom, ロシア帝国
死没1919年1月21日(54歳)
オデッサ, Kherson Governorate, ウクライナ
政党立憲民主党 (カデット) (until 1917)
ウクライナ社会主義・連邦党員 (UPSF)
出身校ハルキウ大学
職業経済学者, 政治家, 活動家
影響を与えた人物  ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフ
Monument to Mikhail Tugan-Baranovsky (near Donetsk Commercial University).

ミハイル・トゥガン=バラノフスキーMikhail Ivanovich Tugan-BaranovskyМихайло Туган-Барановський1865年1月8日 - 1919年1月21日)は、ウクライナ出身、ロシア経済学者
(ツガン=バラノフスキーと呼ぶひとも多い。) 

目次

  • 1 略歴
  • 2 主な主張・業績
  • 3 主な著書
  • 4 日本語訳
  • 5 外部リンク

略歴

  • 1865年 ウクライナのハルキウ州ハルキウのソロノム村で生まれる。
  • 1883年 サンクトペテルブルク大学の物理数学部に入学するも学生運動に参加し追われる。
  • 1888年 ハリコフ大学の自然数学・法経学部を卒業する。
  • モスクワ大学で勉強する。
  • 1892年 6か月ロンドンで勉強する。
  • 1894年 モスクワ大学からMagister学位(学位論文"Industrial crises in contemporary")を得て、出版する。
  • 1895年 自由経済協会の会員となる(1896年に議長となる)。
  • 1895年 サンクトペテルブルク大学政治経済学の「代償のない講師」(Privat-dotsent)になる。
  • 1898年 経済学のPh.D.を得る(博士論文"The Russian Factory, Past and Present")。
  • 1899年 サンクトペテルブルク大学を自由な見方のため解雇される。
  • 1901年~1905年 ポルタヴァ地域の地方自治会(zemsto)に入る。
  • 1905年 サンクトペテルブルク大学の地位を員外講師として復位される。
  • 1913年 選挙によるトゥガン=バラノフスキーの政治経済学部長の地位は教育大臣から拒否される。
  • 1917年 混乱と内戦のなかでウクライナに戻り、学者、キエフの法律学部の学長、ウクライナ協同組合のチェアマン、ウクライナ経済学会の会長、および短期の財務大臣などとなる。
  • 1919年 フランス行きの船のなかでオデッサで死亡する。 

主な主張・業績

  • 当初は「合法的マルクス主義者」の主張者であったが、その後、マルクス主義を批判するようになった。
  • 『マルキシズムの学説的基礎』(Theoretische Grundlagen des Marxismus)、『歴史的発展より見たる近世社会主義』(Der moderne Sozialismus in seiner geschichtlichen Entwicklung)により、マルクス批判をしている。しかし、マルクス学説は概念錯乱と論理的矛盾とを含んでいるものの本質的には捨て難きものがあるとの見地から、マルクス学説の修正を主張する(修正主義)。そして、社会主義それ自身の真髄は、むしろマルクス前期のいわゆる空想的社会主義に求むべきであるとする。
  • 景気循環の研究で名高く、「近代景気循環論の父」と呼ばれる。
  • 恐慌学説における不比例説は、支持者が多い。
  • また、ロシアに限界効用理論を紹介したことでも知られる(反革命派的立場を示している)。
  • ペテルブルク大学ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフを育てた。

主な著書

  • Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskrisen in England, 1901(救仁郷繁訳『英国恐慌史論』ぺりかん社、1972年)
  • 1894. Promyshlennye Krizisy v sovremennoi Anglii [Industrial crises in contemporary Britain]. St Petersburg. (2nd Russian edn. trans. into French by J. Schapiro as Les crises industrielles en Angleterre, Paris: M. Giard & E. Briere, 1913).
  • 1898. Russkaia fabrika v proshlom i nastoiashchem [The Russian factory, past and present]. St Petersburg. (3rd Russian edn. trans. by A. Levin and C.S. Levin, under the supervision of G. Grossman, as The Russian Factory, Homewood, IL: R.D. Irwin, for the American Economic Association, 1970).
  • 1905. Teoreticheskie osnovy marksizma [The theoretical foundations of Marxism]. St Petersburg. (Trans. into German as Theoretische Grundlagen der Marxismus, Leipzig: Duncker & Humblot, 1905).
  • 1906. Souremennyi sotsializm v svoem istoricheskom razuitii. (Trans. M.I. Redmount as Modern Socialism in its Historical Development, London: S. Sonnenschein & Co., 1910. Reprinted New York: Russell & Russell, 1966).
  • 1914a. Ekonomicheskaia priroda kooperativov i ikh klassifikatsiia [The economic nature of cooperatives and their classification]. Moscow.
  • 1914b. Ocherki iz noveishei istorii proliticheskoi ekonomii i sotsializma [Outlines of the recent history of political economy and of socialism]. St. Petersburg.
  • 1917. Osnovy politicheskoi ekonomii [Foundations of political economy]. Petrograd.
  • 1918. Sotsializm kak polozhitelnoe uchenie [Socialism as a positive subject]. Petrograd.

日本語訳

  • 松浦要『社会的分配論』(暸文堂,大正9年11月
  • 安倍浩『唯物史観と余剰価値』(天佑社,大正11年)……未見
  • 水谷長三郎『唯物史観批判』(同人社,大正12年4月)
  • 安倍浩『近世社会主義』(而立社,大正12年8月。『社会科学大系』第4巻)
  • 高畠素之『唯物史観の改造』(新潮社,大正13年12月)……Theoretische Grundlagen des Marxismus(『マルクス主義の理論的基礎』),1905年の部分訳である。
  • 矢部周『社会主義の新解釈』(新潮社,大正15年10月)
  • 鍵本博『英国恐慌史論』(日本評論社,昭和6年12月)
  • 救仁郷繁『新訳英国恐慌史論』(ぺりかん社,昭和47年)

外部リンク



スウィージーによる引用、


::(5)は新訳英国恐慌史論★から引用、
旧訳は該当第1章理論編がない。


::(8)はマルクス論から





★:





~~~


英国旧訳215-6
第一章 販路の理論

第二二篇恐慌 の 理論

拙著 「マルクシズ ムの理論的基礎」に於いて、私は社会的消費の絶対的減少を仮定して資本叢積の表式を興へた。消費
物に対する需要の減少は、生産手段に勤する需要の増加によって償はれるが故に、何ら生産物の過剰は起らない。「消費物
の需要が減少するならば、生産手段の使用は何になるのか」と疑ふ人があるかも知れない。これに対する解答は困難でな
い。この場合生産手段はますます新しき出産手段の生産に用ひられるであらう。


一人だけを残して他のすべての労働者
が機械によって排除されたとせよ。この場合この唯一の労働者は莫大な量の機械のすべてを運転し、これを以て新しい機械と資本家消費物とを生産するであらう。労働者階級は消滅しても、資本主義的産業の生産物の売捌には大した関係はな
い。資本家はますます多量の消費物を使用するであらう。そして或年の的生産物は、全部翌年の生産及資本家消費に
よって吸収されるであらう。また資本家が蓄積欲に惹かれてかれ自身の消費を節減するを欲することもあり得る。
この場合資本家消費物の生産は減少し、社会的生産の一層大なる都分が、将来の生産手段に向けられたる生産手段によっ
て構成されるた見るであらう。例へば人々は石炭や鉄を生産し、それが石炭や鉄のストツクの将来の増加に役立つであ
らう。各年の石炭及鉄の増大せる生産は、前年に生産されし石炭及鉄を吸収し、鉱脈が盡きるまではこの状態が続くで
あらう。


この場合生産は資本蓄積を唯一の目的とするであらう。資本家は、吝嗇家が実際には自分で使用しないが使用
したいと思へばいつでも用ひ得る財貨をかき集めるに似るであらう。資本家はまたそれを欲しさへすれば、この資本蓄
積過程を中止し、前の蓄積の結果自己の支配下にある巨大な生産力か、石炭や銀の生産の代りに自己用の消費物例へ
ば邸宅や絹織物の生産に用ひることもあるだらう。すべて以上説くことは奇妙にみえ、荒唐無稽とみ る人もあるだら
う。然り、さうありさうなことだ。しかし真理は常に理性の容易に近づき得るところではない。 ーーしかし真理が真理
であることに変りはない。もちろん私の云ふ真理とは、「機械による労働者の排除は、労働者を殆んど撲滅するであら
う」と説くところの恣意的且事実に少しも符合せぬ仮説ではなくして、(私がこの仮設を用ひたのは、私の理論が最も極
端な演繹に於いてすら依然として真実であることか示すがために外ならない。)「社会的生産の均斉的配分さへあれば
社会的消費の減退は何ら生産過剰を起し得ない」こと主張する命題である。






。。。









スウィージー邦訳資本主義発展の理論207ページ

第一○章 実 現 恐 慌
207
かくて、全体としての労働者階級の消費は減少するが、資本家の消費には変化はないということになる。しかし、
総産出量は着実に増大する。そしてそのなかで生産手段が占める割合は、たえず大きくなっていく。労働者の立場
からすれば、事態はますます悪くなる。しかしトゥガンは、資本主義は、資本家により、資本家のために運営され
るものだ、という点を強調するのであって、資本家の観点からすれば、彼らの生産するものにたいする需要にはな
んら事欠かず、したがって恐慌の危険も存在しないのだ。唯一の必要条件は、種々の生産部門間において適当な比
例がつねにかならず保たれるということである。トゥガンは彼の推論をその論理的帰結へと押し進めて、次のよう
に言う。


もしもただ一人の労働者を除いて全部の労働者がいなくなり、機械によって代置されるとすれば、このただ
一人の労働者が厖大量の機械を運転し、そしてそれによって新しい機械ーーおよび資本家用の消費財ーーを生
産する。労働者階級はなくなるであろうが、このことは資本の価値増殖過程を少しも提乱しないであろう。資
本家は前に劣らない量の消費財を受けとるであろう。ある年の全生産物は、次の年の資本家の生産と消費によ
って実現され利用される。たとえ資本家が彼ら自身の消費を制限しようとしたとしても、そのことは、なんの
困難もひきおこさない。この場合には、資本家用消費財の生産はその一部が停止され、社会的生産物のますま
す大きな部分が生産手段の形をとることとなり、それが生産のより一層の拡大に役立てられる。たとえば鉄と
石炭が生産され、それがつねに鉄と石炭の生産の一層の拡大に役立てられることとなる。くる年もくる年も、
それぞれその前年に増産された生産物を使いはたしながら、鉄と石炭はますます多く生産され、ついには必要
とされる鉱物資源の供給が枯渇するという事態にいたる。



生産と消費との相互依存関係を否定するうえで、これほど極端に走った経済学者はまずない。しかし、ともかく

もトゥガンを論理的に一貫していないといって、非難することはできない。彼は再生産表式をいろいろに操作する

不作業にとりかかり、いくつかの前提を設けたうえで、数字の行をつぎからつぎへと書きながら論理を徹底させると

まことに驚くべき結果が出てくることを発見したのである。トゥガンにとってさえ、彼の表式の特徴を現実の世界

のそれとみなすという最後のステップをふむことは、容易ではなかった。しかし彼は、瞬時のためらいののち、あ

えてそれをしたのである。


 このこといっさいは、きわめて奇異にみえるかもしれぬ。あるいは、この上もなく非常識のようにみえもし

よう。おそらくーー真理というのは、かならずしもその理解がやさしくはないのだ。にもかかわらず、右で述

べたことは真理である。もちろんわたくしが真理と言うとき、それは、機械による手労働の代置が、労働者数

の絶対的減少にまでいたるというまったく悲意的で非現実的な前提(この仮説は、わたくしの理論がたとえ非現実

性の極限にまで押し進められても崩壊はしないということを示すためだけのものである)を指しているのではなく、 む

しろ、社会的生産の比例的配分が与えられるならば、社会的消費自体のどのような減少も、過剰生産物を生み

出すことはできない、という命題を指しているのである。(9)


 けれども、この見解をとるという点において、トゥガンが著名な経済学者のあいだで例外をなすと考えるのは、まち

がっていよう。ドップが指摘した章句だが、J.B.クラークは、かつてこう書いた。「もしも質本家が、……現在お

よび将来にわたる彼らの所得のうち、ある一定額を別にして、のこりの全部を貯蕃する決心をするとすれば、彼らはま

ず現在の資産の一部を資本化し、しかるのち、かくしてつくり出された資本からのその後の全所得を資本化するであろ

う。彼らは、際限なくより多くの工場をつくるために、より多くの工場をつくるであろう。このばあいには、供給過剰

は生じない。しかし、 それは非現実的な場合である。」 Introduction to Karl Rodbertus, Overproduction and Crisis

(English trans. 1898), p. 15. さらに最近では、ナイトがこう述べている。「正確な計画化が行なわれるならば、



~~~

スウィージーは恐慌待望論をマルクスから受けぎ資本主義を永続させるツガンを批判する。ただしシスモンディもツガンも可能性を述べているのだから、マルクス的にはノイマンでさえも許容されるはずのものであろう。それはマルクスがプルードンへの反論として経済表を展開した時から変わらない。結局はカレツキを待たねばならなかった。



第一一章 崩壊 論 争

241

理論は、エンゲル スが一般向きに書いた著作の一部に、そのよりどころを見出しうるかもしれないが、それはけっ

してマルクスに基礎を置くものではない。

ベルンシュタインにたいするカウツキーの反応は、クノーのそれとはまったく異なっていた。カウツキーは、資

本主義崩壊の問題点の功罪を論ずるかわりに、問題点それ自体を無視しようとした。すなわち、カウツキーによる

と、マルクスやエンゲルスは、ベルンシュタインの意味における崩壊理論-

すなわち、「社会主義社会への不可

(~)

避的道程」としての「大がかりな全面的な経済恐慌」の理論-

-をもたなかったのであり、それとは逆に、資本主

義の下で経済状態がますます悪化せざるをえないことは信じていたけれど、彼らの理論の本質的かつ独創的な要素

(0)

は、社会主義への転化をもたらす決定的な要因が「プロレタリァートの成熟と実力との増大」にあるということで

あった、とする。社会民主主義運動の戦術については、カウツキーは、ベルンシュタインの漸進主義を排して、極

度の柔軟性なるものを主張した。「あらゆる不測事にそなえる」ことが必要なのであって、「社会民主主義は、恐慌

と同じく繁栄を、革命と同じく反動を、そして破局と同じく緩慢な平和的発展を考慮に入れる」というのが、彼の

(の)

立場であった。


トゥガン= バラノフスキー


 ベルンシュタインは、崩壊理論を正統派マルクス主義者たちの頭上に加える梶棒のように振りまわそうとした。

この武器から力を抜き去ろうとしたカウツキーの企図は、見事に失敗に終った。修正主義者の攻勢は、ますます資

本主義崩壊の不可避性を否定するという形をとったのであり、その楯の反面は、つねに資本主義の無限の拡大可能

性であり、したがって革命の邪悪と破壊性ということであった。われわれは、トゥガン = バラノフスキーが修正主

不義者の主張のためになした貢献について、すでにかなり詳しく検討する機会をもった。ーーそれは、経済学者の立

場からすれば、確かにきわめて興味あるものである。トゥガンによれば、マルクスは一つではなく、ニつの崩壊理

恐論をもっていた。すなわち、一つは利潤率の低下傾向にもとづくものであり、他の一つは過少消費を基礎とするも

のである。トゥガンは、これらの理論を二つとも否定することに成功したと考えた。したがって、彼の最終的な結

論は、資本主義の崩壊なるものは、どのような意味においても、経済的必然ではないということであった。「人類

は、盲目的な、不可抗的な経済諸力の贈り物として社会主義をわがものとするのではなく、目標を意識しつつ新し

い社会秩序のために実践し、ーーそしてそれをたたかいとらなければならない。」かくして、トゥガンの場合には、

問題は、「人類」がついに社会主義を採択する用意をもつにいたるような前途遼遠の将来に委ねられたのである。

 トゥガンは、崩壊理論と恐慌理論とを区別しようとはしなかった。恐慌理論と恐慌史にかんする彼の初期の著作

中の「マルクス恐慌理論」という表題の一章は、マルクス主義の原理にかんする後の著書のなかの「資本主義的経

済秩序の崩壊」という表題の一章と、その内容においてほとんど一致している。思うにトゥガンは、マルクスの理

論は、恐慌の激しさが着実に増大し、ついには崩壊を招くほどに強烈な恐慌が起こるはずであると見た、と信じて

いたようである。本質においては、この見解は、おそらくベルンシュタインのそれと大差ないだろう。それが具体

的にはっきりした崩壊論、ないしはたやすく利用できるような崩壊論を提供したものでないことは、言うまでもな

い。


第三編 恐慌と不況

241~242