火曜日, 10月 29, 2013

キリスト教:旧約&新約

旧約:                 (→新約リンク:::::::::
口語訳聖書(新約および旧約 目次)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

パゾリーニ『テオレマ』のエピグラフ

http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20130722/1374418877
  神 荒野の道より民を導きたまふ
「出エジプト記」 
http://bible.salterrae.net/kougo/html/exodus.html
http://bible.salterrae.net/meiji/html/exodus.html

そのものズバリの引用ではない。

【日本初のイコン画家】なぜキリストの絵に漢字?【山下りん】


プルードン『貧困の哲学』エピグラフ

Destruam et ædificabo. [Deuteronomy: c. 32.]
http://www.marxists.org/reference/subject/economics/proudhon/philosophy/intro.htm

The Philosophy of Misery, by Proudhon 1847
http://www.marxists.org/reference/subject/economics/proudhon/philosophy/

口語訳聖書 - 申命記
http://bible.salterrae.net/kougo/html/deuteronomy.html
32:39今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。


口語訳聖書 - サムエル記上
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1samuel.html
サウル、サムエル前書より:口語訳聖書(旧約)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/blog-post_6.html
サウル、イスラエル最初の王はくじ引きで決まった。
(というよりも正確には預言で決まっていて、民を納得させるために(サムエルが)くじ引きを使った。)

//////
https://youtu.be/rEyF9rGIMfc



申命記31:8新改訳
"[主]ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
恐れてはならない。おののいてはならない。"
————————————————
マタイ11:28 新改訳(一部改変)
"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた[がた]を
休[ま](めさ)せてあげます。(マタイ11章28節)"

201410あなわた朗読部分

/////////

新約:  (→旧約

7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8
http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html
http://bible.salterrae.net
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

以前、パゾリーニの『奇跡の丘』のシナリオと聖書を比較したことがある。結論としては階級闘争をパゾリーニは抽出しているというものだ。
ただ、もう少し再検証が必要だと思う。
ヘーゲルや柄谷はその歴史研究で聖書を的確に引用している。プルードンもだ。
ドストエフスキーのような信仰以外の接し方があり得るということだ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』冒頭
口語訳聖書 - ヨハネによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html
12:24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。


柄谷交換図、大審問官バージョン

3権威|2奇跡
___|___
1パン|
   |

悪魔:
1「石をパンに変えよ」
2「塔から飛び降りて、奇跡を見せよ」
3「私(悪魔)にひざまづけば、この地上の権威と栄光を差し上げましょう」

キリスト:
1「人はパンのみにて生きるにあらず」
2「神を試みてはならない」
3「ただ神にのみ仕えよ」

マタイ福音書、第4章
4:1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 4:2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 4:3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 4:5それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 4:6言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。 4:7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html


口語訳聖書 - ヨハネの黙示録
http://bible.salterrae.net/kougo/html/revelation.html
10:4七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな」と言うのを聞いた。

「無知は崇高なものなのです」(タルコフスキー「黙示録についての言葉」『映画芸術(iskustbo kino)』1989、邦訳Wave 26 1990より)


新改訳聖書 - ヨハネの黙示録
http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/Rev.html
3:15「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。 3:16このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

参考:
トルストイ(の聖書)と老子
http://nam-students.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html

この最後の者にも(マタイ20:1-16)
口語訳聖書 - マタイによる福音書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
第20章
20:1天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。20:2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 20:3それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 20:4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 20:5そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 20:8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 20:9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 20:10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 20:11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 20:12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 20:13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 20:14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 20:15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。20:16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

参考:
『この最後の者にも』 Unto This Last[1860, book1862]
『世界の名著 ラスキン/モリス』飯塚一郎訳、中央公論社、所収
橋本努レジュメ
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Ruskin%20Unto%20This%20Last.pdf

ボブ・ディラン「時代は変わる」
The Times They Are A-Changin' | The Official Bob Dylan Site
http://www.bobdylan.com/us/songs/times-they-are-changin

epub形式 口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/epub/

Kindle(.mobi)形式 口語訳聖書

おまけ 青空文庫風テキストファイル形式 口語訳聖書

月曜日, 10月 28, 2013

ボロメオの環と共同幻想論と交換図:メモ

               (柄谷行人,インデックスリンク:::::::::吉本書斎
NAMs出版プロジェクト: 『共同幻想論』:再考
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_29.html
NAMs出版プロジェクト: ボロメオの環と共同幻想論と交換図:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_28.html (本頁)
デュルケム
http://nam-students.blogspot.com/2012/11/httpkeisic.html
NAMs出版プロジェクト: 単純再生産再考(花田清輝と吉本隆明)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_4.html


デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298頁では、
集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。
フレイザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。
以下はちくま文庫版上より

 2:4
《 集合的トーテミスムと個人的トーテミスムとのあいだには、どちらともよく似た中間形態が存在している。それは性的トーテミスムである。…
このように、この動物守護者は、氏族のトーテムが氏族集団に対して果たすのと同じ役割を、各々の性別社会に対して果たしている。したがって性的トーテミスムという表現──これはフレーザーから借用したのだが(58)*──は当を得ている。…
実際それらは、部族のすべては一組の神話的存在から生じたとされていることに起因している。そのような信念は、部族的な感情が十分な力を手に入れ、氏族の個別主義に抗してある程度まで優位に立つようになったことを、まさに含意しているように思われる。》
(『宗教生活の基本形態(全)──オーストラリアにおけるトーテム体系)エミール・デュルケーム山亮訳)
フレイザー『トーテミズム』(未邦訳)
Sir James George Frazer Totemism(1887 全96頁)
http://www.masseiana.org/totemism.htm#2 リンク切れ
https://archive.org/details/totemism01frazgoog
原書2頁に clan totem, sex totem, individual totem の分類がある。

日本神話における性的トーテムの強調は対中国、伝説におけるそれは対皇室に対抗したものであろう。


吉本の新しさは三者をそれぞれが牽制し合うシステムと位置付けたことである。
それはカント三批判書のポストモダン的読解に似ている

。。。

デュルケム『宗教生活の原初形態』岩波上298頁では、
集合的トーテミズムと個人的トーテミズムとの間には、性的トーテミズムがあるとされる。

フレイザー経由のこの概念が対幻想として吉本へ受け継がれたのだろう。

参考:
フレイザー『トーテミズム』(未邦訳?)
Sir James George Frazer Totemism(1887 全96頁)
http://www.masseiana.org/totemism.htm#2 リンク切れ
https://archive.org/details/totemism01frazgoog
原書2頁に clan totem, sex totem, individual totem
の分類がある。

ちくま上
宗教生活の基本形態(全)──オーストラリアにおけるトーテム体系エミール・デュルケーム山亮訳

 2:4
 集合的トーテミスムと個人的トーテミスムとのあいだには、どちらともよく似た中間形態が存在している。それは性的トーテミスムである。これはオーストラリアにのみ、しかも少数の部族においてのみ見られる。それはとりわけ、ヴィクトリア州やニュー・サウスウェールズ州において報告されている(55)。マシューズが、自分が訪れたオーストラリアのすべての場所でこれが観察された、と言明しているのは事実だが、しかし彼の断定を支持するだけの明確な事実は報告されていない(56)。
 これらさまざまな民族においては、それぞれどのような個別の氏族に所属していても、一方では部族のすべての男性が、他方ではすべての女性が、二つの異なる社会のようなものを形成していて、それらは対立さえしている。ところで、これら二つの性別団体は、特定の動物と神秘的な絆によって結びついていると信じられている。クルナイ族では、すべての男性は、エミュームシクイ(イエールングYeerùng〔*6〕)の兄弟とみなされており、すべての女性はルリオーストラリアムシクイ〔*7〕(ディートグンDjeetgùn)の姉妹とみなされている。男性はみなイエールングであり、女性はみなディートグンなのである。ウォトジョバルク族やウルンジェリ族では、コウモリとヨタカnightjar(フクロウの一種)とが、それぞれこの役割を果たしている。また別の部族では、キツツキがヨタカと入れ換わっている。各々の性は、このように縁続きの動物を、最大の敬意をもって扱うにふさわしい守護者とみなすのであり、したがって、この動物を殺したり食べたりすることは禁じられるのである(57)。
 このように、この動物守護者は、氏族のトーテムが氏族集団に対して果たすのと同じ役割を、各々の性別社会に対して果たしている。したがって性的トーテミスムという表現──これはフレーザーから借用したのだが(58)──は当を得ている。この新種のトーテムはとりわけ、それもまた集合的であるという意味において氏族のトーテムに類似している。それは無差別に、同じ性の諸個人全員のものとなるのである。それは、動物守護者と、対応する性とのあいだに、系譜関係や血縁関係が含意されているという点でも、氏族のトーテムに類似している。クルナイ族では、すべての男性はイエールングの、またすべての女性はディートグンの血を引いているとみなされている(59)。一八三四年にこの奇妙な制度を最初に指摘した観察者は、次のような言葉でこれを記述している。「女たちは、ティルムンというツグミ大の小鳥(これはキツツキの一種である)が最初に女を作った、とみなしている。この鳥は、女だけが崇敬しているのである(60)」。それゆえこれは大祖先なのである。しかし他方ではこの同じトーテムは、個人的トーテムにも似ている。実際、性別集団の各構成員は、対応する動物種の特定の個体に個人的に結びついている、と信じられている。両者の生命は、その動物の死が人間の死をも引き起こすほど、きわめて緊密に連結されている。「コウモリの生命は人間の生命だ(61)」とウォトジョバルク族は言う。これこそは、単に各々の性がそのトーテムを尊敬するばかりではなく、もう一方の性の構成員も等しくこれを尊敬するよう義務づけられていることの理由なのである。この禁忌のどのような違反でも、男女のあいだに(62)、まさに流血の乱闘を引き起こすのである。
 結局のところ、これらの[性的]トーテムにおいて真に独自なのは、それらがある意味では部族のトーテムに近いという点である。実際それらは、部族のすべては一組の神話的存在から生じたとされていることに起因している。そのような信念は、部族的な感情が十分な力を手に入れ、氏族の個別主義に抗してある程度まで優位に立つようになったことを、まさに含意しているように思われる。男性と女性とで異なる起源が割り当てられているという事実に関してはもちろん、両性が分離状態で生活していることにその理由を求めなけれねばならない(63)。


(56)[Mathews,"[EthnologicalNotesonthe]AboriginalTribes[ofN.S.WalesandVictoria]",inJournalandProceedingoftheR.SocietyofN.S.Wales,XXXVIII,[1904,]p.339.ワラムンガ族の以下の慣習のなかにも性的トーテミスムの痕跡を見出すべきであろうか。死者を埋葬する前に腕の骨が取って置かれ、女性の場合には、この骨を包んだ樹皮にエミューの羽毛が、男性の場合にはミミズクの羽毛が、添えられるのである(North.Tr.,p.169)。
(57)各々の性別集団が二つの性的トーテムをもつ事例も挙げられている。こうしてウルンジェリ族はクルナイ族の性的トーテム(エミュームシクイとルリオーストラリアムシクイ)とウォトジョバルク族の性的トーテム(コウモリとヨタカモリフクロウ)とを併せもつようになったのであろう。Howitt,Nat.Tr.,p.150を見よ。

(58)J.G.Frazer,Totemism,[Edinburgh,Adam&CharlesBlack,1887,]p.51.(59)FisonetHowitt,KamilaroiandKurnai,p.215.(60)Mathews,loc.cit.,p.339に引用されたスレルケルト【二版以降はThrelldkeとあるが、これは誤植で初版のThrelkeldが正しい(原典p.236,n.2)】[の言葉]。(61)Howitt,Nat.Tr.,pp.148,151.(62)[FisonetHowitt,]KamilaroiandKurnai,pp.200203;Howitt,Nat.Tr.,p.149;Petrie,op.cit.,p.62.クルナイ族では、これら流血の争いはしばしば結婚によって終止符が打たれるのであり、これらの争いはこの結婚の儀礼上の前触れのようなものなのである。また時には、これらの乱闘が単なる遊びになることもある(Petrie,loc.cit.)。(63)この点に関しては、近親婚の禁止とその起源についての私の研究([E.Durkheim,]"Laprohibitiondel'incesteetsesorigines",inl'Annéesociologique,I,[1898,]pp.44etsuiv.)を見よ[小関藤一郎訳「近親婚の禁止とその起源」(同編訳『デュルケーム家族論集』川島書店、一九七二年)]。
(64)しかしながらもっと後(第二部第九章)で、性的トーテムと大神とのあいだに、ある関係が存在していることを見ることになる。

訳註
*1この箇所は初版のpraenomenが、二版以降prœnomenと誤植になっている。*2この箇所は初版ではcérémoniesreligieusesparticulièrementimportantesであったものが、二版以降、particulièrementの直前にtoutが付加されて強調されている。ここでは後者による(原典p.224)。*3この箇所は初版ではavoirの三人称単数形のaであったものが、二版以降possèdeとなって強調されている。ここでは後者による(原典p.224)。*4この箇所は初版ではdesesmembresとなっていたものが、二版以降d'entresesmembresと明確にされている(原典p.227)。*5初版から現行版まで一貫してYarraikannaとあるが、これは誤植で、Yaraikannaが正しい(原典p.232)。*6Yeerùngと次に出てくるDjeetgùnのùは初版ではŭと表記されていた。*7原語はsuperbefaubetteであり、新英訳ではlinnetとなっている。HowittのNat.Tr.,p.150ではtheSuperbWarblerとなっている。現在ではSuperbFairywarenないしはSuperbBluewarenと呼ばれ、学名はMaluruscyaneusである。オーストラリア南東部にのみ分布する固有種の鳥。

ボロメオの環(カント、ヘーゲル):
   ____  ____
  /    \/    \
 /     /\     \
|     |  |     |
| 悟性  |__| 感性  |
|    /|  |\    |
 \  /  \/  \  /
  \|___/\___|/
   |        |
   |   想像力  |
    \      /
     \____/ 
   ____  ____
  /    \/    \
 /     /\     \
|     |  |     |
| 国家  |__| 市民社会|
|    /|  |\    |
 \  /  \/  \  /
  \|___/\___|/
   |        |
   |  ネーション |
    \      /
     \____/ 

(柄谷行人『世界共和国へ』175頁より)

「市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれている…」

(左右反転させると、)

ちなみに、スピノザは神学を国家で克服しようとする。
エチカ以外では90度回転する。
 
   価格                       価値
               神学
   資本[身体]      国民       [精神]国家 
            アソシエーション
   自由          友愛           平等

(エチカ)+[モナドロジー]:

              1実体  
               /\ 
       [神] 系列 (無限)   [論理] 
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 (完全性)至福/ 
     \ (悪)/___2b様態\____\(善) / 
      \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ 
       \/ 憎しみ \努力/(愛)  \/ 
       /\対象/ /[調和]\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
     / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
   神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然 
       [動物] \ 4理性  /  [魂]
       [欲求]  \[基礎]/  [表象] 
       [精神]   \ (徳)/   [多様性] 
       [神の国]   \/   [モナド]
              5自由 
 カント、
ヘーゲル、
 ラカン、
吉本隆明:
           ____  ____
          /    \/    \
         / 感性  /\  悟性 \
        |市民社会 ファロス 国家  |
        |現実界R の享楽| 象徴界S|
        | 対幻想/| a|\共同幻想|
         \  /文学\/意味\  /
          \|_芸術/\___|/
           |   想像力  |
           |  ネーション |
            \ 想像界I /
             \個人幻想/ 

(柄谷行人『世界共和国へ』175頁他参照、改変) a=対象a,剰余享楽

(さらに反時計回りに回転させると、)

     ____  ____
    /    \/    \
   / 悟性  /\ 想像力 \
  |  国家 |意味|ネーション|
  |象徴界S |__|想像界I |
  |共同幻想/| a|\個人幻想|
   \ ファロス\/文学\  /
    \の享楽_/\芸術_|/
     |   感性   |
     |  市民社会  |
      \ 現実界R /
       \_対幻想/

(柄谷行人『世界共和国へ』175頁他参照、改変) a=対象a,剰余享楽
通常はネーションが共同幻想になるが、吉本隆明の場合、共同幻想と個人幻想は逆立する。


柄谷行人:
 _________________
|        |        |
|  S     |  I     |
|  国家    |  ネーション |
|  B     |  A     |
|  共同幻想  |  個人幻想  |平
|________|________|
|        |        |等
|  R     |        |
|  資本    |アソシエーション|
|  C     |  D  X  |
|  対幻想   |        |
|________|________|
        自 由

『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照、改変。
文学芸術の位置にアソシエーションがあるとも考えられる。aの位置にあると考えても同じことである。
対象a=アソシエーション?とも言える。
最初の図で言えば、カントのような公私の逆転はあり得る。
吉本の欠点はアソシエーションの位置がわかりにくいことだ。

http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php
http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120609
http://yokato41.blogspot.jp/2010/12/blog-post_19.html 

こうなるとむしろ、ラカンで参照すべきなのは四つの言説であろうが…。


   ______
  / 悟性  /|
 /_____/想|
 |     |像|
 | 感性  |力|
 |     | /
 |_____|/ 

上記の図形とその展開図を考えればいい。


補記:
吉本隆明、
 ラカン:

common, pair, and individual illusions
共同、対、個人幻想
      ____
     /    \
    / 個人幻想 \
   |        |
   |___  ___|
  /| 文学\/   |\
 /  \芸術/\  /  \
|    \|__|/    | 
| 対幻想 |  | 共同幻想|  
|     |  |     |
 \     \/     /
  \____/\____/ 

『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php
http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg

ラカンで言えば以下、

      ____
     /    \
    /  想像界 \
   |     I  |
   |___  ___|
  /| 女の\/ 意味|\
 /  \悦楽/\  /  \
|    \|_a|/    |
| 現実界 |ファロス 象徴界|
|   R の悦楽|   S |
 \     \/     /
  \____/\____/ 

a=対象a,剰余享楽

      ____
     /    \
    /  現実界 \
   |        |
   |___  ___|
  /|   \/   |\
 /  \  /\  /  \
|    \|__|/    |
| 想像界 |  | 象徴界 |
|     |  |     |
 \     \/     /
  \____/\____/ 

共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。
common, pair, and individual illusions
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006865306

以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している(異論もある。特にフーコーに
渡した翻訳文は訳語に問題があったとされる)。
The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga -
http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC

図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。
http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/
『吉本隆明『共同幻想論』の読み方』 (宇田亮一)

追記:

吉本の言説を文字通り単純に解釈すると、

共同幻想|対幻想(家族)
____|____
個人幻想|


となる。

しかし、個人幻想を現実界におくのはおかしい。


個人幻想|共同幻想(家族)
____|____
 対幻想|

これがしっくりくる。

ラカンの四つの言説のように主体がズレる。
上記では時計回りに、、
下の図の要素を分母、上の図の要素を分子として考えればよい。


補足:

 存在者-現存在-存在

     ||
     \/

     分析
      |
 存在   |
      |
規定----+----反省
      |
 存在者  |
      |
     総合


         反省=現存在

     ||
     \/

      |  存在
______|______
      |
 存在者  | 現存在


スピノザからハイデガーのように存在者を引きずり降ろすとカント、柄谷の図になる。
現存在は両者の交わる場である。

日曜日, 10月 13, 2013

モナドロジーとエチカ



エチカとモナドロジー
スピノザライプニッツリンク:::::::::図1参考図別ブログ

http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/monadologie.html
(72~83/90 http://zinbun.denpark.net/1018208029.html)


ライプニッツ モナドロジー(1714):
9.  おのおののモナドは他のすべてのモナドと異なっていなければならない。というのは、自然においては、二つの存在するものがお互いにまったく同じで、内的〔interne〕差異、すなわち内在的〔intrinsèque〕規定に基づく差異がないということはありえないからである。 
スピノザ エチカ(1677):
第一部定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p5

マルクス、柄谷、ヘーゲル:
(価値は精神的なもので価格は物質的なもの、ただし精神と物質とは厳密な対概念ではない。)

   価格                       価値
               神学
   資本[身体]      国民       [精神]国家 858687
            アソシエーション
   自由          友愛           平等

[モナドロジー]+(エチカ)

              1実体  
               /\ 
       [] 系列 (無限)   [論理] 
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 (完全性)至福/ 
     \ ()/___2b様態\____\() /  
      \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ 
       \/ 憎しみ \努力/()  \/ 
       /\対象/ /[調]\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
     / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
   神/__[]_\___\/_第三種認識____\自然 
       [動物] \ 4理性  /  [
       [欲求]  \[基礎]/  [表象] 
       [精神]   \ ()/   [多様性] 
       [神の国]   \/   [モナド
              5自由 
ライプニッツ:

   欲求                       表象 15  
               基礎
   意志                       認識
               源泉
  [物体]変化、生産                [観念]48
               神、力
              予定調和78
   作用原因                   目的原因 79
   身体                        魂 81
   
自然の物理的な世界         恩寵の道徳的な世界
   宇宙という機械の建築家 神  精神からなる神の国の君主 87


87.  さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家として考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神とのあいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。

79. 魂は目的原因の法則(les lois des causes finales )にしたがい、欲求や目的や手段によってふるまう。
物体(身体)は作用原因(実現原因)の法則あるいは運動の法則(les lois des causes efficientes ou des
mouvements)にしたがってふるまう。
そしてこの二つの世界(règne)、
作用原因(実現原因)
のそれと目的原因
のそれとは互いに調和している。
:モナドロジー http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note79

50.  ある被造物の中に、他の被造物に起こることの理由をア・プリオリに示すのに役立つものがあれば、
その被造物は他の被造物よりも完全である。一方が他方に作用を及ぼすというのは、こうした意味なのである。

48. 神の中には、すべてのものの源泉である力(la puissance)と、 さまざまな観念の細部を含んでいる認識と、
さらに最善という原理にしたがって変化あるいは生産を生じさせる意志 とがある。
この三つは、創造されたモナドの中にある主体すなわち基礎と、 表象の能力と、 欲求の能力 とに対応している…
:モナドロジー http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note48

15.  一つの表象から他の表象への変化や推移を引き起こす内的原理のはたらきを、
欲求( appétiton )と名づけることができる。
もちろん、欲求のはたらき( appétit )が、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。
しかし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。  
: モナドロジー http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note15


モナドロジー ライプニッツ

  神  論理
   /\反省
身体/ 魂\精神
動物\襞 / 
欲求 \/ 表象
神の国  モナド

モナド 20
表象 2128
精神 29
反省 30
論理 3146
神  3860
襞  61
魂  6184
身体 62
宇宙 62
有機的637178
動物 6675
神の国8590

            矛盾の原理 31  (図2
            偽   真
       矛盾の原理     矛盾の原理
       偽   真     偽   真

        十分な理由の原理 32
           真理
        事実    思考

              矛盾的命題 35
      単純概念
              自同的命題
       被造物 50
       完全性
      受動 能動
  完全性       完全性
 受動 能動     受動 能動


http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/monadologie.html
(72~83/90 http://zinbun.denpark.net/1018208029.html)
Gottfried LEIBNIZ (1646-1716) History of Philosophy texts online
http://philosophyfaculty.ucsd.edu/faculty/ctolley/texts/leibniz.html
英語版:
THE MONADOLOGY
http://www.rbjones.com/rbjpub/philos/classics/leibniz/monad.htm

(表象作用)
中心への集中__
        |_モナド_
全体へと脱中心_|     |_真モナド_
(欲求作用)   脱モナド_|      |_存在 3240
         (反省行為) 逆モナド_|
                (小さな神

(『「モナドロジー」を読む』池田善昭、137頁より) →追加参考図

モナドロジー  ライプニッツ (インデックスリンク:::::::::

   必然(思考)神=∞/1 
    &
偶然(事実)              偶然(事実)

     \//////        無矛盾   精神   目的   真理
      \////        B、類比の原理 29   79   33
同一律    \//        /|(結合法)  被造物  神の国  最善55
同一的なもの  \        / |       49~  8590
    &  /_\______/__|______
 A、矛盾律 31 \/////分析的|//////  神    魂   襞61
(例:        \///(潜在 |////// 37~  1970
アルファベット)    \/ 的同一)|//////     エンテレケイア18
            /\充分理由律|////// 宇宙
___________/__\C 32|////// 5377
/////////// (記号法、36|//////      欲求1548
//////////微積分dy/dx)|////// 連続律  表象14 記憶26
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 10   
////////          |////// 動物25286676   
///////D、不可識別者同一の原理|////// モナド  デカルト4680
//////     (モナド1/∞) |//////  24

__原理______存在の分類__包摂___________主語__述語_____無限_________
A、矛盾律     同一的なもの 自立的包摂        神   属性     それ自身による〜
類比の原理   定義可能   相互的包摂        外延  関係     原因による〜 
C、充分理由律   条件づけ可能 一方向的局限可能包摂   内包  必要条件   内的極限を持つ〜の系列
D、不可識別者同一 個体     一方向的局限不可能包摂  実体  様式、出来事 外的極限を持つ〜の系列

(ドゥルーズによるライプニッツの論理学原理、参考:邦訳『襞』pp.84,99)

A、

『モナドロジー』
31. われわれの思考のはたらき(raisonnements)は二つの大原理に基づいている。
その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを偽(faux)と判断し、
偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真(vrai)と判断する。  

35. そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。
また、証明することができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理がある。
これらは自同的命題〔énonciations identiques〕で、その反対は明白な矛盾を含んでいる。
 
スピノザ『エチカ』
第一部公理 一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a1

 第2部定理四二 我々に真なるものと偽なるものとを区別することを教えるのは、第一種の認識でなくて第二種および第三種の認識である。
 証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、異なるものと偽なるものとを区別することを知っている者は、異なるものと偽なるものとについて妥当な観念を有しなければならぬからである。言いかえれば(この部の定理四〇の系二(×→○備考二)により)真なるものと偽なるものとを第二種または第三種の認識によって認識しなければならぬからである。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p42

 定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p43

B、

『モナドロジー』
2. 複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは単純なものの集り、つまり集合体に他ならないからである。

78. これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合(l'union)あるいは一致(la conformité )について、自然的に説明する方法を得たのである。魂はみずからの法則(lois)にしたがい、身体もまたみずからの法則にしたがいつつ、あらゆる実体のあいだに存する予定調和(l'harmonie préétablie )のおかげで両者は一致する(se rencontrer)。 なぜならすべての実体は、同じ一つの宇宙の表現なのだがら。
『エチカ』
 第一部「定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p16

 第二部定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p7

C、

『モナドロジー』
32.  もう一つの原理は十分な理由の原理で、
これによってわれわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、
いかなる事実も真(vrai)であることあるいは存在することができず、またいかなる命題(énonciation)も真実である(véritable)ことはできない、と考えるのである。…
 
『エチカ』
第一部定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。

 別の証明 すべて物についてはなぜそれが存在するか、あるいはなぜそれが存在しないかの原因ないし理由が指示されなくてはならぬ。…
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p11
D、

『モナドロジー』
9.  おのおののモナドは他のすべてのモナドと異なっていなければならない。というのは、自然においては、二つの存在するものがお互いにまったく同じで、内的〔interne〕差異、すなわち内在的〔intrinsèque〕規定に基づく差異がないということはありえないからである。 
『エチカ』
第一部定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p5
。。。。。。。。。

「…ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。…」(スピノザ『エチカ』第一部定理33備考1 )
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p33

これに対してライプニッツは偶然を認める。

「真理(vérités)にも二種類ある。思考(raisonnement)の真理と事実(fait)の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的(contingentes)でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析(analyse)によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって(résoudre)、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。 …」(ライプニッツ『モナドロジー』33. )
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_13.html#note33

さらに、ライプニッツにとって偶然は無理数として表現され得る。
このような図式化も可能だろう。

必然的真理:偶然的真理
     | |
  通約数:不可通約数(無理数)

(井上龍介『ライプニッツ試論』10頁参照)

 モナドロジー図解
           1/∞
論 反 精 魂 表 モ
理 省 神   象 ナ ←
          ド
↓   〜調和
          神
    身 動 欲 の
神   体 物 求 国
∞/1         

モナド 20
実体  1238
窓   
表象 1428
完全性1841485490
欲求 15194879
魂  196183
精神 2982
認識 29304860
反省 30
論理 3146
観念 3353
物体 366179
無限 3641
系列 37
神  383960
受動、
能動 4952
襞  61
身体 62
宇宙 62
有機的637178
動物 14216675
調和 597886
善悪 90
愛  90
神の国8590 

(エチカ)+[モナドロジー]
       []    1実体 
               /\  
              (無限) 
             /_無限定_\  [論理]  
    ________/_2a属性__\________
    \ 抑制  / 小←/\→大 (完全性)至福/ 
     \ ()/___2b様態\____\() /  
      \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ 
       \/ 憎しみ \努力/()  \/ 
       /\対象/ /[調]\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念反省]\
     / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
   神/__[動物]\___\/_第三種認識____\自然 
            \ 4理性  /  [
       [欲求]  \[基礎]/  [表象] 
       [神の国]  \ () /  
               \/   [モナド] 
              5自由   

              1実体  
               /\ 
       [] 系列 (無限)   [論理] 
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 (完全性)至福/ 
     \ ()/___2b様態\____\() /  
      \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ 
       \/ 憎しみ \努力/()  \/ 
       /\対象/ /[調]\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
     / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
   神/__[]_\___\/_第三種認識____\自然 
       [動物] \ 4理性  /  [
       [欲求]  \[基礎]/  [表象] 
       [精神]   \_徳_/  [多様性] 
       [神の国]   \/   [モナド
              5自由 



モナドロジー  ライプニッツ
 (インデックスリンク:::::::::
La monadologie(1714)
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz (1646- 1716)
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/monadologie.html
(72~83/90 http://zinbun.denpark.net/1018208029.html)

モナド01~13
表象 14~30_
論理 31~36
神  37~48,49~60_
魂  61~81,19
精神 82~84,29
神の国85~90


1.
 これから論じられるモナドとは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がないということである。

1. La Monade, dont nous parlerons ici, n'est autre chose, qu'une substance simple, qui entre dans les composés; simple, c'est-à-dire, sans parties .

2. 複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは単純なものの集り、つまり集合体に他ならないからである。

2. Et il faut qu'il y ait des substances simples, puisqu'il y a des composés; car le composé n'est autre chose, qu'un amas, ou aggregatum des simples.

3.  ところで、部分がないところには、広がりも、形も、分割の可能性もあり得ない。それで、こうしたモナドは自然の真のアトムであり、一言でいえば諸事物の要素である。

3. Or là, oû il n'y a point de parties, il n'y a ni étendue, ni figure, ni divisibilité possible. Et ces Monades sont les véritables Atomes de la Nature, et en un mot les Eléments des choses.

4. また、モナドには分解の惧れはないし、単純な実体が自然的に消滅しうるなどとは、とても考えられない。  

4. Il n'y a aussi point de dissolution à craindre, et il n'y a aucune manière concevable, par laquelle une substance simple puisse périr naturellement.

5.  おなじ理由により、単純な実体が自然的に生じ得るとは、とても考えられない。単純な実体は、複合することによってつくることはできないからである。  

  5. Par la même raison il n'y en a aucune, par laquelle une substance simple puisse commencer naturellement, puisqu'elle ne saurait être formée par composition.

6.  そこで、モナドは生ずるにせよ滅びるにせよ、一挙になされるしかない、と言える。つまり、創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びるのである。ところが、複合されたものは、一部分ずつ生じ、あるいは滅びる。  

  6. Ainsi on peut dire, que les Monades ne sauraient commencer ni finir que tout d'un coup, c'est-à-dire elles ne sauraient commencer que par création, et finir que par annihilation, au lieu, que ce qui est composé, commence ou finit par parties.

7.  さらに、どのようにしてモナドがその内部を何か他の被造物により変質され、変化されることがありうるか、ということも説明しようとしても不可能である。モナドには何も移し入れることは出来ないし、モナドの中で内的な運動を引き起こしたり、それを導いたり、増大あるいは減少させたりすることができる、などとは考えられないからである。そういうことが可能なのは部分同士の間で変化がある複合的なものにおいてである。モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない。かつてスコラ哲学者が説いた感性的形象のように、偶有性が実体から外へ離れていったり、さまよい出したりする、というようなことは出来ない。こうして、実体も偶有性も、外からモナドの中に入ることはできないのである。  

7. Il n'y a pas moyen aussi d'expliquer, comment une Monade puisse être altérée ou changée dans son intérieur par quelque autre créature, puisqu'on n'y saurait rien transposer ni concevoir en elle aucun mouvement interne, qui puisse être excité, dirigé, augmenté ou diminué là-dedans, comme cela se peut dans les composés, où il y a du changement entre les parties. Les Monades n'ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir. Les accidents ne sauraient se détacher, ni se promener hors des substances, comme faisaient autrefois les espèces sensibles des Scolasti-ques Ainsi ni substance ni accident peut entrer de dehors dans une Monade.

8.  しかし、モナドは何らかの性質を持っているに違いない。さもないと、モナドは存在するものとはいえなくなる。それに、もし、単純実体がその諸性質〔qualités〕によってそれぞれ異なっているのでなければ、事物のうちにどんな変化が起こっても、それに気づくことが出来ないであろう。なぜなら、複合的なものの中に起こることは、単純な要素からしかこないからである。そして、もし、モナドが性質をもたないとすると、そもそもモナドは量の点については差異がないのだから、お互いに区別がつかなくなる。したがって、充実〔した空間〕を仮定すると、運動においてはどの位置も、つねに今までもっていたのと等しいものしか受け取らないことになるから、物の状態は他の状態から識別できなくなってしまう。  


8. Cependant il faut que les Monades aient quelques qualités, autrement ce ne seraient pas même des Etres. Et si les substances simples ne différaient point par leurs qualités, il n'y aurait pas moyen de s'apercevoir d'aucun changement dans les choses, puisque ce qui est dans le composé ne peut venir que des ingrédients simples, et les Monades étant sans qualités seraient indistinguables l'une de l'autre, puisque aussi bien elles ne diffèrent point en quantité et par conséquent, le plein étant supposé, chaque lieu ne recevrait toujours dans le mouvement que l'équivalent de ce qu'il avait eu, et un état des choses serait [indiscernable] de l'autre.

9.  おのおののモナドは他のすべてのモナドと異なっていなければならない。というのは、自然においては、二つの存在するものがお互いにまったく同じで、内的〔interne〕差異、すなわち内在的〔intrinsèque〕規定に基づく差異がないということはありえないからである。 

9. Il faut même que chaque Monade soit différente de chaque autre. Car il n'y a jamais dans la nature deux êtres qui soient parfaitement l'un comme l'autre, et où il ne soit possible de trouver une différence interne, ou fondée sur une dénomnation intrinsèque.

10.  すべての創造された存在するものは変化を受ける。したがって、創造されたモナドもまた変化を受け、しかもその変化はおのおのモナドのなかで連続的〔continuel〕である。これらのことは誰しもが同意しているものと私は考える。  

10. Je prends aussi pour accordé, que tout être créé est sujet au changement, et par conséquent la Monade créée aussi, et même que ce changement est continuel dans chacune.

11.  これまで述べてきたことから、各モナドの自然な諸々の変化は内的な〔interne〕原理に由来する。なぜなら、外的な〔externe〕原因はモナドの内部に影響を及ぼすことはできないからである。

11. Il s'ensuit de ce que nous venons de dire, que les changements naturels des Monades viennent d'un principe interne; puisqu'une cause externe ne saurait influer dans son intérieur.

12.  しかしさらに、変化の原理の他に、変化するある細部〔具体的な内容〕があって、これが、いわば単純実体に、特殊化〔細部の特性〕と多様性とを与えているのでなくてはならない。  

12. Mais, il faut aussi, qu'outre le principe du changement il y ait un détail de ce qui change, qui fasse pour ainsi dire la spécification et la variété des substances simples.

13.  この細部は、一、あるいは単純なもののなかに多を含むのでなければならない。なぜなら、あらゆる自然な変化は徐々に行なわれ、あるものは変化し、あるものは変わらないからである。したがって、単純実体に部分はないが、多様な変化する状態〔affections〕や関係が必ずあることになる。  

13. Ce détail doit envelopper une multitude dans l'unité ou dans le simple; car tout changement naturel se faisant par degrés, quelque chose change et quelque chose reste, et par conséquent il faut que dans la substance simple il y ait une pluralité d'affections et de rapports, quoiqu'il n'y ait point de parties.

14. 一、すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を再現前している移ろいゆく状態、それがいわゆる表象〔perception〕に他ならない。あとで明らかになるが、表象は統覚〔aperception〕つまり意識とは区別されねばならない。この点、デカルト派の人たちは大きな誤りをおかして、意識されない表象など無いものと考えた。そのために、彼らは精神だけがモナドであって、動物の魂とかその他のエンテレケイアとかは存在しないと思い込み、俗見にしたがって長い失神状態と厳密な意味での死とを混同した。そこで彼らは、完全に分配された魂というスコラ学者の偏見にふたたび陥って、ねじけた心の持ち主に魂の死滅説を固く信じさせることにさえなったのである。

14. L'état passager qui enveloppe et représente une multitude dans l'unité ou dans la substance simple n'est autre chose que ce qu'on appelle la perception, qu'on doit distinguer de l'aperception ou de la conscience, comme il paraîtra dans la suite; et c'est en quoi les cartésiens ont fort manqué, ayant compté pour rien les perceptions dont on ne s'aperçoit pas. C'est aussi ce qui les a fait croire que les seuls esprits étaient des Monades, et qu'il n'y avait point d'âmes des bêtes ou d'autres entéléchies et qu'ils ont confondu avec le vulgaire un long étourdissement avec une mort a la rigueur, ce qui les a fait encore donner dans le préjuge scolastique des âmes entièrement séparées et a même confirme les esprits mal tournés dans l'opinion de la mortalité des âmes.

15.  一つの表象から他の表象への変化や推移を引き起こす内的原理のはたらきを、欲求( appétiton )と名づけることができる。もちろん、欲求のはたらき( appétit )が、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。しかし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。  

15. L'action du principe interne, qui fait le changement ou le passage d'une perception a une autre, peut être appelée appétition: il est vrai que l'appétit ne saurait toujours parvenir entièrement a toute la perception où il tend, mais il en obtient toujours quelque chose, et parvient à des perceptions nouvelles.

16. われわれの意識する思考がどんなに僅少なものであっても、対象の中にある多様性を含んでいることに気づくとき、われわれ自身で単純実体の中にある多を経験するのである。そこで魂が単純実体であることを認める限り、誰でもモナドの中にこうした多があることを認めなくてはならない。この点について、ベール氏が彼の『辞典』の「ロラリウス」の項で述べているような難点に出会うことはなかったはずである。  

16. Nous expérimentons en nous-mêmes une multitude dans la substance simple, lorsque nous trouvons que la moindre pensée dont nous nous apercevons, enveloppe une variété dans l'objet. Ainsi, tous ceux qui reconnaissent que l'âme est une substance simple, doivent reconnaître cette multitude dans la Monade; et M. Bayle ne devait point y trouver de difficulté comme il a fait dans son Dictionnaire, article Rorarius.

17.  それはそうと、言っておかねばならないのは、表象も表象に依存しているものも機械的な理由によっては説明できない、すなわち形と運動からは説明できない、ということである。いま仮に、考えたり感じたり表象をもったりできる仕組みをもった機械があるとしよう。その機械が同じ釣合いを保ちながら大きくなり、風車小屋に入るようにそこにはいれるようになった、と考えてみよう。そこでそう仮定して、その中にはいってみたとき、見えるものといってはいろんな部分がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りるものは決して見出せないだろう。そこで、表象を求むべきところは単純実体の中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに単純実体の中に見出すことができるのは、それのみすなわち表象とその変化のみである。また、それのみが単純実体の内的作用のすべてなのである。  

17. On est oblige d'ailleurs de confesser que la perception, et ce qui en dépend, est inexplicable par des raisons mécaniques, c'est-à-dire par les figures et par les mouvements; et, feignant qu'il y ait une machine dont la structure fasse penser, sentir, avoir perception, on pourra la concevoir agrandie en conservant les mêmes proportions, en sorte qu'on y puisse entrer comme dans un moulin. Et cela posé on ne trouvera, en le visitant au dedans, que des pièces qui se poussent les unes les autres, et jamais de quoi expliquer une perception. Ainsi, c'est dans la substance simple et non dans le composé ou dans la machine qu'il la faut chercher. Aussi n'y a-t-il que cela qu'on puisse trouver dans la substance simple, c'est-à-dire les perceptions et leurs changements. C'est en cela seul aussi que peuvent consister toutes les actions internes des substances simples.

18. すべての単純実体、つまり創造されたモナドには、エンテレケイアという名前を与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている(εχουσι το εντελεζ)からである。モナドには自足性(αυταρκεια)があって、そのためにモナドは自分自身の内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械となっているのである。  

18. On pourrait donner le nom d'entéléchies à toutes les substances simples ou Monades créées, car elles ont en elles une certaine εχουσι το εντελεζ , il y a une suffisance αυταρκεια qui les rend sources de leurs actions internes et pour ainsi dire des automates incorporels.

19. いま説明したような広い意味での表象と欲求をもつものすべてを、魂と呼ぶことにすると、単純実体すなわち創造されたモナドは、すべて魂と呼ぶことができよう。しかし、知覚〔sentiment〕は単なる表象以上のものであるから、表象だけしかもっていない単純実体には、モナドとかエンテレケイアという一般的な名称で十分である。もっと判明な表象をもちかつ記憶を伴っているモナドだけを、魂と呼ぶことにしたいと思う。  

19. Si nous voulons appeler âme tout ce qui a perceptions et appétits dans le sens général que je viens d'expliquer, toutes les substances simples ou Monades créées pourraient être appelées âmes; mais, comme le sentiment est quelque chose de plus qu'une simple perception, je consens que le nom général de Monades et d'entéléchies suffise aux substances simples qui n'auront que cela, et qu'on appelle âmes seulement celles dont la perception est plus distincte et accompagnée de mémoire.

20. というのは、われわれは何も覚えていない状態、際立った表象をすこしももたない状態をわれわれ自身の中で経験する。たとえば気絶したときとか、夢さえ見ないような深い眠りに入った場合である。こんな状態のときには、魂と単なるモナドとは目立つほどの違いはない。しかしこの状態は長く続かず、魂はそれから抜け出してくるので、魂は単なるモナド以上のものということになる。  

20. Car nous expérimentons en nous-mêmes un état où nous ne nous souvenons de rien et n'avons aucune perception distinguée, comme lorsque nous tombons en défaillance ou quand nous sommes accablés d'un profond sommeil sans aucun songe. Dans cet état l'âme ne diffère point sensiblement d'une simple Monade; mais comme cet état n'est point durable et qu'elle s'en tire, elle est quelque chose de plus.

21  しかしそうだとしても、単純実体には表象がまったくないということにはならない。それは前に述べた理由によってもありえないのである。なぜなら、単純実体は消滅することはできないし、存続しているからには、何か変化する状態を伴っているが、これこそ表象に他ならないからである。しかし、微小表象〔petites perceptions〕がどれほど多くあっても際立った表象がないときには、ひとは茫然とした状態にある。たとえば、たてつづけに何度も同じ方向に廻ると、目が廻って気が遠くなり、すこしも物事の見分けがつかなくなるようなものである。死は、動物をしばらくこの状態におくことがある。

21. Et il ne s'ensuit point qu'alors la substance simple soit sans aucune perception. Cela ne se peut pas même, par les raisons susdites; car elle ne saurait périr, elle ne saurait aussi subsister sans quelque affection, qui n'est autre chose que sa perception; mais quand il y a une grande multitude de petites perceptions où il n'y a rien de distingué, on est étourdi; comme quand on tourne continuellement d'un même sens plusieurs fois de suite, où il vient un vertige qui nous peut faire évanouir et qui ne nous laisse rien distinguer. Et la mort peut donner cet état pour un temps aux animaux.

22.  ところで、単純実体においては、現在の状態はいずれもそれに先立つ状態から自然的に出てきた結果であり、したがってここでは現在は未来をはらんでいることになるから、  

22. Et comme tout présent état d'une substance simple est naturellement une suite de son état précédent, tellement, que le présent y est gros de l'avenir;

23. そこで、気絶状態から目ざめたとき自分の表象を意識するのだから、たとえ意識していなくても、目ざめる直前にも表象をもっていた、としなくてはならない。というのは、表象は自然的には他の表象からしか出てこられないからである。運動が自然的には別の運動からしか出てこられないのと同じである。  

23. Donc puisque, réveillé de l'étourdissement, on s'aperçoit de ses perceptions, il faut bien qu'on en ait eu immédiatement auparavant, quoiqu'on ne s'en soit point aperçu; car une perception ne saurait venir naturellement que d'une autre perception, comme un mouvement ne peut venir naturellement que d'un mouvement.

24. ここからわかるように、もしわれわれの表象の中に、くっきりと際立ったいわば引き立っているところ、ひときわ高い好みなどがすこしもなかったら、われわれはいつまでも気絶、茫然自失の状態にとどまっていることになるだろう。これがまったく裸のモナドである。  

24. L'on voit par là que si nous n'avions rien de distingué, et pour ainsi dire de relevé et d'un plus haut goût dans nos perceptions, nous serions toujours dans l'étourdissement. Et c'est l'état des Monades toutes nues.

25.  さらにわかることは、自然が動物に引き立った表象を与えたこと、多くの光線や空気の振動を集めそれらを結びつけて、効果をいっそう大きくするためのいくつかの器官を動物にそなえさせる、という配慮をしていることである。嗅覚、味覚、触覚、そして恐らくわれわれの知らない他の多くの感覚においても、事情は似ているところがある。そして、魂の中で起こることが、諸器官の中で起こることをどのように表現するかは、あとで説明することにしよう。  

25. Aussi voyons-nous que la nature a donné des perceptions relevées aux animaux, par les soins qu'elle a pris de leur fournir des organes qui ramassent plusieurs rayons de lumière ou plusieurs ondulations de l'air pour les faire avoir plus d'efficace par leur union. II y a quelque chose d'approchant dans l'odeur, dans le goût et dans l'attouchement, et peut-être dans quantité d'autres sens qui nous sont inconnus. Et j'expliquerai tantôt comment ce qui se passe dans l'âme représente ce qui se fait dans les organes.

26.  記憶〔mémoire〕は魂に一種の連絡作用〔consécution〕を与える。これは理性に似てはいるが、理性とは区別されなくてはならない。動物において見られるように、強い衝撃を与えるものの表象をもち、さらに以前にも同じような衝撃を与えたことのあったものの表象をもったとき、動物は記憶の表現作用によって、この以前の表象の中でそれに結びついていることが起こることを予期し、そのときにもったのと同じような感覚〔sentiment〕をもつようになる。たとえば、犬に棒を見せると、棒から受けた苦痛を思い出して鳴きながら逃げてゆく。  

26. La mémoire fournit une espèce de consécution aux âmes, qui imite la raison, mais qui en doit être distinguée. C'est que nous voyons que les animaux ayant la perception de quelque chose qui les frappe, et dont ils ont eu perception semblable auparavant, s'attendent, par la représentation de leur mémoire, à ce qui y a été joint dans cette perception précédente, et sont portés à des sentiments semblables à ceux qu'ils avaient pris alors. Par exemple, quand on montre le bâton aux chiens, ils se souviennent de la douleur qu'il leur a causée et crient et fuient.

27.  動物に打撃を与え深く揺さぶる強い想像力は、以前もった表象の大きさやその数の多さに由来する。実際、強い印象が、長いあいだの習慣とか弱くても何度も繰り返された多くの表象〔perceptions médiocres réitérées〕と同じ効果を一挙に揚げることは、よくあることである。  

27. Et l'imagination forte qui les frappe et meut, vient ou de la grandeur ou de la multitude des perceptions précédentes; car souvent une impression forte fait tout d'un coup l'effet d'une longue habitude ou de beaucoup de perceptions médiocres réitérées.

28. 人間といえども、表象間の連結がただ記憶の原理によってのみなされているあいだは、動物と同じような行動をしており、この点理論抜きでただ実地の体験を積んだ経験派の医者に似ている。じつはわれわれの行動の四分の三は、経験派的なものでしかない。たとえば、明日も夜が明けるだろうと予期するのは、いままでそうだったからという経験派的な振舞いである。このことに理性によって判断を下すのは、ただ天文学者のみである。  

28. Les hommes agissent comme les bêtes, en tant que les consécutions de leurs perceptions ne se font que par le principe de la mémoire, ressemblant aux médecins empiriques qui ont une simple pratique sans théorie et nous ne sommes qu'empiriques dans les trois quarts de nos actions. Par exemple, quand on s'attend qu'il y aura jour demain, on agit en empirique, parce que cela s'est toujours fait ainsi jusqu'ici. II n'y a que l'astronome qui le juge par raison.

29. しかし、われわれは必然的かつ永遠の真理を認識しており、この点で単なる動物から区別され、理性と知識〔les sciences〕をもつのである。われわれは高められて、自己自身を知り神を知るにいたる。そして、これこそわれわれの中にある理性的な魂、すなわち精神と呼ばれるものである。  

29. Mais la connaissance des vérités nécessaires et éternelles est ce qui nous distingue des simples animaux et nous fait avoir la raison et les sciences, en nous élevant à la connaissance de nous-mêmes et de Dieu; et c'est ce qu'on appelle en nous âme raisonnable ou esprit.

30.  さらにわれわれは、必然的な諸真理〔vérités nécessaires〕の認識と真理を抽象する作用とによって、反省という行為〔actes réflexifs〕にまで高められる。この行為が自我と呼ばれるものを考えさせ、これとかあれとかがわれわれの中にあることを考察させる。このようにして、われわれは自分自身を考えることによって、存在、実体、単純なものと複合されたもの、非物質的なもの、さらに神そのものを考えるようになる。それは、われわれにおいては制限されているものが、神においては制限がないということを理解するからである。つまり、このような反省という行為がわれわれの思想のはたらき〔raisonnements〕の主要な対象を与えてくれるのである。  

30. C'est aussi par la connaissance des vérités nécessaires et par leurs abstractions que nous sommes élevés aux actes réflexifs, qui nous font penser à ce qui s'appelle moi, et à considérer que ceci ou cela est en nous, et c'est ainsi qu'en pensant à nous, nous pensons à l'être, à la substance, au simple ou au composé, à l'immatériel et à Dieu même, en concevant que ce qui est borné en nous, est en lui sans bornes. Et ces actes réflexifs fournissent les objets principaux de nos raisonnements.

31. われわれの思考のはたらき(raisonnements)は二つの大原理に基づいている。その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを偽(faux)と判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真(vrai)と判断する。  

31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes, celui de la contradiction, en vertu duquel nous jugeons faux ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictoire au faux;

32.  もう一つの原理は十分な理由の原理で、これによってわれわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、いかなる事実も真(vrai)であることあるいは存在することができず、またいかなる命題(énonciation)も真実である(véritable)ことはできない、と考えるのである。もっともこのような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないけれど。  

32. Et celui de la raison suffisante, en vertu duquel nous considérons qu'aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune énonciation véritable, sans qu'il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement, quoique ces raisons le plus souvent ne puissent point nous être connues.

33.  真理(vérités)にも二種類ある。思考(raisonnement)の真理と事実(fait)の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的(contingentes)でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析(analyse)によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって(résoudre)、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。  

33. II y a aussi deux sortes de vérités, celles de raisonnement et celles de fait. Les vérités de raisonnement sont nécessaires et leur opposé impossible, et celles de fait sont contingentes et leur opposé est possible. Quand une vérité est nécessaire, on en peut trouver la raison par l'analyse, la résolvant en idées et en vérités plus simples, jusqu'à ce qu'on vienne aux primitives.

34. そこで、数学者の場合についていうと、理論上の定理〔théorèmes〕も応用上の規範〔canons〕も、分析によって定義や公理〔axiomes〕や公準〔demandes〕に還元される。  

34. C'est ainsi que chez les mathématiciens les théorèmes de spéculation et les canons de pratique sont réduits par l'analyse aux définitions, axiomes et demandes.

35. そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。また、証明することができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理がある。これらは自同的命題〔énonciations identiques〕で、その反対は明白な矛盾を含んでいる。  

35. Et il y a enfin des idées simples dont on ne saurait donner la définition; il y a aussi des axiomes et demandes ou en un mot des principes primitifs, qui ne sauraient être prouvés et n'en ont point besoin aussi, et ce sont les énonciations identiques, dont l'opposé contient une contradiction expresse.

36. しかし、偶然的真理すなわち事実の真理の中にも十分な理由がなくてはならない。つまり被造物の世界にあまねく行き渡った事物(choses)の関連のうちにも、十分な理由がなくてはならない。この場合、自然の事物が極めて多様であり物体(corps)は、無限に分割されているから、個々の理由に分解してゆくと限りなく細部に到ることになる。過去現在の形や運動が無数にあって、それらがいま私の書いていることの作用因(cause efficiente)をなしている。また、私の魂にある現在や過去の無数の微小な傾向(inclinations)や気持ち(dispositions)は、つきつめれば究極的な原因〔cause finale〕にまで至る  

36. Mais la raison suffisante se doit aussi trouver dans les vérités contingentes ou de fait, c'est-à-dire dans la suite des choses répandues par l'univers des créatures, où la résolution en raisons particulières pourrait aller à un détail sans bornes, à cause de la variété immense des choses de la nature et de la division des corps à l'infini. Il y a une infinité de figures et de mouvements présents et passés qui entrent dans la cause efficiente de mon écriture présente, et il y a une infinité de petites inclinations et dispositions de mon âme présentes et passées qui entrent dans la cause finale.  

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37.
 ところで、どのこうした細部にも、それに先立つあるいはより細微な偶然的要素のみが含まれていて、その要素のそれぞれに理由を与えるためには同じような分析がまた必要となってくる。だからいくらやっても、少しも進んだことにはならない。そこで、十分な理由すなわち最後の理由(la raison suffisante oudernière)は、偶然的要素のこうした細部がたとえどれほど無限でありえても、やはり細部の関連つまり系列の外にある、としなくてはならない。  

37. Et comme tout ce détail n'enveloppe que d'autres contingents antérieurs ou plus détaillés, dont chacun a encore besoin d'une analyse semblable pour en rendre raison, on n'en est pas plus avancé, et il faut que la raison suffisante ou dernière soit hors de la suite ou séries de ce détail des contingences, quelque infini qu'il pourrait être.

38.  そうすると、事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としなくてはならない。この実体の中にはさまざまな変化の細部が、あたかもその源泉の中にあるごとくただ卓越的に(éminemment)存している。その実体こそわれわれが神と呼ぶものなのである。

38. Et c'est ainsi que la dernière raison des choses doit être dans une substance nécessaire, dans laquelle le détail des changements ne soit qu'éminemment, comme dans la source, et c'est ce que nous appelons Dieu.

39.  さて、この実体はすべてのこうした細部の十分な理由であり、またこの細部はいたるところでたがいに連関しているので、神は一つしかない、かつこの神だけで十分である。

  39. Or, cette substance étant une raison suffisante de tout ce détail lequel aussi est lié partout, il n'y a qu'un Dieu, et ce Dieu suffit.

  40.  さらに次のようにも考えられる。この最高の実体は、唯一の、普遍的な必然的な実体で、それに依存しないものは他に一つもなく、また可能的存在からの単純な帰結であるのだから、この実体には限界などありえず、可能なかぎり多くの実在性〔réalités〕が含まれているのでなくてはならない。

  40. On peut juger aussi que cette substance suprême, qui est unique, universelle et nécessaire, n'ayant rien hors d'elle qui en soit indépendant, et étant une suite simple de l'être possible, doit être incapable de limites et contenir tout autant de réalités qu'il est possible.

  41. そこから神は絶対的に完全であるということになる。完全性〔perfection〕とは、事物のもつ限界や制限を除き去って、厳密な意味に解された積極的実在性の大きさに他ならない。そこで限界のないところ、つまり神においては完全性は絶対的に無限である。

  41. D'où il s'ensuit que Dieu est absolument parfait; la perfection n'étant autre chose que la grandeur de la réalité positive prise précisément, en mettant à part les limites ou bornes dans les choses qui en ont. Et là où il n'y a point de bornes, c'est-à-dire en Dieu, la perfection est absolument infinie.

42.  さらにそこから、被造物の完全性は神のはたらきに由来するが、その不完全性は限界なしであることができない被造物の固有の本性から得る、ということになる。被造物が神から区別されるのは、まさにこの点なのだからである。

42. Il s'ensuit aussi que les créatures ont leurs perfections de l'influence de Dieu, mais qu'elles ont leurs imperfections de leur nature propre, incapable d'être sans bornes, car c'est en cela qu'elles sont distinguées de Dieu.

43.  神が存在するものの源泉であるばかりでなく、本質の源泉でもあることは確かである。ここでの本質とは、実在的な本質あるいは可能性の中にある実在的なもののことである。なぜなら、神の悟性は、永遠真理とか永遠真理のもととなっている観念が存する領域だからであり、もし神がなければ、可能性の中の実在的なものは何もなくなり、現実に存在するものだけでなく、可能的なものさえなくなってしまうからである。

43. Il est vrai aussi qu'en Dieu est non seulement la source des existences, mais encore celle des essences, en tant que réelles ou de ce qu'il y a de réel dans la possibilité: c'est parce que l'entendement de Dieu est la région des vérités éternelles ou des idées dont elles dépendent, et que sans lui il n'y aurait rien de réel dans les possibilités, et non seulement rien d'existant, mais encore rien de possible.

44.  というのは、本質すなわち可能性の中に、あるいは永遠真理の中にも実在性があるならば、この実在性は何か現に存在しているもの、現実的なものに基づいていなければならない。したがって、本質が現実存在を含んでいるような、すなわち現実的であるためには可能的でありさえすればよいような必然的な存在が現に存在していることに基づいていなくてはならない。

44. Car il faut bien que s'il y a une réalité dans les essences ou possibilités, ou bien dans les vérités éternelles, cette réalité soit fondée en quelque chose d'existant et d'actuel, et par conséquent dans l'existence de l'Être nécessaire, dans lequel l'essence renferme l'existence ou dans lequel il suffit d'être possible pour être actuel.

45.  そこで神(すなわち必然的存在)のみが、可能的であれば必ず現に存在するという特権をもっている。制限も否定も含まず、したがって矛盾を含まないものの可能性を妨げるものはないから、このことだけで神の存在をア・プリオリに知るのに十分である。われわれは、神の存在を永遠真理の実在性によっても証明したことになる。
 しかし、われわれはさきほど、この証明をア・ポステリオリにもしている。つまり、偶然的なものは現に存在しているが、それの最後の理由つまり十分な理由を必然的な存在の中にしかもつことはできない。だがこの必然的な存在は自分自身の中にその存在の理由をもっているからである。

45. Ainsi Dieu seul (ou l'Être nécessaire) a ce privilège qu'il faut qu'il existe, s'il est possible. Et comme rien ne peut empêcher la possibilité de ce qui n'enferme aucune borne, aucune négation, et par conséquent aucune contradiction, cela seul suffit pour connaître l'existence de Dieu a priori. Nous l'avons prouvé aussi par la réalité des vérités éternelles. Mais nous venons de la prouver aussi a posteriori, puisque des êtres contingents existent, lesquels ne sauraient avoir leur raison dernière ou suffisante que dans l'être nécessaire, qui a la raison de son existence en lui-même.

46. しかし、一部の人びとのように、永遠真理は神に依存しているから恣意的なものであり神の意志に拠るものである、などと想像してはならない。デカルト、そして彼のあとポワレ氏がそう考えたらしい。けれどもこのことは偶然的真理についてしか当てはまらない。偶然的真理の原理は、適合すなわち最善なものの選択(la convenance ou le choix du meilleur)ということである。ところが、必然的真理は、もっぱら神の悟性(entendement)に依存しておりその内的対象となっているのである。

46. Cependant il ne faut point s'imaginer, avec quelques-uns, que les vérités éternelles, étant dépendantes de Dieu, sont arbitraires et dépendent de sa volonté, comme Descartes paraît l'avoir pris, et puis M. Poiret. Cela n'est véritable que des vérités contingentes dont le principe est la convenance ou le choix du meilleur, au lieu que les vérités nécessaires dépendent uniquement de son entendement et en sont l'objet interne.

47.  そこで、神だけが原初的な「一」つまり本源的な単純実体であり(Dieu seul est l'unité primitive ou la substance simple originaire)、創造されたモナド、すなわち派生的なモナドは、すべてその生産物なのである。これらのモナドは、いわば神(la Divinité) の絶え間ない閃光放射(des fulgurations continuelles)によって刻々に産み出されてくるが、本性上(essentiel )限定されざるをえない被造物の受容性(la réceptivité)のために制限をうけている。

47. Ainsi, Dieu seul est l'unité primitive ou la substance simple originaire, dont toutes les Monades créées ou dérivatives sont des productions, et naissent, pour ainsi dire, par des fulgurations continuelles de la Divinité de moment à moment, bornées par la réceptivité de la créature à laquelle il est essentiel d'être limitée.

48.  神の中には、すべてのものの源泉である力(la puissance)と、さまざまな観念の細部を含んでいる認識と、さらに最善という原理にしたがって変化あるいは生産を生じさせる意志とがある。この三つは、創造されたモナドの中にある主体すなわち基礎と、表象の能力と、欲求の能力とに対応している。しかし、神においてはこうした属性は絶対的に無限つまり完全である。そして創造されたモナドつまりエンテレケイア(ヘルモウス・バルバルスの訳語ではペルフェクティハビエス)においては、その完全性の度合に応じてそれらの属性の模倣があるに過ぎない。

48. II y a en Dieu la puissance, qui est la source de tout, puis la connaissance, qui contient le détail des idées, et enfin la volonté, qui fait les changements ou productions selon le principe du meilleur. Et c'est ce qui répond à ce qui, dans les Monades créées, fait le sujet ou la base, la faculté perceptive et la faculté appétitive. Mais en Dieu ces attributs sont absolument infinis ou parfaits, et dans les Monades créées ou dans les entéléchies (ou perfectihabies, comme Hermolaüs Barbarus traduisait ce mot) ce n'en sont que des imitations à mesure qu'il y a de la perfection.

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49.
 被造物は、完全性をもっているかぎり外部に能動的に作用をおよぼすといわれ、不完全であるかぎり他の被造物から受動的に作用をこうむるといわれる。そこで、モナドが判明な表象をもつかぎりそれに能動作用を認め、混雑した表象をもつかぎり受動作用を認めるのである。

49. La créature est dite agir au dehors en tant qu'elle a de la perfection, et pâtir d'une autre en tant qu'elle est imparfaite. Ainsi l'on attribue l'action à la Monade en tant qu'elle a des perceptions distinctes et la passion en tant qu'elle en a de confuses.

50.  ある被造物の中に、他の被造物に起こることの理由をア・プリオリに示すのに役立つものがあれば、その被造物は他の被造物よりも完全である。一方が他方に作用を及ぼすというのは、こうした意味なのである。

50. Et une créature est plus parfaite qu'une autre en ce qu'on trouve en elle ce qui sert à rendre raison a priori de ce qui se passe dans l'autre, et c'est par là qu'on dit qu'elle agit sur l'autre.

51.  しかし、単純実体の場合、あるモナドは他のモナドに観念的な影響をおよぼすだけであり、これも神の仲介によらなくては効果をもつことはできない。そのときモナドにできることは、神のもっている諸観念の中で、神が万物の始め以来他のモナドを規制していくに際して自分のことも考慮してほしい、と正当な要求をすることだけである。なぜなら、創造されたモナドは他のモナドの内部に物理的な影響をおよぼすことはできないので、一方が他方と依存関係をもつためには、この方法によるしかないからである。

51. Mais dans les substances simples, ce n'est qu'une influence idéale d'une monade sur l'autre, qui ne peut avoir son effet que par l'intervention de Dieu, en tant que dans les idées de Dieu une monade demande avec raison que Dieu en réglant les autres dès le commencement des choses, ait regard à elle. Car puisqu'une monade créée ne saurait avoir une influence physique sur l'intérieur de l'autre, ce n'est que par ce moyen que l'une peut avoir de la dépendance de l'autre.

52. そういうわけで、被造物のあいだの能動作用と受動作用とは相互的である。つまり、神が二つの単純実体を比較したとき、それぞれの中に一方を他方に適応させざるをえない理由を見出すのである。そこで、ある点では能動的なものも、別の観点から見ると受動的である。あるものにおいて判明に知られるものが、他のものの中で起こることの理由を示すのに役立っているかぎり、それは能動的であり、あるものにおいて起こることの理由が他のものの中で判明に知られているものの中にあるかぎり、それは受動的である。


52. Et c'est par là qu'entre les créatures les actions et passions sont mutuelles. Car Dieu, comparant deux substances simples, trouve en chacune des raisons qui l'obligent à y accommoder l'autre, et par conséquent ce qui est actif à certains égards, est passif suivant un autre point de considération : actif en tant que ce qu'on connaît distinctement en lui sert à rendre raison de ce qui se passe dans un autre, et passif en tant que la raison de ce qui se passe en lui se trouve dans ce qui se connaît distinctement dans un autre.

53. ところで、神の持つ観念の中には無限に多くの可能的宇宙(univers possibles)があり、かつ宇宙はただ一つしか存在できないのだから、神に他の宇宙でなくこの宇宙を決定させる、神の選択の十分な理由があったはずだ。

53. Or, comme il y a une infinité d'univers possibles dans les idées de Dieu, et qu'il n'en peut exister qu'un seul, il faut qu'il y ait une raison suffisante du choix de Dieu qui le détermine à l'un plutôt qu'à l'autre.

54. そしてこの理由は適合(convenance)ということの中に、あるいはこれらの世界が含んでいる完全性の度合の中にしか見出せない。可能的なものはそれぞれが内包している完全性に応じて現実存在を要求する権利(droit de prétendre à l'existence)を持っているからだ。

54. Et cette raison ne peut se trouver que dans la convenance, dans les degrés de perfection que ces mondes contiennent, chaque possible ayant droit de prétendre à l'existence à mesure de la perfection qu'il enveloppe.

55. これが、最善なるもの(le meilleur)の現実存在の原因であって、神はその知恵によって最善なるものを知り、その善意によってこれを選び、その力によってこれを生む。

55. Et c'est ce qui est la cause de l'existence du meilleur que la sagesse fait connaître à Dieu, que sa bonté le fait choisir, et que sa puissance le fait produire.

56.  ところで、すべての被造物がそれぞれの被造物と、またそれぞれが他の被造物との間に持つこの連結(liaison)あるいは適応(accommodement)によって、どの単純実体も他のすべての実体を表出するさまざまな関係をもち、したがって宇宙を映す永遠の生きた鏡なのである。

56. Or cette liaison ou cet accommodement de toutes les choses créées à chacune, et de chacune à toutes les autres, fait que chaque substance simple a des rapports qui expriment toutes les autres, et qu'elle est par conséquent un miroir vivant perpétuel de l'univers.

57.  同じ都市でも、異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え、観点(=パースペクティブ)によって多様であるようだが、それと同様に、単純実体は無限にあるので、その数だけの異なった宇宙が存在することになる。ただしそれらは、それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまな眺望に他ならない。

57. Et comme une même ville regardée de différents côtés paraît tout autre et est comme multipliée perspectivement, il arrive de même que par la multitude infinie des substances simples, il y a comme autant de différents univers qui ne sont pourtant que les perspectives d'un seul selon les différents points de vue de chaque monade.

58.  そしてこれが、可能な限り多くの多様性を、しかもできる限り偉大な(最大の)秩序とともに得る方法なのである。つまり、できる限り多くの完全性を得る方法なのである。

58. Et c'est le moyen d'obtenir autant de variété qu'il est possible, mais avec le plus grand ordre qui se puisse, c'est-à-dire c'est le moyen d'obtenir autant de perfection qu'il se peut.

59.  それゆえ、神の偉大さをそれにふさわしい仕方で称揚するものは、この仮説(あえて言うがすでに証明済みである)以外にない。このことはベール氏も認めたのだが、その辞典のロラリウスの項においては、私が神に、あまりに多くを、可能以上のことを託そうとしていると言わんばかりの異議が見られる。しかし、この普遍的な調和(cette harmonie universelle)、すべての実体が、他のすべての実体を自分との関係にしたがって厳密に表現するようにしむける普遍的な調和が、なぜ不可能なのかというどんな理由も、ベール氏は挙 げることはできなかったのである。

59. Aussi n'est-ce que cette hypothèse, que j'ose dire démontrée, qui relève comme il faut la grandeur de Dieu; c'est ce que M. Bayle reconnut lorsque dans son Dictionnaire, article Rorarius, il y fit des objections où même il fut tenté de croire que je donnais trop à Dieu, et plus qu'il n'est possible. Mais il ne put alléguer aucune raison pourquoi cette harmonie universelle, qui fait que toute substance exprime exactement toutes les autres par les rapports qu'elle y a, fût impossible.

60. しかし私が述べてきたことから、なぜそれぞれの事態が他ではありえないかの、アプリオリなそれぞれの理由がわかる。なぜなら神は全体を決定しつつ(enréglant le tout)、各部分、特に各モナドを考慮しているからであり、モナドの本性は表現的(représentative)なので、何ものもそれを制限して事物の一部分しか表現しないようにはできないからである。ただし、この表現は宇宙全体の細部では混雑している他なく、判明なのは事物のごく一部分、すなわち各モナドとの関係で、最も近いもの、あるいは最も大きいものにおいてでしかありえない。さもないと各モナドは神的なもの(une divinité)になってしまうだろう。モナドが制限を受けるのは、その対象においてではなく、対象の認識の変容(la modification de la connaissance de l'objet) においてである。モナドはすべて混雑したかたちで無限へ向かい、全体へ向かうが、それらは制限されており、表象(perceptions)の判明さの度合によって区別されている。

60. On voit d'ailleurs dans ce que je viens de rapporter, les raisons a priori pourquoi les choses ne sauraient aller autrement: parce que Dieu, en réglant le tout, a eu égard à chaque partie, et particulièrement à chaque monade, dont la nature étant représentative, rien ne la saurait borner à ne représenter qu'une partie des choses; quoiqu'il soit vrai que cette représentation n'est que confuse dans le détail de tout l'univers et ne peut être distincte que dans une petite partie des choses, c'est-à-dire dans celles qui sont ou les plus prochaines ou les plus grandes par rapport à chacune des monades; autrement chaque monade serait une divinité. Ce n'est pas dans l'objet, mais dans la modification de la connaissance de l'objet que les monades sont bornées. Elles vont toutes confusément à l'infini, au tout, mais elles sont limitées et distinguées par les degrés des perceptions distinctes.

61.  そしてこの点において、複合体は単純体と一致している(symboliser)。というのも、すべてが充実している(tout est plein)ので、あらゆる物質(質料 matière)は結びつき合っているし、充実体(le plein)の中で、すべての運動はへだたった物体(les corps)に、距離に応じて何らかの効果を及ぼすからである。そこでどの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてを何らかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体を感知するのである。その結果、このような交感(communication)はどんな遠いところにも及んで行くことになる。そこで、どの物体も宇宙の中で起こることをすべて感知するから、何でも見える人がいれば、どの物体の中にもあらゆる所でいま起こっていることだけではなく、いままでに起こったことやこれから起こるであろうことさえ読み取ることができるだろう。時間的、空間的に遠く離れているものを、現在の中に見出すことによって。「スベテガ共ニ呼吸シテイル」とヒポクラテスは言った。しかし、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞( replis)を一挙にすっかり開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである。

61. Et les composés symbolisent en cela avec les simples. Car comme tout est plein, ce qui rend toute la matière liée, et comme dans le plein tout mouvement fait quelque effet sur les corps distants à mesure de la distance, de sorte que chaque corps est affecté non seulement par ceux qui le touchent, et se ressent en quelque façon de tout ce qui leur arrive, mais aussi par leur moyen se ressent de ceux qui touchent les premiers dont il est touché immédiatement: il s'ensuit que cette communication va à quelque distance que ce soit. Et par conséquent tout corps se ressent de tout ce qui se fait dans l'univers, tellement que celui qui voit tout, pourrait lire dans chacun ce qui se fait partout, et même ce qui s'est fait ou se fera, en remarquant dans le présent ce qui est éloigné tant selon les temps que selon les lieux: σψμπνοια παντα disait Hippocrate. Mais une âme ne peut lire en elle-même que ce qui y est représenté distinctement; elle ne saurait développer tout d'un coup ses replis, car ils vont à l'infini.

62. そこで、創造されたモナドはいずれも宇宙全体を表現しているが、そのモナドに特別に付与されていて(lui est affecté particulièrement)、そのモナドを自分のエンテレケイア(現勢化力 entéléchie)にしている物体(身体 corps)をより判明に表象する。充実体(le plein)の中ではすべての物質(質料 matière)が結び合っているから、この物体(身体)は宇宙全体を表現するが、魂もまた特別の仕方で自分に属している(lui appartient d'une manière particulière)物体(身体)を表現することによって、宇宙全体を表現するのである

62. Ainsi quoique chaque monade créée représente tout l'univers, elle représente plus distinctement le corps qui lui est affecté particulièrement et dont elle fait l'entéléchie: et comme ce corps exprime tout l'univers par la connexion de toute la matière dans le plein, l'âme représente aussi tout l'univers en représentant ce corps qui lui appartient d'une manière particulière.

63. あるモナドに属していて、そのモナドを自分のエンテレケイアあるいは魂としている物体は、エンテレケイアと一緒になって生物と名づけ得るものを構成し、魂と一緒になって動物と名づけ得るものを構成する。ところで、この生物あるいは動物の身体はいつも有機的(organique)である。どのモナドも自分の様態で(à sa mode)宇宙を映す鏡であり、宇宙は完全な秩序において統制されている(étant réglé dans un ordre parfait)から、それを表現するもの(le représentant)の中にも、つまり魂のもろもろの表象(les perceptions de l'âme)の中にも、したがってそれによって宇宙が魂に表現される身体の中にも(dans le corps, suivant lequel l'univers y est représenté)、一つの秩序(un ordre)があるはずである。

63. Le corps appartenant à une monade qui en est l'entéléchie ou l'âme, constitue avec l'entéléchie ce qu'on peut appeler un vivant, et avec l'âme ce qu'on appelle un animal. Or, ce corps d'un vivant ou d'un animal est toujours organique ; car toute monade étant un miroir de l'univers à sa mode, et l'univers étant réglé dans un ordre parfait, il faut qu'il y ait aussi un ordre dans le représentant, c'est-à-dire dans les perceptions de l'âme, et par conséquent dans le corps, suivant lequel l'univers y est représenté.

64. だから、生物の有機的な身体は、いずれもある種の神的な機械あるいは自然的な自動機械なのであって、どんな人工的な自動機械よりも無限にすぐれている。人間の技術によって作られた機械は、そのそれぞれの部分までは機械になっていない。たとえば真鍮の歯車の場合、その部分とか断片とかはもうわれわれには人工的なものとは見えず、その歯車の本来の用途から考えてもはや機械らしいところは何も示していない。ところが自然の機械つまり生物の身体は、それを無限に分割していってどんなに小さい部分になっても、やはり機械になっている。これが自然と技術、つまり神のわざと人間のわざとの違いである。

64. Ainsi, chaque corps organique d'un vivant est une espèce de machine divine ou un automate naturel qui surpasse infiniment tous les automates artificiels. Parce qu'une machine faite par l'art de l'homme n'est pas machine dans chacune de ses parties ; par exemple la dent d'une roue de laiton a des parties ou fragments qui ne sont plus quelque chose d'artificiel et n'ont plus rien qui marque de la machine par rapport à l'usage où la roue était destinée. Mais les machines de la nature, c'est-à-dire les corps vivants, sont encore machines dans leurs moindres parties jusqu'à l'infini. C'est ce qui fait la différence entre la nature et l'art, c'est-à-dire entre l'art divin et le nôtre.

65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべき(merveilleux)わざ(artifice)をふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が可能であるばかりでなく、各部分は実際に(actuellement)さらに多くの部分へと限りなく細分されていて(sous-divisée)、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなければ、物質の各部分(chaque portion de la matière)が宇宙を表出することは不可能であろう。

65. Et l'auteur de la nature a pu pratiquer cet artifice divin et infiniment merveilleux, parce que chaque portion de la matière n'est pas seulement divisible à l'infini, comme les anciens ont reconnu, mais encore sous-divisée actuellement sans fin, chaque partie en parties, dont chacune a quelque mouvement propre ; autrement il serait impossible que chaque portion de la matière pût exprimer l'univers.

66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、魂の世界が認められる。

66. Par où l'on voit qu'il y a un monde de créatures, de vivants, d'animaux, d'entéléchies, d'âmes dans la moindre partie de la matière.

67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることができる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり同じような庭であり池なのである。

67. Chaque portion de la matière peut être conçue comme un jardin plein de plantes et comme un étang plein de poissons. Mais chaque rameau de la plante, chaque membre de l'animal, chaque goutte de ses humeurs est encore un tel jardin ou un tel étang.

68.  そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚ではないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、ほとんどの場合われわれには見えない。

68. Et quoique la terre et l'air interceptés entre les plantes du jardin, ou l'eau interceptée entre les poissons de l'étang, ne soit point plante ni poisson, ils en contiennent pourtant encore, mais le plus souvent d'une subtilité à nous imperceptible.

69. そこで宇宙の中には荒れ果てたところや不毛なところ、死せるところはまったくなく、混沌も混雑もない。ただそういう見かけがあるだけである。少し離れて池を見ると、池の魚そのものをはっきり見分けることはできず、魚の混雑した運動、いわばそれらのうごめきが見える、というようなものだ。

69. Ainsi il n'y a rien d'inculte, de stérile, de mort dans l'univers, point de chaos, point de confusion qu'en apparence; à peu près comme il en paraîtrait dans un étang à une distance dans laquelle on verrait un mouvement confus et un grouillement pour ainsi dire de poissons de l'étang sans discerner les poissons mêmes.

70.  そこで、どの生物の身体もそれを支配するエンテレケイア(une entéléchie dominante=現勢化力としてのモナド)をもち、動物ではそれが魂であることがわかる。ただこの生物のどの肢にも他の生物、植物、動物が満ちていて、そのそれぞれがまた、それを支配するエンテレケイアとか魂(son entéléchie ou son âme dominante)をもっている。

70. On voit par là que chaque corps vivant a une entéléchie dominante qui est l'âme dans l'animal; mais les membres de ce corps vivant sont pleins d'autres vivants, plantes, animaux, dont chacun a encore son entéléchie ou son âme dominante.

71.  しかし、ある人たちのように私の考えを誤解して、どの魂にもそれに固有な、つまりそれに割りあてられている物質のかたまりや部分があり、したがっていつも自分の役に立つように定められて他の下等な生物をもっている、などと考えてはいけない。すべての物体は川のように永遠の流動状態にあり、その部分はたえずそこに入ったり出たりしているからである。

71. Mais il ne faut point s'imaginer avec quelques-uns qui avaient mal pris ma pensée, que chaque âme a une masse ou portion de la matière propre ou affectée à elle pour toujours, et qu'elle possède par conséquent d'autres vivants inférieurs destinés toujours à son service. Car tous les corps sont dans un flux perpétuel comme des rivières, et des parties y entrent et en sortent continuellement.

72. というわけで魂は、自分の体をとりかえるのに、かならず徐々に、まただんだんにおこなうから、その全器官をいっぺんに失うことはけっしてない。動物の場合、変態はめずらしくないが、生まれかわり(メタンプシコーズ)(=死後にも魂は存続し、ふたたび別の身体にはいるという説)、つまり魂の転生は断じてない。また、体とまったく[切りはなされた魂]とか、体のない精霊などというものはない。ただ神だけが、肉体から完全に解きはなたれている。

72. Ainsi l'âme ne change de corps que peu à peu et par degrés, de sorte qu'elle n'est jamais dépouillée tout d'un coup de tous ses organes, et il y a souvent métamorphose dans les animaux, mais jamais métempsycose ni transmigration des âmes : il n'y a pas non plus d'âmes tout à fait séparées ni de génies sans corps. Dieu seul en est détaché entièrement.

73. だからまた、完全な新生もないわけだし、厳密な意味での完全な死、つまり魂が体から離れるところに成りたっている死もないのである。ふつう発生と呼んでいるのは、「外へひろがること」であり、増大のことであるにすぎない。死といっているものも、「内へすぼまること」であり、減少のことであるにすぎない。

73. C'est ce qui fait aussi qu'il n'y a jamais ni génération entière, ni mort parfaite prise à la rigueur, consistant dans la séparation de l'âme. Et ce que nous appelons générations sont des développements et des accroissements, comme ce que nous appelons morts sont des enveloppements et diminutions.

74.  形相、エンテレケイア、あるいは魂の起源について、哲学者たちは おおいに困惑してきた。しかし今では植物、昆虫、動物について精密な 研究がなされて、自然の有機体は混沌や腐敗から生み出されるものでは けっしてなく、いつも種子から、つまり何らかの予先形成(préformation) を必ず含んでいる種子から生み出される、ということが知られている。 そこで種子の中には、受精以前にすでに有機体ばかりでなく、その体内にある 魂、一言でいえば動物それ自身が存していて、受精作用はこの動物が別種の 動物になるために大きな変形を受けるための準備にすぎない、と考えられている。 発生以外にも、似たようなことはウジがハエになったり、毛虫が蝶になったり するときに見られる。

74. Les philosophes ont été fort embarrassés sur l'origine des formes, entéléchies ou âmes ; mais aujourd'hui, lorsqu'on s'est aperçu par des recherches exactes, faites sur les plantes, les insectes et les animaux, que les corps organiques de la nature ne sont jamais produits d'un chaos ou d'une putréfaction, mais toujours par des semences, dans lesquelles il y avait sans doute quelque préformation, on a jugé que non seulement le corps organique y était déjà avant la conception, mais encore une âme dans ce corps, et, en un mot, l'animal même, et que par le moyen de la conception cet animal a été seulement disposé à une grande transformation pour devenir un animal d'une autre espèce. On voit même quelque chose d'approchant hors de la génération, comme lorsque les vers deviennent mouches et que les chenilles deviennent papillons.

75.  動物のうちには、受精によってさらに大きい動物の段階にまで達するものがあり、それらを精子的動物(spermatiques)と呼ぶこともできる。しかしそれらのうちで、もとと同じ種にとどまっているもの、つまりその大半は、大きい動物と同じように生まれ、殖え、滅びてしまい、もっと大きい舞台に移ってゆくのは、選ばれた少数のものにすぎない。

75. Les animaux, dont quelques-uns sont élevés au degré des plus grands animaux par le moyen de la conception, peuvent être appelés spermatiques ; mais ceux d'entre eux qui demeurent dans leur espèce, c'est-à-dire la plupart, naissent, se multiplient et sont détruits comme les grands animaux, et il n'y a qu'un petit nombre d'élus qui passe à un plus grand théâtre.

76. しかし、これは真理の反面にすぎない。私の考えによると、もし動物が自然的に存在し始めるということが決してないなら、自然的に滅びることもなく、どのような発生もないばかりでなく、完全な破壊も、厳密な意味での死もありえない。この推論はアポステリオリになされ、経験から導き出されているが、これは初めにアプリオリに演繹された私の原理と完全に一致する。

76. Mais ce n'était que la moitié de la vérité : j'ai donc jugé que si l'animal ne commence jamais naturellement, il ne finit pas naturellement non plus ; et que non seulement il n'y aura point de génération, mais encore point de destruction entière ni mort prise à la rigueur. Et ces raisonnements faits a posteriori et tirés des expériences, s'accordent parfaitement avec mes principes déduits a priori comme ci-dessus.

77. そこで魂、滅びることのない宇宙の鏡ばかりでなく、動物そのものでさえ不滅であることになる。もっともその(身体である)機械は、しばしば部分的に滅びたり、有機的な殻を脱いだり着けたりすることはあるけれども。

77. Ainsi on peut dire que non seulement l'âme, miroir d'un univers indestructible, est indestructible, mais encore l'animal même, quoique sa machine périsse souvent en partie et quitte ou prenne des dépouilles organiques.

78. これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合(l'union)あるいは一致(la conformité )について、自然的に説明する方法を得たのである。魂はみずからの法則(lois)にしたがい、身体もまたみずからの法則にしたがいつつ、あらゆる実体のあいだに存する予定調和(l'harmonie préétablie )のおかげで両者は一致する(se rencontrer)。 なぜならすべての実体は、同じ一つの宇宙の表現なのだがら。

78. Ces principes m'ont donné moyen d'expliquer naturellement l'union ou bien la conformité de l'âme et du corps organique. L'âme suit ses propres lois et le corps aussi les siennes, et ils se rencontrent en vertu de l'harmonie préétablie entre toutes les substances, puisqu'elles sont toutes des représentations d'un même univers.

79. 魂は目的原因の法則(les lois des causes finales )にしたがい、欲求や目的や手段によってふるまう。物体(身体)は作用原因(実現原因)の法則あるいは運動の法則(les lois des causes efficientes ou des mouvements)にしたがってふるまう。そしてこの二つの世界(règne)、 作用原因(実現原因)のそれと目的原因のそれとは互いに調和している。

79. Les âmes agissent selon les lois des causes finales par appétitions, fins et moyens. Les corps agissent selon les lois des causes efficientes ou des mouvements. Et les deux règnes, celui des causes efficientes et celui des causes finales, sont harmoniques entre eux.

80. デカルトは、物質の中にはつねに同一量の力があることから、魂が物体に力をあたえることはできないことを認めた。けれども魂は物体の方向を変えることができると信じていた。しかしこれは、彼の時代には、物質において方向も全体としては同一に保存されるという自然法則がまだ知られていなかったからである。もしデカルトがこれに気づいていたら、私の予定調和説をとることになったであろう。

80. Descartes a reconnu que les âmes ne peuvent point donner de la force aux corps parce qu'il y a toujours la même quantité de force dans la matière. Cependant il a cru que l'âme pouvait changer la direction des corps. Mais c'est parce qu'on n'a point su de son temps la loi de la nature qui porte encore la conservation de la même direction totale dans la matière. S'il l'avait remarquée, il serait tombé dans mon système de l'harmonie préétablie.

81. この説によると、物体(身体)は魂がないかのように(ありえないことだが)ふるまい、魂は物体(身体)がないかのようにふるまう。しかも両者は、互いに影響を与え合っているかのようにふるまうのである。

81. Ce système fait que les corps agissent comme si, par impossible, il n'y avait point d'âmes, et que les âmes agissent comme s'il n'y avait point de corps, et que tous deux agissent comme si l'un influait sur l'autre.

82. 精神あるいは理性的な魂についていえば、すでに述べたように、動物も魂も世界とともにしか始まらず、世界とともにしか終わらないということは、すべての生物や動物について結局同じであることを私は認めるけれども、理性的動物にはやはり特別なところがあって、それが持っている微小な精子的動物は、精子的動物である限りただ普通の魂あるいは感覚的な魂しかもっていないが、そのうちのいわば選ばれたものが、実際の受精によって人間の本性に到達すると、その感覚的な魂は高められて理性の段階、つまり精神という特権に達するのである。

82. Quant aux esprits ou âmes raisonnables, quoique je trouve qu'il y a dans le fond la même chose dans tous les vivants et animaux, comme nous venons de dire, savoir, que l'animal et l'âme ne commencent qu'avec le monde et ne finissent pas non plus que le monde, il y a pourtant cela de particulier dans les animaux raisonnables, que leurs petits animaux spermatiques, tant qu'ils ne sont que cela, ont seulement des âmes ordinaires ou sensitives, mais dès que ceux qui sont élus, pour ainsi dire, parviennent par une actuelle conception à la nature humaine, leurs âmes sensitives sont élevées au degré de la raison et à la prérogative des esprits.

83. 普通の魂と精神とのあいだの他のさまざまな差異(その一部についてはすでに指摘した)の中には、さらに次のようなものがある。一般に魂は、被造物の宇宙の生きた鏡あるいはその像(images  河野訳「姿」、工作舎訳「似姿」)であるが、精神はその上に、神そのもの(la Divinité même)、自然の創造者そのものの像でもある。そこで宇宙の大系を知ることも、 自分のもっている建築術の片鱗(échantillons 見本、サンプル) によって宇宙のいくらかを真似ることもできるから、どの精神も自分の 領域における小さな神(une petite divinité dans son département) のようなものである。

83. Entre autres différences qu'il y a entre les âmes ordinaires et les esprits, dont j'ai déjà marqué une partie, il y a encore celle-ci, que les âmes en général sont des miroirs vivants ou images de l'univers des créatures, mais que les esprits sont encore images de la Divinité même, ou de l'auteur même de la nature, capables de connaître le système de l'univers et d'en imiter quelque chose par des échantillons architectoniques, chaque esprit étant comme une petite divinité dans son département.

84. このことによって、精神は神とのある種の交際関係(société)に入ることができるとともに、神が精神に対する関係は、発明家の機械に対する関係(神が精神以外の被造物に対する関係がそうであるのと同じく)にとどまらず、君主と臣下、むしろ父と子の関係なのである。

84. C'est ce qui fait que les esprits sont capables d'entrer dans une manière de société avec Dieu, et qu'il est à leur égard, non seulement ce qu'un inventeur est à sa machine (comme Dieu l'est par rapport aux autres créatures), mais encore ce qu'un prince est à ses sujets et même un père à ses enfants.

85.  そこから容易に、すべての精神の集合は、神の国(la cité de Dieu)、すなわち最も完全な君主のもとにある、できる限り完全な国家をつくっていなければならないという結論が生じる。

85. D'où il est aisé de conclure que l'assemblage de tous les esprits doit composer la cité de Dieu, c'est-à-dire le plus parfait état qui soit possible sous le plus parfait des monarques.

86.  この神の国、この真に普遍的な王国こそ、自然の世界の中にある道徳的世界であり、神の作品のうちで最も崇高、最も神的なものであって、神の栄光が真に存するところである。もし神の偉大さと善意とが精神によって認められ賞賛されなければ、神の栄光はありえないからである。さらに、神の知恵や神の力はいたるところにあらわれているが、神が本当に善意をもっているのは、この神の国に対してである。

86. Cette cité de Dieu, cette monarchie véritablement universelle est un monde moral dans le monde naturel, et ce qu'il y a de plus élevé et de plus divin dans les ouvrages de Dieu et c'est en lui que consiste véritablement la gloire de Dieu, puisqu'il n'y en aurait point, si sa grandeur et sa bonté n'étaient pas connues et admirées par les esprits; c'est aussi par rapport à cette cité divine, qu'il a proprement de la bonté, au lieu que sa sagesse et sa puissance se montrent partout.

87.  さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家として考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神とのあいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。

87. Comme nous avons établi ci-dessus une harmonie parfaite entre deux règnes naturels, l'un des causes efficientes, l'autre des finales, nous devons remarquer ici encore une autre harmonie entre le règne physique de la nature et le règne moral de la grâce, c'est-à-dire, entre Dieu considéré comme architecte de la machine de l'univers, et Dieu considéré comme monarque de la cité divine des esprits.

88.  この調和によって、事物はまさに自然の道を経て恩寵にまで導かれる。たとえば、この地球は精神に対する統治がそれを要求するたびに、あるものを罰し、あるものを賞するために、自然的な道によって破壊されたり修復されたりすることになる。

88. Cette harmonie fait que les choses conduisent à la grâce par les voies mêmes de la nature, et que ce globe, par exemple, doit être détruit et réparé par les voies naturelles dans les moments que le demande le gouvernement des esprits pour le châtiment des uns et la récompense des autres.

89.  さらに次のように言える。建築家としての神は、すべての点で立法者としての神を満足させる。そこで、罪は自然の秩序によって、さらには事物の機械的な構造によって、自分の罰を担わなければならない。同じように、美しい行ないも、身体に関わる機械的な道によって、その報償を得るのである。もっともこれは、いつでもすぐに起こるとは限らないし、起こるべきであるとも言えない。

89. On peut dire encore que Dieu comme architecte contente en tout Dieu comme législateur, et qu'ainsi les péchés doivent porter leur peine avec eux par l'ordre de la nature, et en vertu même de la structure mécanique des choses, et que de même les belles actions s'attireront leurs récompenses par des voies machinales par rapport aux corps, quoique cela ne puisse et ne doive pas arriver toujours sur-le-champ.

90. 最後に、この完全な統治のもとでは報償のない善行はなく、罰のない悪行もない。善い人々にとって、すべてが幸福な結果をもたらすに違いない。善い人々とは、この偉大な国にあって不満をいだくことなく、自分の義務を果したあとは神の摂理(Providence)を信頼し、すべての善の作者をこよなく愛しかつ模倣し、自分の愛する者の幸福を見て喜ぶという真の純粋な愛の本性にしたがって、神のもつさまざまの完全性を眺めて楽しんでいる(se plaisant dans la considération de ses perfections)人々のことである。こうしたところから、賢明で有徳な人々は、推測により知られる神の先行意志にかなうと思われることをすべて実行するとともに、他方では神の秘められた、帰結的かつ決定的な意志によって実際に起こることに満足する。彼らはこのとき次のように考えている。われわれに宇宙の秩序が十分に理解できれば、その秩序はもっとも賢明な人たちが抱くいかなる願いより優れていて、それを現在の状態よりもっとよくすることはできない、ということがわかるだろう、と。このことは全体について一般的に言われるだけではない。われわれが万物の作者に対して、建築家つまりわれわれの存在の作用原因(実現原因)としてだけでなく、われわれの主君つまりわれわれの意志の全目標たるべき目的原因、それのみが人間の幸福をもたらすことができる目的原因として、しかるべく結びついているときには、われわれ自身について個別的にもそう言えるのである。

90. Enfin, sous ce gouvernement parfait, il n'y aura point de bonne action sans récompense, point de mauvaise sans châtiment, et tout doit réussir au bien des bons, c'est-à-dire de ceux qui ne sont point des mécontents dans ce grand état, qui se fient à la Providence après avoir fait leur devoir, et qui aiment et imitent comme il faut l'auteur de tout bien, se plaisant dans la considération de ses perfections suivant la nature du pur amour véritable, qui fait prendre plaisir à la félicité de ce qu'on aime. C'est ce qui fait travailler les personnes sages et vertueuses à tout ce qui paraît conforme à la volonté divine présomptive ou antécédente, et se contenter cependant de ce que Dieu fait arriver effectivement par sa volonté secrète, conséquente et décisive, en reconnaissant, que si nous pouvions entendre assez l'ordre de l'univers, nous trouverions qu'il surpasse tous les souhaits des plus sages, et qu'il est impossible de le rendre meilleur qu'il est, non seulement pour le tout en général, mais encore pour nous-mêmes en particulier, si nous sommes attachés comme il faut à l'auteur du tout, non seulement comme à l'architecte et à la cause efficiente de notre être, mais encore comme à notre maître et à la cause finale qui doit faire tout le but de notre volonté, et peut seul faire notre bonheur.

参考:
邦訳ライプニッツ著作集9(189頁)より↓
 〜、19   80   15   61   65〜    4952    25 


(上図出典
God. Guil. Leibnitii opera philosophica quae exstant latina, gallica, germanica omnia: 1 (Google eブックス)
Gottfried Wilhelm Leibniz
http://books.google.co.jp/books?id=Huv3Q0IimL0C
P.730
1715/8/19
http://talonsphilosophy.files.wordpress.com/2012/10/dualism-vs-monism1.png
ドゥルーズ襞冒頭より
The Last Judgment - Jacopo Tintoretto (Robusti) - www.jacopotintoretto.org
http://www.jacopotintoretto.org/The-Last-Judgment.html
http://www.jacopotintoretto.org/262374/The-Last-Judgment-large.jpg
ドゥルーズが襞5章最後で言及
ティントレット最後の審判
http://www.jacopotintoretto.org/189480/The-Last-Judgement,-before-1562-large.jpg