土曜日, 5月 31, 2014

ヘーゲル左派とシュティルナー


              (マルクス柄谷行人プルードンヘーゲルリンク::::::::::

NAMs出版プロジェクト: ヘーゲル左派とシュティルナー

http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_31.html:本頁


マルクスとエンゲルスは『聖家族』(1844)の時代にはまだプルードンを高く評価していました(ちなみに大月版全集第二巻によれば『聖家族』は共著だがプルードンを扱った節のある第四章はマルクスの単独執筆(『聖家族』英語版該当箇所)である)。
それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、

さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。

解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )

参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録

エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。

左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。

また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。

もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、

  マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー

というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。

このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
   http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html

また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm

エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。

*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。

「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る>


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/philosophy/kindaiseiotetugaku/doitu/foierubaha/top.html



孤立を求めて連帯を恐れず(Ⅰ)・柄谷行人のエッセイ(2)   柄谷行人

 
 私が「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉に嫌な気がしたのは、シュティルナーの『唯一者とその所有』を60年代の初めに熱心に読んだことがあったからだ。アナーキストは、シュティルナーとプルードンを始祖として並べているが、本当は、シュティルナーのこの本は、たんにフォイエルバッハの批判ではなく、むしろプルードンの批判なのだ。シュティルナーは、フォイエルバッハは神や精神を否定したけれども、彼がいう「人間」(類的本質)そのものが神や精神の変形にすぎないという。同様に、プルードンは、神を斥けているが、結局、キリスト教的な自己犠牲的道徳にもとづいている、とシュティルナーはいう。

かくて、フォイエルバッハはわれわれに説いていう。「人は、思弁的哲学を要するに転倒させるならば、つまりは客語を主語とし、主語を目的語とし、原則とするならば、あらわな、純粋・無垢なる真理をもつ」[原注・「アネクドータ」Ⅱ、六四頁]と。それによって、われわれはたしかに、限定された宗教的立場の別の側面、道義的立場を手にするだけなのだ。われわれはたとえばもはや「神は愛なり」と言わぬかわりに「愛は神的なり」というのだ。(片岡啓治訳『唯一者とその所有 上』現代思潮社 p64)
 敬神は、一世紀このかた、多くの打撃をうけ、その超人的本質を「非人間的」とそしられるのを耳にしなければならなかったため、人は改めてそれに対して身構えてみようという気にはとてもなれない。さてそうなると、一つの――別の最高存在のために、この最高存在に闘いをいどむべく闘技場にあらわれるのは、ほとんどつねに道義的な敵対者だけであった。かくて、プルードンは臆面もなくいい放つ〔原注・秩序の創造〕他、三六頁〕。「人間は宗教なく生きる定めにある、しかし、道義の掟〔la loi morale〕は永遠・絶対である。今日道徳を攻撃することを、誰があえてしようか」。(『唯一者とその所有 上』 p63)
 シュティルナーの考えでは、プルードンにおいて、国家は否定されているが、結局、「社会」あるいは「共同体」がそれにとって代わっただけである。そこでは、社会の一員としての個人だけが認められ、「この私」は無視されている。シュティルナーは、それを「私の所有」として語っている。しかし、それはむしろ、プルードンの『所有とは何か』に対していわれた言葉である。実際は、それは所有と関係がない。《「自由」とは、一つの憧れ、一つのロマン的嘆きの声、彼岸と未来に託するキリスト教的希望であり、そうでありつづける。「自己性」は一つの現実、まさに諸君自身の道を阻み妨げるかぎりの不自由を自ずから排除した現実であるのだ。(中略)自己所有者〔der Eigene〕は生まれながらの自由人であり、本来的自由人であるのだ。それに反して、自由人とは要するに自由を求める者、夢想者、空想者にすぎないのだ》(『唯一者とその所有 下』p19~20)。
 つまり、シュティルナーにとって、自由は所有すべき何かではない。だから、彼は別の所で、それを「無」と呼んでいる。『唯一者とその所有』という本は、「私の事柄を、無の上に、私は据えた」という言葉で終っている。これは、先行者アーノルド・ルーゲの「私は一切を歴史の上におく」という言葉をもじったものである。それは歴史的な諸関係によって規定される「私」ではなく、それらを括弧に入れた、無であるところの「私」の実存から出発するということである。したがって、「私の所有」とは、各人がたんに各人であることであり、またユニーク(唯一性)ということは特殊な才能などを指すものではない。
 彼は端的に、エゴイストであると主張する。そして、プルードンの構想するアソシエーションに、教会の臭いをかぎとった。つまり、他人のためにエゴイズムを否定する道徳性によって成り立っている。そういう連帯はくそくらえ、私は徹底的にエゴイストだ、と彼はいうのである。しかし、同時に、彼は通常エゴイストと見なされる者はエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえないからである。
だから、彼がエゴイズムをいいながら、連帯(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。孤立を求めない者が、どうして連帯できよう。連帯を軽蔑するような奴らは、本当は、孤立を恐れているだけなのだ。その証拠に、連帯しない代わりに、彼らは群れたがるのだ。NAMは、「自由を求める人」の共同体ではない、「自己所有者」のアソシエーションである。


参照:
『唯一者とその所有』(現代思潮新社)
定本『トランスクリティーク』258~9頁
『秩序の創造』リヴィエール版原著p.63

10. Cette assertion n’a plus rien d’effrayant, après la distinction que nous avons faite de la loi morale et du symbole religieux : celle-là, éternelle et absolue ; celui-ci, variable, transitoire, et n’ayant pour objet que de donner momentanément à la morale une sanction et une base. Or, la science nouvelle doit suppléer partout la religion, et faire mieux que sa devancière ; à cette condition seule, les conclusions que nous allons poser sont légitimes. Ainsi, que les âmes timorées se rassurent. Eh ! qui donc aujourd’hui oserait attaquer la morale ? mais, en revanche, qui se soucie des symboles ? Les pères envoient-ils leurs enfants au catéchisme pour y apprendre à théologiser, ou bien pour y puiser des principes de probité et de politesse ? Toute la question est là.



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Oeuvres de Proudhon
Pierre Joseph Proudhon
2012年5月15日
15 Oeuvres de Pierre-Joseph Proudhon

Ce livre numérique présente une collection des oeuvres majeures de Pierre-Joseph Proudhon éditées en texte intégral. Une table des matières dynamique permet d'accéder directement aux différentes oeuvres.

Liste des oeuvres:

- 1840 - Qu’est ce que la propriété
- 1842 - Explications présentées au ministère public sur le droit de propriété
- 1843 - De la Création de l’Ordre dans l’Humanité ☆
- 1846 - Correspondance entre Karl Marx et Pierre-Joseph Proudhon
- 1846 - Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère
- 1849 - Les malthusiens
- 1851 - Idée générale de la Révolution au dix-neuvième siècle
- 1851 - Les Confessions d’un révolutionnaire
- 1857 - Manuel du Spéculateur à la Bourse
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome I
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome II
- 1858 - De la justice dans la Révolution et dans l’Eglise - Tome III
- 1863 - Du Principe fédératif
- 1865 - De la Capacité politique des classes ouvrières
- 1866 - Théorie de la propriété
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木曜日, 5月 29, 2014

マルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言より

                (マルクスリンク::::::::::

http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/1859.html:本頁

マルクス『経済学批判』序言(全)

http://archive.today/5RX3

原著 Zur Kritik der politischen Ökonomie:Vorwort

著者 Karl Marx


著作集第一巻で三枝博音はマルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言↓を論じている。


            <…‥わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生涯の社会的生産において、一定の、
必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸カの一定の発展段
階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっ
ており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、
一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのてはなくて、逆
に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(社会の物質的生産諸力は、その発展があ
る段階にたっすると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法
的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生涯諸力の発展諸形態
からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。)経済的基礎の変化に
つれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察
するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革
と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の
諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。(ある個人を
判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このよ
うな変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識
を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説
明しなければならないのである。[一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展
の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産
諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとって
かわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけであ
る、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条
件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生
するものだ、ということがつねにわかるであろうから。])大ざっぱにいって、経済的社会構成が進
歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげる
ことができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵
対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形
態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこ
の敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって。人間社
会の前史はおわりをつげるのである。>

(マルクス『経済学批判』岩波文庫13~15頁より。『世界史の構造』4-5頁参照)


柄谷行人は引用に際してカッコ内を省略したが、三枝は二番目のカッコ内の[ ]部分を「『資本論』の方法の真髄を語っているもの」(「資本論の弁証法」同280頁)として重要視する。



マルクスは『経済学批判』の序言で唯物史観を定式化し、これを自らの「導きの糸」と呼んでおり、その内容は以下である。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。

このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。

一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。

大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。

Karl Marx - Zur Kritik der Politischen Oekonomie - Vorwort

http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_007.htm

Das allgemeine Resultat, das sich mir ergab und, einmal gewonnen, meinen Studien zum Leitfaden diente, kann kurz so formuliert werden:


 In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen. Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt. 


Auf einer gewissen Stufe ihrer Entwicklung geraten die materiellen Produktivkräfte der Gesellschaft in Widerspruch mit den vorhandenen Produktionsverhältnissen oder, was nur ein juristischer Ausdruck dafür ist, mit den Eigentumsverhältnissen, innerhalb deren sie sich bisher bewegt hatten. Aus Entwicklungsformen der Produktivkräfte schlagen diese Verhältnisse in Fesseln derselben um. Es tritt dann eine Epoche sozialer Revolution ein. Mit der Veränderung der ökonomischen Grundlage wälzt sich der ganze ungeheure Überbau langsamer oder rascher um. 


In der Betrachtung solcher Umwälzungen muß man stets unterscheiden zwischen der materiellen, naturwissenschaftlich treu zu konstatierenden Umwälzung in den ökonomischen Produktionsbedingungen und den juristischen, politischen, religiösen, künstlerischen oder philosophischen, kurz, ideologischen Formen, worin sich die Menschen dieses Konflikts bewußt werden und ihn ausfechten. Sowenig man das, was ein Individuum ist, nach dem beurteilt, was es sich selbst dünkt, ebensowenig kann man eine solche Umwälzungsepoche aus ihrem Bewußtsein beurteilen, sondern muß vielmehr dies Bewußtsein aus den Widersprüchen des materiellen Lebens, aus dem vorhandenen Konflikt zwischen gesellschaftlichen Produktivkräften und Produktionsverhältnissen erklären. 


Eine Gesellschaftsformation geht nie unter, bevor alle Produktivkräfte entwickelt sind, für die sie weit genug ist, und neue höhere Produktionsverhältnisse treten nie an die Stelle, bevor die materiellen Existenzbedingungen derselben im Schoß der alten Gesellschaft selbst ausgebrütet worden sind. Daher stellt sich die Menschheit immer nur Aufgaben, die sie lösen kann, denn genauer betrachtet wird sich stets finden, daß die Aufgabe selbst nur entspringt, wo die materiellen Bedingungen ihrer Lösung schon vorhanden oder wenigstens im Prozeß ihres Werdens begriffen sind. 


In großen Umrissen können asiatische, antike, feudale und modern bürgerliche Produktionsweisen als progressive Epochen der ökonomischen Gesellschaftsformation bezeichnet werden. Die bürgerlichen Produktionsverhältnisse sind die letzte antagonistische Form des gesellschaftlichen Produktionsprozesses, antagonistisch nicht im Sinn von individuellem Antagonismus, sondern eines aus den gesellschaftlichen Lebensbedingungen der Individuen hervorwachsenden Antagonismus, aber die im Schoß der bürgerlichen Gesellschaft sich entwickelnden Produktivkräfte schaffen zugleich die materiellen Bedingungen zur Lösung dieses Antagonismus. Mit dieser Gesellschaftsformation schließt daher die Vorgeschichte der menschlichen Gesellschaft ab.

Diese Skizze über den Gang meiner Studien im Gebiet der politischen Ökonomie soll nur beweisen, daß meine Ansichten, wie man sie immer beurteilen mag und wie wenig sie mit den interessierten Vorurteilen der herrschenden Klassen übereinstimmen, das Ergebnis gewissenhafter und langjähriger Forschung sind. Bei dem Eingang in die Wissenschaft aber, wie beim Eingang in die Hölle, muß die Forderung gestellt werden:

Qui si convien lasciare ogni sospetto
Ogni viltà convien che qui sia morta.

<Hier mußt du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.
(Dante, "Göttliche Komödie")>

London, im Januar 1859

経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

  ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。

  臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ*。

* ダンテ『神曲』


一八五九年一月

ロンドンにて   カール・マルクス

マルクス『経済学批判』序言(全)

http://archive.today/5RX3


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世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて

柄谷行人 2014年5月21日


以下、上記書より


第Ⅰ部 交換様式
1 「生産」から「交換」へ 

 史的唯物論への疑問

 資本とネーションと国家について考えるとき、私が参照したいのはマルクスです。というのは、マルクスだけがそれらに関して、包括的な把握を示したからです。しかし、すでに述べたように、そこには国家やネーションに関する認識上の欠落があります。たとえば、マルクスはつぎのように書いています。

わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。(『経済学批判』序言、武田隆夫ほか訳)  

 このような見方は、のちにエンゲルス以下のマルクス主義者によって「史的唯物論」と呼ばれています。ここで問題があるのは、国家を、文学や哲学その他と同じようなものであるかのように「上部構造」においたことです。しかし、国家が経済的な下部構造の上にある上部構造だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前においては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえないのです。
 たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、そもそも国家がなく、したがって、経済的な構造と政治的な構造の区別はありません。また、「東洋的国家」においても、国家装置(軍・官僚・警察機構など)は、経済的な意味での支配階級の上にあるものではない。皇帝・王とそれを支える官僚層全体が、まさに経済的な意味での支配階級なのです。

 「生産様式」がもたらす誤謬

 マルクスは「経済的社会構成体が進歩してゆく段階として、アジア的、〔古典〕古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる」と書いています(同前)。しかし、資本制以前の社会構成体においては、国家もいわば生産様式の一部です。つまり、そこでは経済的構造と政治的構造の区別がありません。にもかかわらず、「生産様式」という観点に立つと、まるでそのような区別があるかのように見えてしまいます。したがって、このような混乱を避け、資本制以前をふくめて社会構成体の歴史を普遍的に見るためには、「生産様式」という言い方をやめたほうがよいのです。
 マルクスは「経済学批判序説」で、個人と個人の間の商品交換からはじめるアダム・スミスに対して、それは近代社会での在り方を原始段階に投影することだと批判しました。だが、そうだとしたら、史的唯物論にも同じ誤謬があるといわねばならないでしょう。

 「生産様式」から「交換様式」へ

 マルクスが経済的な下部構造を重視したのは、人間をまず自然との関係において見るという観点をとったからです。そのために彼は、人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば、一定の生産関係の下で生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
 本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが、「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。
 たとえば、原始的氏族的生産様式という場合、それは狩猟採集というようなこと人間と自然の関係を指すのではありません。それは、生産物が互酬によって全員に配分されるような生産の様式人間と人間の関係を指します。であれば、それは生産様式というよりも、「交換様式」と呼ぶべきだと思います。
 その場合、交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。それは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。



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火曜日, 5月 27, 2014

フロイト「欲望転換、とくに肛門愛の欲望転換について」1916より

        (フロイトリンク::::::::::
フロイト「欲望転換、とくに肛門愛の欲望転換について」より
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_27.html:本頁
NAMs出版プロジェクト: フロイトの性図式 : 転載
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_24.html

フロイト「糞便は子供の最初の贈り物であり、子供の身体の一部である」
(「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」『エロス論集』中山元訳、ちくま学芸文庫382頁)



<正常な発達において糞便への関心が弱まると、ここで説明した器官の類似関係に基づいて、ぺニスに関心が移行する。子供がその後、性の問題を探究するようになると、赤子は腸から生まれると考えるようになるため、赤子が肛門愛の主要な部分を引き継ぐのである。しかし别の観点からみても、赤子の前身はぺニスである。
 ここで説明した糞便-ぺニス-赤子という系列は、非常に錯綜したものとなってしまったので、図解してこのの欠陥を補いたいと思う。図によって同じ資料を別の順序で考察することができる。しかしこの図解という技術的な手段は、われわれの意図を十分に示せるほど柔軟性の高いものではない。あるいは、これを適切な形で使用する方法をまだ学んでいないというべきかもしれない。上記の図に、あまり厳密さを求めないでいただきたい。

*(訳注)
「うんこ」というところには、「ある五歳児の恐怖症分析」でハンスが「 うんこ」を呼ぶために作った造語である Lumpf という語が使われている。

 肛門愛をナルシシズム的に利用すると、強情という性格が生まれる。これは他者からの求めに対する自我の重要な反応である。糞便に向けられた関心は贈り物への関心に、さらに金錢への関心に移行する。ぺニスが登場すると、少女ではぺニス羡望が生まれ、それは後にぺニスの所有者である男性への願望に転換される。その前にぺ二スへの願望は赤子への願望に転換しているか、この子供願望がぺニス願望の場所に登場している。ペニスと赤子の器官的な類似(点線)は、両方に共通するシンボル(「ちび」)を所有することによって生まれる。そして合理的な経路(複線)を通って、子供顧望から男性への願望へと
進む。…>(同384~6頁)




邦訳著作集5、389頁参照

 Sigmund Freud, “Über Triebumsetzungen, insbesondere der Analerotik” (1917,初出は1916?), in Sigmund Freud, Gesammelte Werke: Chronologisch Geordnet, eds. Anna Freud et al., vol. 10 (London: Imago,1946), pp. 401–410〔. フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」田中麻知子訳『フロイト著作集 5(』人文書院、1977年)、 385‒390 ページ〕



参考:
<実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残っているところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信においても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症 においても、貨幣は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去った後、糞に変わってし まうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧された無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのである。さらによく知られているのは、宝の発見を糞便と一緒にする迷信であり、また「ドゥカーテンシャイサー〔金貨をひり出す者〕」の像は誰にも親しまれているものである。>
Sigmund Freud, “Charakter und Analerotik” (1908), in Gesammelte Werke 7 (1955), pp. 203–209.〔ジークムント・フロイト「性格と肛門愛」懸田克躬・吉村博次訳、
『フロイト著作集 5』(人文書院、1969 年)、137 ページ〕。
原文を参照しながら、訳文に多少の改変を加えた。

追記:
フロイトは糞便を、のちのラカンはファロス(ペニスのギリシャ語)を強調するが、どちらも患者の自由連想に対して分析家としての自由連想で対抗しているのである。


1916,1917年?の論文でフロイトはルー・ザロメの以下の論考を参照している。

Lou Andreas-Salomé – »Anal« und »Sexual«.

Essay

Zeitschrift für Anwendung der Psychoanalyse auf die Geisteswissenschaften, Herausgegeben von Prof. Dr. Sigm. Freud, IV. Jahrgang, Heft V, 1915/1916, Hugo Heller & Cie, Leipzig und Wien, S. 249-273.

月曜日, 5月 26, 2014

「悟性」と「知性」(三枝博音「哲学に関する思索」1944より)


            ( カントリンク::::::::::) 

NAMs出版プロジェクト: 「悟性」と「知性」

http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_26.html?m=0:本頁

三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年(明治25)5月20日 - 1963年(昭和38)11月9日)

< 三 理性の内なる仮象(虚仮)の問題

「内懐虚仮(ないえこけ)~~内はうちといふ、こころの
うちに烦悩を具せるゆゑに虚なり。
虚はむなしくして実ならず、仮はかりにし
て真ならず」(『唯信鈔文意』*) 

 一

 近代において、理性について深く探るものカントとヘーゲルにしくものはない。カントのいう理性( Vernunft )における仮象(Schein )の問題を考えてみる場合、まず問題になるのは、いったい理性という語で Vernunft が、仮象という語で Schein がどのくらいまで言い表わされているかということである。カントの研究者の間では「理性」「悟性」「感性」などの訳語はー定したものとして用いられていること大正時代以来のことであるが、このように並んでいるこれらの訳語が、果してカント及びドイツにおける秀れたカント解釈者たちが理解したところのものにどのくらいまで近づいているのであろうかと、今更ながら常に疑われるのである。「悟性」の原語であるVerstand はverstehenと離して理解されるものでなく、Vernunft がその語意の中に stehen なる意味を少しももつものでなく、従ってそれのGegenstand への顧慮なくしてその意義を完うするのと異って、Verstand は Gegenstand へのたえざる関係あるものとしてでなくしては、その語義を完うするものではない。かようにそれぞれ本来の語義をもつ原(もと)の用語が日本語の「理性」「悟性」などの訳語となっては、カントが狙っている哲学的なものを他に伝えようとすることの、たとえ言語慣習上の不便にもとづくとはいえ、如何にも難しいことに考え及ぶのである。Vernunft におけるSchein の問題、これはカントの第一批判の解釈において最も肝要なものと思われるが、この問題を解こうとするとき、直ちに右の従来の訳語の不便至極を痛切に感ずるのである。しかし、このことは単にカント研究者の間の訳語上のー問題でなくて、今日では、日本において成り立つこれからの哲学の根本間題が当然その解決を迫るものと思う。私のこの一小論文はそうした根本問題の提説のー端にも触れる性質のものかと考える。
 私たちは Vernunftは「理性」、Verstand は「 知性 」と読んでゆくことにする。
 …>

(「哲学に関する思索」三枝博音著作集第一巻294頁1973年、初出は1944年より)

stehen=存立する(立つ、居る)
Gegenstand=対象(もの、品)


カント第一批判における訳語で「悟性」ではなく「知性」を採用する例は、光文社文庫、筑摩書房などで最近見られる。いち早く「知性」の使用を推奨していた三枝博音は日本におけるカント理解だけでなく、マルクス理解に関しても先駆的だった。例えば『資本論』におけるヘーゲル論理学からの影響を指摘したのは、宇野弘蔵より先である(『資本論の弁証法』著作集第一巻)。無論レーニンの指摘を三枝も宇野も展開しただけだが(**)。なお三枝はプルードンに批判的(第一巻448頁)。

「マルクスは『論理学』にかんする著書をこそ書き残さなかったけれども、『資本論』という論理学を残した。…(中略)…ヘーゲルのうちにあるすべての価値あるものをとり、そしてこの価値あるものをいっそう発展させた唯物論、このような唯物論の論理学、弁証法、および認識論(三つの言葉は必要でない。それらは同じものである)が、『資本論』のうちで、一つの科学に適用されている。」(レーニン『哲学ノート 下巻』、岩波文庫、pp.131-132)


『唯信鈔文意』
親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について 、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたもの。

【6】 ^*とくげん賢善けんぜんしょうじんそう」 (散善義) といふは、 あらはに、 かしこきすがた、 善人ぜんにんのかたちをあらはすことなかれ、 しょうじんなるすがたをしめすことなかれとなり。 そのゆゑは 「ない虚仮こけ」 なればなり。 ^ない」 はうちといふ。 こころのうちに煩悩ぼんのうせるゆゑになり、 なり。 ^」 はむなしくしてじつならぬなり。 ^」 はかりにしてしんならぬなり。 ^*このこころはかみにあらはせり。 この信心しんじんはまことのじょうのたねとなり、 みとなるべしと。 いつはらず、 へつらはず、 じっぽうのたねとなる信心しんじんなり。 ^しかれば、 われらは善人ぜんにんにもあらず、 賢人けんじんにもあらず。 賢人けんじんといふは、 かしこくよきひとなり。 しょうじんなるこころもなし、 だいのこころのみにして、 うちはむなしく、 いつはり、 かざり、 へつらふこころのみつねにして、 まことなるこころなきなりとしるべしとなり。


「不得外現賢善精進之相」といふは、 浄土をねがふひとは、 あらはに、 かしこきすがた、 善人のかたちをふるまはざれ、 精進なるすがたをしめすことなかれと也。 そのゆへは「内懐虚仮」なればなり。 「内」はうちといふ。 こゝろのうちに煩悩を具せるゆへに虚なり、 仮なり。 「虚」はむなしくして実ならず。 「仮」はかりにして真ならず。 しかれば、 いまこの世を如来の御のりに末法悪世とさだめたまへるゆへは、 一切有情まことのこゝろなくして、 師長を軽慢し、 父母に孝せず、 朋友に信なくして、 悪をのみこのむゆへに、 世間・出世みな「心口各異、 言念无実」なりとをしえたまへり。 「心口各異」といふは、 こゝろとくちにいふこと、 みなおのおのことなりと。 「言念無実」といふは、 ことばとこゝろのうちと実なしといふ也。 「実」はまことゝいふことばなり。 この世のひとは無実のこゝろのみにして、 浄土をねがふひとはいつわり、 へつらいのこゝろのみなりときこえたり。 世をすつるも名のこゝろ、 利のこゝろをさきとするゆへ也。 しかれば、 われらは善人にもあらず、 賢人にもあらず。 精進のこゝろもなし、 懈怠のこゝろのみにして、 うちはむなしく、 いつわり、 かざり、 へつらうこゝろのみつねにして、 まことなるこゝろなきみとしるべし。

^しんしゃくすべし」 (唯信鈔) といふは、 ことのありさまにしたがうて、 はからふべしといふことばなり。

「斟酌すべし」といふは、 ことのありさまにしたがふて、 はからふべしといふことばなり。


追記:
著作集第一巻で三枝はマルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言↓を論じている。

            <…‥わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生涯の社会的生産において、一定の、
必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸カの一定の発展段
階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっ
ており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、
一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのてはなくて、逆
に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(社会の物質的生産諸力は、その発展があ
る段階にたっすると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法
的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生涯諸力の発展諸形態
からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。)経済的基礎の変化に
つれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察
するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革
と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の
諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。(ある個人を
判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このよ
うな変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識
を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説
明しなければならないのである。[一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展
の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産
諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとって
かわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけであ
る、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条
件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生
するものだ、ということがつねにわかるであろうから。])大ざっぱにいって、経済的社会構成が進
歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげる
ことができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵
対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形
態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこ
の敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって。人間社
会の前史はおわりをつげるのである。>

(マルクス『経済学批判』岩波文庫13~15頁より。『世界史の構造』4-5頁参照)

柄谷は引用に際してカッコ内を省略したが、三枝は二番目のカッコ内の[ ]部分を「『資本論』の方法の真髄を語っているもの」(「資本論の弁証法」同280頁)として重要視する。


マルクスは『経済学批判』の序言で唯物史観を定式化し、これを自らの「導きの糸」と呼んでおり、その内容は以下である。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。

このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。

一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。

大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。


日曜日, 5月 25, 2014

「磯崎新 都市ソラリス」展 20140215

            (柄谷行人リンク::::::::::) 


「磯崎新 都市ソラリス」展 20140215

トークセッション テーマ「聖地捏造あるいはテーマパーク」

磯崎新,ゲスト:柄谷行人,福嶋亮大

http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215     前半
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215_2 後半(柄谷発言から始まる)*


柄谷行人が語るのは、毛沢東を話のマクラにした中国=帝国論である。



インタビューズ下より


 A:人類学、物々交換 

 B:政治、帝国主義 

 C:資本主義・市場経済批判 

 D:理念、アソシエーション 

  

 【基礎的資料】 

 ●世界史の教科書、年表、地図 

 【全般的な理論】 

 ●イマニュエル・ウォーラーステイン『入門・世界システム分析』(山下範久訳、藤原書店) 

 ●G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫) 

 ●S・フロイト『精神分析入門』(高橋義孝ほか訳、新潮文庫) 

 【交換様式”A”に関する本】 

 ●マルセル・モース『社会学と人類学』(有地亨ほか訳、弘文堂) 

 ●大塚久雄『共同体の基礎理論』(岩波現代文庫) 

 【交換様式”B”に関する本】 

 ●マックス・ウェーバー『支配の諸類型』(『経済と社会』第一部三・四章所収、世良晃志郎訳、創文社) 

 ●カール・シュミット『政治的なものの概念』(田中浩ほか訳、未來社) 

 ●カール・ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』(湯浅赳男訳、新評論) 

 【交換様式”C”に関する本】 

 ●カール・マルクス『資本論』(向坂逸郎訳、岩波文庫) 

 ●カール・ポランニー『人間の経済』(全二巻、玉野井芳郎ほか訳、岩波モダンクラシックス) 

 ●玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房) 

 【交換様式”D”に関する本】 

 ●カント『啓蒙とは何か』(篠田英雄訳、岩波文庫) 

 ●プルードン「連合の原理」(アナキズム叢書『プルードン3』、江口幹訳、三一書房) 

 【”運動”に関する本】 

 ●エリック・ホッファー『大衆運動』(高根正昭訳、紀伊國屋書店)

水曜日, 5月 21, 2014

中山元訳『資本論』:目次(第一部のみ、全四冊、日経)、付冒頭翻訳各種


                (マルクスリンク::::::::::

http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post_21.html:本頁


中山元訳『資本論』:目次(第一部のみ、全四冊、日経)


剰余価値と普通訳されるところを増殖価値と訳すなどの工夫がある。

以下に、その辺に関しての詳しい批評がある。
http://chikyuza.net/archives/23500


目 次

資本論 第1巻 1

第一版への序文 

 第1部 資本の生産過程 

 第1篇 商品と貨幣 

 第1章 商品  
  第1節 商品と二つの要素 使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)  
  第2節 商品に表現された労働の二重性  
  第3節 価値形態または交換価値    
   A 単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態     
    一 価値形態の二つの極ーー相対的価値形態と等価形態     
    二 相対的価値形態      
     a 相対的価値形態の内容       
     b 相対的価値形態の量的な規定性  
    三 等価形態     
    四 単純な価値形態の全貌 
    B 全体的な価値形態または展開された価値形態     
    一 展開された価値形態    
    二 特殊な等価形態   
    三 全体的な価値形態または展開された価値形態の欠陥  
   C 一般的な価値形態     
    一 価値形態の性格の変化     
    二 相対的価値形態と等価形態の発展関係     
    三 一般的価値形態から貨幣形態への移行   
   D 貨幣形態  
  第4節 商品のフェティッシュな性格とその秘密

  第2章 交換過程 

  第3章 貨幣または商品の流通  
  第1節 価値の尺度  
  第2節 流通手段   
   a 商品の変身   
   b 貨幣の流通   
   c 鋳貨、価値の記号  
  第3節 貨幣   
   a 貨幣の退蔵   
   b 支払手段   
   c 世界貨幣 

 第2篇 貨幣の資本への変容 
 第4章 貨幣の資本への変容    
  第1節 資本の一般的な形態   
  第2節 資本の一般形式の矛盾  
  第3節 労働力の購入と販売 

第二版のあとがき 
フランス語版の序文とあとがき 
第三版に寄せて 
英語版への序文 
第四版に寄せて 
訳者あとがき

資本論 第1巻 2

第3篇 絶対的増殖価値の生産  

 第5章 労働過程と価値の増殖過程   

  第1節 労働過程   
  第2節 価値の増殖過程     

 第6章 不変資本と可変資本  

 第7章 増殖価値率   

  第1節 労働力の搾取度   
  第2節 生産物の比例部分における生産物価値の表示   
  第3節 シーニョアの「最後の一時間」   
  第4節 増殖生産物     

 第8章 労働日   

  第1節 労働日の限界   
  第2節 増殖労働への渇望。工場主とボヤール   
  第3節 搾取を法的に制限しないイギリスの産業分野   
  第4節 昼間労働と夜間労働、交替制   
  第5節 標準労働日をめぐる闘争。 
一四世紀半ばから一七世紀末にいたる労働日延長のための強制法   
  第6節 標準労働日をめぐる闘争。強制的な法律による労働時間の制限。 
一八三三~一八六四年におけるイギリスの工場立法   
  第7節 標準労働日をめぐる闘争。イギリス工場法の他国への影響   
 
 第9章 増殖価値率と増殖価値量 

第4篇 相対的増殖価値の生産  

 第10章 相対的増殖価値という概念について    

 第11章 協業  

 第12章 分業とマニュファクチュア   

  第1節 マニュファクチュアの二重の起源   
  第2節 部分労働者とその道具   
  第3節 マニュファクチュアの二つの基本形態
ー異種的なマニュファクチュアと有機的なマニュファクチュア   
  第4節 マニュファクチュアの内部での分業、社会の内部の分業   
  第5節 マニュファクチュアの資本制的な性格    

http://ec.nikkeibp.co.jp/item/contents/mokuji/m_P48790.html


目 次

資本論 第1巻 3

●目次 
第4篇 相対的増殖価値の生産(承前)      

 第13章 機械類と大工業     
  第1節 機械類の発展     
  第2節 機械類から生産物への価値の移転     
  第3節 機械の操業が労働者に及ぼす直接の影響       
   a 資本による補助的な労働力の獲得。女性労働と子供の労働       
   b 労働日の延長         
   c 労働の強化     
  第4節 工場     
  第5節 労働者と機械のあいだの闘争     
  第6節 機械類によって駆逐された労働者の補償理論     
  第7節 機械経営の発展にともなう労働者の吸収と排除。木綿産業の恐慌     
  第8節 大工業によるマニュファクチュア、手工業、家内労働の革命       
   a 手工業と分業に依拠した協業の廃止       
   b 工場制度がマニュファクチュアと家内労働に遡及的に及ぼす影響       
   c 近代的なマニュファクチュア       
   d 近代的な家内工業       
   e 近代的マニュファクチュアと家内工業の大工業への移行。工場法がこれら
   の経営方式に適用されたことによる変革の促進     
  第9節 工場立法(保健条項と教育条項)、イギリスにおける普及     
  第10節 大工業と農業     

第5篇 絶対的増殖価値と相対的増殖価値の生産 

 第14章 絶対的増殖価値と相対的増殖価値 

 第15章 労働力価格と増殖価値の量的な変動      
  第1節 労働日の長さと労働の強度が不変量で(与えられた量)、労働の生産力
     が可変量である場合     
  第2節 労働日と労働生産力が不変で、労働の強度が可変である場合     
  第3節 労働の生産力と労働の強度が不変で、労働日が可変な場合      
  第4節 労働時間の長さ、労働の生産力、労働の強度が同時に変化する場合 

 第16章 増殖価値率のさまざまな定式 

第6篇 労働賃金      

 第17章 労働力の価値または価格の労働賃金への変容   
   
 第18章 時間給の賃金 
     
 第19章 出来高賃金    
  
 第20章 国による労働賃金の格差
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/contents/mokuji/m_P48800.html


目 次

資本論 第1巻 4

第7篇 資本の蓄積過程 

 第21章 単純再生産 

 第22章 増殖価値の資本への変容 
 第1節 拡大された規模での資本制的な生産過程。商品生産の所有法則の資本制的な取得法則への転換 
 第2節 拡大された規模の再生産についての経済学の誤謬 
 第3節 増殖価値の資本と収入への分割、節制理論 
 第4節 資本と収入への増殖価値の配分比率とは独立して、蓄積の規模を決定する諸要因。 労働力の搾取度、労働の生産力、投資された資本と消費された資本の差額の拡大、前払い資本の大きさ 
 第5節 いわゆる労働の原資 

 第23章 資本制的な蓄積の一般法則 
 第1節 蓄積にともなう労働力の需要の増加ーー資本の構成が一定の場合 
 第2節 蓄積とそれにともなう集積が進行する際に発生する可変資本部分の相対的な減少 
 第3節 相対的な過剰人口ないし産業予備軍の漸増的な生産 
 第4節 相対的な過剰人口のさまざまな存在形態。資本制的な蓄積の一般法則 
 第5節 資本制的な蓄積の一般法則の例示 
  a 一八四六~一八六六年のイギリス 
  b イギリスの産業労働者階級の低賃金層 
  c 移動民 
  d 恐慌が労働者階級のもっとも賃金の高い層に及ぼす影響 
  e イギリスの農業プロレタリアート 
  f アイルランド 

 第24章 いわゆる原初的な蓄積 

 第1節 原初的な蓄積の秘密 
 第2節 農村住民からの土地の奪取 
 第3節 土地を収奪された人々にたいする一五世紀末以降の血の立法。労働賃金を引き下げる法律 
 第4節 資本家的な借地農の誕生 
 第5節 農業革命が工業に及ぼした影響。産業資本のための国内市場の形成 
 第6節 産業資本家の誕生 
 第7節 資本制的な蓄積の歴史的な傾向 

 第25章 近代的な植民地理論
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/contents/mokuji/m_P48810.html

_______________


『資本論』冒頭翻訳各種:

 "Das Kapital" 
<Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.>
(1867年初版。MEW Bd. 23, S.49)

 "Le Capital" 

La richesse des sociétiés dans lesquelles règne le mode de production capitaliste s’annonce comme une 《immense accumulation de marchandises.》L’analyse de la marchandise, forme élémentaire de cette richesse, sera par consequent le point de départ de nos recherches.>
(1872年、J・ロア訳、マルクス自身の校閲によるフランス語訳)
http://monsieurk.exblog.jp/17300334/

 "Capital:Critique of Political Economy" 

<The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as “an immense accumulation of commodities,” its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity. >
1887年英語版

<資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は、一つの「厖大な商品集成」として現象し、個々の商品は、こうした富の原基形態として現象する。だから、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(昭和39年(1964)初版、長谷部文雄訳、河出書房新社、35頁)

<資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(向坂逸郎訳、岩波文庫全9巻 1969年 第一巻67頁)

<資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(平成3年(1972)第1刷、岡崎次郎訳、大月書店、国民文庫第一巻71頁。全集第23a巻47頁)

<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大なる商品集積」(マルクス『経済学批判』一八五九年)としてあらわれ、個々の商品は、その富の基本形態としてあらわれる。だからわれわれの研究は、商品の分析からはじまる。>
(鈴木鴻一郎訳、1973年、中公世界の名著43,98頁)

<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集積物(1)」として現われている。したがって、この富の要素形態である商品の分析は、われわれの研究の出発点である。

  (1)カール,マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、三ぺージ。>
(江夏美知千穂/上杉聰彦訳、法政大学出版『フランス語版資本論上』、1979年、3頁)

<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。>
(平井規之訳、新日本出版社、1982年、第一巻59頁、新書全13巻)

<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。>
(今村仁司、三島憲一、鈴木直訳『マルクス・コレクション Ⅳ 資本論 第一巻(上)』筑摩書房、2005年)

資本主義的生産様式が支配している社会的富は、「巨大な商品のかたまり」として現れ、この富を構成している
のがこの商品である。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。
(超訳、祥伝社2008年)

<資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり」として現れ、ここの商品はその要素形態として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。>
(中山元訳、日経、第一部全4巻第一巻27頁、2011年)


<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は,《一つの巨魔的な商品集合》として(als eine ,,ungeheure Warensammlung’’)現われ,個々の商品はその富の要素形態として(als seine Elementarform)現われる。したがって,われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」2012年より。pdf公開されているこの論文で内田は集合-要素の対概念が大事だと強調する。その観点から新日本出版社訳が推奨される。法政、筑摩、日経訳もこれにあてはまるだろう。)

新日本出版社、新書
岩波文庫
大月国民文庫
河出書房新社
筑摩(1のみ)
日経(1のみ)
超訳祥伝社(要約)



<資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『尨大なる商品集積』(一)として現はれ、個々の商品(1)はその成素形態として現はれる。故に我々の研究は、商品の分析を以つて始まる。

(一)拙著『経済学批判』(ベルリン、一八五九年刊、第四頁)(2)。>

(高畠素之訳、1925年大正14年、新潮社、のちに改造社他)

http://awatasan.web.fc2.com/kansoku/kyuuban/capital/01_01.html




マルクスと集合論に関してはトラクリの価値形態に関する考察を参照(定本310頁)。
その柄谷の考察によって、初版にあった集合論的矛盾の記述は以降削除されたことがわかる。
マルクスはgoldによって集合論的矛盾を回避していると思う。

<それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他のすべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個別的化身が存在しているようなものである>
(定本トラクリ318頁。岡崎次郎訳『資本論 第1巻初版』、大月書店 (国民文庫)、1976 年。27頁)

http://fourier.ec.kagawa-u.ac.jp/~kosuke/ideology.pdf


             G
      D:  ◎ 貨幣形態
          ◯ 
      C: /| 一般的価値形態
        ☆☆☆  
        ☆☆☆     
      B:|/  拡大された価値形態
        ◯ 
  形態一、A:◯=☆ 単純な価値形態
(相対的価値形態 = 等価形態)

価値形態論とゲーデルの不完全性定理を比べるとよくわかるが、マルクスはゲーデルの半分しか叙述していない。不完全性定理においてゲーデル数が王権を得たまま固定することはあり得ない。これは時間というものを自らの歴史観に無意識に依拠しつつ扱ったマルクスの不備に起因する。価値形態A~Dは全て同時に存在し得るというのがゲーデルからマルクスへの答えである。

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電子書籍版、河出書房新社世界の大思想はyahooブックスでも割安ででているはずだが、
アプリが不十分、ダウンロード不可?で推奨出来ない。やはり(誤植は多いようだが)ibooksを推奨する。大月のon lineは検索機能だけでも画期的。ただコピペは出来ない。
CamScannerHD等scanアプリを使う手もあるが、、、、