土曜日, 4月 23, 2016

『憲法の無意識』柄谷行人 201604 岩波新書:メモ改定版

             (柄谷行人法論カントマルクスフロイトリンク:::::::::
NAMs出版プロジェクト: 『憲法の無意識』柄谷行人 201604 岩波新書
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/201604.html


憲法の無意識 (岩波新書)2016/4/21 柄谷 行人

内容紹介
なぜ戦後70年を経てもなお改憲は実現しないのか。なぜ九条は実行されていないのに残されているのか。改憲、護憲の議論が見逃しているものは何か。糸口は「無意識」である。
日本人の歴史的・集団的無意識に分け入り、「戦争の末の」平和ではない、世界平和への道筋を示す。デモで社会を変え、国際社会に九条を贈与しよう。「憲法の無意識」が政治の危機に立ち現れる。

http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-431600
憲法の無意識 (岩波新書): 柄谷 行人: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4004316006/  
■新赤版 1600
■体裁=新書判・並製・208頁
■定価(本体 760円 + 税)
■2016年4月20日
■ISBN978-4-00-431600-8 C0230

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1604/sin_k883.html
憲法の無意識
柄谷行人著
■目次
I 章
憲法の意識から無意識へ 1
1 憲法と無意識 2
2 第1次大戦とフロイト 9
3 天皇制と戦争放棄 16
4 無意識と世論調査 28

II 章
憲法の先行形態 35
1 憲法1条と9条 36
2 建築の先行形態 45
3 元老支配から天皇機関説へ 53
4 戦後憲法の先行形態 60
5 「戦後」としての徳川体制 65

III 章
カントの平和論 81
1 中江兆民と北村透谷 82
2 ヘーゲルによるカント平和論の批判 92
3 『普遍史』と『永遠平和』101
4 カントとマルクス 105
5 カントとフロイト 109
6 贈与の力 118

IV 章
新自由主義と戦争 135
1 反復するカントの平和論 136
2 交換様式から見た帝国主義 140
3 資本蓄積の3形式 147
4 ヘゲモニー国家の経済政策 152
5 ヘゲモニー国家の交替 158
6 自由主義と新自由主義 163
7 歴史と反復 173
8 将来の展望 180
 あとがき 185
第1章 憲法の意識から無意識へ
第2章 憲法の先行形態
第3章 カントの平和論
第4章 新自由主義と戦争


それぞれ初出は、

1韓国延世大学・「平和」国際会議2015年
2たんぽぽ舎・長池講義合同講演2015年
3日本カント協会創立三十周年記念講演2006年
4岩波書店百周年記念講演2014(○2013)年

本来の発表順序は、

3日本カント協会創立三十周年記念講演2006年(原題「カントとフロイト」)
4岩波書店百周年記念講演2014年(○2013年11月)(原題「資本主義に安楽死はない」)
(知の現在と未来――岩波書店創業百年記念シンポジウム 単行本 – 2014/8/29所収)
1韓国延世大学・「平和」国際会議2015年6月
2たんぽぽ舎・長池講義合同講演2015年11月(原題「日本の憲法──先行形態から見る」憲法1条と9条の謎を、戦後憲法及び明治憲法の形成過程から解き明かす

1は「反復強迫としての平和」(岩波「世界」2015年6月号)として発表されたものを元にしている。
さらに、3(3:2~5)は「カントにおける平和と革命」↓(「思想の言葉」「思想」2015年 第12号)を原型の一つとする。
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html

フロイト、カントからの引用がやはり目立つものの、さらに日本近現代史邦文資料面での加筆多数。

1フロイト2江戸3カント4マルクスが各主役。執筆順は3412だから3カントから(4マルクスの循環的読み替えを経て)1フロイトへの道。2江戸は臨床例。

ユーモアとしての無意識:

 一般に膾炙される柄谷の現状認識は、ドイツの場合は二度戦争に負けたから平和主義が行き渡っていて、日本の場合は一度負けただけだからもう一度(「戦争の末」に)負けなければ9条の意義が一般には理解されないだろう、というものだ。しかし、本書ではそうしたイロニーは後退し、啓蒙的なわかりやすい本になっている。初出発表順は3412で、その順に読むと柄谷の関心の変化がわかる(改訂加筆が多数ある)。一般的な意味で面白いのはアクチュアルな二つの最初の論考1,2だろう。自分はマルクスに依拠しつつもそこから逸脱する宇野弘蔵及びウォーラーステイン関連の4が興味深かった。ただ、本書はフロイト/カント/マルクスの名は出さなくともスピノザだけで論述できると思う(一箇所156頁にスピノザの名が出てくる)。ヘゲモニー国家オランダを背景にしたスピノザの思想を展開すれば、次の覇権国家争いというものが内在的に解消するのではないかということだ(『帝国の構造』で重視されたのはライプニッツだが)。アメリカの没落、インドの台頭は、中国を暴走させ、最悪の戦争を招く恐れがあるが、本書はそれを止めようとしている。憲法9条は多大な犠牲を払って得た財産で、そこに必要なのはフロイト的ユーモアでイロニーは必要ないと著者は感じているようだ(憲法制約説も言及されていない)。過去に書いた自己の内村鑑三論を振り返ったあとがきも興味深い。
『世界史の構造』の主知的な部分で構成された『世界共和国へ』(ニーチェによる人類史の抱える無意識への洞察が参照されていたが)とセットで読むべきだろう。

長池講義
http://web.nagaike-lecture.com/

1.
第1章 憲法の意識から無意識へ


NAMs出版プロジェクト: 「反復強迫としての平和」柄谷行人:メモ(フロイトの戦争論)岩波「世界」201506
http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/blog-post_16.html?m=0

6頁:
一九四六年憲法-その拘束―その他 (文春文庫)文庫 – 1995/1/10 江藤 淳  (著)1980年単行本初版

9頁:
フロイト〈1〉 単行本 – 1997/9 ピーター ゲイ (著)

9~10頁:
フロイト 「戦争と死に関する時評」(初出1915 『フロイト全集14』岩波書店 2010) 
《今次の戦争においては、きわめて優秀な世界市民たちがまるで魔法にでもかかったかのように、論理的に思考できなくなってしまったのであるが、これも二次的な現象であり、感情の動きの結果なのである。こうした感情の動きが姿を消せば、この思考不能の状態も消滅することを期待しよう。》
別訳中山元版

10頁:
フロイト 「戦争と死に関する時評」(初出1915 『フロイト全集14』岩波書店 2010) 
以下別訳中山元版
《戦争によってわたしたちのうちで後代に形成された文化的な層が剝ぎとられ、中に潜んでいた原始人がふたたび前面に登場するのである。戦争においてわたしたちはふたたび、自分が死ぬことを信じない英雄となることを強強いられる。見知らぬ者を敵とみなし、敵を死にいたらしめ、敵の死を願わせるのである。》


10~11頁:
フロイト 「戦争と死についての時評」(初出1915 『フロイト全集14』岩波書店 2010)
http://blogs.yahoo.co.jp/fktouc18411906/10296956.html
  《しかし戦争が廃止されることはないだろう。諸民族の生存条件がこれほどまでに多様であり、諸民族の間の反発がこれほどまでに激しいものである限り、戦争 は存在せざるを得ないだろう。そこで次のような疑問が生ずる。われわれは、膝を屈して戦争に適応するような存在であってはならないのか。われわれは、認め るべきではないだろうか。死に対する文明的な考え方によって、われわれは、心理学的にはむしろ分不相応に生きてきたのだ、と。おそらくわれわれは、改心し て、真実を告白すべきなのだ。》(9~10)
 (フロイト全集14,165ページ)

13頁:
《反復強迫の仮定を正当化するものは十二分に残されているし、反復強迫はわれわれには、それによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的で基本的で、欲動的なものとして、現れてくる》
フロイト『快原理の彼岸』(『フロイト全集17』岩波書店74頁

14頁:
フロイト講義“死の欲動”を読む 単行本 – 2012/6 小林 敏明 (著)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012072900019.html 

14(8)頁:
『夢判断』1900年、フロイト「自我とエス」1923年
15頁:
フロイト『文化の中の居心地悪さ』1930年

19頁:
《人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる
と考えがちである。し かし、それでは、倫理性の由来が不明なままである。実際
には、その反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によ
って強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心
というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである》
(「マゾヒズムの経済的問題」)1924年『フロイト全集18』岩波)。本来は2で引用。

22(25~6)頁:
マッカーサー回想記 (1964年) - , 1964 津島 一夫 (翻訳) 
マッカーサー大戦回顧録 (中公文庫) 文庫 – 2014/7/23 ダグラス・マッカーサー (著), 津島 一夫 (翻訳)


24~5頁:
昭和天皇の戦後日本 ――〈憲法・安保体制〉にいたる道 単行本 – 2015/7/29 豊下 楢彦  (著)

25~6(22)頁:
マッカーサー回想記 (1964年) - , 1964 津島 一夫 (翻訳) 
マッカーサー大戦回顧録 (中公文庫) 文庫 – 2014/7/23 ダグラス・マッカーサー (著), 津島 一夫 (翻訳) 

26-7頁:
米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あおの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるようである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。
 第二に、国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い。
吉田茂『回想十年』(第二巻(旧中公文庫〈2〉182頁)に含まれている、「第十三章 私の再軍備観」から「一、私は何故再軍備に反対か」。毎日ワンズ新版にはない)

29~30頁:
世論調査とは何だろうか (岩波新書) 新書 – 2015/5/21 岩本 裕 (著)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015070500003.html

2.
第2章 憲法の先行形態


NAMs出版プロジェクト: 20151116 柄谷行人 長池講義 KARATANI Kojin:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/20151116-karatani-kojin_17.html

37頁:
昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) Kindle版 豊下 楢彦  (著)  2008
http://www.amazon.co.jp/dp/B0183IMPJE/

38頁:同

41頁:
明仁天皇と平和主義 (朝日新書) 新書 – 2015/7/13 斉藤利彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4022736267/

46頁:
『セヴェラルネス』中谷礼仁(「先行形態論」)
計画道路は見事にその古墳を避けて通っていた。つまり過去の事物は、規模の大小にかかわらずこのよう にして、ことさら意識もされないうちに、現在に強大な影響を与えている。過去に作られたものとはいえ、そこにある限り、それは現在的なものとして扱わざる を得ないのではないか、と考えたのである。過去は「あった」のではなくて「いる」。むしろ現在は過去からの投影によって成り立っている。かつてあって今は存在しないと思われるものが、実は現在のあり方を規定しており、その意味で今も存在している。

柄谷行人は、中谷礼仁「先行形態論」所収として2015長池講義で赤字部分を引用したが、同論(『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』鹿島出版会2011増補版)にはない。 特に最後の文はWEBにあるバージョンにも無い。

47頁:
《先行形態は、現在の都市に影響を与え、実際に都市の変容を無意識のうちに支えるのである。というのも、もし先行形態が意識的にしか受け継がれないのであるとすれば、……とっくに過去における都市・都市痕跡跡は消え去っているのであろうからである。しかし先行形態は、ほとんどその形態を宿命的に現在にまで温存させる。》


51頁:
ゲオルク・イェリネック、または、ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek、1851 -1911)は19世紀ドイツを代表する公法学者。その立場は法実証主義に連なるものとされているが、法の存在条件を社会的事実に求める英米的法実証主義とは異なる大陸系法実証主義に分類される。…1900年に刊行した『Allgemeine Staatslehre』(邦題『一般国家学』)は日本の天皇制限主権論(いわゆる天皇機関説)にも影響を与えている。

Allgemeine Staatslehre 
『一般國家學』、大西邦敏・水垣進譯、敬文堂書店, 1932 
『一般国家学』、芦部信喜ほか訳、学陽書房, 1974 

52頁:
ハンス・ケルゼン

55頁:
《伊藤の構想は、君主権力を制限して、天皇を「立憲君主」にしようとするものであった。換言すれば、天皇と議会政治とを可能なかぎり分離し、総理大臣すなわち 内閣を中心とした政治システムを構築することによって、「政治」の自立的な空間を作り出そうとするものであった。》#4:205
伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入 (講談社学術文庫) Kindle版
坂本一登  (著)1992,2012

55~6:
シュタイン
(参考:シュタイン、伊藤博文、国家有機体説:メモ http://nam-students.blogspot.jp/2015/02/blog-post_5.html

57頁:
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』
 
62頁:
天皇制史論―本質・起源・展開 単行本 – 2006/10/27 水林 彪  (著)

64頁:
後醍醐天皇

65頁:
紫式部『源氏物語』、宣長

66頁:
北畠親房『神皇正統記』
著作著者名のみ

68頁:
神島二郎「非武装主義一その伝統と現実性」「世界」1980年7月
磁場の政治学―政治を動かすもの (1982年) 単行本 – 古書, 1982/11/24 神島 二郎 (著) 岩波書店再録

70頁:
島崎藤村『夜明け前』

75頁:
新渡戸稲造『武士道』

76頁:
与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

3.
第3章 カントの平和論


84頁:
憲法9条の思想水脈 (朝日選書823) 単行本 – 2007/6/20山室 信一  (著)

85頁:
三酔人経綸問答 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
中江 兆民 (著), 鶴ヶ谷 真一 (翻訳)

85~6頁:
サン・ピエール『永久平和論』1713年

87~8頁:
 《吾人が斯く言へば、世の通人的政治家は必ず得々として言はん、其れは十五年以前の陳腐なる民権論なりと、欧米諸国には盛に帝国主義の行はれつつある今日、猶お民権論を担ぎ出すとは、世界の風潮に通ぜざる、流行遅れの理論なりと。──然り是れ理論としては陳腐なるも実行としては新鮮なり、箇程の明瞭なる理論は欧米諸国には数十百年の昔より実行せられて、すなわち彼国に於は陳腐となり了はりたるも、我国に於ては僅かに理論として民間より萌出でしも、藩閥元老と、利己的政党家とに揉み潰されて、理論のままに消滅せし故に、言辞としては極めて陳腐なるも、実行としては新鮮なり、夫れ其実行として新鮮なるものが、理論として陳腐なるは果たして誰の罪なるか》(兆民『一年有半』)
中江兆民『一年有半附録』全集13岩波
明治33年10月「考えざるべからず」(松永昌三編『中江兆 民評論集』、岩波文庫より)

89頁:
北村透谷 一種の攘夷思想
http://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/46582_29498.html
幽玄なる哲学者カントが始めて万国仲裁の事を唱へてより、漸く欧洲の思想家、宗教家、政治家等をして、実際に平和の仲裁法の行はるべきを確信せしめたり。…
『平和』第三号1892年

90~1頁:
内村鑑三「戦争廃止論」
http://green.ap.teacup.com/lifework/524.html
 近くはその実例を、二十七、八年の日清戦争において見ることができる。二億の富と一万の生命を消費して、日本国がこの戦争から得たものは何であるか。わずかばかりの名誉と、伊藤博文伯が侯となって、彼の妻妾を増したことの他に、日本国はこの戦争から何の利益を得たか。

その目的であった朝鮮の独立は、日清戦争によって強められずに、反って弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、その道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆(きたい)の地位にまで持ち来たったではないか。

この大害毒、大損耗を目前に見ながら、なおも開戦論を主張するようなことは、正気の沙汰とはとても思えない。

http://www.interq.or.jp/kanto/just/ronten/senso_haisi.html

《近くは其実例を二十七八年の日清戦争に於て見ることが出来る、二億の富と一万の
生命を消費して日本国が此戦争より得しものは何である乎、僅少の名誉と伊藤博文
伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることの外に日本国は此戦争より何の利益を
得たか、其目的たりし朝鮮の独立は之がために強められずして却て弱められ、支那
分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、其道徳は非常に堕落し、
東洋全体を危殆の地位にまで持ち来つたではない乎、此大害毒大損耗を目前に視な
がら尚ほも開戦論を主張するが如きは正気の沙汰とは迚も思はれない。》

勿論サーベルが政権を握る今日の日本に於て余の戦争廃止論が直に行はれやうとは
余と雖も望まない、然しながら戦争廃止論は今や文明国の識者の輿論となりつゝあ
る、爾うして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、
余は不肖なりと雖も今の時に方て此声を揚げて一人なりとも多くの賛成者を此大慈
善主義のために得たく欲ふ、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来て大胆に此
主義に賛成せよ。
                  〈万朝報・明治36年6月30日〉1903年
93~4頁: 
第二章 第二確定条項
この連合が求めるのは、なんらかの国家権力を手に入れることではなくて、もっぱらある国家そのもののための自由と、それと連合したほかの諸国家の自由とを維持し、保障することであって、しかも諸国家はそれだからといって、(自然状態にある人間のように)公法や公法の下での強制に服従する必要はないのである。連合制度は次第にすべての国家の上に拡がり、そうして永遠平和へと導くことになろうが、連合制度のこうした理念の実現可能性(客観的実在性)は、おのずから証明されるのである。なぜなら、もし幸運にもある強力で啓蒙された民族が一共和国(共和国は、その本性上、必然的に永遠平和を好むが)を形成することができたら、この共和国がほかの諸国家に対して連合的結合のかなめの役をはたすからで、その結果諸国家はこの結合に加盟し、こうして諸国家の自由な状態は国際法の理念に即して保障され、連合はこの種の多くの結合を通じて次第に遠くにまで拡がっていくのである。》
(カント『永遠平和について』岩波文庫より)

95頁:
フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』

96~7頁:
ヘーゲル『法権利の哲学』#333未知谷
以下中公版別訳
《国家間には法務官は存在せず、たかだか仲裁者や調停者がいるだけであり、これらの者といえどもただ偶然に、すなわち特殊的意志のままに存在するだけである。カントは国家連合による永久平和を思いえがいた。彼は国家連合が、あらゆる争いを仲裁してくれ、各個別国家によって承認された威力として、あらゆる軋轢を調停してくれ、したがって戦争による解決を不可能にしてくれるだろうと考えた。しかし、この考えが前提としている諸国家の同意は、道徳的、宗教的な根拠や考慮に基づくにせよ、あるいはどんな根拠や考慮に基づくにせよ、なんといっても所詮は、特殊的な主権的意志に基づくものであろうし、そのためどこまでも偶然性にまとわれたものあろう。》原注なし
国際法、国際公法、対外法

102頁:
ルソー「永久平和論批判」ルソー全集第4巻
http://85666808.at.webry.info/201504/article_14.html
「…さまざまな革命による以外に国家連合同盟が設立されることはまったくありえないのだ。…」「永久平和論批判」p364

103頁:
《完全な市民的体制を達成するという問題は合法則的な対外的国家関係という問題に左右されるので、この後者の問題を別にして解決されるものではない》(カント『普遍史』第七命題)。

106頁:
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html(別訳)
http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20100309
《共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは生産諸力の全般的な発展およびそれと連関する世界交通を前提としている》
(マルクス『ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、岩波文庫)廣松の名は未出

110頁:(131頁:)
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html
《自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざる をえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗 させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込 むのである。》
(カント全集14『世界市民的見地における普遍史の理念』もしくは『普遍史』一七八四年,第七命題)。

116~7頁:
http://shigemoto.blog105.fc2.com/blog-entry-220.html
あと二つの点について...知性の声はか細い。しかしこの声は誰かに聞き取られえるまでは止むことがない。...無限の彼方にあるのではないようだ。
(フロイト「ある錯覚の未来」全集20-61)

ここでは次の二つの点を指摘しておくにとどめたい。第一に、わたしの見解の根拠の弱さが、反論する側の根拠の正しさを強めるわけではないということだ。反 論する側は、すでに失われたものを弁護している。たしかにわたしたちは、人間の知性の力は、欲動の生の力と比較すると弱いものだと、繰り返し強調してきた し、それは正しい主張なのである。しかしこの知性の〈弱さ〉には、ある特別な要素があるのだ。知性の声はか細いが、聞きとどけられるまでは、黙すことはないのである。繰り返して拒否されても、やがて聞きとどけられるものなのだ。そこに人類の将来について楽観できる数少ない理由の一つがある。 
  これは取るに足らぬ根拠ではない。そこにはもっと別の期待を寄せることができるからだ。知性の優位が実現するのは、はるか遠い未来のことかもしれないが、 無限に遠い先のことではないだろう。そしてこの知性の優位が目的とするのは、キリスト教の神に期待するものと異なるものではないのである──もちろん宗教 的にではなく、人間にふさわしい形で、外的な現実が、運命が許すかぎりにおいてということだが。
 (フロイト『幻想の未来』(1927)中山元訳、別訳)

117頁:
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html 2015.12
《文化的な態度と、将来の戦争が及ぼす影響に対する当然の不安、これら二つの契機が働いて、近いうちに戦争遂 行に終止符が打たれるであろうというのは、ひょっとすれば単にユートピア的な希望ではないかもしれません。どのような道を経て、あるいは回り道を経てそれ が実現するのかは、私たちは推し量ることができません。にもかかわらず、文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだといえます。》 
(フロイト「戦争はなぜに」、『フロイト全集20』岩波書店

118頁:(3:6)
ジョー・ルイスの逸話127頁:『ハムラビ法典』

130頁:商業、カント永遠平和
  第一補説    永遠平和の保証について
 この保証を与えるのは、偉大な技巧家である自然(諸物の巧みな造り手である自然natura daedala rerum*)にほかならない。…
3… 《商業精神は、戦争とは両立できないが、おそかれ早かれあらゆる民族を支配するようになるのは、この商業精神である。つまり国家権力の下にあるあらゆる力 (手段)のなかで、金力こそはもっとも信頼できる力であろうから、そこで諸国家は、自分自身が(もとより道徳性の動機によるのではないが)高貴な平和を促 進するように強いられ、また世界のどこででも戦争が勃発する恐れがあるときは、あたかもそのために恒久的な連合が結ばれているかのように、調停によって戦 争を防止するように強いられている、と考えるのである。実際、戦争にむけての大合同は、事柄の本性から見てきわめてまれにしか生じないし、それが成功する のはさらにまれだからである。このような仕方で、自然は人間の傾向そのものにそなわる機構を通じて、永遠平和を保証する。なるほどこの保証は、永遠平和の 到来を(理論的に)予言するのに十分な確実さはもたないけれども、しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この(たんに空想的ではない)目的にむかって 努力することをわれわれに義務づけるのである。》(カント『永遠平和について』第一補説 3「永遠平和の保証について」岩波文庫より)

131頁:
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html
《自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざる をえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗 させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込 むのである。ここで国家はすべて、最小の国家でさえも、自国の軍隊や自国の法律上の判決からではなく、もっぱらこの大きな国際連盟(アンフィクチオン同盟 Foedus Amphictyonum)すなわち統一された権力と統一された意志の法に則った決断から、自国の安全と権利を期待することができる。》(カント全集14 『世界市民的見地における普遍史の理念』もしくは『普遍史』一七八四年,第七命題)。

4.
第4章 新自由主義と戦争


2013年11月23日 知の現在と未来:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/20131123.html

139頁:
モーゲンソー『国際政治』

141頁:
世界システムの諸段階(一部改変):

    世界=帝国   | ミニ世界システム
     (B)    |    (A)    
 ___________|__________
    世界=経済   |    
 (近代世界システム) |   世界共和国
     (C)    |    (D)    


142頁:
NAMs出版プロジェクト: 世界資本主義の諸段階(資本主義の世界史的諸段階):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_11.html 図

資本主義の世界史的諸段階(柄谷行人『世界史の構造』412頁、2013年11月23日講演レジュメより)、
世界資本主義(近代世界システム)の歴史的段階 142頁より一部改変(対抗運動と宇野経済学を追加):
__________________________________________
      |1750〜 |1810〜 |1870〜 |1930〜 |1990〜 
      |1810  |1870  |1930  |1990  |      
______|______|______|______|______|_______
①世界資本主|帝国主義的 |自由主義的 \帝国主義的 |自由主義的 \帝国主義的 
主義の段階_|______|_______\_____|_______\_____循
②覇権国家 |      |    イギリス     |    アメリカ     
______|______|_____________|_____________環
 対抗運動 |分散的   |集積的   \分散的   |集積的   \分散的   
______|______|__1848_\_____|__1968_\______
③マルクス主|  重商主義|自由主義  |帝国主義  |後期資本主義|新自由主義 
義的な段階論|______|______|______|______|______リ
④資本   |商人資本  |産業資本  |金融資本  |国家独占資本|多国籍資本 
______|______|______|______|______|______
⑤世界商品 |繊維産業  |軽工業   |      |耐久消費財 |情報    ニ
  と   |(マニュファ|(機械生産)|重工業   |(フォーディ|(ポスト・フォ
(生産形態)| クチャー)|      |      | ズム   |ーディズム) 
______|______|______|______|______|______ア
⑥国家   |絶対主義王権|国民国家  |帝国主義国家|福祉国家  |地域主義  
______|______|______|______|______|______
 宇野経済学|        段階論        ☆|     現状分析
                          ロシア革命
                          国際連盟
*追記 1750年以前は、①は「自由主義的段階」、②はオランダ、⑥は共和政である。

143:
ネグリおよびハート『帝国』

144~6,148,157:
マルクス『資本論』

145:
アダム・スミス『国富論』

145:
リカード『経済学および課税の原理』

148:
ホブソン、ヒルファーディング、カウツキー、レーニン

147頁:
幸徳秋水『二◯世紀の怪物 帝国主義』

148:
ホブソン、ヒルファーディング

150頁:
http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/note/note1-8.htm
     ……資本の所有と資本の生産への投下と分離、貨幣資本と産業資本あるいは生産的資本との分離、貨幣資本からの収益だけで生活する金利生活者と、企業家および資本の運用に直接たずさわるすべての人々との分離―これは資本主義一般に固有のこと。帝国主義とは、あるいは金融資本の支配とは、このような分離(貨幣資本と産業資本の分離)が著しい規模に達する、資本主義の最高段階である。他の全ての形態の資本にたいする金融し本の優越は、金利生活者と金融寡頭制の支配を意味し、金融上の「力」を持つ少数の国家がその他の全ての国家から傑出することを意味する。……(p274)
レーニン『帝国主義』

152~4:
宇野弘蔵

153頁:
資本主義発展の段階論―欧米における宇野理論の一展開 単行本 – 1995/10 ロバート アルブリ(xッ)トン (著), Robert Albritton (原著), 山本 哲三 (翻訳)
(著者名のみ)

155:
コンドラチェフ

156:
デカルト、ロック、スピノザ

159頁:
http://homepage2.nifty.com/dreirot/kether/030620.html
……特定の中核国が、同時に生産・商業・金融の三次元すべてにおいて、あらゆる中核諸国に対して優位を保っているような状態はほんの短い期間でしかありえないことになる。この一瞬だけ頂点にある国の状態こそが、ここでいうヘゲモニーである。オランダすなわちネーデルラント連邦の場合、その時期は、一六二五年から一六七五年にかけてであったと思われる。(II, 46)
(ウォーラーステイン『近代世界システムII 』)

167頁:
《ヨーロッパ自体においては、ブルジョアジーの政治的解放が帝国主義時代の国内政治上の中心的出来事だった。それまではブルジョアジーは経済的には支配的地位にあったものの、政治的支配を狙ったことは一度もなかった》
(アーレント『全体主義の起源』第二巻)

168頁:
デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義―その歴史的展開と現在』(「中国的特色を持った新自由主義」という言葉を引用)憲法168頁

173頁:
サルトル、デリダ

あとがき

188~頁:
柄谷行人「自主的憲法について」『〈戦前〉の思考』
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/1c2855e3613610e2f3f6aacfc78e025f
 しかし、《外発的な強制があったがゆえに、且つそれに対する抵抗があったがゆえに、彼の信仰は、たんなる「自発性」とは違って、確固たるものとなったのです。もしそれが自発的な意志によるならば、先輩たち、あるいはのちに内村のところに来た人たちのように、いつの間にか熱烈な信仰も冷めて去ってしまうことになったでしょう。…》

189~192,193頁:
《憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の[恒久平和の]理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてではないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。(…)日本人は
そのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を作っていたなら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。(…)しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、日本が独立し、簡単に変えることができたにも
かかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ(…)こんな条項はとうに廃棄されているはずです。》(柄谷行人『<戦前>の思考』講談社学術文庫、2001、p.205-206)


42
31
Nの逆順

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以下の書評も関連し得る。

文化進化論―ダーウィン進化論は文化を説明できるか 
[著]アレックス・メスーディ - 柄谷行人(哲学者) -書評
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016041000004.html

 たとえば、経済学では人間が利己的であることが前提とされている。それによって、
経済現象は数量的に扱われることができる。一方、そのような見方を疑う者は文学的・
宗教的であり、科学的でないとみなされる。しかし、実は、人間は案外、利他的なのだ。
歴史的に、利己的なものを追求する集団・文化に対して、利他的な集団・文化が勝ち残っ
てきたのである。「文化進化論」は、そのことを実験可能なかたちで示すことができる。
それはこれまでの文化的/自然科学的という区分の不毛さを示す。その意味で、これは、
さまざまな領域の文化科学を統一的に把握しようとする新たな企てなのである。

____

安倍首相の祖父追従擁護は父殺しでもあるからフロイトはやはり有効だ。
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思想 2015年第12号
思想の言葉 より
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html
カントにおける平和と革命
柄谷行人

  カントが平和に関して述べたのは、『永遠平和のために』(以後『永遠平和』一七九五年)が最初ではない。それより一〇年ほど前の『世界市民的見地における 普遍史の理念』(以後『普遍史』一七八四年)が最初である。が、平和論にのみ関心をもつ者は、そこまで遡ろうとはしない。実際、平和論に関しては、『永遠 平和』が『普遍史』よりはるかに緻密な著作であることは疑いない。しかし、そこでは、後者にあった幾つかの重要なポイントが抜け落ちている。そして、それ には理由がある。


《完全な市民的体制を達成するという問題は合法則的な対外的国家関係という問題に左右されるので、この後者の問題を別にして解決されるものではない》(第七命題)。


《自 然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざる をえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗 させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込 むのである。ここで国家はすべて、最小の国家でさえも、自国の軍隊や自国の法律上の判決からではなく、もっぱらこの大きな国際連盟(アンフィクチオン同盟 Foedus Amphictyonum)すなわち統一された権力と統一された意志の法に則った決断から、自国の安全と権利を期待することができる。》(『世界市民的見 地における普遍史の理念』もしくは『普遍史』一七八四年,第七命題)。


憲法の無意識131頁
カント全集14


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関連書評:
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072100038.html
いま、憲法は「時代遅れ」か―〈主権〉と〈人権〉のための弁明(アポロギア) [著]樋口陽一
[評者]柄谷行人(哲学者)  [掲載]2011年07月10日   [ジャンル]政治 社会  出版社:平凡社 価格:¥ 1,620

■「国家権力縛る」基本は今日的

 本書はつぎのエピソードから始まっている。伊藤博文は明治の憲法制定に関する会議で、「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と発言した。この事実を、著者が法律関係者の多い聴衆に話したとき、衝撃をもって受けとめられた、という。
 立憲主義の基本は、憲法は、国民が国家権力を縛るものだという考えにある。それは、別の観点からいうと、国家は本性的に、専制的であり侵略的であるという認識にもとづいている。だから、憲法によって国家を縛らなければならない。明治時代に日本帝国を設計した政治家にとっても、それは自明であった。しかし、今や、法律関係者の間でさえ、この基本が忘れられている。
 たとえば、憲法9条にかんする議論がそうである。改憲論者はもっぱら国家の権利を論じる。そして、日本の憲法は異常だという。しかし、9条の趣旨は、伊藤博文の言葉でいえば、「国家の(戦争する)権利を制限し、(平和に暮らす)国民の権利を保全することにある」。確かに、立憲主義が始まった時期に、「戦争の放棄」という観念はなかった。しかし、それは、立憲主義の基本から見ると、正当かつ当然の発展である。
 憲法は国民が国家権力を縛るものだ、という観点から見ると、現行憲法は「時代遅れ」であるどころか、きわめて今日的である。憲法25条1項には、こうある。《すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》。たとえば、震災でホームレスとなり職を失った人々を放置するのは、憲法に反する。また、放射性物質の飛散によって人々の生存を脅かすのは、憲法違反であり、犯罪である。本書は、多くの事柄に関して、憲法からそれを見るとどうなるかを、教えてくれる。憲法全文も付載された、最良の入門書である。
 評・柄谷行人(評論家)
     *
 平凡社・1575円/ひぐち・よういち 34年生まれ。国際憲法学会名誉会長。『近代国民国家の憲法構造』など。
________

178:
ユダヤ人問題

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 [著]エマニュエル・トッド - 柄谷行人(哲学者) - 書評・コラムを読む - BOOK asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
20160306
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016030700010.html?guid=on
■カトリックの衰退、異教の排撃を招く

  トッドはこれまでの著作で、世界各地の社会の政治や思想のあり方を、4種類の家族形態の違いから、統計学にもとづいて説明してきた。すなわち、生産様式に もとづくマルクス主義的決定論を退けながら、家族内での交換様式(兄弟間の平等性など)が窮極的に観念的上部構造(政治や思想など)を決定するという見方 をとっている。それによって、彼はフロイトやマルクスとは違った「無意識」の構造を照らしだす。思いもよらぬ省察がそこから生まれる。
 本 書では、その手法によって、近年のフランスの国内政治が鮮やかに分析されている。2015年1月、過激派イスラム教徒が、イスラム教を風刺した週刊新聞を 発行している「シャルリ・エブド」社を襲撃したあと、フランス各地で「私はシャルリ」を掲げた400万人のデモが起こった。それを、言論の自由をまもるフ ランス革命以来の輝かしい伝統として称賛する反応が日本にもあった。しかし、トッドはそれに異議を唱えた。フランスにはキリスト教(カトリック)に対する 風刺の伝統はあったが、それは、他の宗教を嘲笑するような伝統ではなかった。ゆえに、この事件には、何か大きな社会的変容が潜んでいる。
  トッドによれば、フランスは、4種類の家族形態が地域的に分布している(欧州では)唯一の国である。それが歴史的にフランスの特異な在り方をもたらしてき た。たとえば、中央部にフランス革命がある一方で、周縁部では中世的なカトリック信仰が残っていた。このような地盤がここ20年ほどのうちに急激に変容し たのである。
 一般に、人が異教を排撃するのは、自らの宗教を熱烈に信じるからだと考えられるが、実は、そのような所ではむしろ、異教に対 して寛容である。異教を排撃するのは、自らの宗教を信じていない時である。トッドの考えでは、フランスに反イスラム主義が生まれたのは、カトリックが衰退 してしまったからだ。私は自分の信じていた宗教を冒涜(ぼうとく)する、ゆえに、他人の宗教を冒涜する権利と義務がある、と彼らは考える。
  この抗議デモには、右翼が締め出されていた。したがって、それはリベラルで、反イスラム主義と無縁であるように見える。しかし、トッドによれば、現在の反 イスラム主義は、ヨーロッパ単一通貨と新自由主義を推進するオランド政権(社会党)を支持する者たちがもたらしたものだ。彼らは保守的右派以上に弱者に冷 淡である。現在の社会党政権を支えているのは、最近までカトリックであった地域や階層である。トッドはそれを「ゾンビ・カトリック」と呼ぶ。それが「私は シャルリ」と称する者たちの実体である。
    ◇
 堀茂樹訳、文春新書・994円/Emmanuel Todd 51年生まれ。フランスの歴史人口学者、家族人類学者。世界の家族形態を絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、共同体家族の4種類に大別。著書に『新ヨーロッパ大全』『最後の転落』『帝国以後』など。
____

文化進化論―ダーウィン進化論は文化を説明できるか [著]アレックス・メスーディ - 柄谷行人(哲学者) - 書評・コラムを読む - BOOK asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016041000004.html
文化進化論―ダーウィン進化論は文化を説明できるか [著]アレックス・メスーディ
2016年04月10日
公式 柄谷行人(哲学者)
表紙画像著者:アレックス・メスーディ、竹澤 正哲、野中 香方子  出版社:エヌティティ出版 価格:¥ 3,672
■宗教的な現象も定量的に証明

  本書は、文化の「進化」をダーウィンの理論的枠組みにもとづいて考えるものだ。ダーウィンの進化論といえば、今でも進化=進歩という意味に受けとられてい るが、実はその逆である。彼は「進化」のかわりに「変化を伴う継承」という言い方をした。それは進化がはらむ、進歩あるいは目的論的な意味合いを取りさる ためであった。一方で、ダーウィンは自然淘汰(とうた)という考えを、マルサスの人口論から着想した。それは、自然現象が経済的あるいは文化的現象と共通 する何かをもつことを含意する。文化を「社会的に伝達された情報」と定義するならば、それは生物界にも妥当することであり、人間に限定されない。
  ただ、そこからまず、適者生存・弱肉強食で知られるスペンサー流の社会ダーウィニズムが生まれて世に風靡(ふうび)した。今日では、それを批判するネオ・ ダーウィニズムによってとってかわられた。ただし、後者は遺伝学にもとづいて自然界の進化を見るもので、文化論との接点をもたない。文化の進化を考えるた めに、著者はそのいずれをも退けて、ダーウィンの地点に立ち返る。それによって、自然界だけでなく、国家・経済から言語におよぶ「文化」における「変化を 伴う継承」の現象を、統一的に見なおそうとする。それは、別の観点からいえば、これまでは質的あるいは心理的領域と見なされていた領域を定量化することで ある。
 たとえば、経済学では人間が利己的であることが前提とされている。それによって、経済現象は数量的に扱われることができる。一方、 そのような見方を疑う者は文学的・宗教的であり、科学的でないとみなされる。しかし、実は、人間は案外、利他的なのだ。歴史的に、利己的なものを追求する 集団・文化に対して、利他的な集団・文化が勝ち残ってきたのである。「文化進化論」は、そのことを実験可能なかたちで示すことができる。それはこれまでの 文化的/自然科学的という区分の不毛さを示す。その意味で、これは、さまざまな領域の文化科学を統一的に把握しようとする新たな企てなのである。
  本書に書かれた多くの興味深い事例の中から幾つか述べておく。言語習得は生得能力によるというチョムスキーの仮説は疑わしいこと。宗教は母親を通して子供 に伝達されること。父系制は牧畜とともに始まること。太平洋諸島の言語の起源は台湾であること。帝国は国境地域から勃興すること。以上のような事柄はこれ までも推定されていたかもしれない。しかし、それが定量的に証明されるということに、私は驚かざるをえない。
    ◇
 Alex Mesoudi 80年生まれ。ロンドン大学講師、ダーラム大学准教授などを経て、エクセター大学生物科学部准教授。理論モデルなどを通じて文化進化の研究領域を先導する英国の学者。
_______

第1章 憲法の意識から無意識へ
(憲法9条は守られていないのに、変更もされていない。
これは無意識に憲法が入り込んでいるからだ。
この点は、世論調査からも明らかであろう。)

第2章 憲法の先行形態
(建築における先行形態というアイデアは興味深い。
戦後体制の先行形態は江戸体制であった。
そこでは、戦争への無意識の罪責感があり、それが
天皇を権威として持ち上げていたのだ。)

第3章 カントの平和論
(カントの「永遠平和」は「普遍史」における論点を2つ落としている。
「普遍史」は革命論であると同時に、人間の攻撃性を直視している。
そして、憲法9条は純粋贈与なのである。)

第4章 新自由主義と戦争
(現在は、帝国主義の時代である。
この点を見落として、30年代の再来などと言っている連中は
有害である。)

981 :考える名無しさん:2016/04/23(土) 01:02:15.88 0.net
    shinshigeru @shinshigeru1952 2月26日

    9条には幣原がかかわっていると言われているが、実際上は、天皇制を維持するためには日本の戦争放棄、交戦権の否定が必要ということで、
    極東委員会で過激な改革を主張する一派を説得するしかないと、ホイットニーなどが考え、マッカーサーもそれに合わせたというものであった。雨宮昭一『占領と改革』
    2)することである」と幣原首相がマッカーサー将軍と会見したあと大平に述べており、「その後幣原首相は「戦争放棄はわしから望んだことにしよう・・・」
    とポツンといわれたことがある。翻訳憲法はウ呑みにしたと後世非難されては困ると考えたのかも知れない」と推察している。雨宮昭一『占領と改革』
982 :考える名無しさん:2016/04/23(土) 11:11:43.22 0.net
    >>981日米どちらの発案であるにしても、日本人が大歓迎したのが9条だよね。
    柄谷の指摘は正しい。

    もっとも、この手の「裏話」は、誰も証明できないから、たいして意味があるとも思えないが。


韓国語版 柄谷行人コレクション[編集]
 『세계공화국으로(世界共和国へ)』, 2007
 『역사와 반복(歴史と反復)』, 2008
 『네이션과 미학(ネーションと美学)』, 2009
 『일본 근대문학의 기원(定本 日本近代文学の起源)』, 2010
 『근대문학의 종언(近代文学の終わり)』, 2010
 『정치를 말하다(柄谷行人 政治を語る)』, 2010
 『언어와 비극(言葉と悲劇)』, 2004
 『문자와 국가(戦前の思考)』, 2011
 『트랜스크리틱(定本 トランスクリティーク―)』, 2012
 『세계사의 구조(世界史の構造)』, 2012
 『자연과 인간(自然と人間)』, 2013
 『세계사의 구조를 읽는다("世界史の構造"を読む)』, 2014
 『철학의 기원(哲学の起源)』, 2015

マルクス 江戸
カント フロイト

   マルクス
     
   ヘーゲル 
     理性
カント    フロイト
 自然
   ルソー…直接民主主義の連携の上ではじめて国連も可能だ


    →ライプニッツ→カント
スピノザ→ヘーゲル→マルクス
    →ショーペンハウアー→ニーチェ→フロイト

『マルクス、その可能性の中心』:書評
http://www.horagai.com/www/book/rev/rev003.htm
 彼等はあいことなる生産物を交換において等価物として等置することにより、あいことなる労働を人間的労働として等置する。彼らは意識していないが、しかしそう行なうのである。(『資本論』1:1:第四節 商品の物神的性格とその秘密)

フロイト、カント、マルクスを使って9条と江戸を再評価しているが、
実は使うのはスピノザ(156頁)だけでいい
「(今の世界秩序を)疑いつつある」
ということだ。(探究2参照)

スピノザ思想はヘゲモニー国家オランダを背景に生まれた。ドゥルーズがフランスから生まれたように。

 以下、スピノザ『神学政治論』岩波文庫上より

第5章 諸々の祭式が制定された理由について。又史的物語への信憑について、
換言すればそうした信憑が何故に、又如何なる人々のために必要であるかについて

《キリスト教が禁止されている国に住んでいる者はそうした祭式を差し控えなければな
らぬのであるが、それにも拘らずその人間は幸福に生活し得るであろう。こうした例は
日本国においてみられる。》第五章上187ー8頁

別訳、

《…キリスト教が禁じられている国に暮らす人は、こうした儀礼を行わないよう義務付
けられる。それでも彼らは幸福に生きられるのだ。この例は日本という王国に見出せる*。
この国ではキリスト教が禁じられているから、この地に暮らすオランダ人たちは東イン
ド会社の命により、あらゆる外的な礼拝を行わないよう義務付けられているのである。》

*極東におけるオランダの交易相手として、スピノザは日本という非キリスト教国の存在だけでなく、日本でのオランダ商人たちの暮らしぶりについてもある程度のことを知っていたらしい。宗教儀礼にこだわらないことで開かれる異教徒・異教国との交流可能性を説明する好例として、スピノザは本書後半でもう一度日本のことを引き合いに出している(下巻第十六章二十二節)。

16:22
《[二十二]もし、至高の支配権を手にしているのが異教徒たちだったら、次の二通りの考えがありうる。…たとえばキリスト教国を支配している人たちは、自国の安全を高めるためなら、トルコ人などの異教徒たちと同盟を結ぶことをためらわない。また現地滞在に赴く自国民たちには命令を出し、人事であれ神事であれ、両国間ではっきり取り決めているか、現地政府がはっきり認めている以上の自由を求めないよう促しているのである。これは前に述べておいた、オランダ人と日本人の取り結んだ協定からはっきり分かる。》

17:以下は憲法9条をめぐる問題と関連し得る。


http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
以下、スピノザ『神学・政治論』 (光文社古典新訳文庫) より
Kindle: http://www.amazon.co.jp/dp/B00PRK11PG
iBooks : https://itunes.apple.com/jp/book/shen-xue-zheng-zhi-lun-shang/id942883345?mt=11

《…キリスト教が禁じられている国に暮らす人は、こうした儀礼を行わないよう義務付
けられる。それでも彼らは幸福に生きられるのだ。この例は日本という王国に見出せる*。
(上巻第五章)

*極東におけるオランダの交易相手として、スピノザは日本という非キリスト教国の存在
だけでなく、日本でのオランダ商人たちの暮らしぶりについてもある程度のことを知って
いたらしい。宗教儀礼にこだわらないことで開かれる異教徒・異教国との交流可能性を
説明する好例として、スピノザは本書後半でもう一度日本のことを引き合いに出している。

…たとえばキリスト教国を支配している人たちは、自国の安全を高めるためなら、
トルコ人などの異教徒たちと同盟を結ぶことをためらわない。また現地滞在に赴く自国民
たちには命令を出し、人事であれ神事であれ、両国間ではっきり取り決めているか、現地
政府がはっきり認めている以上の自由を求めないよう促しているのである。これは前に
述べておいた、オランダ人と日本人の取り結んだ協定からはっきり分かる。》
(下巻第十六章二十二節)


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敷衍すれば、中東に転嫁された「ユダヤ人問題」(『憲法の無意識』178頁)とは、スピノザ理解が
試され続けていることに他ならない。

もっと簡単に言えば、思想的には超越的な人格神がイスラエル建国とつながり、スピノザ的内在
的汎神論が西欧内部での市民としてのユダヤ人共存につながる。

柄谷が言うようにイスラム国(IS)がイスラエルを模倣しているなら、スピノザ理解はイスラム
国問題をも融解させる可能性があると言えよう。市民としてのイスラム…

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改定版:
『憲法の無意識』柄谷行人 201604 岩波新書:索引作業中

【ア】
アーレント『全体主義の起源』第二巻:167頁
ロバート アルブリ(xッ)トン (著), Robert Albritton (原著),資本主義発展の段階論―欧米における宇野理論の一展開 単行本 – 1995/10 , 山本 哲三 (翻訳)
(著者名のみ):152頁

ゲオルク・イェリネック、または、ゲオルグ・イェリネック :51頁
Allgemeine Staatslehre
『一般國家學』、大西邦敏・水垣進譯、敬文堂書店, 1932
『一般国家学』、芦部信喜ほか訳、学陽書房, 1974

岩本 裕 (著)世論調査とは何だろうか (岩波新書) 新書 – 2015/5/21 :29~30頁
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015070500003.html

ウォーラーステイン『近代世界システムII 』:159頁

江藤 淳  (著)一九四六年憲法-その拘束―その他 (文春文庫)文庫 –
1995/1/10 1980
年単行本初版:6頁

【カ】
カウツキー:148

神島二郎「非武装主義
一その伝統と現実性」「世界」1980年7月:68頁
ちなみにスピノザ神学政治論第17章以下なども憲法9条をめぐる議論と関連し得る。
磁場の政治学―政治を動かすもの (1982年) 単行本 – 古書, 1982/11/24 神島 二郎 (著) 岩波書店再録
(神島二郎は柳田国男に関する評論、批評文を集めた優れたアンソロジーを編集している。)

柄谷行人「自主的憲法について」『〈戦前〉の思考』:188~頁
(柄谷行人『<戦前>の思考』講談社学術文庫、2001、p.205-206):189~192,193頁

カント
『永遠平和について』岩波文庫:93~4頁,第一補説 3「永遠平和の保証について」:130頁
 『世界市民的見地における普遍史の理念』もしくは『普遍史』
一七八四年カント全集14,第七命題 :103頁,110頁,131頁

北畠親房『神皇正統記』:66頁 著作著者名のみ

北村透谷 一種の攘夷思想:89頁 『平和』第三号1892年
ピーター ゲイ (著)フロイト〈1〉 単行本 – 1997/9 :9頁

ハンス・ケルゼン:52頁

幸徳秋水
『二◯世紀の怪物 帝国主義』:147頁

後醍醐天皇:64頁

小林 敏明 (著)フロイト講義“死の欲動”を読む 単行本 – 2012/6:14
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012072900019.html

【サ】
斉藤利彦 (著):明仁天皇と平和主義 (朝日新書) 新書 – 2015/7/13 41
http://www.amazon.co.jp/dp/4022736267/

坂本一登  (著)伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入 (講談社学術文庫) Kindle版:55頁
1992,2012

サルトル:173頁

島崎藤村『夜明け前』:70頁

シュタイン:55~6頁

スピノザ:156
アダム・スミス『国富論』:145
【タ】
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』 :57頁

津島 一夫 (翻訳) マッカーサー回想記 (1964年) - , 1964 :22(25~6)頁,
) :25~6(22)頁
マッカーサー大戦回顧録 (中公文庫) 文庫 – 2014/7/23 ダグラス・マッカーサー (著), 津島 一夫 (翻訳) 

デカルト:156

デリダ:173頁

豊下 楢彦  (著):昭和天皇の戦後日本 ――〈憲法・安保体制〉にいたる道 単行本 –2015/7/29
昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) Kindle版 豊下 楢彦  (著)  2008
http://www.amazon.co.jp/dp/B0183IMPJE/
 :24~5頁,37頁,38頁

【ナ】
中江兆民
 『三酔人経綸問答』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版, 鶴ヶ谷 真一 (翻訳):85頁
『一年有半附録』全集13岩波
明治33年10月「考えざるべからず」(松永昌三編『中江兆民評論集』岩波文庫再録)
:87~8頁

中谷礼仁『セヴェラルネス』(「先行形態論」):46頁,:47頁

新渡戸稲造『武士道』:75頁

ネグリおよびハート『帝国』:143

【ハ】
デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義―その歴史的展開と現在』(「中国的特色を持った新自由主義」という言葉を引用)憲法168頁,:168頁

『ハムラビ法典』 :127頁

サン・ピエール『永久平和論』1713年:85~6頁

ヒルファーディング:148

フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』:95頁

フロイト 
「戦争と死に関する時評」(初出1915 『フロイト全集14』岩波書店 2010) :9~10頁,
 :10頁,:10~11頁(フロイト全集14,165ページ)
http://shigemoto.blog105.fc2.com/blog-entry-173.html
『快原理の彼岸』(『フロイト全集17』岩波書店74頁):13頁
(フロイト講義“死の欲動”を読む 単行本 – 2012/6 小林 敏明 (著):14頁
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012072900019.html
『夢判断』1900年、フロイト「自我とエス」1923年:14(8)頁
『文化の中の居心地悪さ』1930年:15頁
「マゾヒズムの経済的問題」1924年『フロイト全集18』岩波:19頁、本来は2で引用。
「ある錯覚の未来」全集20-61:116~7頁
「戦争はなぜに」『フロイト全集20』岩波:117頁

ヘーゲル『法権利の哲学』#333未知谷:96~7頁

ホブソン:148

【マ】
マッカーサー
回想記 (1964年) - – 古書, 1964 津島 一夫 (翻訳) :22(25~6)頁,
 :25~6(22)頁
マッカーサー大戦回顧録 (中公文庫) 文庫 – 2014/7/23 ダグラス・マッカーサー (著), 津島 一夫 (翻訳)

マルクス
『ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、岩波文庫)廣松の名は未出:106頁
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html(別訳)
http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20100309
『資本論』:144~6,148,157

水林 彪  (著)天皇制史論―本質・起源・展開 単行本 – 2006/10/27 :62頁

紫式部『源氏物語』、宣長:65頁

モーゲンソー『国際政治』 :139頁

【ヤ】
山室 信一  (著)憲法9条の思想水脈 (朝日選書823) 単行本 – 2007/6/20:84頁

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」:76頁
http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html

吉田茂『回想十年』:26-7頁

【ラ】
リカード『経済学および課税の原理』:145

ジョー・ルイスの逸話:118頁(3:6)

ルソー「永久平和論批判」ルソー全集第4巻:102頁
http://85666808.at.webry.info/201504/article_14.html

レーニン『帝国主義』:(148),150頁
http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/note/note1-8.htm

ロック:156頁

_____________

    →ライプニッツ→カント
スピノザ        →ヘーゲル         →マルクス
             →ショーペンハウアー →ニーチェ →フロイト


スピノザ→ライプニッツ→カント
            →ヘーゲル       →マルクス
             →ショーペンハウアー→ニーチェ→フロイト

追記:

68頁2:5
《*神島二郎は、戦後日本人の非武装平和主義の一因を、秀吉の「刀狩り」以来の「伝統」に求めている(「非武装主義その伝統と現実性」『世界』一九八〇年七月号)。だが、この「伝統」は、秀吉ではなく徳川体制に始まると見るべきである。》

神島は刀狩り以上に明治維新における武士の武装放棄を強調するので柄谷と立場が違う。



http://blogs.yahoo.co.jp/countrytown2010/18737706.html
《マルクスが私的所有と個人的所有を区別したのは、何を意味するのか。近代的な私有権は、それに対して租税を払うということを代償に、絶対主義的国家によって与えられたものだ。私有はむしろ国有なのであり、逆にいえば、国有制こそ私有財産制なのである。それゆえに、私有財産の廃止=国有化と見なすことはまったくまちがっている。むしろ、私有財産の廃棄は国家の廃棄でなければならない。マルクスにとって、コミュニズムが新たな「個体的所有」の確立を意味したのは、彼がコミュニズムを生産協同組合のアソシエーションとして見ていたからである。》『トランスクリティーク』柄谷行人著

木曜日, 4月 21, 2016

Sometimes It Snows In April Lyrics

ゆプリンス(Prince, 本名:Prince Rogers Nelson、1958年6月7日 - 2016年4月21日)

寺山修司もそうだが、天才は自分が死ぬ月を知っているのではないか?
Sometimes It Snows In Aprilは映画アンダーザチェリームーンの中の曲。映画も傑作だった。
(CDというフォーマットが芸術たり得るとはじめて認識したのはサインオブザタイムスだった。最後だった気もするが。)


https://www.youtube.com/watch?v=oMrlHOyE7xY(インストゥルメンタル) 


R.I.P. Prince - Sometimes it Snows in April - Live in Norway 2010
https://www.youtube.com/watch?v=UbDF8pXeNNM


Sometimes It Snows In April Lyrics
http://www.metrolyrics.com/sometimes-it-snows-in-april-lyrics-prince.html
Sometimes It Snows In April
Prince

Tracy died soon after a long fought civil war,
Just after I'd wiped away his last tear
I guess he's better off than he was before,
A whole lot better off than the fools he left here
I used to cry for Tracy because he was my only friend
Those kind of cars don't pass you every day
I used to cry for Tracy because I wanted to see him again,
But sometimes sometimes life ain't always the way

Sometimes it snows in April
Sometimes I feel so bad, so bad
Sometimes I wish life was never ending,
And all good things, they say, never last

Springtime was always my favorite time of year,
A time for lovers holding hands in the rain
Now springtime only reminds me of Tracy's tears
Always cry for love, never cry for pain
He used to say so strong unafraid to die
Unafraid of the death that left me hypnotized
No, staring at his picture I realized
No one could cry the way my Tracy cried

Sometimes it snows in April
Sometimes I feel so bad
Sometimes, sometimes I wish that life was never ending,
And all good things, they say, never last

I often dream of heaven and I know that Tracy's there
I know that he has found another friend
Maybe he's found the answer to all the April snow
Maybe one day I'll see my Tracy again

Sometimes it snows in April
Sometimes I feel so bad, so bad
Sometimes I wish that life was never ending,
But all good things, they say, never last

All good things that say, never last
And love, it isn't love until it's past

Songwriters
PRINCE (US 1), . / MELVOIN, WENDY / COLEMAN, LISA

Read more: Prince - Sometimes It Snows In April Lyrics | MetroLyrics

Forever
 AND
RIPeace 
  P

 IN  CE

Prince Outtakes - God Is Alive
http://mp3lie.net/en/index.php?q=Prince+Outtakes+  




日曜日, 4月 17, 2016

対訳:リスボンの災害についての詩 POÈME SUR LE DÉSASTRE DE LISBONNE[一 七 五六年]:作業中

                     (災害関連リンク:::::::::: 
対訳:リスボンの災害についての詩 POÈME SUR LE DÉSASTRE DE LISBONNE[一七五六年]:作業中 
http://nam-students.blogspot.com/2016/04/blog-post_25.html (本頁)
 NAMs出版プロジェクト: 1755年のリスボンの大震災に関して(ヴォルテールとルソー)
http://nam-students.blogspot.jp/2011/04/blog-post_5916.html


対訳:リスボンの災害についての詩

「リスボンの災害についての詩
 ”すべては善なり”というオプティミスムの公理の検討」

VOLTAIRE (1694 - 1778)  
POÈME SUR LE DÉSASTRE DE LISBONNE (1756) 
 PRÉFACE 
Tout est arrangé, tout est ordonné, sans doute, par la Providence; mais il n'est que trop sensible que tout, depuis longtemps, n'est pas arrangé pour notre bien-être présent.
L'auteur du poème sur le Désastre de Lisbonne ne combat point l'illustre Pope, qu'il a toujours admiré et aimé: il pense comme lui sur presque tous les points; mais, pénétré des malheurs des hommes, il s'élève contre les abus qu'on peut faire de cet ancien axiome Tout est bien. Il adapte cette triste et plus ancienne vérité, reconnue de tous les hommes, qu'il y a du mal sur la terre; il avoue que le moTout est bien, pris dans un sens absolu et sans l'espérance d'un avenir, n'est qu'une insulte aux douleurs de notre vie. 
__
「なるほど、すべては〈摂理〉によって整えられ、秩序立てられているのだろう。しかし、長きにわたって、すべてがわれわれの現在の安寧のために整えられているわけではないというのは、あまりにもつらいことでしかあるまい」
「『リスボン大震災に寄せる詩』の著者は高名なポープをつねに賞賛し好んできたのであって、彼と戦おうとしているのではない。著者はほとんどすべての点についてポープのように考えているのだが、人々の不幸に貫かれたとき、この『すべては善なり』という古くからの格言についてなされうる濫用に対して立ち上がったのである。著者が採用するのは、この地上には悪[害悪・災厄]があるという、万人に認められた、悲しいけれどもいっそう古くからある真理のほうである。著者が主張しているのは、『すべては善なり』という言葉は、絶対的な意味で、未来への期待なきものとして受け取るならば、われわれの生の苦しみに対する侮辱にほかならないということである」…(序文)

POÈME SUR LE DÉSASTRE DE LISBONNE
  OU EXAMEN DE CET AXIOME:"TOUT EST BIEN"

『カンディード』(ヴォルテール/斉藤悦則 訳)所収
 光文社古典新訳文庫
    発売日:2015.10.8,(CANDIDE,1759)
http://www.kotensinyaku.jp/books/book218.html

リスボン大震災に寄せる詩
    あるいは「すべては善である」という公理の検討
[一七五六年]
  O malheureux mortels! ô terre déplorable!
O de tous les mortels assemblage effroyable!
D'inutiles douleurs éternel entretien!
Philosophes trompés qui criez: "Tout est bien"
Accourez, contemplez ces ruines affreuses
Ces débris, ces lambeaux, ces cendres malheureuses,
Ces femmes, ces enfants l'un sur l'autre entassés,
Sous ces marbres rompus ces membres dispersés;
Cent mille infortunés que la terre dévore,
Qui, sanglants, déchirés, et palpitants encore,
Enterrés sous leurs toits, terminent sans secours
Dans l'horreur des tourments leurs lamentables jours!

Aux cris demi-formés de leurs voix expirantes,
Au spectacle effrayant de leurs cendres fumantes,
Direz-vous: "C'est l'effet des éternelles lois
Qui d'un Dieu libre et bon nécessitent le choix"?
Direz-vous, en voyant cet amas de victimes:
"Dieu s'est vengé, leur mort est le prix de leurs crimes"?
Quel crime, quelle faute ont commis ces enfants
Sur le sein maternel écrasés et sanglants?
おお、不幸な人間たち、おお、呪われた地球
おお、死すべき者たちの恐ろしい群
永遠に味わわされる無用な苦しみ
「すべては善である」と唱える歪んだ哲学者よ
来い、すさまじい破壊のようすをよーく見るがいい
その残骸、その瓦礫、その灰を見よ
地面には、女たち、子どもたちの死体が重なる
砕けた大理石のしたに、ひとの手
大地の餌食となった十万もの人間たちが
深手を負い、血にまみれても、まだぴくぴく動いている
落ちた屋根に埋まり、救援もなく、痛みと恐怖のなかで
惨めに一生を終えようとしている



死にゆく者の言葉にならない叫びを聞いて
あるいは、焼けた体からのぼる煙を見て
哲学者は「こうなるのが永遠の法則だ」とか
「法則は善なる神をも縛る」などと答えるのか
圧死した母親の血だらけの乳房にすがりつく赤子は
この世でどんな罪、どんな過ちを犯したというのだ

Lisbonne, qui n'est plus, eut-elle plus de vices
Que Londres, que Paris, plongés dans les délices?
Lisbonne est abîmée, et l'on danse à Paris.

Tranquilles spectateurs, intrépides esprits,
De vos frères mourants contemplant les naufrages,
Vous recherchez en paix les causes des orages:
Mais du sort ennemi quand vous sentez les coups,
Devenus plus humains, vous pleurez comme nous.

Croyez-moi, quand la terre entrouvre ses abîmes
Ma plainte est innocente et mes cris légitimes
Partout environnés des cruautés du sort,
Des fureurs des méchants, des pièges de la mort
De tous les éléments éprouvant les atteintes,
Compagnons de nos maux, permettez-nous les plaintes.
C'est l'orgueil, dites-vous, l'orgueil séditieux,
Qui prétend qu'étant mal, nous pouvions être mieux.
Allez interroger les rivages du Tage;
Fouillez dans les débris de ce sanglant ravage;
Demandez aux mourants, dans ce séjour d'effroi
Si c'est l'orgueil qui crie "O ciel, secourez-moi!
O ciel, ayez pitié de l'humaine misère!"


壊滅したリスボンは、歓楽の都市パリやロンドンよりも
悪徳にまみれていたのか
リスボンは海に飲みこまれ、パリではひとびとが踊る 

冷静な観察者、剛直な学者は
肉親が溺れていても、遭難のようすをじっと眺め
心を乱すことなく嵐の原因を研究する
しかし、そんなひとでも自分が災難にまきこまれると
とたんに人間らしく、泣きわめく 

大地が裂けて、私の体を飲みこむとき
私の嘆きに偽りはなく、私の泣き声は本心だ
われわれは残忍な運命に囲まれ
激しい悪意を浴び、死の罠にかかり
ありとあらゆる責めをうけると
それが悪行の報いだとしても、不平をこぼすものだ
「人間として欠点があっても少しは善くなりたい、なんて
ずうずうしいぞ、思い上がりだ」と、あなたは言う
ならば、テージョ川の岸辺に行ってみなさい
血にまみれた石だらけの街を歩いてみなさい
廃墟のなかで死にかけている者に尋ねてみなさい
かれが「神よ、我を救いたまえ」と言い
「あわれな人間に慈悲を」と叫ぶのは、思い上がりか

  "Tout est bien, dites-vous, et tout est nécessaire."
Quoi! l'univers entier, sans ce gouffre infernal
Sans engloutir Lisbonne, eût-il été plus mal?
Etes-vous assurés que la cause éternelle
Qui fait tout, qui sait tout, qui créa tout pour elle,
Ne pouvait nous jeter dans ces tristes climats
Sans former des volcans allumés sous nos pas?
Borneriez-vous ainsi la suprême puissance?
Lui défendriez-vous d'exercer sa clémence?
L'éternel artisan n'a-t-il pas dans ses mains
Des moyens infinis tout prêts pour ses desseins?

Je désire humblement, sans offenser mon maître,
Que ce gouffre enflammé de soufre et de salpêtre
Eût allumé ses feux dans le fond des déserts.
Je respecte mon Dieu, mais j'aime l'univers.
Quand l'homme ose gémir d'un fléau si terrible
Il n'est point orgueilleux, hélas! Il est sensible.

「すべては善、すべては必然」と、あなたは言う
何と、地獄の淵に飲みこまれたリスボンよりも
宇宙の全体はもっとひどいものだったというのか
神は永遠の発動因であり、全知全能の創造主なのに
燃えたぎる火山をわれわれの足下につくり
あえて人間を忌まわしい風土に住まわせたというのか
そう言って、あなたは神の力をさげすみたいのか
神の慈悲を否定したいのか
神は偉大なる工作者なのに、自分の設計どおりには
世界をつくることができなかったのか

私は主に抗わず、ただ控え目に願う
硫黄が燃える地獄の業火は
奥地の砂漠で噴き出してほしかった
私は神を敬うが、人間の住む地球を私は愛する
悲惨な災害にたいして人間が吐き出す声は
思い上がりの声ではなく、痛みを共感する声だ

  Les tristes habitants de ces bords désolés
Dans l'horreur des tourments seraient-ils consolés
Si quelqu'un leur disait: "Tombez, mourez tranquilles;
Pour le bonheur du monde on détruit vos asiles.
D'autres mains vont bâtir vos palais embrasés
D'autres peuples naîtront dans vos murs écrasés;
Le Nord va s'enrichir de vos pertes fatales
Tous vos maux sont un bien dans les lois générales
Dieu vous voit du même oeil que les vils vermisseaux
Dont vous serez la proie au fond de vos tombeaux"?
A des infortunés quel horrible langage!
Cruels, à mes douleurs n'ajoutez point l'outrage.

  Non, ne présentez plus à mon coeur agité
Ces immuables lois de la nécessité
Cette chaîne des corps, des esprits, et des mondes.
O rêves des savants! ô chimères profondes!
Dieu tient en main la chaîne, et n'est point enchaîné
Par son choix bienfaisant tout est déterminé:
Il est libre, il est juste, il n'est point implacable.
Pourquoi donc souffrons-nous sous un maître équitable?
Voilà le noeud fatal qu'il fallait délier.
Guérirez-vous nos maux en osant les nier?
Tous les peuples, tremblant sous une main divine
Du mal que vous niez ont cherché l'origine.
Si l'éternelle loi qui meut les éléments
Fait tomber les rochers sous les efforts des vents
Si les chênes touffus par la foudre s'embrasent,
Ils ne ressentent point des coups qui les écrasent:
Mais je vis, mais je sens, mais mon coeur opprimé
Demande des secours au Dieu qui l'a formé.

テージョ川の両岸で、責め苦を受ける被災者たちに
こんな言葉をかけたら、はたして慰めになるだろうか
「安らかに死ね、世界の幸福の犠牲になれたぞ
宮殿は燃え落ちても、べつの人がまた建てる
おまえがこうむる悪はすべて、全体の法則で善なのだ
神の目から見れば、おまえはおまえの墓のしたで
おまえの体を食うウジ虫と同等の存在にすぎない」
不幸なひとびとにむかっての、何と恐ろしい言葉
残酷な哲学者よ、私の心の痛みを憤りに変えたいのか 



やめろ、そうした不動の必然性なる法則を
いま動揺している私の心におしつけるな
体と心と世界は一本の鎖で縛られていると言うのか
それは学者の夢想、とんでもない妄想である
鎖を手にするのは神であり、神は鎖に縛られない
神は慈愛にみちた選択によって、すべてを定める
神は自由であり、公正であり、けっして非情ではない
では、なぜ公正なる主のもとで、われわれは苦しむのか
まさに、これこそが解くべき問題の核心なのだ
悪を否定すれば悪を克服したことになるのか
人間たちは神の所業におののきながら
おまえが否定する悪の、その根源を求めてきた
自然力を働かせる永遠の法則にしたがって
巨大な岩も、風の一吹きで崩れ落ち
硬い樫の木も、落雷によって燃えあがるが
岩や木は、自分が受けた衝撃をまったく感じない
しかし、私は生きている、私は感じとる
苦しみを覚える私は、創造主である神に救いを求める 

  Enfants du Tout-Puissant, mais nés dans la misère,
Nous étendons les mains vers notre commun père.
Le vase, on le sait bien, ne dit point au potier:
"Pourquoi suis-je si vil, si faible et si grossier?"
Il n'a point la parole, il n'a point la pensée;
Cette urne en se formant qui tombe fracassée
De la main du potier ne reçut point un coeur
Qui désirât les biens et sentît son malheur
"Ce malheur, dites-vous, est le bien d'un autre être."
De mon corps tout sanglant mille insectes vont naître;
Quand la mort met le comble aux maux que j'ai soufferts
Le beau soulagement d'être mangé des vers!
Tristes calculateurs des misères humaines
Ne me consolez point, vous aigrissez mes peines
Et je ne vois en vous que l'effort impuissant
D'un fier infortuné qui feint d'être content.

  Je ne suis du grand tout qu'une faible partie:
Oui; mais les animaux condamnés à la vie,
Tous les êtres sentants, nés sous la même loi,
Vivent dans la douleur, et meurent comme moi.

  Le vautour acharné sur sa timide proie
De ses membres sanglants se repaît avec joie;
Tout semble bien pour lui, mais bientôt à son tour
Un aigle au bec tranchant dévore le vautour;
L'homme d'un plomb mortel atteint cette aigle altière:
Et l'homme aux champs de Mars couché sur la poussière,
Sanglant, percé de coups, sur un tas de mourants,
Sert d'aliment affreux aux oiseaux dévorants.
Ainsi du monde entier tous les membres gémissent;
Nés tous pour les tourments, l'un par l'autre ils périssent:
Et vous composerez dans ce chaos fatal
Des malheurs de chaque être un bonheur général!
Quel bonheur! ô mortel et faible et misérable.
Vous criez: "Tout est bien" d'une voix lamentable,
L'univers vous dément, et votre propre coeur
Cent fois de votre esprit a réfuté l'erreur.


われわれは全能の神の子なのに、悲惨のなかに生まれた
われわれは父なる神に手を差し出して、文句を言う
われわれが陶器だったら、陶工に文句を言わない
「どうして自分は粗悪で、脆くて、不格好なのか」などと
陶器はけっして言わないし、考えもしない
製造中に陶工の手から落ちて割れたら
その壺には魂もない
魂がなければ幸福を求めず、不幸も感じない
「人の不幸は他の存在にとっての幸福」と、あなたは言う
血まみれの私の体から、千匹のウジ虫が生まれてくる
死が、私を苦しめている不幸を終わらせ
ウジ虫が私の死体を食べてくれる、それを喜べと言うのか
人間の不幸を計算してみせるあなたには気分が悪くなる
私の心は慰められるどころか、心の痛みが増すばかり
私が思うに、あなたは自分の不満を隠そうとするが
その努力はむなしく、あなたも不幸な人間だ 




私は大いなる全体のちっぽけな一部分でしかない
それはそうだが、はからずも命を授けられた動物はみな
同じ法則のもとで生まれ、ものを感じる存在となり
私と同じように苦しみ、私と同じように死ぬ 

ハゲタカはかよわい獲物に襲いかかり
その肉をむさぼり食って大満悦
ハゲタカにとって「すべては善である」が、それも束の間
こんどは鷲が鋭いくちばしでハゲタカをむさぼり食う
この高慢な鷲も、人間が撃つ鉄砲の弾で命を落とす
そして、人間は戦場で、銃弾に当たって死に
ほかのたくさんの死体に重なって
腹をすかせた鳥たちのエサになる
こうして世界の構成員の全員が同じようにうめく
みんな苦しむために生まれ、生きるために殺しあう
あなたはこの悲惨な混沌を眺めて
個体の不幸の集積が全体の幸福をつくる、と言う
何という幸福、ああ、はかなくて、みじめな幸福
あなたは震え声で「すべては善である」と叫ぶ
宇宙があなたの言葉を否定し、あなた自身の心が
百回もあなたの知性の誤りを明らかにする 


  Eléments, animaux, humains, tout est en guerre.
Il le faut avouer, le mal est sur la terre:
Son principe secret ne nous est point connu.
De l'auteur de tout bien le mal est-il venu?
Est-ce le noir Typhon, le barbare Arimane,
Dont la loi tyrannique à souffrir nous condamne?
Mon esprit n'admet point ces monstres odieux
Dont le monde en tremblant fit autrefois des dieux.

  Mais comment concevoir un Dieu, la bonté même,
Qui prodigua ses biens à ses enfants qu'il aime,
Et qui versa sur eux les maux à pleines mains?
Quel oeil peut pénétrer dans ses profonds desseins?
De l'Etre tout parfait le mal ne pouvait naître;
Il ne vient point d'autrui, puisque Dieu seul est maître:
Il existe pourtant. O tristes vérités!
O mélange étonnant de contrariétés!

Un Dieu vint consoler notre race affligée;
Il visita la terre et ne l'a point changée!
Un sophiste arrogant nous dit qu'il ne l'a pu;
"Il le pouvait, dit l'autre, et ne l'a point voulu:
Il le voudra, sans doute"; et tandis qu'on raisonne,
Des foudres souterrains engloutissent Lisbonne,
Et de trente cités dispersent les débris,
Des bords sanglants du Tage à la mer de Cadix.


自然力と動物と人間、すべてが戦争状態にある
はっきり言おう、悪はこの地上にある
悪の原理は秘密のまま、誰にも知られていない
あらゆる善の創造主である神が、悪の元凶なのか
テューポーンやアーリマンといった邪悪な神々が
勝手な掟を定めて、われわれを苦しめているのか
古代人は不安におびえて、そんな邪悪な怪物を神としたが
私の知性はけっしてそんなものを認めない 





では、われわれは善なる神をどう理解したらよいのか
神は、愛する子どもたちに惜しみなく善を施し
そして同時に、悪を、たっぷりとふりまく
われわれの眼力では、神の深遠な計画は見抜けまい
完全なる存在である神から、悪が生まれるはずがない
神のみが創造主であるから、ほかから生ずるはずもない
しかし、悪は存在する、この悲痛な真実
おお、正反対のものの驚くべき混在 

神はわれわれ人間の苦悩を慰めるためにやってきて
地上に来ながら、すこしも改善しようとしない
恐れを知らない学者が言うには、神にはその力がない
べつの学者が言うには、力はあるがやる気がなかった
神もやる気になればやれる、と議論はつづく
学者がおしゃべりをしているとき、地下で稲妻が炸裂し
リスボンは飲みこまれ、三十もの都市が壊滅し
テージョ川からカディスの岸辺まで血だらけになった 


  Ou l'homme est né coupable, et Dieu punit sa race,
Ou ce maître absolu de l'être et de l'espace,
Sans courroux, sans pitié, tranquille, indifférent,
De ses premiers décrets suit l'éternel torrent;
Ou la matière informe à son maître rebelle,
Porte en soi des défauts nécessaires comme elle;
Ou bien Dieu nous éprouve, et ce séjour mortel
N'est qu'un passage étroit vers un monde éternel.
Nous essuyons ici des douleurs passagères:
Le trépas est un bien qui finit nos misères.
Mais quand nous sortirons de ce passage affreux,
Qui de nous prétendra mériter d'être heureux?

  Quelque parti qu'on prenne, on doit frémir, sans doute
Il n'est rien qu'on connaisse, et rien qu'on ne redoute.
La nature est muette, on l'interroge en vain;
On a besoin d'un Dieu qui parle au genre humain.
Il n'appartient qu'à lui d'expliquer son ouvrage,
De consoler le faible, et d'éclairer le sage.
L'homme, au doute, à l'erreur, abandonné sans lui,
Cherche en vain des roseaux qui lui servent d'appui.
Leibnitz ne m'apprend point par quels noeuds invisibles,
Dans le mieux ordonné des univers possibles,
Un désordre éternel, un chaos de malheurs,
Mêle à nos vains plaisirs de réelles douleurs,
Ni pourquoi l'innocent, ainsi que le coupable
Subit également ce mal inévitable.
Je ne conçois pas plus comment tout serait bien:
Je suis comme un docteur, hélas! je ne sais rien.


人間は生まれつき罪人ゆえ、神が罰するのか
それとも、全存在と空間の絶対的な支配者は
怒りも憐れみも覚えず、淡々と、一切に無関心で
ただ最初に決めたことをそのまま貫いているだけなのか
それとも、形の定まらぬものは創造主に逆らうものだから
必ず欠陥をおびてしまうのか
それとも、神はわれわれに試練をあたえ
この世ででの生は、永遠の世界への経路なのか
われわれはこの世で苦難の人生を歩み
死はこの世の苦難を終わらせる善である
しかし、われわれがこの苦難の道から離脱するとき
来世で幸せになれると誰が言えよう






どういう生を選んでも、おそらく安心はえられない
確かなことは何もなく、あらゆることが心配になる
自然は何も語らず、尋ねても答えてくれない
だから、答えてくれる神が人類には必要なのだ
神の業を説明してくれるのは神だけである
弱者を慰め、賢者に光を授けるのも神だけである
神がいなければ、人間は疑いと誤りのなかに打ち捨てられる
生きる支えにもならない葦をむなしく求める
ライプニッツは、私にまったく何も教えてくれない
存在しうる世界のうち、最高に整っているこの世界で
底なしの無秩序、不幸の混沌が、多くの苦とわずかな快を
つなげている、その見えざる結び目について教えてくれない
罪のない者がどうして罪人と並んで、いやおうなしに
苦しまなければならないのか、かれは教えてくれない
どうしてすべてうまくいく、というのか、私にはわからない
いやはや、私もそこらの学者と並んで、まったくの無知なのだ




  Platon dit qu'autrefois l'homme avait eu des ailes,
Un corps impénétrable aux atteintes mortelles;
La douleur, le trépas, n'approchaient point de lui.
De cet état brillant qu'il diffère aujourd'hui!
Il rampe, il souffre, il meurt; tout ce qui naît expire;
De la destruction la nature est l'empire.
Un faible composé de nerfs et d'ossements
Ne peut être insensible au choc des éléments;
Ce mélange de sang, de liqueurs, et de poudre,
Puisqu'il fut assemblé, fut fait pour se dissoudre;
Et le sentiment prompt de ces nerfs délicats
Fut soumis aux douleurs, ministres du trépas:
C'est là ce que m'apprend la voix de la nature.
J'abandonne Platon, je rejette Épicure.
Bayle en sait plus qu'eux tous; je vais le consulter:
La balance à la main, Bayle enseigne à douter,
Assez sage, assez grand pour être sans système,
Il les a tous détruits, et se combat lui-même:
Semblable à cet aveugle en butte aux Philistins
Qui tomba sous les murs abattus par ses mains.

プラトンによれば、かつては人間にも翼があり
また、どんな攻撃を受けても死なない体だった
人間は苦しみや死と無縁だった
いま、人間にはかつてのすばらしい状態の片鱗もない
地面を這い、苦しんで死ぬ。ひとは死ぬために生まれる
自然では破壊が支配する
神経と骨の貧弱な混合である人間は
自然の力による衝撃に耐えられない
人間の体は、こねた粘土に血を通わせただけの
一時的な合成ゆえ、最後には分解するのが定めだ
そして、その繊細な神経はきわめて敏感で
臨終を予感させる苦痛をまず察知する
ともかくこのように自然の声は私の耳に入る
私はプラトンもエピクロスもお断りする
学ぶならピエール・ベール(1)に学びたい
ベールは天秤を手にして、すべてを疑うことを教える
あまりにも賢明で偉大であるがゆえに、体系などもたない
あらゆる体系を破壊し、自分自身とさえ戦う
自分を卑しめたペリシテ人を皆殺しにするため
建物を倒して自分の命も失ったサムソンに似ている


  Que peut donc de l'esprit la plus vaste étendue?
Rien; le livre du sort se ferme à notre vue.
L'homme, étranger à soi, de l'homme est ignoré.
Que suis-je, où suis-je, où vais-je, et d'où suis-je tiré?
Atomes tourmentés sur cet amas de boue
Que la mort engloutit et dont le sort se joue,
Mais atomes pensants, atomes dont les yeux,
Guidés par la pensée, ont mesuré les cieux;
Au sein de l'infini nous élançons notre être,
Sans pouvoir un moment nous voir et nous connaître.

Ce monde, ce théâtre et d'orgueil et d'erreur,
Est plein d'infortunés qui parlent de bonheur.
Tout se plaint, tout gémit en cherchant le bien-être:
Nul ne voudrait mourir, nul ne voudrait renaître.
Quelquefois, dans nos jours consacrés aux douleurs,
Par la main du plaisir nous essuyons nos pleurs;
Mais le plaisir s'envole, et passe comme une ombre;
Nos chagrins, nos regrets, nos pertes, sont sans nombre.
Le passé n'est pour nous qu'un triste souvenir;
Le présent est affreux, s'il n'est point d'avenir,
Si la nuit du tombeau détruit l'être qui pense.

では、巨大な知性を働かせれば何ができるのか
何もできない、運命の書は閉じられており読むことができない
人間は、人間にとって見知らぬ者で、正体不明だ
私は何であるのか、どこから来て、どこへ行くのか
われわれは泥の球のうえでもがく微粒子にすぎない
運命にもてあそばれ、やがて死に飲みこまれる
だが、考える微粒子であり、思考に導かれて
その目で天の大きさを測ることのできる微粒子である
思考によって自分を無限の空間に投ずることもできる
が、自分で自分の姿を見、自分を認知することはできない 




人間の思い上がりと間違いの舞台であるこの世界は
幸福を語る不幸なひとびとで満ちている
誰もが幸せを求めて、うめき、嘆く
が、死ぬのは嫌だし、生まれ変わりたいとも思わない
苦しみだらけの人生でも、ときには快楽があり
喜びの手で涙をぬぐうときもあるからだ
ただ、快楽は長く続かず、影のように消え去る
悲しみ、後悔、喪失は無数にある
われわれにとって過去は悲しい思い出にすぎない
もしも未来がなく、思考する存在は墓場の闇に
消えていくだけなら、現在は恐怖にすぎない 


Un jour tout sera bien, voilà notre espérance;
Tout est bien aujourd'hui, voilà l'illusion.
Les sages me trompaient, et Dieu seul a raison.
Humble dans mes soupirs, soumis dans ma souffrance,
Je ne m'élève point contre la Providence.
Sur un ton moins lugubre on me vit autrefois
Chanter des doux plaisirs les séduisantes lois:
D'autres temps, d'autres moeurs: instruit par la vieillesse,
Des humains égarés partageant la faiblesse
Dans une épaisse nuit cherchant à m'éclairer,
Je ne sais que souffrir, et non pas murmurer.
 
  Un calife autrefois, à son heure dernière,
Au Dieu qu'il adorait dit pour toute prière:
"Je t'apporte, ô seul roi, seul être illimité,
Tout ce que tu n'as pas dans ton immensité,
Les défauts, les regrets, les maux et l'ignorance."
Mais il pouvait encore ajouter l'espérance.

[FIN]



「いつかはすべてが善になる」、これがわれわれの希望
「現在すべては善である」、これは幻想だ
学者たちは私をあざむいた、やはり正しいのは神のみである
私はため息とともに頭を垂れ、苦悩とともに
私はけっして摂理に刃向かって、立ち上がったりしない
若いころ、私は甘美な快楽の魅惑的な法則ばかりを
明るくほがらかに歌っていた
時代とともに習俗も変わり、年をとることで学んだことも多い
迷える人間たちの弱さもわかるようになり
深い夜の闇のなかで道を照らしてくれる灯りを求める
私は苦悩することしかできないが、グチはこぼさない

かつて、あるカリフ(2)は臨終のさい
つぎのような祈りの言葉を神にむかって唱えた
「唯一の大王、唯一の無限の存在であるあなたに
私は唯一あなたがお持ちでないものを捧げます
すなわち、欠点、後悔、苦悩、そして無知」
いや、神に欠けているものはまだあるぞ、それは「希望」だ
_________


1 十七世紀フランスの哲学者。あらゆるドグマティズムを批判し、
十八世紀啓蒙思想の形成に大きく貢献した。
2 イスラム共同体の指導者

(原著に一行空けはない)
上記の詩はカンディード1759に結実する。
ライプニッツというイエスに立ち向かう大審問官(というよりイワン)ヴォルテールと言ったおもむき。ルソー(=アリョーシャ)はこう書いている。

《あなたが攻撃している説に戻れば、いかなる哲学者もその存在をいままでに否定したことのない特殊な不幸と、楽天主義者の否定している一般的不幸とを気をつけて区別せずには、その説を適切に検討することはできないと思います。私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです。したがって、冠詞を一つつけ加えることで命題はいっそう正確になるだろうと息われます。「すべては善である」Tout est bien と言う代わりに、「全体は善である」Le tout est bien と言うかまたは「すべては全体にとって善である」Tout est bien pour le tout と言ったほうがよいでしょう。》(1756年ルソーのヴォルテールへの手紙)

しかし、ヴォルテールの反駁に対してより根本的な回答をするのはスピノザだ。

《さらになぜ神はすべての人間を理性の導きのみによって導かれるようなふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとするほかはない。すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである、あるいは(もっと本源的な言いかたをすれば)、神の本性の諸法則は、定理一六で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからである、と。》
『エチカ』第一部付録
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1f 

経済学的に言えば、連続性が最適化の前提ということだ...

NAMs出版プロジェクト: ドブリュー『価値の理論』
http://nam-students.blogspot.jp/2015/09/blog-post_48.html

土曜日, 4月 16, 2016

中央構造線:「震源、じわじわと東に」 別の活断層に影響の可能性 朝日新聞2016年4月16日

                     (災害関連リンク:::::::::: 
中央構造線:「震源、じわじわと東に」 別の活断層に影響の可能性 朝日新聞2016年4月16日
http://nam-students.blogspot.com/2016/04/2016416-1135.html(本頁)  
カント『自然地理学』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/01/blog-post_24.html?m=0



交通情報:
トヨタ 通れた道マップ
http://seiseki110.info/neo/r.php?8%y3tpxk3g0
トヨタが熊本で通れた道を情報として提供しています。


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「震源、じわじわと東に」 別の活断層に影響の可能性

朝日新聞デジタル 4月16日(土)11時35分配信




「震源、じわじわと東に」 別の活断層に影響の可能性
 今後の地震活動について、専門家はさらに別の活断層が動く可能性を指摘する。九州を東西に横断する別府・島原地溝帯沿いには多数の活断層が存在し、四国や紀伊半島を通る中央構造線断層帯に連なる。

【写真】各地の主な震度

 川崎一朗・京都大名誉教授(地震学)は「震源はじわじわと東に移動している。断層が動くと、その延長線上の断層も動きやすくなる」と話す。地震が発生すると、周囲の断層への力のかかり方が変化して、地震を起こしやすくなることがあるからだ。

 地震予知連絡会会長の平原和朗・京都大教授(地震学)も「大分の地震は震源地から100キロ近く離れており、余震とは考えにくい。大分県の別府―万年山(はねやま)断層帯が誘発されて動いた可能性もある。今後、何が起こるかは正直わからない。仮に中央構造線断層帯がどこかで動けば、長期的には南海トラフ巨大地震に影響を与える可能性があるかもしれない」と話す。

 東北大の遠田晋次教授(地震地質学)は「地震活動が南へ拡大する可能性も忘れてはいけない。日奈久断層帯は北部で地震が発生したが、南への延長部分では地震が起きておらず、注意が必要だ」と話す。
朝日新聞
中央構造線断層帯:

中央構造線


 赤線が中央構造線、青線に囲まれたオレンジ色の部分はフォッサマグナ
Camera-photo Upload.svg画像提供依頼:中央構造線の各地の露頭の画像提供をお願いします。2016年3月
中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん。Median Tectonic Line)は、日本最大級の断層系。英語表記からメディアンラインメジアンラインとも言い、略して MTL とも言う。
関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。一部は活断層である[1]
構造線に沿って南北に分布する岩石は、北側(内帯側)は領家変成帯中生代ジュラ紀付加体が同白亜紀に高温低圧型変成を受けたもの)、南側(外帯側)は三波川変成帯(白亜紀に低温高圧型変成を受けたもの)である[2]長野県には、領家変成帯と三波川変成帯が直に接しているのを確認できる北川露頭がある[3]#観光関連を参照)。しかし四国においては領家変成帯は和泉帯に覆われがちとなり、構造線は和泉帯と三波川変成帯の境界となっている。領家変成帯には白亜紀の花崗岩も見られる[2][4]
中央構造線は、糸魚川静岡構造線(糸静線)より東のフォッサマグナ地域では、フォッサマグナのを埋めた新第三紀堆積岩に覆われている。第四紀に大きく隆起している関東山地では古第三紀以前の基盤岩が露出し、その北縁の群馬県下仁田町に中央構造線が露出している[5]関東平野では新第三紀や第四紀の地層に覆われている。九州中部でも新第三紀後期以後の火山岩[要出典]阿蘇山をはじめとする現在の火山におおわれている[6]近畿南部から四国にかけては、中央構造線に沿って約360kmにわたり活動度の高い活断層(中央構造線断層帯)が見られ[7][8]、要注意断層のひとつとされている[9]

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フォッサマグナ


  薄い赤色の地域がフォッサマグナ
フォッサマグナFossa magna意味:大きな溝)は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目となる地帯。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)、大地溝帯(だいちこうたい)とも呼ばれる。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。
本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線となるが、東縁には異説もある。フォッサマグナはしばしば糸静線と混同されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であり、フォッサマグナそのものではない。地図の上でもフォッサマグナが「面」であるのに対し、糸静線はその一方の境界を成す文字通りの「線」であることが一目瞭然である。

ハインリッヒ・エドムント・ナウマンHeinrich Edmund NAUMANN)はこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見し、1885年に論文 "Über den Bau und die Entstehung der japanischen Inseln"(「日本群島の構造と起源について」)として発表した。但し、発表論文「日本群島の構造と起源について」のなかで同じものに "grosser Graben der Bruchegion" との表記も使用している[1]が、翌1886年にはFossa Magna(フォッサマグナ)と命名した。この論文は1893年に初発表され、論文名に初めて「フォッサマグナ」が登場した。彼は南アルプス山系から八ヶ岳関東山地を眺望した際、巨大な地溝帯の存在を思いついたとされる。
フォッサマグナ内部の地層が褶曲していることはアルフレッド・ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』において、陸地の分裂・衝突の証拠として紹介された。しかし、ナウマンの考えたフォッサマグナは、伊豆地塊が日本に接近したことで日本列島が割れた「裂け目」であった。一方で原田豊吉は、旧富士火山帯とほぼ同一のラインでシナ地塊サハリン地塊(シベリア地塊)が衝突してできたものだとする富士帯説を発表、両者の間で激しい論争となった。
その後フォッサマグナ説が大方支持されるようになっていった。しかし、ナウマンが考えていたフォッサマグナの東縁は新潟県直江津神奈川県平塚を結ぶラインであったが、新潟県柏崎千葉県銚子を結ぶラインも提唱されるようになった。そして、1970年には山下昇が柏崎と千葉県千葉市を結ぶ「信越房豆帯」説を発表、1988年加藤芳輝が柏崎〜銚子のラインの北部を修正した新潟県上越と銚子を結ぶラインを発表した。後に北部を大きく修正した新潟県新発田と同県小出を結ぶライン(新発田小出構造線)が提案された。このように、東縁については諸説出ており現在も結論は揺れ動いている。
東縁が諸説出た背景には、フォッサマグナ南部の関東山地(長野県南東部・山梨県埼玉県西部・東京都西部・神奈川県北西部)に西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む山塊がぽつんと取り残されて存在していて、混乱が生じたことが挙げられる。この山塊は後述のように、フォッサマグナが開いてから再び閉じる間に西南日本か東北日本から切り離されて、フォッサマグナの新しい地層とともに圧縮され一体化したものと考えられている。

地学的知見編集

現在のプレートテクトニクス理論ではフォッサマグナは北アメリカプレートユーラシアプレートの境界に相当するとされる。1983年日本海中部地震前後までは、北海道中部の日高山脈付近が両プレートの境界と考えられていたが、地震を契機に日本海東縁部〜フォッサマグナを境界とする説が広く支持されるようになった。フォッサマグナの厚さは、地下約6,000(平野部) - 9,000m(山地)にも及ぶ。これより深い所は基盤岩とよばれ、西南日本や東北日本と同じ地層の並びになっていると推定されている。フォッサマグナ本体は第三紀火山岩堆積岩によって埋積されている。地質断面図で見ると、年代の異なる地層の境界がU字型に形成されている。
フォッサマグナ北部では第三紀層の褶曲によって生じた丘陵地形が際立って目立っている(頸城丘陵魚沼丘陵など)。また、褶曲に伴って形成されたと考えられる天然ガス石油の埋蔵も多い。一方、南部ではフィリピン海プレートによって運ばれ、日本列島に衝突した地塊が含まれる(丹沢山地伊豆半島など)。
また、フォッサマグナの中央部を、南北に火山の列が貫く。北から新潟焼山妙高山草津白根山浅間山八ヶ岳富士山箱根山天城山などである。これらの成因の1つとして、フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすかったことが考えられている。
西縁の糸魚川静岡構造線上および東縁の一部と考えられている群馬県太田断層[2][3]では、マグニチュード7規模の地震が繰り返し発生している。
北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[4]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[5]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[6]

フォッサマグナの誕生編集

この地域は数百万年前まではであり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物隆起し現在のような陸地になったとされる。
原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に存在して、アジアに近い位置にあったと考えられている。約2,000万年前に、プレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。背弧海盆とは、沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島もアジアから離れていった。
ただ、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し、新生代の堆積物は現在陸地で見られる地層になったと考えられている。

火山編集

フォッサマグナの「面」に属する活動中の火山を挙げると、北(日本海側)から南(太平洋側)へ順に、新潟焼山妙高山浅間山八ヶ岳富士山が列んでいる。

参考文献編集

脚注編集

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  1. ^ 山下昇:構造地質学的にみたフォッサ・マグナの問題点:その歴史と現状 地質学雑誌 Vol.82(1976) No.7 P.489-492
  2. ^ 関東平野北部の活断層“太田断層”の認定と周辺の古地震・地盤災害との関係 2013年度日本地理学会春季学術大会 セッションID:S0804
  3. ^ 群馬県東部における短い活断層の分布と活動性、地下形状の推定-大久保断層および太田断層- 産総研 活断層・地震研究セミナー 第17回 9月26日(金)
  4. ^ 仁科良夫:大峰面上の旧河道地形とその堆積物日本地質学会学術大会講演要旨 100, 319, 1993-03-25
  5. ^ 衣笠善博:東北日本北米プレート説再考地學雜誌 Vol.99(1990) No.1 P.13-17
  6. ^ 木村純一:長野県聖山北麓の更新統:中部から上部更新統地質学雑誌 Vol.93(1987) No.4 P.245-257

下仁田ジオパーク 地学講座: 大地の大きな構造 その2 中央構造線
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/03/2.html
  みやま文庫 日曜地学散歩  1971年 より

下仁田町中心部近く、川井の善福寺下の川岸で
中央構造線の断層が
はっきり見られます。

左図の赤い線が断層です。

                        
下仁田駅の西、諏訪神社に行くと、中央構造線をながめられます。ちょっと離れてはいますが、・・・
 諏訪神社で、社殿のきれいな彫り物を見たら、川の対岸も見てみましょう。対岸の川下に緑色片岩、上流側に2000万年ほど前の砂岩の地層・下仁田層がみえます。境目が断層。これが中央構造線です(下の写真)。
川井の断層と呼びならわしています。
対岸の善福寺からは断層部分に行くこともできます。


川井の断層



諏訪神社から見たもの




手前が下仁田層の砂岩、
左奥(川下方向)が緑色片岩(三波川結晶片岩)。
両者の間が断層で、中央構造線。

善福寺方面から、通路を通って行って見ると、、ここはほぼ垂直な断層になっていて、砂岩層と緑色岩が断層で接しています。
この断層では、断層面に沿って,岩石がすりつぶされて粘土状になった数十cmの黒色の部分(断層粘土・断層ガウジ)が見られます。
緑色片岩(三波川結晶片岩)は断層近くで広く破砕されていて(断層破砕帯)、断層の大きさを物語っています。     

下も断層付近の写真です。

                                               写真 関谷友彦さん


活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ

朝日新聞デジタル 4月17日(日)5時3分配信 

 熊本県で発生した今回の地震は、活断層で起きたとみられる。活断層は、過去に地震を起こした形跡があり、将来も地震を起こす可能性がある断層だ。日本には2千以上の活断層があり、全国どこでも大きな地震が起こる恐れがある。

 日本では、東日本大震災や南海トラフで繰り返されてきた海溝型の巨大地震だけでなく、1995年の阪神大震災(M7・3)、2004年の新潟県中越地震(M6・8)、14年の長野県北部の地震(M6・7)など、内陸での活断層型地震が繰り返されてきた。

 陸域が震源となる活断層型の地震は、人が住む地域や交通網などの直下で起きることがある。このため、強い揺れや地表にできる段差で、地震の規模が海溝型地震ほど大きくなくても、深刻な被害が起きる恐れがある。

 政府の地震調査委員会は、全国の活断層のうち97を主要活断層として、地震が起きた場合の規模、30年以内に地震が起きる確率などを示し、警戒を促して きた。熊本の地震を起こした日奈久(ひなぐ)断層帯も布田川(ふたがわ)断層帯もその一つだ。しかし、00年の鳥取県西部地震(M7・3)や08年の岩 手・宮城内陸地震(M7・2)のように、地震前には確認されていなかった「未知の活断層」で起きる例も相次いだ。

 活断層による地震は、1千年から数万年の間隔で発生するものが多い。防災科学技術研究所の藤原広行部門長(地震学)は「活断層の中には、地表には痕跡が 現れにくいものや、長い年月で痕跡が消えてしまったものもあり、活断層が見つかっていない地域でも注意が必要だ」と話す。
朝日新聞社