土曜日, 1月 10, 2009

プルードンとカント(プルードン生誕200年に際して)

今年2009年はプルードン生誕200年にあたる(誕生日は1月15日)。

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以下、プルードン『経済的諸矛盾の体系または貧困の哲学』(未邦訳)の図解(『プルードン研究』佐藤茂行、p149より) 。

ヘー ゲルのアンチノミーのアウフヘーベンを根本的に否定したプルードンは、カントのアンチノミーに関しては、量に還元することおよび実体化することでその思弁 性からの脱出をはかる。以下、『経済的諸矛盾の体系または貧困の哲学』の図解(『プルードン研究』佐藤茂行、p149より)。

                             1分業          
                           __|___      
                            |     |      
                             N←   →P
                           ↑    /    
                           ↑   /
                      2機械  ↑  /       
                     __|__ ↑ /     
                     |     |/      
                     N←   →P    
                    ↑    /
                    ↑   /
                3競争 ↑  /       
               __|__↑ /     
                |     |/      
               N←    →P         
              ↑    /             
              ↑   /
          4独占 ↑  /       
       ____|__↑ /     
        |      |/      
        N←    →P      
        ↑    /
        ↑   / 
 5治安・租税 ↑  /    
____|___↑ /
|       |/
N←     →P   



以下次のように続く。

6貿易の均衡
7信用
8所有
9共有
10人口
結論:相互性

そしてそのその前段階としては、

神(悪←→正義)
経済(構成された価値、貨幣←→平等)

がある。

プルードンの思考法(系列的弁証法)はスピノザ(3と4混合周期)、カント(周期4)、ヘーゲル(周期3)、パーソンズ(変則周期4)の図解すべてにおける「原型」(DNAのようなもの)として考えることができる。それぞれ周期が違うだけなのだ。

ちなみに上記図が掲載された『プルードン研究』(佐藤茂行)はカントの形而上学との比較も詳しく、『経済的諸矛盾の体系』では総合の概念がまだ残っており、総合のない均衡という概念が確立するのは『革命と教会における正義』であると正確に述べている(p164)。

さて、ここでもう一度、プルードンとカントについて考えてみたい。

以下、『革命家の告白』第三版序文より。

 <カントはもはや、彼以 前のあらゆる人々がしたように「神とは何か」とか「真の宗教とは何か」などとは自問しない。彼は事実への問いから形式への問いを生みだし、こう自らに言 うーー「なぜ私は神を信じるのか」「いかにして、なにゆえ,私の精神にこの観念が生じたのか」「その出発点と展開とはどんなものか」「その変遷,必要なら ば、その減退とはどんなものか」「最後に、宗教的精神において諸事象、諸観念はどのように生起するのか」
 以上が、神と宗教について,このケーニヒスベルクの哲学者が思い定めたプランであった。(略)一言で言えば,彼は宗教の中に、もはや無限の存在の外的および超自然的啓示をではなく、悟性の現れを見たのである。
 この時から、ただちに宗教の呪縛が解かれたーー宗教の秘密は哲学に対して露わになったのである。

(略) さて、カントがほぼ六〇年前に「宗教」に対して行ったこと、そしてそれ以前に「確実性」に対して行っていたこと、また、カント以前の人々が「幸福」「至高 善」に対して試みていたこと、そうしたことを『人民の声』紙は「政府」に対して企てようというのだ。

(略)カントに倣って、われわれは次のような問いを発した。すなわちーー 
 人間はなぜ所有するのか。私有財産はどのように獲得されるのか。それはいかにして消滅するのか。その変遷と変化の法則とは何なのか。それはどこへ向かうのか。要するに、それは何を表しているのか。(略)
 第二に、人間はなぜ労働するのか。収入の格差はどうして生じるのか。社会における流通はどのように行われるのか。どんな条件で、どんな法則によってか。

(略) 今日に至るまで所有者の古いシンボルに包まれていたあれらすべての言葉から脱却し、それを処分するためには、どうすればよいか。労働者たちが互いに、労働 とその受け入れ先を保証しあうことである。そしてこの目的において、彼らは金銭的に相互的な義務を受け入れるということである。

(略)政治的自由は、われわれにとって産業的自由と同じく、相互的な保証から生じよう。(略)ところで、この自由と政治的保証のための方策は何か。現在のところでは普通選挙である。さらに後では、自由の契約だ…‥。
 貸し付けの相互保証によって、経済的かつ社会的改革を。
 個人の自由との和解によって,政治的改革を。
 これが『人民の声』紙のプログラムである。(以下略)>
(邦訳p63-69より。初出はプルードンがゲルツィンの援助で発行した『人民の声(ヴォワ・デュ・プープル)』に掲載されたもの)

 カントが脱しようとした神学的駄弁はプルードンにとっては、<政府がなかったならば、党派もないだろう。そして党派がなかったならば、政府もないだろう。われわれは、この循環からいつ抜け出るのか。>(p150、第8章末尾)といったものである。

 そこからの安易な脱出はないがゆえに、それはプルードンにとって切実な問いである。例えば政党への人民の不信任は脱政治ではなくルイ=ナポレオンによる独裁を生んだだけだとプルードンは考える。
 さらに彼はこう述べている。

<資 本の経済的観念、政府あるいは権威の政治的観念、教会の神学的観念は、同一的でかつ相互に交換可能な三つの観念である。それは今日あらゆる哲学者が十分 知っているように、一方を攻撃することはもう一方を攻撃することになる。資本が労働に行い、国家が自由に対して行うことを、今度は教会は知性に対して及ぼ すのだ。この絶対主義の三位一体は、哲学におけると同様、実践においても宿命的である。効果的に人民を抑圧するためには、その肉体、意志、理性を同時に縛 りつけなければならない。したがって社会主義が完全で、現実的で、あらゆる神秘主義から逃れたやり方で姿を現そうとしたならば、やるべきことは一つしかな く、それは知的循環の中にこの三つ揃いの観念を投入することであった。>(p316)

 ここで述べられた資本、国家、宗教の三位一体。こ の認識は柄谷行人に先駆けるものだし、プルードンの恋愛観を賞賛したラカンの思考構造にも先駆けるものだ。さらに「あとがきーー中産階級礼賛」では、 「<宗教><国家><資本>という三者からなる定式の下で、旧来の社会は燃え上がり、見る間に燃え尽きていく。」(p386)とプルードンは述べている。 ちなみに、プルードンは階級闘争を議会で宣言したはじめての人間だが(p35-37)、実際の階級観は中産階級が上下に引き裂かれているという極めて現実的なものだ。

 プルードンはカントの、自然、自由、芸術の構造を、社会学的に組み直しただけだったのかもしれない。ただし、プルードンが カントのように現実的に無力であったと決めつけるのは早計だ。カントのアンチノミーをプルードンは、交換における売り手と買い手の間に見出す。プルードンが簿記能力を人民に求めるのはその現実的解決をプログラムとして提示し得るものだからだ。

 むしろ、カントの哲学は、プルードンにその現実化の可能性を見出したと積極的に言わなければならない。実際、『経済的諸矛盾の体系』でもカントのカテゴリー論を量的な契機に還元し、なおかつより総合 的なアンチノミーの系列を提示し得たのだ。これはマルクスがヘーゲルの観念論を唯物論的に逆転させてにもかかわらず、その弁証法を信じていたのとは対照的 である。

 プルードンが具体的に指し示したプログラブである交換銀行、人民銀行の失敗は、原理的な思考、具体案としてはゲゼルに引き継が れるが、プルードンの思想的意義はそうした新たな流通を作る計画(さらに彼の晩年の提案「農工連合」は今こそ必要だ)と同様、今日ではよりアクチュアルなものがある。
 

木曜日, 1月 08, 2009

スピノザ『エチカ』見取り図:試作

参考:エチカ全文
              2b様態
               /\
              /無限
             /    \
 悲しみ_________2a属性__________喜び
    \ 憎しみ  /   /\   \     /
     \   ___実体___   /  
        /  知_/\_至福 /\      
       \/  / \  / \/  \
       /  /\/_\/_\ \ 
   所産的自然 / \____自然(能産的) \
     /  延長\個体 5自由/ 認識/思惟  \  
  物体/_____身体___\/___精神_____\観念
            \ 4理性  /      
             \    /
              \努力
               \/
               欲望
              3感情

あるいは自然Deus seu Natura)」(第四部序文、及び定理四証明)

について
精神の本性および起源について
3感情の起源および本性について
4人間の隷属あるいは感情の力について
5知性の能力あるいは人間の自由について


              2b様態
               /\
              /  \
             /    \
            / 2a属性  \
           /   /\   \  
          /   1実体\   \  
         /   / /\ \   \     
        /   / /  \ \   \
       /   / /____\ \   \
   所産的自然  /______自然(能産的)  \
     /  延長           思惟   \  
  物体/_____身体_______精神______\観念


について(実体
 1:1「その本性からみれば、実体は変様に先だっている。」
 1:18「はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。」
 1:25「は(略)物の本質の起成原因でもある。」
 1:29注解「われわれは能産的自然を、それ自身において存在しそれ自身によって考えられるもの、(略)と理解しなければならない。(略)これに反して所産的自然とはの諸属性のすべての様態のことである。」

精神の本性および起源について(物体と観念、精神身体
 2:1「思惟属性である。(略)」
 2:2「延長属性である。(略)」
 2:7「観念の秩序および連結はものの秩序および連結と同一である。」
 2:8「存在しない個物あるいは様態の観念は、(略)無限の観念の中に包容されていなければならない。」
 2:13「人間精神を構成する観念の対象は身体である。(略)」


 悲しみ_______________________喜び
    \ 憎しみ                 /
     \   ____________   /  
      \   \  知____至福 /   /    
       \   \  \  /  /   /
        \   \  \/  /    /
         \   \    /   /
          \個体 5自由/ 認識/
          身体   \/   精神
            \ 4理性  /      
             \    /
              \努力
               \/
               欲望
              3感情


3感情の起源および本性について(感情)    
 3:2注解「身体は何をなしうるのかを今日まで明確にしたものはいなかった。」
 3:7「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。」
 3:54「精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。」
 3:56「喜び悲しみ、そして欲望、したがってまたこれらから形成されている(略)感情には、われわれが動かされる対象の種類に匹敵するほど多くの種類が存在する。」
 3:57「各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている。」
 3:感情の定義6「とは外部の原因の観念を伴った喜びである。」
 3:感情の定義7「憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。」

4人間の隷属あるいは感情の力について(道徳、理性)
 4:8「についての認識は、喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。ただしそれは、その感情についてわれわれが自覚しているときに限る。」
 4:26「われわれが理性に従って努力することは、すべて認識するということである。精神が理性を用いるかぎり、精神は認識に役立つもの以外は自分にとって有益であると判断しない。」
 4:65「われわれが二つのを比較してよりいものを、また二つのを比較してよりくないものを追究するのは,理性の導きによる。」
 4:73「理性に導かれる人は、(略)むしろ共同の決定に従って生活する国家のなかにあってこそ、はるかに自由である。」

5知性の能力あるいは人間の自由について(自由)
 5:15「自分自身や自分の感情を明瞭・判明に認識する人は、する。そして自分自身や自分の感情をより多く認識するにつれて、それだけ多くする。」
 5:19「する人は,が自分ををかえすようにつとめることができない。」
 5:24「われわれは個物をより多く認識するにつれて,をそれだけ多く認識する。(略)」
 5:29「精神永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現実の現実的存在を考えることによって認識するのではなくて、身体の本質を永遠の相のもとに考えることによって認識する。」
 5:36「にたいする精神の知的は、が自分自身をするそのものである。(略)」
 5:42「至福の報酬ではなく、そのものである。(略)」


スピノザ(1632-77)は生前ユダヤ教から破門されたユダヤ系オランダ人(あるいは「ポルトガル出のユダヤ人」byコレルス)。

火曜日, 1月 06, 2009

ライプニッツ「第一の真理」(Primae Veritates)

G・W・ライプニッツ
第一の真理
G.W.Leibniz
Primae Veritates(First truths)
(COUTURAT.PP.518-523)*

*COUTURAT : Opuscules et fragments inédits de Leibniz. Extraits des manuscrits de la Bibliothèque royale de Hanovre, ed. par Louis COUTURAT, Paris, Félix Alcan, 1903. Reprinted 1961, Hildesheim, Georg Olms.

山内志朗氏の翻訳(「第一真理」季刊『哲学no.1 ライプニッツ 普遍記号学』哲学書房、1988年一月、p60-67)を参考にしましたが、以下の英訳から訳し直しています(主にキリスト教に言及する所は山内氏はペテロとペトロを異なる人物としており、解釈が違います)。
また、内容がかなり重複する『形而上学叙説』の第8,9,13章、『モナドロジー』第32−34節の翻訳各種(岩波文庫=河野興一、中公バックス=下村寅太郎、清水 富雄訳 )も参考にしています。山内氏へと同様お礼申し上げます。

Opuscules Et Fragments Indits de Leibniz. Extraits Des Manuscrits de La Bibliothque Royale de Hanovre Par Louis Couturat.Opuscules Et Fragments Indits de Leibniz. Extraits Des Manuscrits de La Bibliothque Royale de Hanovre Par Louis Couturat.
著者:Gottfried Wilhelm Freiherr Von Leibniz
販売元:University of Michigan Library
発売日:2006-09




 第一の真理とは、自らについて同じことを述べるもの、または自らの反対を否定するものである。例えば、「AはAである」または「Aは非Aではない」というものである。「もし<AはBである>が真ならば、<AはBでない>か<Aは非Bである>は偽である」。また、「各々のものはそのものとしてある」、「各々のものは自らに似ている、または等しい」、「自らより大きい、または小さいものはない」、そして他の同種のものである。これらには、先行性(prioritas)において様々な程度があるかもしれないが、自同的な命題(identicum)という一つの名前に含めることが出来る。
 さて、残りの命題はすべて、定義によって、すなわち概念の分析を通じて、第一の真理に還元される。そしてその概念の分析が、経駿から独立したア・プリオリな証明を成り立たせる。例を挙げよう。数学者によっても他のあらゆる人々によっても同じ様に公理として受け入れられている前提、「全体はその部分より大きい」または「部分は全体より小さい」は、原初的な公理すなわち自同的な命題をつけ加えれば、その命題を「より小さい」または「より大きい」の定義から論証することは極めて容易である。というのは、「より小さい」とは他のもの(「より大きいもの」)の部分に等しいことであるが、この定義はきわめて容易に理解されるからでる。そして、人々が諸事物を相互にに比較し、大きい方から小さい方に等しいものを取り除いた残りを見い出す際の人類の慣例とも合致するからである。ここから次のような推論が得られる。部分は全体の部分に等しい(つまり、自ら自身に等しい。これは、すべてのものは自らに等しいという自同的な公理による)。しかし、全体の部分に等しいものは、全体より小さい。
 (「より小さい」の定義による)それ故、部分は全体より小さい。
 したがって、アリストテレスも述べていることだが☆1述語ないしは後件は、常に主語ないしは前件に内在する。そして、このことが、真理一般の性質すなわち言明の項(terminus)間の結合を成り立たせる。自同的な命題においては、その結合と述語の主語への包摂は、顕在的であるが、あらゆる他の命題においては潜在的であり、概念の分析によって示されなければならない。そして、その点にア・プリオリな論証が成り立つ。
 さて、いま述べたことは、全称であろうと単称であろうと、必然的であろうと偶然的であろうと、すべての肯定的な真理において成り立ち、また外的な規定(denominatio extrinseca)と内的な規定(denominatio intrinseca)においても成り立つ。そして、ここに驚くべき奥義が隠されており、そこに偶然性の本性、即ち必然的な真理と偶然的な真理との本質的な区別が含まれている。また、自由なものの宿命的な必然性に関する困難も取り除かれる。

 これらのことはあまりに平易なことなので十分に考察されてこなかったが、そこから多くの極めて重要な帰結が生じる。というのも、そこから一般に認められている公理、理由のないものはない、換言すると原因を欠く結果はない、という公理が直接生じるからである。もしその公理が成り立たないならば、ア・プリオリに証明されない真理、すなわち自同的な命題に分析されない真理があることになってしまうが、それは真理の本性に反することである。真理は常に顕在的にか潜在的にかどちらにせよ自同的なものである。また次のことが帰結する。つまり、所与のものにおいて、一方の側のすべてのものがもう一方の側のすべてのものと同じ様になっているならば、求められているものすなわち帰結においてもすべてのものは同じ様になっているということである☆2。差異の理由は所与のものから求められねばならないのに、その理由は与えられないことになってしまうからである。そして、この系、むしろ実例が、アルキメデスによって平衡に関する書物の冒頭で要請されているもの、つまり「天秤の腕と重さが両側で等しいならば、すべてのものは平衡状態にある」ということである。前に述べたことから、永遠なものにも理由はあるということが帰結する。もし世界が永遠の昔から存在し、そこには小球しかなかったと想定する場合でも、立方体ではなく、なぜ小球があるかということに理由が与えられねばならない。
 またここから次のことが帰結する。自然のうちには数においてのみ(solo numero)異なる二つの個体は存在しないということである。というのは、なぜそれらが異なっているのかの理由がなければならないが、その理由はそれらの内の何らかの差異から求められねばならないからである。卜マス(・アクィナス)が数においてのみ異なる分離された知性体について認めたことは☆3、同様に他の事物にも言われねばならないのである。互いに完全に似ている二つの卵、完全に似ている二つの葉とか草は庭の中には見いだされない。従って、完全な類似性は非充足的な抽象的な概念においてしか生じないが、その場合事物は、あらゆる仕方においてではなく、ある一定の考察様式に従って考察されているのである。例えば、私達が形態だけを考察する場合、形態を有している質料の方は無視している。したがって、確かに質料を有する完全に似た三角形が二つ見いだされることはあり得ないけれども、幾何学において、二つの三角形が似ていると考察するのは正当なことである。そして、金とか他の金属、そして塩、そして多くの液体が等質なものと見なされるとしても、それは感覚に対してのみ認められることで、そのようなことは正確には事実ではないのである。
 また次のことが帰結する。規定を受ける事物そのものの内に基礎を全く持たない純粋に外的な規定は存在しないということである。というのは、規定を受ける主語は述語の概念を含んでいなければならないからである。したがって、事物の規定が変化すればそれに応じて、事物そのもののうちにも何らかの変化がなければならない☆4

 個体的な実体の充足的すなわち完全な概念(notio completa seu perfecta)は、過去・現在・未来すべての述語を含んでいる。未来の述語が将来起こることは現在も真であって、事物の概念に含まれているからである。したがって、神の創造しようとする決定から抽象化されて、可能性の契機において考察されたペテロまたはユダの完全な個体的概念のうちでは必然的なものであろうと、自由なものであろうと、彼らに起こるすべての出来事が内在しており、そしてそれらを神は個体的概念の内に見るのである。そして、そこから次のことは明らかとなる。つまり、神が、無限に多くの可能的な個体の中から、自らの叡智の最高の隠れた目的に合致すると思うものを選んだことである。もし正確に語らぬばならないとすると、神は、ぺテロが罪を犯すということ、ユダが呪われるということを決定したのではなく、神は、ただ罪を犯すことになっている(もちろん、必然的にではなく、自由な仕方でだが)ペテロや、呪われることになっているユダが、他の可能的なものにまさって、存在に達するようにと決定したにすぎない。言い換えると、可能的概念が現実化するように決定されたにすぎない。そして、ペテロの未来の救いが、彼の永遠の可能的概念に含まれているとしても、それは恩寵の協力なしにはない。というのは、この可能的なペテロの同じ完全な概念のうちにも、ペテロに与えられことになっている神の恩寵の協力が可能性の契機において☆5含まれているからである。
 すべての個体的な実体は、自らの完全な概念の内に全宇宙を含んでおり、そして過去・現在・未来に存在するすべてのものを含んでいる。というのは、他のものから何らかの真の規定ーー少なくとも、比較とか関係という規定ーーを付与されない事物はないからである。しかし、純粋に外的な規定は存在しない。同じことを私は互いに呼応し合う他の多くの仕方で示した。
 さらに、すべての創造された個体的な実体は、同じ宇宙の様々な表出(expressio)である。そして、同一の普遍的原因、すなわち神の表出である。しかし、同じ町の様々な表現や遠近法図が様々な点から表される場合と同じように、これらの表出も完全性においては様々である。
 すべての創造された個体的な実体は他のすべてのものに、物理的な作用と受動作用を及ぼす。というのは、ある一つのものに変化が生じれば、他のすべてのものにおいても、規定が変化するために、それに呼応する何らかの変化が生じるからである。このことは私達が自然を観察することから確証することができる。というのは、液体で一杯になった容器(全宇宙とはこの様な容器である)のうちで、まん中に運動が生じると、確かに起源から遠ざかるにつれて運動はだんだん感覚できないものになっていくけれども、運動は周辺に広かっていくからである。
 形而上学的な厳密さで言えば、いかなる被造的な実体も、他のものに形而上学的な作用、換言すれば流入(influxus)を及ぼすことはない。というのは、どのようにして、ある一つのものからもうー方の実体に何物かが移行するのかを説明できないということは措くにしても、すべての未来の状態が、各々の事物の概念から帰結することは既に示しておいたからである。形而上学的な厳密さで言えば、私達が原因と言うのは、協調し合う諸要件(requisita)にすぎない。同じことは自然のの観察によって例証される。というのは、実際、物体が他の物体から退くのは、自ら固有の弾性力によってであって、外的な力によってはない。ただし、弾性力(これはその物体そのものに内的なものから生じる)が作用し得るために、他の物体が要件になることはあるのだが。
 また、精神と身体の区別があるとしても、一般に言われる流入の仮説ーーこれは理解不可能であるーーを用いないで、そして機会原因の仮説ーー機械仕掛けの神(Deus ex machina)を呼び入れるーーを用いないで、両者の結び付きを説明できる。というのは、神は初めから、精神と身体を同じように多くの叡智と技巧をもって作ってでおいたので、一方に生じることはすべて、その最初の構成または概念からそれ自体で、あたかも一方かち他方に移行が生じているかのように、もう一方で生じることと完全に対応するようになっている。これを私は、併起の仮説(Hypothesis concomitantiae)と呼ぷ。この仮説は、全宇宙のすべての実体にも当てはまることだが、精神と身体の場合のように、すべてのものにおいても感覚されるとは限らない。

 真空はない。というのは[真空があるとすると]空虚な空間の様々な部分が完全に類似したそして相同なものになってしまい、互いに区別されず、したがって数においてのみ区別されることになってしまうが、それは不合理なことだからである。同様の仕方で、空間も時間も事物(massa)ではないことが証明される。
{延長即ち大きさ、形態、それらの変化しか内在していない物体的実体はない。というのは、互い完全に類似した物体的実体が存在することは不合理だからである。ここから、物体的実体の内には、精神に類比的なものーー形相とも言われるーーのあることが帰結する。}
 アトムはない。逆に、どのように小さな物体も現実的に下位分割(subdivisum)されている。全宇宙のあらゆる他のものから作用を受け、すべてのものからある影響で(これは物体の内に何らかの変化を引き起こすはずだが)を受容している限り、過去の印象をすべて保存し、未来の印象を予め含んでいる。もしある人が、その結果はアトムが受け入れる運動の内に含まれていていて、アトム全体が分割されずに、結果を受け入れるのだ、と言うならば、次のように答えることができる。アトムにおいては、結果が宇宙の全印象から生じるばかりでなく、今度はまた全宇宙の状態がアトムから推理されねばならなくなる。原困はこのような仕方で結果から推理できる。しかし、アトムの形態と運動だけからでは、[ いくら原因を遡行しても]も、どのような印象を受けることでその結果に達したのかを推理できない。なぜならば、同一の運動が別の印象によって得られることも可能だからである。そして、或る小ささの物体がそれ以上分割できないのはなぜかという理由が与えられなくなることは言うまでもないことである。
 ここから、次のことが帰結する。宇宙のいかなる小さいところにも、無限に多くの被造物を含む世界があるということである。しかし、連続体は点に分割されることはなく、考えられるいかなる方法によっても点に分割されることはない。点に分割されないというのは、点が部分ではなく、限界(terminus)だからである。考えられるいかなる方法によっても分割されないといぅのは、すべての被造物が同一のものの部分として存在しているのではなく、ただ[どこまで分割していっても〕被造物が無限に次々と見いだされるだけだからである。したがって、それはちょうど、直線とその二分された部分を想定する者は、三分され他部分を想定する者とは、別の分割を行うことになるのと同様なのである。
 事物の内には決定された現実的形態は存在しない。というのは、無限の印象に見合うような形態など存在しないからである。
 それで、円も楕円も私達が定義できる線も知性によってあるにすぎないのである。また、引かれる以前の線とか分割される以前の諸部分でも同じである。
 {空間、時間、延長、運動は事物ではなく、基礎を有する考察様態(modus considerandi)である。} 
 延長、運動、これら二つのものからのみ成立している限りでの物体は、実体ではなく、虹とか蜃気楼と同様に、真なる現象である。というのは、形態は客観的(a parite rei)存在しでいるのではないし、また物体は、延長としてのみ考察されている場合には、1つの実体ではなく、複数のものだからである。
 延長を欠く或るものである。そのようなものがなければ、諸現象の実在性の原理とか真の一性の原理はないことになろう。その際、常に多なる諸物体があって、一なるものはないことになり、従って実際には多なるものも無いことになろう。コルドモア☆6 は似たような議論で、アトムの存在を証明した。しかし、これらのもの〔=アトム〕は排除されたから、延長を欠く何物か、精神に類比的なもの、かつて形相(forma)とか形象(spacies)と呼ばれていたものが残ることになる。
 物体的実体は、創造と絶滅(annihilatio)による以外は、生じることも滅することもありえない。というのは、持続していれば、変化の理由がない以上、常に持続するだろうし、物体の諸部分の分解も、その破壊とは何も共通なところを持たないであろう。従って、精神を持つものは、生じることも滅することもなく、ただ変転するだけである。



注:

☆1 例えば、アリストテレス『分析論後書』弟1巻第4章等を挙げることが出来る。また、ライブニッツの『結合法論』(1666)には、「アリストテレスは、Omne α est βという命題を、β inest omni αと言い表すのを常としていた」(GP.IV.52)と書いてあり、アリストレスの著作の特定の箇所が念頭に置かれていたのではないと考えることもできる《本文に戻る》

☆2  他の場所では次のように述べられている。「与えられたものが秩序づけられているに応じて、求めらているものも秩序づけられている。(Datis ordi natis etiam quaesita sunt ordinata.)」(GP.Ⅲ.52)「仮説において両側のものが総て同じ様になっているならば、結論においてはいかなる差異もあり得ない。」(C.389)《本文に戻る》

☆3 トマス=アクィナス『神学大全』第−部問50第4項。またここで述べられている「分離された知性体」とは、質料を欠いている知性体、つまり天使のことである。《本文に戻る》

☆4 次の箇所を参照。「次のことの考察は、哲学においも神学においても極めて重要である。つまり、事物相互の結びつき(connexio)によって純粋に外的な規定はないということである。そして、二つの事物が場所と空間においてのみ異なることはあり得ず、常に何らかの内的差異が関与してくる。」(C.8)《本文に戻る》

☆5 原文では、sub notione possibilitatis となっている例から考えて、sub ratione possibilitatis として考える。また、ここで用いられているsub ratione という表現は、考察様態(modus considei andi)を表すものである。《本文に戻る》

☆6 Geraud de Cordemoi(1620-84)デカルト派の哲学者。
著書に『精神と身体の区別に関する哲学的論考』(Dissertaton philosophique sur le discernement del'ame et du corps,1666)がある。
《本文に戻る》



参考:
http://russell.cool.ne.jp/03T-POST.HTM
以下上記サイトより、ラッセル『ライプニッツの哲学』あとがきの引用。

 即ち、ラッセルは全くこの第二版序文の冒頭で、クーチュラーの「未刊の作品と断片」の「第一真理」五一八頁〜五二三頁の箇所を引用して、モナド論のすべての主要な説が演繹される前提となしている。それは

それ故、常に賓辞、即ち結果は、主辞、即ち、先立つものの中に存在する。そしてこの事の中に一般に真理の本性が存する。更に、あらゆる肯定的真理においては、その真理が、全称的であれ、単称的であれ、必然的であれ、必然的であれ偶然的であれ、この事は本当だ。

 という箇所である。ここで問題の主辞と賓辞との一致不一致は、一般には、矛盾律に基いて験せられるけれども、現実的な主辞の実存を主張する命題においては、その偶然性の根拠は、矛盾律のみでは不十分であって、更に充足理由律の適用を受けて、主辞、賓辞の一致の説が保持される。この充足理由律は、主辞の実存の偶然性のみならず、異なった時間におけるその主辞の状態を表現する如何なる二つの賓辞間の偶然的な結合をも根拠づける事によって、かかる主辞が個別的な全体として、その全状態としての賓辞を時間を越えて含む事となる。個別的な実体に本質的な活動性とは、その全賓辞を理解し、演繹するに足る極めて完全な概念を実体が持っているという事である。この活動性の演繹を通じて、如何なる二実体も完全に同じではあり得ない事を結論し、ここで我以外の対象の世界の前提の導入によってモナドが導出されるのである。これがラッセルがライプニッツに見出したモナドの演繹の順序である。ところで興味深い事は、ハ イ デ ッ ガ ーは、その周知の名著「根 拠 の 本 質 」(Vom Wesen des Grundes, 一九二九)の第一章で、ラッセルが二版序文で引用した右と同じ箇所を自己の根拠問題の手懸りとして、已に引用しているという事である。ハイデッガーは、ラッセルと異なり充足理由の演繹は我々の目的ではないとして、主辞賓辞の一致は何ものかの根拠の下にのみ一致でありうるとなし、主辞−賓辞の言表関係の根拠を陳述命題より更に根源的な事実に求めるのである。この事実こそ彼によって、根拠の本質、即ち現存在の超越作用として語られるものである。
 事実を事実としてとらえるのは歴史的認識の立場である。然し、更に事実の根拠を問う所に哲学の立場が存する。という事は事実を如何なる場所においてとらえるかという事である。



資料:

"Leibniz behauptet, daß nicht zwey
Blätter einander völlig ähnlich seyn."
Stich nach Schubert, 1796
http://www.lehrer.uni-karlsruhe.de/~za146/barock/leibniz1.htm

「識別できない二つの個物はありません。 私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて、ヘレンハウゼン(Herrenhausen)の庭の中、選帝侯婦人の御前で私と話をしていたときのことでありますが、そのとき彼は全く同じ二つの葉を見つけられると思っていました。 選帝侯婦人はそんなことは出来ないとおっしゃいました。 そこで彼は長い間駆けずり回って探したのですが無駄でした。 顕微鏡で見られれば二つの水滴とか乳滴も識別され得るでしょう。」
(1716年6月2日クラーク宛第4書簡)

「互いに完全に似ている二つの卵、完全に似ている二つの葉とか草は庭の中には見いだされない。従って、完全な類似性は非充足的な抽象的な概念においてしか生じないが、その場合事物は、あらゆる仕方においてではなく、ある一定の考察様式に従って考察されているのである。」
「第一真理」(生前未発表)
http://nam-students.blogspot.com/2009/01/primae-veritaes.html#%E5%A4%A9%E4%BD%BF


【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium,principle of the identity of indiscernibles 】
 (『モナドロジー』9など)
 [自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kinsei/kinsei02g.html

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html


Leibniz mit Herzogin Sophie, Karl August von Alvensleben und zwei Hofdamen im Herrenhäuser Garten. Illustration aus einer 1795 erschienenen Leibniz-Biographie von Johann August Eberhard

# Leibniz-Biographien. (Enth.: Gottfried Wilhelm Freyherr von Leibnitz / Johann August Eberhard. - Lebensbeschreibung des Freyherrn von Leibnitz / Johann Georg von Eckhart). Hildesheim ; Zürich ; New York: Olms 1982. ISBN 3-487-07239-4

http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Leibniz_und_Alvensleben.jpg&filetimestamp=20070325202518

http://de.wikipedia.org/wiki/Karl_August_I._von_Alvensleben

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/Leibniz_und_Alvensleben.jpg

ヘレンハウゼン(Herrenhausen)の庭


Die anstelle eines einfachen Jagdschlosses
errichtele Sommerresidenz der hannover-
schen Herzoge war mit dcm GroBen Garten
Ort nicht nur des Hoflebens, sondern auch
zahlreicher Gesprache zwischen der Kurfur-
stin Sophie und Leibniz. Koi. Kupferstich
von N.Parr, um1745.
Hannovcr, Historischcs Muscum


LEIBNIZ UND EUROPA
pp.52


追記:
バッハが生まれる20年ほど前、ライプニッツはライプツィヒ、ローゼンタールの森で思索したという。

「私は自分が15才で、ライプツィヒのローゼンタールの森を独りで散歩していた時のことを思い出す。その時私は(スコラ哲学者たちの)実体的形相を固守し続けるべきかどうか思索していたのである。その結果、機械論が勝利を収め、私は数学研究に向かうことになった。」ニコラ=フランソワ・レモン宛書簡より
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html
http://homepage3.nifty.com/hiraosemi/li.htm

参考:岩波文庫『形而上学叙説』p10-11、シュプリンガー『ライプニッツ』p189 、『ライプニッツの普遍計画』p35                                                        

参考画像:
↓『哲学の歴史5』(中公新社、p523)より



Johann David Schubert ,1795