水曜日, 5月 26, 2010

「サッカーとは、一つの言語であり、それを駆使する詩人や散文家もいるのだ。」

丸山真男に『後衛の位置から』という著作がある。あとがきを読むとこの後衛は、1974年W杯のベッケンバウアーを意識した言葉であるということが分かる。1974年と言えばクライフの活躍した年だから一般の好みとちょっとずれるが知識人のサッカー好きは丸山をはじめ枚挙にいとまがない。クライフに関してはアナーキズムの思想とも繋がるし(トータルフットボールに関しては『ヨハン・クライフ』中公文庫が必読)、最近言及されるFCバルセロナは創設からしてスペイン革命と関わっているから(カンテラ育ちと世界中から買った選手が半々というのも理想的だ)、知識人のサッカーへの言及にも歴史的な正当性がある。
意外に言及が少ないのが1970年のW杯だが、これには以下のようなパゾリーニの言及があり、興味深い。ちなみに草サッカーにおけるパゾリーニのポジションはFWだったそうだ。


パゾリーニはこの中で、価値判断はしないと言いながらも、ブラジルのドリブル中心のサッカーを賞讃している。

特集 フットボール宣言(「ユリイカ」2002年6月号pp135-139)より

サッカーとは、一つの言語であり、それを駆使する詩人や散文家もいるのだ。


ピエール・パオロ・パゾリー二 訳 芝田高太郎

 ジャーナリストから文学者を、またサッカー選手からジャーナリストをわざとらしく区別する言語学的な諸問題についての目下の論争の中で、私はある親切なジャーナリストから、雑誌『エウロペーオ』のためのインタヴューを求められた(1))。しかし、雑誌に載った私の答えは少し削られて不十分なものになつてしまった(ジャーナリスティックな要求によって!)。この話題は気に入っているので、もう少し落ち着いて、発言に完全な責任をもって、いま一度取り組んでみたい。
 言語とは何か? この問いに、記号学者は今日ではより厳密に「記号の体系」と答える。
 しかしこの「記号の体系」は必ずしも書かれ話される言語(今われわれが、私が書く形で、そして読者であるあなたが読む形で、使っているこの言語)だけではない。
「記号の体系」は多くのものでありうる。ひとつのケースを考えてみよう。私と、読者であるあなたが、とある部屋にいて、そこにギレッリ(2)とプレーラ(3)もいるとする、そしてあなたは私にギレッリについて、プレーラが聞いてはならない何かを言いたい。そうなればあなたは私に言葉による記号の体系を用いて話すことはできない。あなたは仕方なく別の記号体系を採用しなければならない。たとえば、身振りのそれを。で、あなたは目つきや口の形を歪め、手を震わせ、足で何かを示そうとしたり、等々を始める。あなたはある「身振りによる」談話の暗号製作者なのであり、それを私が解読するわけである。このことはわれわれがある身振りの記号体系の「イタリア的な」コードを共有することを意味する。
 もうひとつの言葉に依らない記号の体系は絵画のそれである。あるいは映画のそれである、あるいはモードのそれである(この分野の研究の権威ロラン・バルトの研究対象)等々。フットボールというゲームはひとつの「記号の体系」である。つまり、たとえ言葉に依らないとしても、ひとつの言語なのである。なぜ私はこんな話をしているのか(しかも図式的に続けようとしているのか)? なぜなら、文学者の言語とジャーナリストの言語とを、一対一で対立させようとする論争が偽りのものだからである。問題は別なのだ。
 考えてみよう。あらゆる言語(書かれ話される記号の体系)は、全般的なコードを持っている。イタリア語を例に取ろう。私と読者であるあなたは、この記号の体系を使うことで互いに理解しあうが、それはイタリア語がわれわれの共有財産、「交換貨幣」であるからだ。しかし、あらゆる言語は、さまざまな下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持つのである。こうしてイタリア人の医者たちはーー彼らの専門用語を話す時ーーー互いに理解しあうが、それは彼らの各人が医学の言語という下位コードを知っているからだ。イタリア人の神学者たちは神学の専門用語という下位コードを持つが故に互いに理解しあうのである、等々。文学用語もまた、下位コードを持つ専門言語である(例えば、詩においては「希望」(speranza〉と言うかわりに「希(ねが)い」(speme〉と言うことがあるが、われわれの誰もが、こうした滑稽な事態に驚かないのは、文学言語という下位言語が、詩においては、ラテン語的な表現や、古語や、語尾切断等々が使われることを求め、認めていることを知っているからである)。   
 ジャーナリズムは文学言語の一分枝であるに過ぎない。それを理解するためにわれわれは一種の下位のさらに下位コードを利用する。貧しい言葉を使うものの、ジャーナリストは作家に他ならないのであり、彼らは概念や表現を平俗化したり単純化するために、スポーツのジャンルに留まった言い方を使えばーーーいわばセリエBの文学コードを使うのである。プレーラの言語も、カルロ・エミーリオ・ガッダやジャンフランコ・コンティーニの言語に比較すれば、セリエBである。
 そしてプレーラの言語は、イタリアのスポーツジャーナリズムで、最高の権威を資格づけられたものなのだ。
 従って文学言語とジャーナリズムの言語の問に「現実的な」対立は存在しない。ところが、つねに従属的なものであったこの後者が、大衆文化(それは民衆のものではない!!)における活躍によって誉めそやされて、成り上り者よろしく、少々倣慢な要求を持ち出しているのである。しかしここではフットボールに話題を戻そう。
 フットボールは記号の体系、すなわち言語である。フットボールは、まさしくそう名づくべき言語、われわれがただちに比較の対象として措定する、書かれ話jれる言語の全ての基本的な特徴を備えている。
 じっさいサッカーの言語における「語」は、書かれ話される言語における語とまったく同じように形成されている。ところで、この後者の語はどのように形成されているだろうか? それはいわゆる「二重の分節」を通じて、言い換えると、イタリア語においては、アルファベットニー文字にあたる、「音素」の無限の組み合わせを通じて形成されている。
「音素」は従って善かれ話される言語の「最小単位」である。サッカーの言語の最小単位を定義して遊んでみることにしようか?そう、「ボールを蹴るために足を使うひとりの人間」こそがそのような最小単位、そのような「脚素」(さらに進んでみるならば)である。「脚素」の組み合わせの無限の可能性が「サッカーの語」を形成する。そして「サッカーの語」の総体が、正真正銘の統辞論的な規則に律せられるひとつの談話を形成するのである。
「脚素」は二二(つまり、だいたい音素と同数)ある。「サッカーの語」の数は、「脚素」の組み合わせの(あるいは、じつさいには選手と選手の間のボールのパスの)可能性が無限なので、潜在的に無限である。統辞論は、「試合」のうちに表現され、試合は正真正銘の劇的な談話である。
 この言語の暗号製作者は選手であり、観客席のわれわれは、暗号解読者である。つまりわれわれはひとつのコードを共有するのだ。
 サッカーのコードを知らない者はその語(パス)の「意味」も、その談話(パスの総体)の意図も理解しない。
 私はロラン・バルトでもグレマスでもないが、その気になれば、素人として、「サッカーの言語」についてこの手のはるかに説得的な論文を書くことができるだろう。さらに私は、「サッカーにプロップを応用する」と題した立派な論文も書かれうるのではと思うのだ、なぜなら、当然、あらゆる言語と同じように、サッカーには厳密かつ抽象的にコードに律せられる、純粋に「道具的な」瞬間と、「表現的な」瞬間があるからだ。
 じっさい私は先ほどあらゆる言語が様々な下位言語に分節され、そのそれぞれが下位コードを持っている次第を述べた。
 そうなのだ、サッカーの言語についても類の区別をつけることができるのである。サッカーも、純粋に道具的なものから表現的なものになる時点で、さまざまな下位コードを持つのである。
 基本的に散文的な言語としてのサッカーと、基本的に詩的な言語としてのサッカーがありうる。
 よく説明するために、結論を先取りしていくつかの例を挙げよう。ブルガレッリ(6)は散文のサッカーをプレーする。
彼は「リアリズムの散文家」である。リーヴァ(5)は詩のサッカーをプレーする。彼は「リアリズム詩人」である。 
 コルソ(6)は詩のサッカーをプレーするが、「リアリズム詩人」ではない。彼はちょっと呪ワレノ、逸脱的な詩人である。
 リヴエーラ(7)は散文のサッカーをプレーする、が、彼のは詩的な散文、「随筆欄」向きの散文である。
 マッツォーラ(8)も随筆家で、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙に書けるかもしれない。しかし彼はリヴェーラよりもっと詩人である。彼は時々散文を中断して、当意即妙に燈めく銘句をひねり出す。
 よく注意してほしいのは、私が散文と詩の間に価値の区別をつけているのではないことである。私のつけている区別は純粋に技術的なものだ。
 しかしここで了解しておきたい。イタリア文学は、特に最近、「随筆欄」の文学である。それは優雅で、極端な場合審美的である。その基調は、ほとんどいつも保守的で少し地方主義的で、……要するにキリスト教民主党的なのだ。最も専門的で取りつきにくいものも含めて、ある国で話されている全ての言語には、ひとつの共通する土壌というものがある。それはその国の「文化」であり、その国の歴史的現実である。
 こうして、まさに文化・歴史上の理由によって、いくつかの人民のサッカーは基本的に散文である。リアリズムの散文か詩的散文(この後者がイタリアの場合)だ。いっぼう他のいくつかの人民のサッカーは基本的に詩である。
 サッカーには完全に詩的な瞬間がある、「ゴール」の瞬間だ。あらゆるゴールはつねに発明であり、つねにコードの転覆である。あらゆるゴールは避けがたい事であり、閃きであり、驚愕であり、後戻りのできない事である。詩の言葉とちょうど同じように。あるシーズンの最多得点者はつねにその年の最良の詩人なのである。現時点で、それはサヴオルディ(9)だ。最も多くのゴールを表現するサッカーは最も詩的なサッカーなのだ。
「ドリブル」もまた、それじたい詩的である(ゴールの動きのように「つねに」ではないにしても)。じつさいあらゆる選手の夢(それはあらゆる観客と共有される)は、ピッチの中央から始めて、全員をドリブルで抜いた末にゴールすることなのだ。もし、認められる範囲内で、サッカーにおいて崇高な出来事が想像できるとすれば、まさにこれがその出来事である。しかし、じつさいノには起こらない。これは夢なのである(私は唯一フランコ・フランキの『ボールの魔術師たち』(10)の中でそれが表現されるのを見ただけだが、洗練されないレヴュルのものとはいえ、完全に夢幻的になり得ていた)。
 世界最良の「ドリブラー」、世界最良の得点者は誰だろうか?ブラジル人だ。つまり彼らのサッカーは詩のサッカーなのだ。そして彼らのサッカーはじっさい完全にドリブルとゴールに基づいている。
 カテナッチョと三角パス(プレーラはこれを幾何学と呼ぶ)は散文のサッカーである。それはじっさい統辞論に、言い換えると集団的な秩序だったプレーに、つまりコードの理性的な実行に基礎を置いている。その唯一の詩的な瞬間はカウンターと、それに附随する「ゴール」(すでに我々が見たように、ゴールは詩的でしかあり得ない)だ。要するに、サッカーの詩的な瞬間というものは(決まってそうであるとおり)個人主義的な瞬間のようだ(ドリブルとゴール、あるいはインスピレーションに富んだパス)。
 散文のサッカーはいわゆるシステムのサッカーである(ヨーロッパサッカー)。その図式は次のようになる。


 この図式におけるゴールは、可能であれば、リーヴァのような「リアリズム詩人」に結末を委ねられるが、コードの規則に従って実行される、一連の、「幾何学的な」パスに基礎を置いた、集団的なプレーの組織から生まれるものでなければならない(この点でリーヴァは完壁だ。しかしこうしたプレーは、少し審美的な完成であって、イギリスやドイツの中盤選手に見られるような、リアリスティックな完成ではないので、ブレーラは好まない)。
 詩のサッカーはラテン・アメリカのサッカーである。その図式は次のようになる。



 これは実現されるためには、途方もないドリブルの能力を要求せずにはおかない図式である(これがヨーロッパでは「集団的な散文」の名のもとに見下されているのだ)。そしてゴールは誰によっても、どんなポジションからでも創出されうる。もしドリブルとゴールがサッカーの個人主義的・詩的瞬間であるとすれば、まさしくブラジルサッカーは詩のサッカーなのだ。価値の区別をつけず、純粋に技術的な意味で、メキシコにおいてイタリアの審美的散文は、ブラジルの詩に打ちまかされたのである。




 訳註
 (1)『エウロペーオ」誌一九七〇年一二月三一日号掲載の、グイード・ジェローザによるインタヴュー記事「トロイの戦争は続く。ピエール・パオロ・パゾリーニ、オレステ・デル・ブォーノ、ジャンシーロ・フェッラータへのインタヴュー」。
 (2)アントニーオ・ギレッリ(Antonio Ghirelli)。ジャーナリスト。「カルチョ・イッルストラート」『トゥットスボルト」ココツリエーレ・デッラ・セーラー各紙の編集長を務めた。
 (3)ジャンニ・プレーラ(Gianni Brera 1919-1992)。「ガゼッタ・デッロ・スボルト』と「グエリン・スポルティーヴォ誌の編集長を務めたスポーツジャーナリスト。何冊かの小説も書いている。
 (4)ジャーコモ・プルガレッリ(Giacomo Burgarelli)。一九五九一九七五年セリエAのボローニャ所属。
 (5)ルイージ・リーヴァ (Luigi Riva)
。カリアリ所属。一九六六−六七、六人−六九、六九−七〇シーズン、セリエA得点王。
 (6)マーリオ・コルソ(Mario Corso)。一九五八−七五年に、セリエAのインテルおよびジエノアに所属。
 (7)ジャンニ・リヴューラ(Gianni Rivera)。ACミラン所属。一九七二−七三年シーズ′ン、セリエA得点王。
 (8)アレッサンドロ・マッツォーラ(Alessandro Mazzola)。インテル所属。一九六四−六五年のシーズンにおけるセリエA得点王。
 (9)ジュゼッペ・サヴオルディ (Giuseppe Savoldi)。一九六五−八〇年にセリエAのアクランタ、ボローニヤ、ナポリに所属。一九七二−七三年シーズン得点王。
 (10)マーリノ・フウレンティ (Marino Laurenti)による映画作品。正確な邁は、「二人のボールの魔術師』(I due maghi del pallone)。フランコ・フランキ、チッチョ・イングラッシア出演。

*サッカー選手に関しては、小島友仁氏に情報提供していただきました。
(訳者)
                (訳=しばた こうたろう・イタリア文学)



Title; Il calcio((e))un linguaggio con i suoi poeti e prosatori. in Pasolini saggi sulla letteratura e sull'arte
Author; Pier Paolo Pasolini
@1999 Amoldo Mondadori Editore



 (5)ルイージ・リーヴァ 
 (7)ジャンニ・リヴューラ
 (8)アレッサンドロ・マッツォーラ

この三人は1970年のW杯決勝に出場している。

月曜日, 5月 10, 2010

アドルノと音楽

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%
82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AB%E6%9D%AF%E3%82%92%E5%B7%
AE%E3%81%97%E5%87%BA%E3%81%99%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B1

ウォーターハウス『オデュッセウスとセイレン』(Ulysses and the Sirens)1891



アドルノの否定弁証法は、音楽とのアナロジーでとらえるとわかりやすい。

哲学 カント ヘーゲル  マルクス?    アドルノ   アイスラー?
    |  (弁証法)(唯物論的弁証法)(否定弁証法)
    |____|    |        |
      |       |        |
音楽  ベートーベン   シェーンベルク  マーラー   
   (ソナタ形式)

シェーンベルクについてもアドルノは書いているが(参照『新音楽の哲学』86頁)、マーラ
ー論が秀逸だと思う。新音楽(シェーンベルク等)以前の主観的音楽がアドルノの趣味と合致
するのだろう。
そのマーラー論を読むと、アドルノのヘーゲルに逆らいつつも魅かれている様子がよく分かる。


詳細な図だと(アドルノはアイスラーと対応させた)、

     音 楽      |   哲 学
              |
バッハ           |ライプニッツ(モナド)
 |            |
モーツァルト(イタリア的) |         
『ドンジョバンニ』     |    (キルケゴール)
 |            | 
 |            |カ ン ト
ベートーベン(ソナタ形式) |
 前/後期 (地方ドイツ的)|ヘーゲル(弁証法)
 |     |      |
 |    シューベルト  |
 |    (ハンガリー的)|
 |            |
 |_ワーグナー(唯名論的 |ショーペンハウアー
 |      ロマン主義)|
 |            |
 |_ブラームス_____ |
 |_ブルックナー(素朴)||
 |           ||
 |_マーラー      ||フロイト(自我=エス)
 |           ||
 |ドビュッシー(印象派)||ベルグソン
 |           ||
 | シェーンベルク___||マルクス(唯物論的弁証法)
 |   後期/ジャズ   |
 |            |
ストラビンスキー      |ニ ー チ ェ /マッハ
(退行、野蛮?、      |
 キュビスム)/ジャズ   |
              |
アイスラー         |アドルノ(否定弁証法)

附録:
アドルノの音楽批判の原点にホメーロスがある。

アドルノは『啓蒙の弁証法』でオデュッセウスを論じ、セイレーンについて触れた部分では、オデュッセウスを精神労働、乗組員を肉体労働者としている。神話が啓蒙のはじまりでもあり、啓蒙の行き着く先が神話だとされる。


<オデュッセウスは歌声を聞く。だが、彼はマストにつけられたままだ。(略)自らは歌を聞くことがない仲間たちは、歌の危険を知っているだけでその美を知らない。オデュッセウスと自らを救うために、かれらはオデュッセウスをマストに縛ったままにしておく。(略)縛られている者はいわばコンサート会場にいる。のちの聴衆のように身じろぎもせず、じっと耳を澄まして。(略)こうして先史世界との離別に際して、芸術の享受と肉体労働とは別々の道を歩むのである。>
(岩波文庫『啓蒙の弁証法』p.74-5 及び『現代思想の冒険者たち アドルノ』p.153-4参照。同書p.115によると、ベンヤミンの掌編「フランツ・カフカ」におけるセイレーンについての記述がアドルノのモチーフになっている。)

ちなみに、スピノザは『神学政治論』で社会契約の重要性の一例として船員が約束を守って縄をほどかないエピソードを扱っていた。

動画は『オデュッセウス』(テリー・イングラム監督、2008年)より。原作に忠実なコンチャロフスキー版の方が出来がいいが、セイレーンのエピソードはこの映画にしかない(ただしこの映画は、耳栓用の蜜蝋がなくなるところなど原作に忠実なのは途中までですぐにホラー映画になってしまう。なお超大作のカーク・ダグラス版はセイレーンの描写はあるが残念ながら日本語版が出ていない)。
Ulisse e le sirene (Kirk Douglas - 1954)



さらに重要な作品として、Moses und Aronがある。
シェーンベルクの図像化禁止の主題にチャレンジした傑作を映画化。



その他参考動画:

「キルケゴール〜早くも『ドン・ジョバンニ』に、ワーグナーをまってはじめて音楽的に解放されることになるむき出しの自然の魔力を聴き取り、、、」(『キルケゴール(1933)』p42)


「ベートーヴェンは弁証法的なのだ。その意味がもっとも明瞭なものとなっている作品が、『熱情』の第一楽章である。」(『ベートーヴェン』p95)


「音楽にもとづく音楽を作るという傾向(略)、これらすべては、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』にそのモデルがある。」(『新音楽の哲学』p256-7)


"He refuses to follow Briinnhilde to Valhalla when the Absolute denies him the happiness of individuation that is libelled by Wagner and Schopenhauer alike:

 If I must die I shall not go to Valhalla.
 Let hell hold me fast! "
("In search of Wagner"p142)


「フロイト理論における、自我に対するエスと超自我との了解という事柄は、マーラーにぴったりである。(略)第八交響曲の「過ぎ去りゆくものはすべてただ一つの比喩」の第一稿は、何十年もアルバン・ベルクの家にあったが、トイレットペーパーの上に書かれている。マーラーの隠された衝動は、上部構造を拒絶し、音楽文化の内在が覆い隠しているものへと迫ろうと欲する。」(アドルノ、邦訳『マーラー』p53-4)


「『変わり者のラヴィーヌ将軍』というドビュッシーの前奏曲の表題は、計画的にジャズの理念を先取りしているように思われる。」(『楽興の時』p148)


「この五重奏曲(シェーンベルクop.26)において、ソナタは自らの正体を知り尽くしてしまっている。」(『楽興の時』p214)


「「傑作という観念を馬鹿にしている『兵士の物語』」(『新音楽の哲学』p244)
「ストラヴィンスキーは実際、ニーチェのヴァーグナーに対する敵対関係の過程を最後まで突き詰めたのである。」(『新音楽の哲学』p247)


「『幸福な手』や『ヴォツェック』においては,部分衝動がはっきり名ざしで音楽によって記録されている。(略)これは、ジャズにおいて、「パロディーめいて」あらわれるのとおなじ音色なのである。」(『楽興の時』p158)

「『ヴォツェック』の第三幕に出てくる酒場のシーンは、旋律的・抽象的なリズムが主題的なものとなっている最初の例である。」(『新音楽の哲学』p114)


「階級的感覚を音楽そのものに、つまり作曲の態度に浸透させるという真に数少ない試み(略)〜ハンス・アイスラーの二十年代後半から三十年代前半へかけてのいくつかの作品、、、」(『音楽社会学序説』p115)


参考:
『音楽・メディア論集(1927-68)』p20(フロイト)
『楽興の時(1928-62)』p132(ジャズ,印象主義),148(ドビュッシー/ジャズ),p158(ベルク,ジャズの音色) 
『キルケゴール(1933)』p42(モーツァルト,自然の魔力)
『新音楽の哲学(1949)』p86(シェーンベルク,唯物論),86(ブラームス),87(ワーグナー),90(ジャズ),
 112(シェーンベルク),
 203(ドストエフスキー),210(ムソルグスキー317),227(ユング),232(ショーペンハウアー),
 233(マッハ),247(ストラビンスキー,ニーチェ),251(カフカ),267(印象派),276(ソナタ),277(ヘーゲル),
 301(退行),307(シェーンベルク, 表現主義)
『In search of Wagner(1952)』第十章(ヘーゲル,ショーペンハウアー,ニーチェ)
『プリズメン(1955)』p210(バッハ=融合)
『不協和音(1956)』p284(ヴァーレーズ)
『マーラー(1960)』p44(ブルックナー),53(フロイト),95(ショーペンハウアー),129(ソナタ形式),
 196(プルースト,ニーチェ)
『音楽社会学序説(1962)』p115(アイスラー),118(モーツァルト),243(ブロッホ,地方主義),276(イタリア),335(ベルグソン,
 ドビュッシー),357(ヘーゲル,ベートーベン),359(モナド)
『否定弁証法(1966)』p135(音楽,哲学),21,151,204(ライプニッツ=全体,同一性,統一)
『ベートーヴェン(1993)』p67(カント,へーゲル),102(ヘルダーリン)
『否定弁証法講義』p72(ニーチェ)
『道徳哲学講義』p132,252(ベートーベン),264(イプセン『野鴨』=カント定言命令),181(シラー×)
『アドルノ伝(2003)』p280(ワーグナー),371−2(アイスラー)



追加:
アドルノは「流行歌分析」("Schlageranalysen"1929年、邦訳『アドルノ 音楽・メディア論集』所収)で、珍しく具体的にポピュラー音楽を論じている。

以下、そこに登場する三曲。

『ヴィーデンにちょっといい宿があるんだ』
ZARAH LEANDER- "ICH WEIS AUF DER WIEDEN EIN KLEINES HOTEL"(EIN WIENER WALZER) EN VÅRSANTASI


アドルノは上の曲を「エセ印象主義」と手厳しく断じている(p118)。

『ヴァレンシア』ミスタンゲット
Mistinguett Valencia 1926


上の曲の歌詞はボードレールの「パロディ」(p127)だそうだ。

『奥さまお手をどうぞ』ジャック・スミス
Tango: 'I kiss your Hand, Madame' - Jack Smith


「インチキ臭い優雅さ」(p131)と、これまた手厳しい。

総じて歌謡曲における退化にも弁証法を適用させているアドルノの態度には賛否両論あるだろうが、上記の分析はかなり詳しいものでもあるので勉強になった。アドルノに批判的な中村とうよう氏あたりの意見も聞きたい。

上記は、歌謡曲だが、、、

アドルノの言説を分析/総合すると、ジャズはアドルノの記述順には以下の4つの現れ方をする(歴史的にはリズムが先と考えるべきだろうが)。
一つ目は音色として表れ(ドビュッシー、ベルク)、
二つ目はそれが大衆に対しては風俗として現れ(ドビュッシー)、
三つ目はシンコペーションとして現れ(ブラームスが先駆、シェーンベルク、ストラビンスキー)、
四つ目は時間の乖離、空間重視として作品構造を支配する原理となって現れる(シェーンベルク、ストラビンスキー)。
1と2、3と4で作曲者名の重複があるのが解りづらい原因だろう。

一つ目の音色に関しては、ドビュッシーに似たコードを使うジャズピアニスト、ビル・エバンズを聴くとよく分かる。
三つ目のリズムに関しては、本来はもっと身体論的な分析が必要だろう。これにはドゥルーズのリズムと拍子は違うという指摘が参考になる(アドルノは拍子しか見ていない)。
重要なのは四つ目で、これはドゥルーズの映画におけるイメージから時間への支配要素の断絶的移行の指摘に似ている。これは両者の力点の置き方が時期的に違うにしても、歴史的な視点の提示として貴重であろう。

まとめると、ジャズは全体の構造として、

リズム+世界観
_________
音色+大衆イメージ

といったように分子/分母が交互に更新すると考えた方がいいかも知れない。

一般にアドルノの理論としては二つ目が一般に知られている。
その結果エリート知識人の単なるジャズ嫌いと受け止められる。

参考:『楽興の時(1928-62)』p132,158(◯ジャズの音色),148(☆エキセントリック)、『不協和音(1956)』p78(*シンコペーション)、『新音楽の哲学(1949)』p90(△ジャズ)

なお、アドルノのテレビ出演はいくつかあるが『アドルノ伝』などの伝記を読んでも詳細がよく分からない。

ベケット論

0:22
「‥人間の切れ端、つまりそもそも自身の自我を失った人間。こうした人間はまさに現実に私たちが生きている世界の産物なのです。 」(『アドルノ伝』邦訳p.454より)
"Optimistisch zu Denken ist kriminell". Eine fernsehdiskusion über Samuel Beckett. ("Frankfurter Adorno Blätter III.")
1968年1月17日ケルンにて収録。


集団行動論
Adorno über Gruppenverhalten

Adorno says (he speaks in very long sentences with hardly no periods):

„ this corresponds exactly to the theory, which sociology has about the term of the „in-group versus the „out-group, where you strengthen the coherence of your own group by bringing up emotions/affects against the „out-group and besides you even have to strengthen your own group, to make it an efficient tool for the fight against the „out-group

-CUT, so that you can see the the back of the presenter-

„I believe that, to comprehend it, you have to remember, that the spectators on the playing fields/in the sports stadiums all over the world behave in a manner towards the foreign team, which are completely contradictory to the rules of hospitality, which usually still apply in a private frame, so that you can say that on sport events, people are xenophobic everywhere and forget about hospitality.

-CUT, in a soccer stadium, german national anthem is played-

feminine voice:

„there's an atmosphere in the stadium
„But it's a dangerous atmosphere among the mass of indivualized, that merge into one mass of people. The atmosphere can turn from one moment to the next into aggression.

参考:
「それぞれのサッカーゲームにおいて既に、それぞれの土地の住人は主人として接待する権利を軽蔑し、
恥知らずにもおのれのチームに歓声を上げるのです。」
(『批判的モデル集1介入』p209) 

「アドルノは,(略)自集団と他集団との厳格な対置に注意を促す。」(『アドルノ伝』p346)



大衆音楽論



1965年ゲーレンとのラジオ討論(『アドルノ伝』p494)


Th. W. Adorno bei einer Vorlesung アドルノ講義 1968

Klärung welche Anarchie Marx ablehnte- nämlich die der anarchistischen Warenproduktion- nicht die Idee einer Freiheit von Herrschaft insgesamt.
マルクスは、商品生産全体の統制からの自由をめざすアナキズムを拒否した、、、?


Theodor_W._Adorno_-_Dokumentation_zweiter_Teil_1〜6より抜粋

     音 楽      |   哲 学         |参照元:『否定弁証法』p21,135(兄弟),151
バ ッ ハ         |ライプニッツ(モナド)    |『プリズメン』p210『音楽社会学序説』p273(バッハ,普遍性),
|     ヘンデル    |               | 359/『否定弁証法』p204(ライプニッツ)
ハイドン   |      |               |            /、バッハ=シェークスピア?
|      |      |               |
モーツァルト(イタリア的) |               |『音楽社会学序説』p115,276    、ゲーテ
|   『ドン・ジョバンニ』|       キルケゴール  | 『キルケゴール』p42
|(ロンド形式/自然の魔術)|               |
|           | |               |
ベートーベン前/後期  | |カ ン ト          |『音楽社会学序説』p276(@地方、ドイツ的),357(カント)
 |(西北地方ドイツ的@| |               | /『道徳哲学講義』p264(イプセン『野鴨』=定言命令)
 |/ソナタ形式)|  | |ヘ ー ゲ ル(弁 証 法) |『新音楽の哲学』p277(ヘーゲル)  、ヘルダーリン
 |       |  | |               |『新音楽の哲学』p276(ソナタ形式) 、イプセン
 |  シューベルト  | |               | 
 | (ハンガリー的) | |               | 『音楽社会学序説』p280
 |  ムソルグスキー | |               | 『新音楽の哲学』p210,317
 | (ロシア)    | |               |
 |          | |               |
ワーグナー(ロマン主義、魔術|ショーペンハウアー      |『アドルノ伝』p280『マーラー』p95   、ボードレール
 |      /唯名論的)|               | 『マーラー』p87『新音楽の哲学』p87,232
 |           ||               | /『音楽社会学序説』p108(ショーペンハウアー?)
 |_ブラームス@*___||               |*シンコペーション『不協和音』p78『新音楽の哲学』p86
 |_ブルックナー(素朴)||               | 『マーラー』p44
 |           ||               |
 |_マーラー______|| フロイト(自我=エス)   | 『マーラー』p53(フロイト),129(ソナタ形式)、プルースト
 |           || /ニーチェ/プルースト   | 『マーラー』P143(シェーンベルク),196(ニーチェ)
 |           ||               |
ドビュッシー(印象主義) || ベルグソン?        |『新音楽の哲学』p267『音楽社会学序説』p335、マラルメ?
/ジャズの理念☆、音色◯ ||               |『楽興の時』p132(◯ジャズの音色),148(☆ジャズの理念)
             ||               |
ストラビンスキー*    ||ユング/マッハ/ニ ー チェ |『新音楽の哲学』p227,233,247(ニーチェ)、ドストエフスキー
  (退行、野蛮?    ||            |  |『新音楽の哲学』p203(ドストエフスキー),301
  /キュビスム)    ||            |  |『新音楽の哲学』p90(△ジャズ)
  /ジャズ△      ||          (反体系)|  『否定弁証法講義』p72(ニーチェ)
             ||            |  |
シェーンベルク*_____||フロイト/マ ル ク ス|  |『メディア論集』p20(フロイト)『新音楽の哲学』p86
表現主義、後期/ジャズ△| |   (唯物論的弁証法)|  | (唯物論),112,307(表現主義),90(△ジャズ)  、カフカ?
            | |            |  |
     ベルク◯___| |            |  |◯ジャズの音色『楽興の時』p132,158(ベルク)
     ヴェーベルン_| | ヘーゲル       |  |『不協和音』p235
     ワイル?     | ブレヒト       |  |『不協和音』p142(歌唱運動),175(プラトン,着想信仰)
アイスラー         |アドルノ(否定弁証法)_|  |『音楽社会学序説』p115『アドルノ伝』p371-2
ヴァーレーズ        |アンナ・フロイト(攻撃者への |『不協和音』p284
              |            同化)|

文学関連参考書:
『ベートーヴェン』p51,96(モーツァルト,ゲーテ),103(ハムレット,ゲーテ),『ベートーヴェン』p102(ヘルダーリン),『道徳哲学講義』p264(イプセン『野鴨』=定言命令)、『Wagner』p90(ボードレール)、『マーラー』p189,196(プルースト、ニーチェ)、『新音楽の哲学』p203(ドストエフスキー)、『新音楽の哲学』p183(ベンヤミン『断片的,カフカ,ジョイス,プルースト』)


追記:

             ホ  メ  ー  ロ  ス         
         |         |
ライプニッツ   | バッハ     | シェークスピア
         |         |
         |_モーツァルト__ _  
カント____  |         | |_ゲーテ
       |_ _ベートーベン__ _|
ヘーゲル___| |         |
         |         |
ショーペンハウアー| ワーグナー   | ボードレール
         |         |
フロイト     | マーラー    | プルースト
         |         |
ベルグソン    | ドビュッシー  | マラルメ?
         |         |
ニーチェ     | ストラビンスキー| ドストエフスキー
         |         |
マルクス     | シェーンベルク | カフカ? 


あるいは、

   ホ  メ  ー  ロ  ス         
         |          |
シェークスピア  | バッハ      | ライプニッツ
         |          |
        _ _モーツァルト   |
ゲーテ____| |         ___カント
       |_ _ベートーベン_| |
         |        |_ _ヘーゲル
         |          |
ボードレール   | ワーグナー    | ショーペンハウアー
         |          |
プルースト    | マーラー     | フロイト
         |          |
マラルメ?    | ドビュッシー   | ベルグソン
         |          |
ドストエフスキー | ストラビンスキー | ニーチェ
         |          |
カフカ?     | シェーンベルク  | マルクス

*音楽(悟性?)が文学(感性)と哲学(理性)の媒介となる。