中国におけるアナキズムは老子の『道徳経』に始まるという人もいる(1)。その場合「小国寡民」などはその代表的主張だといえる(2)。
ただし、より自覚的なそれは1900年以降だとするのが現実的だろう。師復(初期にはテロを志向したがのちに転回)という人物が影響力を持ったという(3)。
師復
中国共産党を作った毛沢東は、スノーとの対話でアナキズムを研究したと語っているし(4)、「小組織、大連合」という1921年の毛沢東のキャッチフレーズ(5)は、アナキストとの連携を意図するものだった。そもそも孫文の時代はアナキズムと共産主義は未分化だったようだ。
毛沢東とともに中国共産党を作った李大釗と胡適(デューイの弟子で、武田泰淳には「E女史の柳」という胡適をモデルの短編小説がある)は「問題と主義」という論争を1919年にしている(6)。
李大劉
胡適
これなどは(主義と無主義の闘いと思われていても)実質的には政治革命と社会革命との論争であって、政治革命の側が勝ち胡適が負けたことになっているが、社会革命の可能性が当時の中国にあったことを逆に語っているのである。
なお、(中国共産党の創始者の一人とはいえ)、李大钊も「战争与人口问题」という論文でプルードン(Proudhon=普鲁东, 普魯東)を引用しているのは特筆すべきだ(「Proudhon氏“战争乃饥馑之子”之言」(7))。これは初期中国共産党がアナキズムからも学んでいたことを示すものだからだ。
また、前出の師復からの影響は、アナキズム陣営が1920年にアナボル論争を李大釗と並んで中国共産党の創設メンバーである陳独秀とおこなうまでになった(日本でも同時期の1919から1922年にかけてアナボル論争があった(3))。こうした論争の意義はあらためて見直すべきだろう(8)。
陳独秀
この時期ボルシェビキズムへ傾斜した主流派となる李大釗と陳独秀側と、そこから離れる胡適(白話文=口語運動に傾注した)といったように、啓蒙主義的な雑誌『新青年』執筆者内部で分裂があったことになる(『狂人日記』を『新青年』に発表した魯迅や周作人もまたも主流派から離れてゆく)。
国際的なネットワークに目を向けると、1903年に『無政府主義』を出版した張継というアナキストなどは、日本に留学したことをきっかけに大杉栄などと交流があったらしい(8)。
20世紀初頭においては中国人アナキストはパリと東京を2大拠点にしていたそうだ(パリグループは教育を重視し「無政府主義は教育を以て革命とする」(8、p31)と主張した)。
ちなみに、魯迅や李大釗らが日本に留学していたことは知られているが、アナキズム側のそうした状況はあまり知られていない。
情報技術のすすんだ現代において、こうした交流がないのは逆に不自然だ。
巴金などの私小説作家をアナキストとする考え方もあるし(大杉栄の追悼文を書いている巴金は(9)、巴金というペンネームの金はクロポトキン(10)のキンからとったという。)、産業民主主義をアナキズムとする見方もある。
巴金
今の中国共産党を批判する前に、こうした幅広い見方を持ったうえで、 中国共産党が転覆した後に備えて、今から民主的な中国人とのパイプを民間で探しておいた方がよいだろう。
1)中国の古典にアナキズムの根拠を見出すのは雑誌「天義報」周辺の考え方。参照:『清末民国初政治評論集』(平凡社)
2)『中国アナキズムの影』(玉川信明、三一書房)
3)『中国黒色革命論 師復とその時代』(嵯峨隆、社会評論社)
4)『中国のアナキズム運動』スカラピーノ著丸山松幸訳、紀伊国屋書店)
↑訳者による解説が有益。
5)一九二一年十一月二十一日‥‥他們接受毛澤東“小組織大聯合”的主張,先後成立了土木、機械、印刷等十多個工會。勞工會從此進入了新的發展時期。
http://www.people.com.cn/BIG5/shizheng/8198/30446/30449/2182246.html6)『中国マルクス主義の源流』(メイスナー著丸山松幸訳、平凡社)。なお、李大釗との論争は西順三・島田虔次編訳『清末民国初政治評論集』(平凡社、1971)において伊藤昭雄訳で参照することが可能。
7)1917年、李大钊がプルードン(Proudhon=普鲁东, 普魯東を引用している(「Proudhon氏“战争乃饥馑之子”之言」)を引用した「战争与人口问题」という論文は以下。
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/71148/71151/4848664.html8)陳独秀に関しては以下(孫文の強権性とロシア革命の重要性が指摘されている)。
http://www.interq.or.jp/leo/sinter/old/pow125.htm(五四運動期のアナキズムに関しては野原四郎著『アジアの歴史と思想』が詳しい。)
9)参照:
嵯峨隆氏の中国アナキスト関連HP、
第16話 大杉栄10)中国のアナキズムもバクーニン、クロポトキンの影響が強く、プルードンの影響は少ない。パリに留学した中には例外↓もあったというが中国本国にはあまり影響がない(『中国アナキズム運動の回想』472頁)。
以下、『中国アナキズム運動の回想』より
「華南のものは純粋なプルードン学派のものであり、マルクス主義に迎合するものではなかった」(『中国アナキズム運動の回想』総和社272頁「解放別録」海隅孤客(梁冰弦) 香港『自由人』1951年初出)。
「先生が特に興味を持ったのはプルードンの学説と連邦主義であった」(『中国アナキズム運動の回想』総和社415頁「李煜瀛(注:=石曾)先生の思い出」ジャック・ルクリュ)。
李石曾