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論語
巻 第一
1、学而第一
01-01
子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎
子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。
先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。[そのたびに理解が深まって向上していくのだから。]だれか友達が遠 い所からからも尋ねて来る、いかにも楽しいことだね。[同じ道について語り合えるから。]人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君主だね[凡人 にはできないことだから。]」
01-02
有子曰、其爲人也、孝弟而好犯上者、鮮矣、不好犯上而好作乱者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝弟也者、其爲仁之本與、
有子が曰わく、其の人と為りや、孝弟にして上(かみ)を犯すことを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すことを好まずしてして乱を作(な)すことを好む者は、未だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちて道生ず。孝弟なる者は其れ仁の本たるか。
有子がいわれた、「その人柄が孝行悌順でありながら、目上に逆らうことを好むような者は、ほとんど無い。目上に逆らうことを好まないのに、乱れを起こすこ とを好むような者は、めったに無い。君子は根本のことに努力する、根本が定まって初めて[進むべき]道もはっきりする。孝と悌ということこそ、人徳の根本 であろう」
01-03
子曰、巧言令色、鮮矣仁、
子の曰わく、巧言令色、鮮なし仁。
先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳は。」
01-04
曾子曰、吾日三省吾身、爲人謀而忠乎、與朋友交言而不信乎、傳不習乎
曾子の曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。
曾子がいわれた、「私は毎日何度も我が身について反省する。人の為に考えてあげて真心からできなかったのではないか。友達と交際して誠実でなかったのではないか。よくおさらいもしないことを[受け売りで]人に教えたのではないかと。」
01-05
子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時、
子の曰わく、千乗の国を道びくに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。
先生がいわれた、「諸侯の国を治めるには、事業を慎重にして信頼され、費用を節約して人々をいつくしみ、人民を使役するにも適当な時節にすることだ」
01-06
子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文、
子の曰わく、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。
先生がいわれた、「若者よ。家庭では孝行、外では悌順、慎んで誠実にしたうえ、だれでも広く愛して仁の人に親しめ。そのようにしてなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ」
01-07
子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣、
子夏が曰わく、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能(よ)く其の力を竭(つく)し、君に事えて能くその身を致(いた)し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾は必ずこれを学びたりと謂わん。
子夏がいった、「すぐれた人をすぐれた人として[それを慕うことは]美人を好むようにし、父母に仕えてはよくその力をつくし、君に仕えてはよくその身をさ さげ、友達との交際ではことばに誠実さがある、[そうした人物なら、だれかが]まだ学問はしていないといったところで、わたしはきっと学問をしたと評価す るだろう。」
01-08
子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、
子の曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如(し)からざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿(な)かれ
先生がいわれた、「君子はおもおもしくなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。[まごころの徳である]忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友達にするな。あやまちがあればぐずぐずせずに改めよ。」
01-09
曾子曰、愼終追遠、民徳歸厚矣
曾子の曰わく、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す。
曾子がいわれた、「[上にたつものが、]親を手厚く葬り祖先をお祭りしていけば、人民の徳も[それに感化されて]厚くなるであろう」
01-10
子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政、求之與、抑與之與、子貢曰、夫子温良恭儉譲以得之、夫子之求之也、其諸異乎人之求之與、
子禽、子貢に問いて曰わく、夫子の是(こ)の邦に至るや、必らず其の政を聞く。これを求めたるか、抑々(そもそも)これを与えたるか。子貢が曰わく、夫子は温良恭倹譲、以てこれを得たり。夫子のこれを求むるや、其れ諸(こ)れ人のこれを求むるに異なるか。
子禽が子貢にたずねていった、「うちの先生(孔子)はどこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談を受けられる。それをお求めになったのでしょうか、そ れとも[向こうから]持ちかけられたのでしょうか。」子貢は答えた、「うちの先生は、温(おだやか)で良(すなお)で恭々(うやうや)しくて倹(つつま) しくて譲(へりくだり)であられるから、それでそういうことに[どこの国でも政治の相談をうけられることに]なるのだ。先生の求めかたといえば、そう、他 人のもとめかたとは違うらしいね[無理をしてことさらに求めるのとは違う。]」
01-11
子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣、
子の曰わく、父在(いま)せば其の志しを観、父没すれば其の行いを観る。三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし。
先生がいわれた、「[人物の評価には]父のあるうちにはその人の志を観察し、父の死後ではその人の行為を観察する。[死んでから]三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる」
01-12
有子曰、禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、小大由之、有所不行、知和而和、不以禮節之、亦不可行也、
有子が曰わく、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美となす。小大これに由るも行なわれざる所あり。和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦た行なわるべからず。
有子がいわれた、「礼のはたらきとしては調和が貴いのである。むかしの聖王の道もそれでこそ立派であった。[しかし]小事も大事もそれ[調和]に依りなが らうまくいかないこともある。調和を知って調和をしていても、礼でそこに折り目をつけるのでなければ、やはりうまくいかないものだ」
01-13
有子曰、信近於義、言可復也、恭近於禮、遠恥辱也、因不失其親、亦可宗也、
有子が曰わく、信、義に近づけば、言復(ふ)むべし。恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかる。因(よ)ること、其の親(しん)を失なわざれば、亦た宗(そう)とすべし。
有子がいわれた、「信[約束を守ること]は、正義に近ければ、ことば通り履行できる。うやうやしさは、礼に近ければ、恥ずかしめから遠ざかれる。たよるには、その親しむべき人を取り違えなければ、[その人を]中心としてゆける」
01-14
子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正焉、可謂好學也已矣
子の曰わく、君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。
先生がいわれた、「君子は腹いっぱいに食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。仕事によくつとめて、ことばを慎重にし、[しかもなお]道義を身に付けた人に就いて[善しあしを]正してもらうというようであれば、学を好むといえるだろうね」
01-15
子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、
子貢が曰わく、貧しくして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)。子の曰わく、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富み て礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢が曰わく、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子の曰わ く、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて来を知る者なり。
子貢がいった、「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのは、いかがでしょうか。」先生は答えられた、「よろしい。だが、貧乏で あっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」子貢がいった、「詩経に『切るが如く、磋るが如く、琢つが如く、磨くが如く、』 と[いやがうえにも立派にすること]うたっているのは、ちょうどこのことでしょうね。」先生はいわれた「賜よ、それでこそ一緒に詩の話ができるね。前のこ とを話して聞かせるとまだ話さない後のことまで分かるのだから。」
01-16
子曰、不患人之不己知、患己不知人也、
子の曰わく、人の己れを知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患(うれ)う。
先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、人を知らないことを気にかけることだ。」
2、爲政第二
02-01
子曰、爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之、
子の曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共(むか)うがごとし。
先生がいわれた、「政治をするに道徳によっていけば、ちょうど北極星が自分の場所にいて、多くの星がその方向に向かって挨拶しているようになるものだ[人心がすっかり為政者に帰服する]」
02-02
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪、
子の曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰わく思い邪(よこしま)なし。
先生がいわれた、「詩経の三百篇、ただ一言で包み込めば『心の思いに邪なし』だ」
02-03
子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以禮、有恥且格、
子の曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥ずることなし。これを道びくに徳を以てし、こてを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且(か)つ格(ただ)し。
先生がいわれた、「[法制禁令など小手先の]政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法の網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってその上に正しくなる」
02-04
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩、
子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。
先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった」
02-05
孟懿子問孝、子曰、無違、樊遲御、子告之曰、孟孫問孝於我、我對曰無違、樊遲曰、何謂也、子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮、
孟懿子(もういし)、孝を問う。子の曰わく、違(たが)うこと無し。樊遲(はんち)御(ぎょ)たり。子これに告げて曰わく、孟孫、孝を我れに問う、我れ対 (こた)えて曰く、違うことなしと。樊遲が曰わく、何の謂(い)いぞや。子の曰わく、生けるにはこれに事(つか)うるに礼を以てし、死すればこれを葬るに 礼を以てし、これを祭るに礼を以てす。
孟懿子が孝のことをたずねた。先生は「まちがえないように」と答えられた。[そのあと]樊遲が御者(ぎょしゃ)であったので。先生は彼に話された。「孟孫 さんがわたくしに孝のことを問われたので、わたくしは『まちがえないように、』と答えた。」樊遲が「どういう意味ですか。」というと、先生はいわれた、 「[親が]生きているときには礼のきまりによってお仕えし、なくなったら礼のきまりによって葬り、礼の決まりによってお祭りをする[万事、礼のきまりを間 違えないということだよ]」
02-06
孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂、
孟武伯、孝を問う。子の曰わく、父母には唯だ其の疾(やまい)をこれ憂えしめよ。
孟武伯が孝のことをたずねた。先生はいわれた、「父母にはただ自分の病気のことだけ心配させるようにしなさい[病気はやむを得ない場合もあるが、そのほかのことでは心配をかけないように。]」
02-07
子游問孝、子曰、今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別、
子游、孝を問う。子の曰わく、今の孝は是れ能(よ)く養なうを謂う。犬馬に至るまで皆な能く養なうこと有り。敬せずんば何を以て別(わか)たん。
子游が孝のことをおたずねした。先生はいわれた「近ごろの孝は[ただ物質的に]十分に養うことをさしているが、犬や馬でさえみな十分に養うということがある。尊敬するのでなければどこに区別があろう」
02-08
子夏問孝、子曰、色難、有事弟子服其勞、有酒食先生饌、曾是以爲孝乎、
子夏、孝を問う。子の曰わく、色難(かた)し。事あれば、弟子(ていし)其の労に服し、酒食あれば先生に饌す。曾(すなわ)ち是れを以て孝となさんや。
子夏が孝のことをおたずねした。先生はいわれた、「顔の表情がむつかしい。仕事があれば若いものが骨を折って働き、酒やごはんがあれば年上の人にすすめる、さてそんな[形のうえの]ことだけで孝といえるのかね」
02-09
子曰、吾與囘言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以發、囘也不愚、
子の曰わく、吾れ回と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるが如し。退きて其の私を省(み)れば、亦た以て発するに足れり。回や愚ならず。
先生がいわれた、「回と一日中、話をしても、全く従順で(異説も反対もなく)まるで愚かのようだ。だが引き下がってからそのくつろいださまを観ると、やはり[私の道を]発揮するのに十分だ。回は愚かではない。」
02-10
子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉捜*哉、人焉捜*哉、
子の曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ捜(かく)さんや、人焉んぞ捜さんや。
先生がいわれた、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたなら、[その人柄は]どんな人でも隠せない。どんな人でも隠せない」
02-11
子曰、温故而知新、可以爲師矣、
子の曰わく、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。
先生がいわれた、「古いことに習熟して新しいこともわきまえれば、教師となれるであろう」
02-12
子曰、君子不器、
子の曰わく、君子は器(うつわ)ならず。
先生がいわれた「君子は器(うつわ)ものではない。[その働きは限定されなくて広く自由であるべきだ。]」
02-13
子貢問君子、子曰、先行其言、而後從之、
子貢、君子を問う。子の曰わく、先ず其の言を行い、而して後(のち)にこれに従う。
子貢が君子のことをおたずねした。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」
02-14
子曰、君子周而不比、小人比而不周、
子の曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。
先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあってひろく親しまない。」
02-15
子曰、學而不思則罔、思而不學則殆、
子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。
先生がいわれた、「学んでも考えなければ[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなければ[独断に陥って]危険である。」
02-16
子曰、攻乎異端、斯害也已矣、
子の曰わく、異端を攻(おさ)むるは斯れ害のみ。
先生がいわれた、「聖人の道と違ったことを研究するのは、ただ害があるだけだ」
02-17
子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也、
子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是れ知るなり。
先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」
02-18
子張學干祿、子曰、多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤、多見闕殆、愼行其餘、則寡悔、言寡尤行寡悔、祿在其中矣、
子張、禄を干(もと)めんことを学ぶ。子の曰わく、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の余りを言えば、則ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見て 殆(あや)うきを闕き、慎みて其の余りを行えば、則ち悔い寡なし。言に尤寡なく行(こう)に悔寡なければ、禄は其の中に在り。
子張が禄を取るためのことを学ぼうとした。先生はいわれた、「たくさん聞いて疑わしいところはやめ、それ以外の[自信の持てる]ことを慎重に口にしていけ ば、あやまちは少なくなる。たくさん見てあやふやなところはやめ、それ以外の[確実な]ことを慎重に実行していけば、後悔は少なくなる。ことばにあやまち が少なく、行動に後悔がなければ、禄はそこに自然に得られるものだ。[禄を得るために特別な勉強などというものはない。]」
02-19
哀公問曰、何爲則民服、孔子對曰、擧直錯諸枉、則民服、擧枉錯諸直、則民不服、
哀公問うて曰わく、何を為さば則ち民服せん。孔子対(こた)えて曰わく、直きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば則ち民服す。枉れるを挙げて諸れを直きに錯けば則ち民服ぜず。
哀公が「どうしたら人民が服従するだろうか。」とおたずねになったので、孔子は答えられた、「正しい人々をひきたてて邪悪な人々の上に位いづけたなら、人民は服従しますが、邪悪な人々をひきたてて正しい人々の上に位づけたなら、人民は服従いたしません。」
02-20
季康子問、使民敬忠以勸、如之何、子曰、臨之以莊則敬、孝慈則忠、擧善而教不能則勸、
季康子問う、民をして敬忠にして以て勧ましむるには、これを如何。子の曰わく、これに臨むに荘を以てすれば則ち敬す、孝慈なれば則ち忠あり、善を挙げて不能を教うれば則ち勧む。
季康子が「人民が敬虔(けいけん)忠実になって仕事に励むようにするには、どうしたものでしょう。」と尋ねたので、先生はいわれた、「荘重な態度で臨んで いけば[人民は]敬虔になります。親に孝行、下々に慈愛深くしていけば[人民は]忠実になります。善を引き立てて才能のない者を教えていけば[人民は]仕 事に励むようになります。」
02-21
或謂孔子曰、子奚不爲政、子曰、書云、孝于惟孝、友于兄弟、施於有政、是亦爲政也、奚其爲爲政、
或るひと孔子に謂いて曰わく、子奚(なん)ぞ政を為さざる。子の曰わく、書に云う、孝なるかな惟(こ)れ孝、兄弟に友(ゆう)に、有政に施すと。是れ亦た政を為すなり。奚ぞ其れ政を為すことを為さん。
或る人が孔子に向かって「先生はどうして政治をなさらないのですか。」といった。先生はいわれた、「書経には『孝行よ、ああ孝行よ。そして兄弟ともむつみ あう。』とある。政治ということにおよぼすなら、それもやはり政治をしているのだ。何もわざわざ政治をすることもなかろう」
02-22
子曰、人而無信、不知其可也、大車無軛*、小車無軛*、其何以行之哉、
子の曰わく、人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり。大車ゲイなく小車ゲツなくんば、其れ何を以てかこれを行(や)らんや。
先生がいわれた、「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅(ながえ)のはしの横木がなく、四頭だての馬車に轅のはしの軛(くびき)止めがないのでは[牛馬を繋ぐこともできない]一体どうやって動かせようか。」
02-23
子張問、十世可知也、子曰、殷因於夏禮、所損益可知也、周因於殷禮、所損益可知也、其或繼周者、雖百世亦可知也、
子張問う、十世(じゅっせい)知るべきや。子の曰わく、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益する所知るべきなり。其れ或は周を継ぐ者は、百世と雖(いえど)も知るべきなり。
子張が「十代さきの王朝のことが分かりましょうか」とおたずねした。先生はいわれた、「殷では[その前の王朝]夏の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加 えたりしたあとがよく分かる。周でも殷の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりしたあとがよく分かる。[だから]もし周のあとを継ぐものがあれば、 たとえ百代さきまででも分かるわけだ。」
02-24
子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也、
子の曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり。義を見て為ざるは勇なきなり。
先生がいわれた、「わが家の精霊でもないのに祭るのは、へつらいである。[本来、祭るべきものではないのだから。]行うべきことを前にしながら行わないのは憶病ものである。[ためらって決心がつかないのだから]」
巻 第二
3、八いつ第三
03-01
孔子謂季氏、八イツ*舞於庭、是可忍也、孰不可忍也、
孔子、季氏を謂(のたま)わく、八イツ、庭(てい)に舞わす、是れをも忍ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。
孔子が季氏のことをこういわれた、「八列の舞をその廟(おたまや)の庭で舞わせている。その非礼までも[とがめずに]しんぼうできるなら、どんなことでも辛抱できよう[私には辛抱できない]」
03-02
三家者以雍徹、子曰、相維辟公、天子穆穆、奚取於三家之堂、
三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以て徹す。子の曰わく、相(たす)くるは維(こ)れ辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)と。奚(なん)ぞ三家の堂に取らん。
三家では[廟(おたまや)の祭りに]雍(よう)の歌で供物をさげていた。先生はいわれた、「[その歌の文句には]『助くるものは諸侯達、天子はうるわしく。』とある。どうして三家の堂に用いられようか。」
03-03
子曰、人而不仁、如禮何、人而不仁、如樂何、
子の曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。
先生がいわれた「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ楽があってもどうしようぞ」
03-04
林放問禮之本、子曰、大哉問、禮與其奢也寧儉、喪與其易也寧戚、
林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子の曰わく、大なるかな問うこと。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め。
林放が礼の根本についておたずねした。先生はいわれた、「大きいね、その質問は。礼には贅沢であるよりはむしろ質素にし、お弔いには万事整えるよりはむしろ[整わずとも]いたみ悲しむことだ」
03-05
子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也、
子の曰わく、夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かざるなり。
先生がいわれた、「夷狄で君主のあるのは、中国で君主のいないのにも及ばない[中国の文化の伝統はやはり優れている]」
03-06
季氏旅於泰山、子謂冉有曰、女不能救與、對曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎、
季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰わく、女(なんじ)救うこと能(あた)わざるか。対(こた)えて曰わく、能わず。子の曰わく、嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山を林放にも如(し)かずと謂(おも)えるか。
季氏が泰山で旅(りょ)の祭りをしようとした。先生が冉有に向かって「お前にはやめさせることができないのか。」といわれると、「できません」と答えたので、先生はいわれた「ああ、泰山が林放にも及ばないと思っているのか」
03-07
子曰、君子無所爭、必也射乎、揖譲而升下、而飮、其爭也君子、
子の曰わく、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ。其の争いは君子なり。
先生がいわれた、「君子は何事にも争わない。あるとすれば弓争いだろう。[それにしても]会釈し譲り合って登り降りし、さて[競技が終わると勝者が敗者に]酒を飲ませる。その争いは君子的だ」
03-08
子夏問曰、巧笑倩兮、美目盻*兮、素以爲絢兮、何謂也、子曰、繪事後乎、子曰、起予者商也、始可與言詩已矣、
子夏問うて曰わく、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目ハンたり、素以て絢(あや)を為すとは、何の謂いぞや。子の曰わく、絵の事は素を後(のち)にす。曰わく、礼は後か。子の曰わく、予(わ)れを起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。
子夏が「『笑(え)まい可愛いや口元えくぼ、目元美しぱっちりと、白さで美しさを仕上げたよ』というのは、どういう意味でしょうか。」とおたずねした。先 生は「絵の場合には白い胡粉で後仕上げをする[ようなものだ]。」といわれると、「[まごころがもとで]礼はあとしあげでしょうか。」といった。先生はい われた、「自分を啓発してくれるのは商だよ。それでこそ君と詩を語ることができるね」
03-09
子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣、
子の曰わく、夏の礼は吾れ能くこれを言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足らざるなり。殷の礼は吾れ能くこれを言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文献、足らざるが故なり。足らば則ち吾れ能くこれを徴とせん。
先生がいわれた、「夏の礼についてわたしは話すことができるが、[その子孫である]杞(き)の国では証拠が足りない。殷の礼についても私は話すことができ るが、[その子孫である]宋の国でも証拠が足りない。古い記録も賢人も十分ではないからである。もし十分なら私もそれを証拠にできるのだが」
03-10
子曰、蹄*自既灌而往者、吾不欲觀之矣、
子の曰わく、テイ、既に灌してより往(のち)は、吾れこれを観ることを欲せず。
先生がいわれた、「テイの祭りで[鬱鬯(うつちょう=きびの酒を地にそそぐ)]灌の儀式が済んでからあとは、私は見たいと思わない」
03-11
或問蹄*之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌、
或るひとテイの説を問う。子の曰わく、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於(お)けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きかと。其の掌を指す。
或る人がテイの祭りの意義をたずねた。先生はいわれた「わからないね。その意義がわかっているほどの人なら、天下のことについても、そら、ここで観るようなものだろうね。」と自分の手のひらを指された。
03-12
祭如在、祭神如神在、子曰、吾不與祭、如不祭、
祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子の曰わく、吾れ祭に与(あずか)らざれば、祭らざるが如し。
ご先祖のお祭りにはご先祖が居られるようにし、神々のお祭りには神々が居られるようにする。先生はいわれた「私は[何かの事故で]お祭りにたずさわらないと、お祭りをしなかったような気がする」
03-13
王孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈、何謂、子曰、不然、獲罪於天、無所祷也、
王孫賈問うて曰わく、其の奧(おう)に媚びんよりは、寧ろ竈(そう)に媚びよとは、何の謂いぞや。子の曰わく、然らず。罪を天に獲(う)れば、祷(いの)る所なきなり。
王孫賈(おうそんか)が「『部屋の神の機嫌とりより、かまどの神の機嫌をとれ。』と[いう諺]はどういうことでしょうか」と尋ねた。[衛(えい)の君主よ りも、権臣である自分の機嫌をとれ、というなぞである。]先生はいわれた、「[その諺は]間違っています。[かまどの神や部屋の神よりも、最高の]天に対 して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです」
03-14
子曰、周監於二代、郁郁乎文哉、吾從周、
子の曰わく、周は二代に監(かんが)みて郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾は周に従わん。
先生がいわれた、「周[の文化]は、夏と殷との二代を参考にして、いかにもはなやかに立派だね。私は周に従おう」
03-15
子入大廟、毎事問、或曰、孰謂聚*人之知禮乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是禮也、
子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひとの曰わく、孰(たれ)かスウ人の子(こ)を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問う。子これを聞きて曰わく、是れ礼なり。
先生は大廟の中で儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が「スウの役人の子供が礼を知っているなどと誰がいったんだろう、大廟の中で一つ一つ尋ねている。」といったが、先生はそれを聞くと「それ[そのように慎重にすること]が礼なのだ。」といわれた。
03-16
子曰、射不主皮、爲力不同科、古之道也、
子の曰わく、射は皮を主とせず。力の科を同じくせざるが為なり。古(いにし)えの道なり。
先生がいわれた、「弓の礼では的を第一とはしない。[各人の]能力には等級の違いがあるからで、[そういうのが]古代のやり方である」
03-17
子貢欲去告朔之餽*羊、子曰、賜也、女愛其羊、我愛其禮、
子貢、告朔(こくさく)の餽*羊(きよう)を去らんと欲す。子の曰わく、賜(し)や、女(なんじ)は其の羊を愛(おし)む、我れは其の礼を愛む。
子貢が[月ごとの朔(はじめ)を宗廟に報告する]告朔の礼[が魯の国で実際には行なわれず、羊だけが供えられているのをみて、そ]のいけにえの羊をやめよ うとした。先生はいわれた。「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、私にはその礼が惜しい。[羊だけでも続けていけばまた礼の復活するときもあろう]
03-18
子曰、事君盡禮、人以爲諂也、
子の曰わく、君に事(つか)うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)えりと為す。
先生がいわれた、「主君にお仕えして礼を尽くすと、人々はそれを諂いだという。」
03-19
定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠、
定公問う、君、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、これを如何。孔子対(こた)えて曰わく、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。
定公が「主君が臣下を使い、臣下が主君に仕えるには、どのようにしたものだろう。」とお訊ねになったので、孔先生は答えられた、「主君が臣下を使うには礼によるべきですし、臣下が主君に仕えるには忠によるべきです。」
03-20
子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷、
子の曰わく、關雎(はかんしょ)楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず。
先生がいわれた、「關雎(かんしょ)の詩は、楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても[心身を]いためることがない。[哀楽ともによく調和を得ている]」
03-21
哀公問社於宰我、宰我對曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戰栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不諌、既徃不咎、
哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我、対(こた)えて曰わく、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人は柏(はく)を以てし、周人は栗(りつ)を以てす。曰 わく、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり。子これを聞きて曰わく、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諌(いさ)めず、既往(きおう)は咎め ず。
哀公が[樹木を神体とする土地のやしろ]社のことを宰我におたずねになったので、宰我は「夏の君は松を使い、殷の人は柏(ひのき)を使い、周の人は栗を 使っています。[周の栗は社で行う死刑によって]民衆を戦慄させるという意味でございます」と答えた。先生はそれを聞くといわれた、「できたことは言うま い、したことは諌(いさ)めまい。[これからはこんな失言をくりかえさぬように。]」
03-22
子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲儉乎、曰、管氏有三歸、官事不攝、焉得儉乎、曰然則管仲知禮乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君爲兩君之好、有反沾*、管氏亦有反沾*、管氏而知禮、孰不知禮、
子の曰わく、管仲(かんちゅう)の器は小なるかな。或るひとの曰わく、管仲は倹なるか、曰わく、管氏に三帰あり、官の事は摂(か)ねず、焉(いずく)んぞ 倹なるを得ん。然らば則ち管仲は礼を知るか。曰わく、邦君(ほうくん)、樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ、管氏も亦た樹して門を塞ぐ。邦君、両君の好(よ しみ)を為すに反沾*(はんてん)あり、管氏も亦た反沾あり。管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。
先生がいわれた、「管仲の器は小さいね。」ある人が「管仲は倹約だったのですか。」というと、「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけ持ちなしで [それぞれ専任をおいて]させていた。どうして倹約といえようか。」「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」「国君は目隠しの塀を立てて門をふさ ぐが、管氏も[陪臣の身でありながら]やはり塀を立てて門の目隠しにした。国君が二人で修好するときには、盃をもどす台を設けるが、管氏にもやはり盃をも どす台があった。管氏でも礼をわきまえているなら、礼をわきまえないものなど誰もなかろう。」
03-23
子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、從之純如也、徼*如也、繹如也、以成、
子、魯の大師に楽を語りて曰わく、楽は其れ知るべきのみ、始めて作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)ちて純如たり、徼*如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり。以て成る。
先生が音楽のことを魯の楽官長にはなされた、「音楽はまあ分かりやすいものです。起こしはじめは[金属の打楽器で]盛んです。それを放つと[諸楽器が]よく調和し、はっきりし、ずっと続いていって、そうして一節が終わります」
03-24
儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、從者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天將以夫子爲木鐸、
儀の封人(ふうじん)、見(まみ)えんことを請う。曰わく、君子の斯(ここ)に至るや、吾れ未だ嘗(かつ)て見ることを得ずんばあらざるなり。従者これを 見えしむ。出でて曰わく、二三子、何ぞ喪(そう)することを患(うれ)えんや。天下の道なきや久し。天、将に夫子(ふうし)を以て木鐸と為さんとす。
儀の国境役人が[先生に]お会いしたいと願った。「ここに来られた君子方はね、私はまだお目にかかれなかったことはないのですよ。」という。供のものが会 わせてやると、退出してからこういった、「諸君、さまよっているからといってどうして心配することがありましょう。この世に道が行なわれなくなって、久し いことです。天の神様はやがてあの先生をこの世の指導者になされましょう。」
03-25
子謂韶、盡美矣、叉盡善也、謂武、盡美矣、未盡善也、
子、韶(しょう)を謂(のたま)わく、美を尽くせり、又た善を尽せり。武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず。
先生が韶の音楽を批評された、「美しさは十分だし、さらに善さも十分だ。」[また]武の音楽を批評された、「美しさは十分だが、善さはまだ十分でない。」
03-26
子曰、居上不寛、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉、
子の曰わく、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾れ何を以てかこれを観んや。
先生がいわれた、「人の上に立ちながら寛容でなく、礼を行いながらつつしみがなく、葬(とむらい)に行ながら哀しまないというのでは、どこを見どころにしたものか、私には分からない」
4、里仁第四
04-01
子曰、里仁爲美、擇不處仁、焉得知、
子の曰わく、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知なることを得ん。
先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。あれこれ選びながら仁をはずれるのでは、どうして智者といえようか」
04-02
子曰、不仁者不可以久處約、不可以長處樂、仁者安仁、知者利仁、
子の曰わく、不仁者(ふじんしゃ)は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽しきに処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
先生がいわれた、「仁でない人はいつまでも苦しい生活にはおれないし、また長く安楽な生活にもおれない。[悪いことをするか、安楽になれてしまう。]仁の人は仁に落ち着いているし、智の人は仁を利用する。[深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。]」
04-03
子曰、惟仁者能好人、能惡人
子の曰わく、惟(た)だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。
先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、[私心がないから、本当に]人を愛することもでき、人を憎むこともできる」
04-04
子曰、苟志於仁矣、無惡也、
子の曰わく、苟(まこと)に仁に志せば、悪しきこと無し。
先生がいわれた、「本当に仁を目指しているのなら、悪いことは無くなるものだ」
04-05
子曰、富與貴、是人之所欲也、不以其道得之、不處也、貧與賎、是人之所惡也、不以其道得之、不去也、君子去仁、惡乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、巓沛必於是、
子の曰わく、富と貴(たっと)きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり。貧しきと賎しきとは、是れ人の悪くむ所な り。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。君子、仁を去りて悪(いずく)にか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)に も必ず是(ここ)に於てし、巓沛(てんはい)にも必ず是に於いてす。
先生がいわれた、「富と貴い身分とはこれは誰でも欲しがるものだ。しかしそれ相当の方法[正しい勤勉や高潔な人格]で得たものでなければ、そこに安住しな い。貧乏と賎しい身分とはこれは誰でも嫌がるものだ。しかしそれ相当の方法[怠惰や下劣な人格]で得たのでなければ、それも避けない。君子は人徳をよそに してどこに名誉を全うできよう。君子は食事をとるあいだも仁から離れることがなく、急変のときもきっとそこに居り、ひっくり返ったときでもきっとそこに居 る」
04-06
子曰、我未見好仁者惡不仁者、好仁者無以尚之、惡不仁者其爲仁矣、不使不仁者加乎其身、有能一日用其力於仁矣乎、我未見力不足者、蓋有之乎、我未之見也
子の曰わく、我れ未だ仁を好む者、不仁を悪くむ者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うること無し。不仁を悪くむ者は、其れ仁を為す、不仁者をし て其の身に加えしめず。能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。
先生がいわれた、「私は、未だ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行ってい る、不仁の人を我が身に影響させないからだ。もしよく一日の間でも、その力を仁のために尽す者があったとしてごらん、力の足りない者など、私は見たことが ない、あるいは[そうした人も]いるかも知れないが・・・・、私は未だ見たことがないのだ」
04-07
子曰、人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣、
子の曰わく、人の過(あやま)つや、各々其の党(たぐい)に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。
先生がいわれた、「人の過ちというものは、それぞれの人物の種類に応じておかす。過ちの内容を観れば仁かどうかが分かる」
04-08
子曰、朝聞道、夕死可矣、
子の曰わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。
先生がいわれた、「朝[正しい真実の]道がきけたら、その晩に死んでもよろしいね」
04-09
子曰、士志於道、而恥惡衣惡食者、未足與議也、
子の曰わく、士、道に志(こころざ)して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与(とも)に議(はか)るに足らず。
先生がいわれた、「道を目指す士人でいて粗衣粗食を恥じるような者は、ともに語るに足らない」
04-10
子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比、
子の曰わく、君子の天下に於けるや、適も無く、莫(ばく)も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ。
先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。[主観を去って]ただ正義に親しんでゆく」
04-11
子曰、君子懷徳、小人懷土、君子懷刑、小人懷惠、
子の曰わく、君子は徳を懐(おも)い、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。
先生がいわれた「君子は道徳を思うが、小人は土地を思う。君子は法則を思うが、小人は恩恵を思う」
04-12
子曰、放於利而行、多怨、
子の曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨み多し。
先生がいわれた、「利益ばかりにもたれて行動をしていると、怨まれることが多い」
04-13
子曰、能以禮讓爲國乎、何有、不能以禮讓爲國、如禮何、
子の曰わく、能く礼譲(れいじょう)を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何。
先生がいわれた「譲りあう心で国を治めることができたとしよう、何の[難しい]ことがあろう。譲り合う心で国を治めることができないなら、礼の定めがあってもどうしようぞ。」
04-14
子曰、不患無位、患所以立、不患莫己知、求爲可知也、
子の曰わく、位なきことを患(うれ)えず、立つ所以(ゆえん)を患う。己を知ること莫(な)きを患えず、知らるべきことを為すを求む。
先生がいわれた「地位のないことを気にかけないで、地位を得るための[正しい]方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、認められるだけのことをしようと勤めることだ」
04-15
子曰、參乎、吾道一以貫之哉、曾子曰、唯、子出、門人問曰、何謂也、曾子曰、夫子之道、忠恕而已無、
子の曰わく、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)以(もっ)てこれを貫く。曾子の曰わく、唯(い)。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曾子の曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
先生がいわれた「参(しん)よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といわれた。先生が出て行かれると、門人が訊ねた、「どういう意味でしょうか」曾子はいわれた、「先生の道は忠恕のまごころだけです」
04-16
子曰、君子喩於義、小人喩於利、
子の曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。
先生がいわれた、「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい。」
04-17
子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也、
子の曰わく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。
先生がいわれた、「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見たときには吾と我が心に反省することだ」
04-18
子曰、事父母幾諌、見志不從、叉敬不違、勞而不怨、
子の曰わく、父母に事(つか)うるには幾(ようや)くに諌(いさ)め、志しの従わざるを見ては、又た敬して違(たが)わず、労して怨みず。
先生がいわれた、「父母に仕えて[その悪いところ認めたときに]おだやかに諌め、その心が従いそうにないと分かれば、さらにつつしみ深くしてさからざず、心配はするけれども怨みには思わないことだ。」
04-19
子曰、父母在、子不遠遊、遊必有方、
子の曰わく、父母在(いま)せば、遠く遊ばす。遊ぶこと必ず方(ほう)あり。
先生がいわれた「父母のおられる間は、遠くへは旅をしないように。旅をするにも必ずでたらめをしないことだ。」
04-20
子曰、三年無改於父之道、可謂孝矣、
子の曰わく、三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし。
先生がいわれた「[父が死んでから]三年の間そのやりかたを改めないのは、孝行だといえる」
04-21
子曰、父母之年、不可不知也、一則以喜、一則以懼、
子の曰わく、父母の年は知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼(おそ)れる。
先生がいわれた、「父母の年齢は知っていなければならない。一つはそれで[長生きを]喜び、一はそれで[老い先を]気づかうのだ」
04-22
子曰、古者、言之不出、恥躬之不逮也、
子の曰わく、古者(こしゃ)、言をこれ出(い)ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥じてなり。
先生がいわれた、「昔の人が言葉を[軽々しく]口にしなかったのは、実践がそれに追い付けないことを恥じたからだ。」
04-23
子曰、以約失之者、鮮矣、
子の曰わく、約を以てこれを失する者は、鮮なし。
先生がいわれた、「つつましくしていて失敗するような人は、ほとんど無い」
04-24
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
子の曰わく、君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す。
先生がいわれた、「君子は、口を重くしていて実践には敏捷でありたいと、望む。」
04-25
子曰、徳不孤、必有鄰、
子の曰わく、徳は孤ならず。必らず隣あり。
先生がいわれた、「道徳は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」
04-26
子游曰、事君數斯辱矣、朋友數斯疎矣、
子游が曰わく、君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば、斯(ここ)に辱(はずか)しめられ、朋友に數すれば、斯に疎(うと)んぜらる。
子游がいった、「君にお仕えしてうるさくすると[いやがられて君から]恥辱をうけることになるし、友達にもうるさくすると疎遠にされるものだ」
巻 第三
5、公冶長第五
05-01
子謂公冶長、可妻也、雖在縲紲之中、非其罪也、以其子妻之、
子、公冶長を謂わく、妻(めあ)わすべきなり。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえ)ども、其の罪に非らざるなりと。其の子(こ)を以てこれに妻わす。
先生は公冶長(こうやちょう)のことを「妻どりさせてよい。獄中につながれたことはあったが、彼の罪ではなかった」といわれ、そのお嬢さんをめあわせられた。
05-02
子謂南容、邦有道不癈、邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之、
子、南容を謂わく、邦に道あれば廃(す)てられず、邦に道なければ刑戮に免れんと。其の兄の子(こ)を以てこれに妻(めあ)わす。
先生は南容のことを「国家に道のあるときはきっと用いられ、道の無いときにも刑死にふれることはない。」といわれ、その兄さんのお嬢さんをめあわされた。
05-03
子謂子賎、君子哉若人、魯無君子者、斯焉取斯、
子、子賎を謂わく、君子なるかな、若(かくのごと)き人。魯に君子なかりせば、斯れ焉(いず)くにか斯れを取らん。
先生は子賎(しせん)のことをこういわれた、「君子だね、こうした人物は、魯に君子がいなかったら、この人もどこからその徳を得られたろう」
05-04
子貢問曰、賜也何如、子曰、女器也、曰、何器也、曰、瑚嗹*也、
子貢、問うて曰わく、賜(し)や何如。子の曰わく、女(なんじ)は器なり。曰わく、何の器ぞや。曰わく、瑚嗹*なり。
子貢がおたずねして、「賜(し)[この私]などはどうでしょうか」というと、先生は「お前は器だ」といわれた。「何の器ですか。」というと、「[宗廟(おおたまや)のお供えを盛る貴重な]瑚嗹の器だ。」といわれた。
05-05
或曰、雍也、仁而不佞、子曰、焉用佞、禦人以口給、屡憎於人、不知其仁也、焉用佞也、
或るひとの曰わく、雍や、仁にして佞(ねい)ならず。子の曰わく、焉(いずく)んぞ佞を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てすれば、屡々(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。
或る人が「雍は、仁だが弁が立たない[惜しいことだ]。」といったので、先生はいわれた、「どうして弁の立つ必要があろう。口先の機転で人をおしとめているのでは、人から憎まれがちなものだ。彼が仁かどうかは分からないが、どうして弁の立つ必要があろう」
05-06
子使漆雕開仕、對曰、吾斯之未能信、子説、
子、漆雕開(しつちょうかい)をして仕えしむ。対(こた)えて曰わく、吾れ斯れをこれ未だ信ずること能わず。子説(よろこ)ぶ。
先生が漆雕開を仕官させようとされたところ、答えて「私はそれに未だ自信が持てません」といった。先生は[その向学心のあついのを]喜ばれた。
05-07
子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由也與、子路聞之喜、子曰、由也、好勇過我、無所取材、
子の曰わく、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其れ由(ゆう)なるか。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子の曰わく、由や、勇を好むこと我れに過ぎたり。材を取る所なからん。
先生がいわれた、「道が行なわれない、[いっそ]いかだに乗って海に浮かぼう。私についてくるものは、まあ由かな。」子路がそれを聞いて嬉しがったので、先生はいわれた「由よ、勇ましいことを好きなのは私以上だが、さていかだの材料はどこにも得られない。」
05-08
孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也、叉問、子曰、由也、千乘之國、可使治其賦也、不知其仁也、求也何如、子曰、求也、千室之邑、百乘之家、可使爲之宰也、不知其仁也、赤也何如、子曰、赤也、束帶立於朝、可使與賓客言也、不知其仁也、
孟武伯(もうぶはく)問う、子路、仁なりや。子の曰わく、知らざるなり。又た問う。子の曰わく、由や、千乗の国、其の賦(ふ)を治めしむべし、其の仁を知 らざるなり。求や何如。子の曰わく、求や、千室の邑(ゆう)、百乗の家、これが宰(さい)たらしむべし、其の仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子の曰 わく、赤や、束帯して朝(ちょう)に立ち、賓客と言わしむべし、其の仁を知らざるなり。
孟武伯が訊ねた、「子路は仁ですか」先生は「分かりません」といわれた。さらに訊ねたので、先生はいわれた、「由は、大諸侯の国でその軍用の収入をきりも りさせることはできますが、仁であるかどうかは分かりません」「求はどうでしょうか」先生はいわれた、「求は千戸の町や大家老の家でその長官にならせるこ とはできますが、仁であるかどうかは分かりません」「赤はどうでしょうか」先生はいわれた「赤は、礼服をつけ朝廷に立って客人がたと応対させることはでき ますが、仁であるかどうかは分かりません。」
05-09
子謂子貢曰、女與囘也孰愈、對曰、賜也何敢望囘、囘也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾與女弗如也、
子、子貢に謂いて曰わく、女(なんじ)と回と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰わく、賜(し)や、何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子の曰わく、如(し)かざるなり。吾と女と如かざるなり。
先生が子貢に向かっていわれた、「お前と回とは、どちらが勝れているか。」お答えして「賜(し)[この私]などは、どうして回を望めましょう。回は一を聞 いてそれで十をさとりますが、賜などは一を聞いてそれで二が分かるだけです。」先生はいわれた、「及ばないね、私もお前と一緒で及ばないよ」
05-10
宰予晝寝、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可朽也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是
宰予、昼寝(ひるい)ぬ。子の曰わく、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予に於てか何ぞ誅 (せ)めん。子の曰わく、始め吾れ人に於けるや、其の言を聴きて其の行(こう)を信ず。今吾れ人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是れ を改む。
宰予が[怠けて]昼寝をした。先生はいわれた、「腐った木には彫刻ができない。塵芥土のかきねには上塗りできない。予に対して何を叱ろうぞ。[叱ってもし かたがない]」先生は[また]いわれた、「前には私は人に対するのに、言葉を聞いてそれで行いまで信用した。今は私は人に対するのみ、言葉を聞いてさらに 行いまで観察する。予のことで改めたのだ。」
05-11
子曰、吾未見剛者、或對曰、申橙*、子曰、橙*也慾、焉得剛、
子の曰わく、吾れ未(いま)だ剛者を見ず。或るひと対(こた)えて曰わく、申橙*(しんとう)と。子の曰わく、橙(とう)や慾なり。焉(いずく)んぞ剛なることを得ん。
先生が「私は堅強な人物を見たことがない。」といわれた。或る人が答えて「申橙では」というと、先生は云われた、「橙には欲がある。どうして堅強といえよう。」
05-12
子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人、子曰、賜也、非爾所及也、
子貢が曰わく、我れ人の諸(こ)れを我に加えんことを欲せざるは、吾れ亦た諸れを人に加うること無からんと欲す。子の曰わく、賜や、爾(なんじ)の及ぶ所に非らざるなり。
子貢がいった、「私は、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、私の方でも人にしかけないようにしたい。」先生は云われた「賜よ、お前にできることではない。」
05-13
子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性與天道、不可得而聞也已矣、
子貢が曰わく、夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。
子貢がいった、「先生の文彩は[だれにも]聞くことができるが、先生が人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは、[奥深いことだけに、普通には]とても聞くことができない」
05-14
子路有聞、未之能行、唯恐有聞、
子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを恐る。
子路は、何かを聞いてそれを未だ行えないうちは、さらに何かを聞くことをひたすら恐れた。
05-15
子貢問曰、孔文子何以謂之文也、子曰、敏而好學、不恥下問、是以謂之文也、
子貢問うて曰わく、孔文子、何を以てかこれを文と謂うや。子の曰わく、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以てこれを文と謂うなり。
子貢がおたずねした、「孔文子は、どうして文という[おくり名]のでしょうか。」先生は云われた、「利発な上に学問好きで、目下の者に問うことも恥じなかった。だから文と云うのだよ」
05-16
子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義、
子、子産(しさん)を謂わく、君子の道四つ有り。其の己れを行なうや恭、其の上(かみ)に事(つか)うるや敬、其の民を養うや恵(けい)、其の民を使うや義。
先生が子産のことをこう云われた、「君子の道を四つそなえておられた。その身の振る舞いはうやうやしく、目上にに仕えるにはつつしみ深く、人民を養うには情け深く、人民を使役するには正しいやり方ということだ」
05-17
子曰、晏平仲善與人交、久而人敬之、
子の曰わく、晏平仲、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す。
先生がいわれた、「晏平仲は立派に人と交際され、昔なじみになっても[変わりなく]相手を尊敬された」
05-18
子曰、臧文仲居蔡、山節藻セツ*(うだつ)、何如其知也、
子の曰わく、臧文仲(そうぶんちゅう)、蔡を居く。節を山にしセツを藻にす、何如(いかん)ぞ其れ知ならん。
先生がいわれた、「臧文仲は卜(うらな)いに使う大亀甲をしまっていたし、柱の上のますがたに山をほり、梁の上の短い柱に藻を描い[て天子でなければできないことをし]た。どうかな、それで智者だとは。」
05-19
子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁、
子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)めらるとも、慍(いか)れる色なし。旧令 尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如(いかん)。子の曰わく、未だ知ならず、焉(いずく)んぞ仁なることを得ん。崔子、斉(せい)の君を弑(しい)す。陳 文子、馬十乗あり、棄ててこれを違(さ)る。他邦に至りて則ち曰わく、猶(な)お吾が大夫崔子がごときなりと。これを違(さ)る。一邦に至りて、則ち又た 曰わく、猶お吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子の曰わく、清し。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん。
子張がおたずねした、「令尹の子文は、三度仕えて令尹となったが嬉しそうな顔もせず、三度それをやめさせられても怨みがましい顔もせず、前の令尹の政治を 必ず新しい令尹に報告しました。いかがでしょうか。」先生はいわれた、「誠実だね。」「仁でしょうか。」というと、「[仁であるためには智者でなければな らないが、彼は]智者ではない。どうして仁といえよう。」といわれた。「崔子が斉の君を殺したとき、陳文子は四十匹の馬を持っていたが、それを棄てて[斉 の国を]立ち去りました。よその国に行き着くと、『やはりうちの家老の崔子と同じことだ。』といってそこを去り、別の国にゆくと、また『やはりうちの家老 と同じことだ。』といってそこを去りました。いかがでしょうか」先生はいわれた、「清潔だね。」「仁でしょうか。」というと、「智者ではない、どうして仁 といえよう。」といわれた。
05-20
季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣、
季文子、三たび思いて而(しか)る後に行う。子、これを聞きて曰わく、再(ふたた)びせば斯れ可なり。
季文子は三度考えてからはじめて実行した。先生はそれを聞かれると、「二度考えたらそれでよろしいよ。」といわれた。
05-21
子曰、寧*武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也、
子の曰わく、寧武子(ねいぶし)、邦(くに)に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり。
先生がいわれた、「寧武子は、国に道のあるときは智者で、国に道のないときは愚かであった。その智者ぶりはまねができるが、その愚かぶりはまねができない。」
05-22
子在陳曰、歸與歸與、吾黨之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也、
子、陳に在りて曰わく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡、斐然として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。
先生は陳の国でいわれた、「帰ろうよ、帰ろうよ。うちの村の若者たちは志が大きく、美しい模様を織りなしてはいるが、どのように裁断したらよいか分からないでいる。[帰って私が指導しよう。]」
05-23
子曰、伯夷叔齊、不念舊惡、怨是用希、
子の曰わく、伯夷・叔齊、旧悪を念(おも)わず。怨み是(ここ)を用(もつ)て希(まれ)なり。
先生がいわれた、「伯夷・叔齊とは、[清廉で悪事を憎んだが]古い悪事をいつまでも心に留めなかった。だから怨まれることも少なかった」
05-24
子曰、孰謂微生高直、或乞醯焉、乞諸其鄰而與之、
子の曰わく、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂う。或るひと醯(す)を乞う。諸(こ)れを其の鄰(となり)に乞いてこれを与う。
先生がいわれた、「微生高のことを正直だなどと誰がいうのか。ある人が酢をもらいに行ったら、その隣からもらってきて[むりにうわべをとりつくろって]それを与えた。」
05-25
子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之、匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之、
子の曰わく、巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明これを恥ず、丘も亦たこれを恥ず。怨みを匿(かく)して其の人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘も亦たこれを恥ず。
先生がいわれた、「ことば上手で顔つきよくあまりにうやうやしいのは、左丘明は恥じとした。丘(きゅう)[私]もやはり恥とする。怨みをかくしてその人と友達になるのは、左丘明は恥とした、丘もやはり恥とする」
05-26
顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之、
顔淵・季路侍(じ)す。子の曰わく、盍(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志しを言わざる。子路が曰わく、願わくは車馬衣裘(いきゅう)、朋友と共にし、これを 敝(やぶ)るとも憾(うら)み無けん。顔淵の曰わく、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路が曰わく、願わくは子の志しを聞かん。 子の曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐(なつ)けん。
顔淵と季路とがおそばにいたとき、先生はいわれた、「それぞれお前達の志望を話してみないか。」子路はいった、「[私の]車や馬や着物や毛皮の外套を友達 と一緒に使って、それが痛んでも、くよくよしないようにありたいものです。」顔淵はいった、「善いことを自慢せず、辛いことを人に押付けないようにありた いものです。」子路が「どうか先生のご志望をお聞かせ下さい」といったので、先生はいわれた、「老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若 者には慕われるようになることだ」
05-27
子曰、已矣乎、吾未見能見其過、而内自訟者也、
子の曰わく、已矣乎(やんぬるかな)。吾れ未だ能く其の過(あやま)ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり。
先生がいわれた、「もうおしまいだなあ。自分の過失を認めて吾と我が心に責めることのできる人を、私は見たことがない。」
05-28
子曰、十室十邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好學也、
子の曰わく、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘が如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。
先生がいわれた、「十軒ばかりの村里にも、丘(私)くらいの忠信の人はきっといるだろう。丘の学問好きには及ばない[だけだ]」
6、雍也第六
06-01
子曰、雍也可使南面、
子の曰わく、雍(よう)や南面せしむべし。
先生がいわれた、「雍は南面させてもよい」
南面=天子や諸侯は南向きで政治をとった。「南面させてもよい」とは立派な政治家になれるとの意味。
06-02
仲弓問子桑伯子、子曰、可也、簡、仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎、居簡而行簡、無乃大簡乎、子曰、雍之言然、
仲弓、子桑伯子を問う。子の曰わく、可なり、簡なり。仲弓が曰わく、敬に居(い)て簡を行い、以て其の民に臨まば、亦た可ならずや。簡に居て簡を行う、乃(すな)わち大簡なること無からんや。子の曰わく、雍の言、然り。
仲弓(ちゅうきゅう)が子桑伯子(しそうはくし)のことをおたずねした。先生は「結構だね、おおようだ。」といわれた。仲弓が「慎み深くいておおように行 い、それでその人民に臨むのなら、いかにも結構ですね。[しかし、]おおように構えておおように行うのでは、余りにおおようすぎるのではないでしょうか」 というと、先生は「雍のことばは正しい」と言われた。
06-03
哀公問曰、弟子孰爲好學、孔子對曰、有顔囘、好學、不遷怒、不貳過、不幸短命死矣、今也則亡、未聞好學者也、
哀公問う、弟子、孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰わく、顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふた)たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡(な)し。未だ学を好む者を聞かざるなり。
哀公が「お弟子の中で誰が学問好きですか」とお訊ねになった。孔子は答えられた。「顔回という者がおりまして学問好きでした。怒りにまかせての八つ当たり はせず、過ちを繰り返しませんでした。不幸にして短い寿命で死んでしまって、今ではもうおりません。学問好きという者は[ほかには]聞いたことがありませ ん。」
06-04
子華使於齊、冉子爲其母請粟、子曰、與之釜、請益、曰與之ユ*、冉子與之粟五秉、子曰、赤之適齊也、乘肥馬、衣輕裘、吾聞之也、君子周急不繼富、
子華、斉(せい)に使いす。冉子(ぜんし)、其の母の為めに粟(ぞく)を請う。子の曰わく、これに釜(ふ)を与えよ。益さんことを請う。曰わく、これに ユ*を与えよ。冉子、これに五秉(へい)を与う。子の曰わく、赤の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗りて軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。吾れこれを聞く、君 子は急を周(すく)うて富めるに継がずと。
子華が[先生の用事で]斉に使いに行った。冉子はその[留守宅の]母親のために米を欲しいと願った。先生は「釜の分量だけあげなさい」と言われたので、増 やして欲しいと願うと「ユの分量だけあげなさい」と言われた。冉子は[独断で]五秉の米を届けた。先生は言われた、「赤が斉へ出かけたときは、立派な馬に 乗って軽やかな毛皮を着ていた。私の聞くところでは、君子は困っている者を助けるが金持ちに足しまえはしないものだ」
06-05
原思爲之宰、與之粟九百、辭、子曰、毋、以與爾隣里郷黨乎、
原思(げんし)、これが宰(さい)たり、これに粟(ぞく)九百を与う。辞す。子の曰わく、毋(な)かれ、以て爾(なんじ)が隣里郷党に与えんか。
[先生が魯の司冠(しこう=司法大臣)であられたとき]原思はその家宰(かさい=封地の取締)となったが、九百斗の米を与えられて辞退した。先生は「いやいや、それをお前の隣近所にやるんだね。」と言われた。
06-06
子謂仲弓曰、犂牛之子、赤*且角、雖欲勿用、山川其舎諸、
子、仲弓(ちゅうきゅう)を謂いて曰(わく)、犂牛(りぎゅう)の子、赤*くして且つ角(つの)あらば、用いること勿(な)からんと欲すと雖ども、山川其れ舎(す)てんや。
先生は仲弓のことをこう言われた、「まだらな牛の子でも、赤い毛並みでさらに良い角なら、用いないでおこうと思っても、山川の神々の方でそれを見捨てておこうか[きっと祭祀の供物に抜擢されよう]」
06-07
子曰、囘也、其心三月不違仁、其餘則日月至焉而已矣、
子の曰わく、回や其の心三月(さんがつ)仁に違わず。其の余は則ち日月(ひびつきづき)に至るのみ。
先生が言われた、「回は三月(みつき)も心を仁の徳から離さない。その他の者では一日か一月のあいだ行き付けるだけのことだ。」
06-08
季康子問、仲由可使從政也與、子曰、由也果、於從政乎何有、曰、賜也可使從政也與、子曰、賜也逹、於從政乎何有、曰、求也可使從政也與、子曰、求也藝、於從政乎何有、
季康子、問う、仲由は政に従わしむべきか。子の曰わく、由や果(か)、政に従うに於てか何か有らん。曰わく、賜(し)は政に従わしむべきか。賜や達(た つ)、政に従うに於てか何か有らん。曰わく、求(きゅう)は政に従わしむべきか。曰わく、求や芸あり、政に従うに於てか何か有らん。
季康子が訊ねた、「仲由(=子路)は政治をとらせることができますかな。」先生はいわれた、「由は果断です。政治をとるくらい何でもありません。」「賜 (=子貢)は政治をとらせることができますかな」「賜はものごとに明るい。政治をとるくらい何でもありません」「求(=冉求)は政治をとらせることができ ますかな。」「求は才能が豊かです。政治をとるぐらい何でもありません」
06-09
季氏使閔子騫爲費宰、閔子騫曰、善爲我辭焉、如有復我者、則吾必在文*上矣、
季氏、閔子騫(びんしけん)をして費の宰たらしむ。閔子騫が曰わく、善く我が為に辞せよ。如し我れを復たする者あらば、則ち吾れは必ず文*の上(ほとり)に在あらん。
季氏が閔子騫をその封地である費の町の宰(取締)にしようとした。閔子騫は言った、「私のためにうまくお断り下さい。もし誰か私に勧める者があれば、私はきっと文*水のほとりに行くことでしょう」
06-10
伯牛有疾、子問之、自窓*執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也、
伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問う。窓*より其の手を執りて曰わく、これを亡ぼせり、命(めい)なるかな。斯の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること。
伯牛(=冉耕)が病気になった。先生が見舞われ、窓越しにその手を取られた。「お終いだ。運命だねえ。こんな人でもこんな病気に罹ろうとは、こんな人でもこんな病気に罹ろうとは」
06-11
子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也、
子の曰わく、賢なるかな回や。一箪の食(し)、一瓢(びょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
先生が言われた。「偉いもんだね、回は。竹のわりご一杯の飯とひさごのお椀一杯の飲み物で狭い路地の暮らしだ。他人ならその辛さに堪えられないだろうが、回は[そうした貧窮の中でも]自分の楽しみを改めようとはしない。偉いものだね、回は。」
06-12
冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而癈、今女畫、
冉求が曰わく、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず。力足らざればなり。子の曰わく、力足らざる者は中道にして癈す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり。
冉求が「先生の道を[学ぶことを]うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」と言ったので、先生は言われた、「力の足りない者は[進めるだけ進んで]途中で止めることになるが、今のお前は自分から見切りをつけている。」
06-13
子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒、
子、子夏に謂いて曰わく、女(なんじ)、君子の儒と為れ。小人の儒と為ること無かれ。
先生が子夏に向かって言われた、「お前は君子としての学者に成りなさい。小人の学者にはならないように」
06-14
子游爲武城宰、子曰、女得人焉耳乎、曰、有澹薹滅明者、行不由徑、非公事、未嘗至於偃之室也、
子游、武城の宰たり。子の曰わく、女(なんじ)、人を得たりや。曰わく、澹台滅明(たんだいめつめい)なる者あり、行くに径(こみち)に由らず、公事に非らざれば未だ嘗て偃(えん)の室に至らざるなり。
子游が武城の宰(=取締)となった。先生が「お前、人物は得られただろうか。」と言われると、答えた、「澹台明滅という者がおります。歩くには近道をとらず、公務でないかぎりは決して偃(この長官である私)の部屋にはやって来ません」
06-15
子曰、孟之反不伐、奔而殿、將入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也、
子の曰わく、孟之反(もうしはん)、伐(ほこ)らず。奔(はし)って殿たり。将に門に入らんとす。其の馬に策(むちう)って曰わく、敢て後(おく)れたるに非らず、馬進まざるなり。
先生が言われた、「孟之反は功を誇らない。敗走してしんがりを務めたが、いよいよ[自国の]城門に入ろうとしたとき、その馬を鞭でたたいて『後ろ手を務めた訳ではない。馬が走らなかったのだ』と言った」
06-16
子曰、不有祝鴕*之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣、
子の曰わく、祝鴕*(しゅくだ)の佞(ねい)あらずして宋朝の美あるは、難(かた)いかな、今の世に免がれんこと。
先生が言われた、「祝鴕*(しゅくだ)のような弁説がなくて宋朝のような美貌があるだけなら、難しいことだよ、今の時世を無事に送るのは」
06-17
子曰、誰能出不由戸者、何莫由斯道也、
子の曰わく、誰か能く出ずるに戸(こ)に由らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫(な)きや。
先生が言われた、「誰でも出ていくのに戸口を通らなくてもよいものはない。[人として生きて行くのに]どうしてこの道を通るものが居ないのだろうか」
06-18
子曰、質勝文勝質則史、文質彬彬、然後君子、
子の曰わく、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり。
先生が言われた、「質朴さが装飾よりも強ければ野人であるし、装飾が質朴より強ければ文書係である。装飾と質朴がうまく溶け合ったこそ、はじめて君子だ」
06-19
子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免、
子の曰わく、人の生くるは直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸(さいわい)にして免ぬがるるなり。
先生が言われた、「人が生きているのは真っ直ぐだからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
06-20
子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者、
子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
先生が言われた、「知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない」
06-21
子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也、
子の曰わく、中人(ちゅうじん)以上には、以て上(かみ)を語(つ)ぐべきなり。中人以下には、以て上を語ぐべからざるなり。
先生が言われた、「中以上の人には上のことを話してもよいが、中以下の人には上のことを話せない。[人を教えるには相手の能力によらねばならない]」
06-22
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣、
樊遅(はんち)、知を問う。子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂うべし。
樊遅が智のことをお訊ねすると、先生は言われた、「人としての正しい道を励み、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」仁のことをお訊ねすると、言われた、「仁の人は難事を先にして利益は後のことにする、それが仁といえることだ」
06-23
子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者樂、仁者壽、
子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。
先生が言われた、「智の人は[流動的だから]水を楽しみ、仁の人は[安らかにゆったりしているから]山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きをする。」
06-24
子曰、齊一變至於魯、魯一變至於道、
子の曰わく、斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば道に至らん。
先生が言われた、「斉の国はちょっと変われば魯のようになれよう。魯の国はちょっと変われば道[理想的な道徳政治]に行き着けよう」
06-25
子曰、觚不觚、觚哉、觚哉、
子の曰わく、觚(こ)觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。
先生が言われた、「[飲酒の礼で觚の盃を使うのは、觚すなわち寡(すくな)い酒量のためであるのに、このごろでは大酒になって]觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか。觚であろうか」
06-26
宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁者焉、其從之也、子曰、何爲其然也、君子可逝也、不可陥也、可欺也、不可罔也、
宰我、問うて曰わく、仁者はこれに告げて、井(せい)に仁ありと曰(い)うと雖(いえど)も、其れこれに従わんや。子の曰わく、なんすれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥(おとしい)れるべからざるなり。欺くべきも、罔(し)うべからざるなり。
宰我がお訊ねして言った、「仁の人は井戸の中に仁があると言われたとしたら、やはりそれについて行きますか。」先生はいわれた、「どうしてそんなことがあ ろうか。君子は[そばまで]行かせることはできても、[井戸の中まで]落ち込ませることはできない。ちょっと騙すことはできても、どこまでも眩ますことは できない」
06-27
子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫、
子の曰わく、君子、博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔(そむ)かざるべきか。
先生がいわれた、「君子はひろく書物を読んで、それを礼の実践でひきしめていくなら、道にそむかないでおれるだろうね」
06-28
子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之、
子、南子を見る。子路説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)って曰わく、予(わ)が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん。天これを厭たん。
先生が南子にあらわれた。子路はおもしろくなかった。先生は誓いをされて「自らによくないことがあれば、天が見捨てるであろう、天が見捨てるであろう。」
南子=衛の霊公の夫人。不品行の評判が高かったので、子路はこの会見に不機嫌であった。
06-29
子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣、
子の曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。
先生が言われた、「中庸の道徳としての価値は、いかにも最上だね。だが人民の間にとぼしくなって久しいことだ。」
敧器(きき、傾いた器)または宥坐の器(ゆうざのき)
「孔子、敧器を観るの図」明代。著者未詳。孔子故里博物館蔵。
敧器に水が入っていない時は傾き、一杯の時はひっくり返る。
水がほどよく入っている時はまっすぐになる。
「孔子家語」「三恕」にある中庸を説いた故事を絵に表した図
06-30
子貢曰、如能博施於民、而能濟衆者、何如、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲逹而逹人、能近取譬、可謂仁之方也已、
子貢が曰わく、如(も)し能く博(ひろ)く民に施して能く衆を済(すく)わば、何如(いかん)。仁と謂うべきか。子の曰わく、何ぞ仁を事とせん。必らずや 聖か。尭舜も其れ猶(な)お諸(こ)れを病めり。夫(そ)れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達っせんと欲して人を達す。能く近く取りて譬(たと) う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。
子貢が[仁のことをお訊ねして]「もし人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら、いかがでしょう、仁と言えましょうか」といった。先生はい われた、「どうして仁どころのことだろう、強いて言えば聖だね。尭や舜でさえ、なおそれを悩みとされた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立 たせてやり、自分が行き着きたいと思えば人を行き着かせてやって[他人のことでも自分の]身近にひきくらべることができる、[そういうのが]仁のてだてと 言えるだろう」
巻 第四
7、述而第七
07-01
子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭、
子の曰わく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比す。
先生が言われた、「[古いことに基づいて]述べて創作はせず、むかしのことを信じて愛好する。[そいした自分を]こっそりわが老彭(=殷王朝の賢大夫)の[態度]にも比べている」
07-02
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉、
子の曰わく、黙してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何か我れに有らんや。
先生が言われた、「黙っていて覚えておき、学んで飽きることなく、人に教えて怠らない。[それぐらいは]私にとってなんでもない」
07-03
子曰、徳之不脩也、學之不講也、聞義不能徙也、不善不能改也、是吾憂也、
子の曰わく、徳の脩めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙(うつ)る能(あた)わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。
先生が言われた、「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついて行けないこと、善くないのに改められないこと、そんなになるのが私の心配事である。」
07-04
子之燕居、申申如也、夭夭如也、
子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。
先生のくつろぎの有り様は、伸びやかであり、にこやかである。
07-05
子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公也、
子の曰わく、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾れ復た夢に周公を見ず。
先生が言われた、「ひどいものだね、私の衰えも。久しいことだよ、私がもはや周公を夢にみなくなってから。」
07-06
子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝、
子の曰わく、道に志し、徳に依り、仁に依り、芸に游(あそ)ぶ。
先生が言われた、「正しい道を目指し、[我が身に修めた]徳を根拠とし、[諸徳の中で最も重要な]仁によりそって、芸[すなわち教養の中]に遊ぶ。」
07-07
子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉、
子の曰わく、束脩(そくしゅう)を行うより以上は、吾れ未だ嘗(かつ)て誨(おし)うること無くんばあらず。
先生が言われた、「乾し肉一束を持ってきた者から上は、[どんな人でも]私は教えなかったということはない。」
(3-21)
退修詩書図(第12図) (魯国に戻り学校を開校した孔子の図)孔子42歳? 7:7
07-08
子曰、不憤不啓、不ヒ*不發、擧一隅而示之、不以三隅反、則吾不復也、
子の曰わく、憤(ふん)せずんば啓せず。ヒせずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり。
先生が言われた、「[分かりそうで分からず]わくわくしているのでなければ、指導しない。[言えそうで言えず]口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅を取り上げて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、繰り返すことをしない。」
07-09
子食於有喪者之側、未嘗飽也、子於是日也哭、則不歌、
子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だ嘗(かつ)て飽かざるなり。子、是の日に於て哭(こく)すれば、則ち歌わず。
先生は、近親者を死なせた人のそばで食事をされるときには、十分に召し上がらなかった。先生は、お弔いで声をあげて泣かれたその日には、歌をうたわれなかった。
07-10
子謂顔淵曰、用之則行、舎之則藏、唯我與爾有是夫、子路曰、子行三軍、則誰與、子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也、必也臨事而懼、好謀而成者也、
子、顔淵に謂いて曰わく、これを用うれば則ち行い、これを舎(す)つれば則ち蔵(かく)る。唯だ我と爾(なんじ)と是れあるかな。子路が曰わく、子、三軍 を行なわば、則ち誰れと与(とも)にせん。子の曰わく、暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死して悔いなき者は、吾れ与にせざるなり。必ずや事に臨(のぞ)み て懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。
先生が顔淵に向かって言われた、「用いられたら活動し、捨てられたら引きこもるという[時宜(じぎ)を得た]振る舞いは、ただ私とお前だけにできることだ ね。」子路がいった。「先生が大軍をお進めになるとしたら、誰と一緒なさいますか。」先生は言われた、「虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりし て、死んでもかまわないというような[無鉄砲な]男とは、私は一緒にやらないよ。どうしてもというなら、事に当たって慎重で、よく計画をねって成し遂げる ような人物とだね」
07-11
子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之、如不可求、從吾所好、
子の曰わく、富(とみ)にして求むべくんば、執鞭(しつべん)の士と雖も、吾れ亦たこれを為さん。如(も)し求むべからずんば、吾が好む所に従わん。
先生が言われた、「富みというものが追求してもよいものなら、鞭(むち)をとる露払い[のような賎しい役目]でも私は勤めようが、もし追求すべきでないなら、私の好きな生活に向かおう。」
07-12
子之所愼、齊戰疾、
子の慎しむ所は、斉、戦、疾。
先生が慎まれ[て対処され]たことは、祭祀のときの潔斎(ものいみ)と、戦争と、病気であった。
07-13
子在齊、聞韶樂三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也、
子、斉に在(いま)して、韶(しょう)を聞くこと三月(さんげつ)、肉の味を知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんとは。
先生は斉の国で数カ月の間、韶(しょう)の音楽を聞き[習われ、すっかり感動して]肉のうまさも解されなかった。「思いもよらなかった、音楽というものがこれほど素晴らしいとは」
在斉聞韶図(第10図)(斉に在りて詔を聞くの図)孔子36歳 7:13
07-14
冉有曰、夫子爲衛君乎、子貢曰、諾、吾將問之、入曰、伯夷叔齊何人也、子曰、古之賢人也、曰怨乎、曰、求仁而得仁、叉何怨乎、出曰、夫子夫爲也、
冉有が曰わく、夫子は衛の君を為(たす)けんか。子貢が曰わく、諾(だく)、吾れ将にこれを問わんとす。入りて曰わく、伯夷・叔斉は何人ぞや。曰わく、古 (いにしえ)の賢人なり。曰わく、怨(うらみ)たるか。曰わく、仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。出でて曰わく、夫子は為(たす)けじ。
冉有が、「うちの先生は衛の殿様を助けられるだろうか。」と言ったので、子貢は「よし、私がお訊ねしてみよう」といって、[先生の部屋に]入って行って訊 ねた、「伯夷と叔斉とはどういう人物ですか。」先生「昔の勝れた人物だ」「[君主の位につかなかったことを]後悔したでしょうか。」「仁を求めて仁を得た のだから、また何を後悔しよう。」[子貢は]退出すると「うちの先生は助けられないだろう」といった。
07-15
子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲、
子の曰わく、疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我れに於て浮雲(ふうん)の如とし。
先生が言われた、「粗末な飯を食べて水を飲み、腕を曲げてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにも自然にあるものだ。道にならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、私にとっては浮雲のよう[に、はかなく無縁なもの]だ。」
07-16
子曰、加我數年、五十以學、易可以無大過矣、
子の曰わく、我に数年を加え、五十にして以て易(えき)を学べば、大なる過ち無かるべし。
先生が言われた、「私がもう数年経って、五十になってから学んだとしても、やはり大きな過ちなしにゆけるだろう」
07-17
子所雅言、詩書執禮、皆雅言也、
子の雅言(がげん)する所は、詩、書、執礼、皆な雅言す。
先生が標準語を守られるのは、詩経、書経[を読むとき]と礼を行うときとで、みな標準語であった。
07-18
葉公問孔子於子路、子路不對、子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至也云爾、
葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路対(こたえ)ず。子の曰わく、女(なんじ)奚(なんぞ)曰わざる、其の人と為(な)りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。
葉公が孔子のことを子路に訊ねたが、子路は答えなかった。先生は言われた、「お前はどうして言わなかったのだね。その人となりは、[学問に]発憤しては食事を忘れ、[道を]楽しんでは心配事も忘れ、やがて老いがやって来ることにも気づかずにいる。というように。」
07-19
子曰、我非生而知之者、好古敏以求之者也、
子の曰わく、我は生まれながらにしてこれを知る者に非らず。古(いにしえ)を好み、敏にして以てこれを求めたる者なり。
先生が言われた、「私は生まれつきでものごとをわきまえた者ではない。昔のことを愛好して一所懸命に探究している者だ」
07-20
子不語怪力亂神、
子、怪力乱神を語らず。
先生は、怪異と力技と不倫と神秘とは口にされなかった。
07-21
子曰、我三人行、必得我師焉、擇其善者而從之、其不善者改之、
子の曰わく、我れ三人行なえば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む。
先生が言われた、「私は三人で行動したら、きっとそこに自分の師を見つける。善い人を選んでそれを見習い、善くない人にはその善くないことを[我が身について]直すからだ。」
07-22
子曰、天生徳於予、桓タイ*其如予何、
子の曰わく、天、徳を予(われ)生(な)せり。桓(かん)タイ其れ予れを如何。
先生が[宋の国で迫害を受けた時に]言われた、「天が我が身に徳を授けられた。桓タイごときが我が身をどうしようぞ」
宋人伐木図(第21図)(木を切り倒して孔子一行に脅しを掛ける宋国人の図)孔子58歳 7:22
07-23
子曰、二三子以我爲隱乎、吾無隱乎爾、吾無所行而不與二三子者、是丘也、
子の曰わく、二三子(にさんし)、我れを以て隠せりと為すか。吾れは爾(なんじ)に隠すこと無し。吾れ行うとして二三子と与(とも)にせざる者なし。是れ丘(きゅう)なり。
先生が言われた、「諸君は私が隠し事をしていると思うか。私は隠しだてなどはしない。私はどんなことでも諸君と一緒にしないことはない。それが丘(きゅう)[この私]なのだ。」
07-24
子以四教、文行忠信、
子、四つを以て教う。文、行、忠、信。
先生は四つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。
07-25
子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人不得而見之矣、得見有恆者、斯可矣、亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣、
子の曰わく、聖人は吾れ得てこれを見ず。君子者(くんししゃ)を見るを得ば、斯れ可(か)なり。子の曰わく、善人は吾れ得てこれを見ず。恒ある者を見るを 得ば、斯れ可なり。亡(な)くして有りと為し、虚(むなし)くして盈(み)てりと為し、約にして泰(ゆたか)なりと為す。難(かた)いかな、恒あること。
先生が言われた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、空っぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せているのでは、難しいね、常のあることは」
07-26
子釣而不綱、弋不射宿、
子、釣(つり)して綱(こう)せず。弋(よく)して宿を射ず。
先生は魚釣りをされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。
07-27
子曰、蓋有不知而作之者、我無是也、多聞擇其善者而從之、多見而識之、知之次也、
子の曰わく、蓋(けだ)し知らずしてこれを作る者あらん。我れは是れ無きなり。多く聞きて其の善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)すは、知るの次なり。
先生がいわれた、「あるいはもの知りでもないのに創作する者もあろうが、私はそんなことはない。たくさん聞いて善いものを選んで従い、たくさん見て覚えておく。それはもの知り[ではないまでも、そ]の次である」
07-28
互郷難與言、童子見、門人惑、子曰、與其進也、不與其退也、唯何甚、人潔己以進、與其潔也、不保其往也、
互郷(ごきょう)、与(とも)に言い難たし。童子見(まみ)ゆ。門人惑う。子の曰わく、其の進むに与(くみ)するなり。其の退くに与せざるなり。唯だ、何ぞ甚だしき。人、己れを潔くして以て進まば、其の潔きに与みせん。其の往(おう)を保(ほ)せざるなり。
互郷の村人は話がしにくいのだが、そこの子供が[先生に]お会いしたいので、門人がいぶかった。先生は言われた、「そのやって来たことを買うのだ。去って いくのは賛成しない。[あの子供のことをいぶかるとは]本当にひどすぎる。人がその身を清くしてやって来れば、その清さを買うのだ。帰ってからのことは保 証しない」
07-29
子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣、
子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。
先生がいわれた、「仁は遠いものだろうか。私たちが仁を求めると、仁はすぐにやってくるよ」
07-30
陳司敗問、昭公知禮乎、孔子對曰、知禮、孔子退、揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不黨、君子亦黨乎、君取於呉、爲同姓謂之呉孟子、君而知禮、孰不知禮、巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之、
陳の司敗(しはい)問う、昭公は礼を知れるか。孔子対(こたえ)て曰わく、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進めて曰わく、 吾れ聞く、君子は党せずと。君子も亦た党するか。君、呉に取(めと)れり。同性なるが為めにこれを呉孟子と謂う。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知 らざらん。巫馬期、以て告(もう)す。子の曰わく、丘(きゅう)や幸いなり、苟(いやし)くも過ちあれば、人必ずこれを知る。
陳の国の司敗が「昭公は礼をわきまえておられましたか。」と尋ねた。孔子は「礼をわきまえておられた。」と答えた。孔子が退出されると、[司敗は]巫馬期 に会釈してから前に進ませて云った、「私は君子は仲間びいきをしないと聞いていたが、君子でも仲間びいきをするのですか。殿様(昭公)は呉の国から娶られ たが、同じ姓であるために夫人のことを呉孟子とよばれた。[同じ姓の家から娶るのは礼で禁ぜられているのにそれを破ったから、呉姫(ごき)というところを 姫の姓を避けてごまかしたのだ。]この殿様が礼をわきまえていたとすると、礼をわきまえない人などおりましょうか。」巫馬期がお知らせすると、先生はいわ れた、「丘(きゅう)[この私]は幸せだ。もし過ちがあれば、人がきっと気づいてくれる。」
07-31
子與人歌而善、必使反之、而後和之、
子、人と歌いて善ければ、必ずこれを返(か)えさしめて、而(しか)して後にこれに和す。
先生は、人と一緒に歌われて[相手が]上手ければ、きっとそれを繰り返させ、その上で合唱された。
07-32
子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得也、
子の曰わく、文は吾れ猶お人のごとくなること莫(な)からんや。躬(み)、君子を行なうことは、則ち吾れ未だこれを得ること有らざるなり。
先生がいわれた、「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私は未だ十分にはいかない。」
07-33
子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能學也、
子の曰わく、聖と仁との若(ごと)きは、則ち吾れ豈(あ)に敢えてせんや。抑々(そもそも)これを為して厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まずとは、則ち謂うべきのみ。公西華(こうせいか)が曰わく、正に唯だ弟子学ぶこと能わざるなり。
先生が言われた、「聖とか仁などというのは、私などとてものことだ。ただ。[聖や仁への道を]行ってあきることがなく、人を教えて怠らないということは、いってもらっても宜しかろう。」公西華は言った、「本当にそれこそ我々の真似のできないことです」
07-34
子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路對曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷之久矣、
子の疾(やまい)、病(へい)なり。子路、祷(いの)らんと請う。子の曰わく、諸(こ)れ有りや。子路対(こた)えて曰わく、これ有り、誄(るい)に曰わく、爾(なんじ)を上下の神祇(しんぎ)に祷ると。子の曰わく、丘の祷ること久し。
先生が病気になられたとき、子路がお祈りしたいと願った。先生が「そういことが有ったか。」と言われると、子路は答えて「有ります。誄の言葉に『なんじの ことを天地(あめつち)の神々に祈る。』とみえます。」と言った。先生は言われた、「自分のお祈りは久しいことだ。[ことごとく祈ることはない。]」
07-35
子曰、奢則不孫、儉則固、與其不孫也寧固、
子の曰わく、奢(おご)れば則ち不孫(ふそん)、倹なれば則ち固(いや)し。其の不孫ならんよりは寧(むし)ろ固しかれ。
先生が言われた、「贅沢していると尊大になり、倹約していると頑固になるが、尊大であるよりはむしろ頑固の方がよい」
07-36
子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚、
子の曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。
先生が言われた、「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている」
07-37
子温而勵*、威而不猛、恭而安、
子は温にしてはげし、威にして猛ならず。恭々(うやうや)しくして安し。
先生は穏やかでいてしかも厳しく、おごそかであってしかも烈しくはなく、恭謙でいてしかも安らかであられる。
8、泰伯第八
08-01
子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、三以天下譲、民無得而稱焉、
子の曰わく、泰伯(たいはく)は其れ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称すること無し。
先生が言われた、「泰伯こそは最高の徳だといって宜しかろう。三度も天下を譲ったが、[それも人知れないやり方で]人民はそれを称えることもできなかった」
08-02
子曰、恭而無禮則勞、愼而無禮則子思*、勇而無禮則亂、直而無禮則絞、君子篤於親、則民興於仁、故舊不遺、則民不偸、
子の曰わく、恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ち思(し)*す。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ則ち絞(こう)す。君子、親(しん)に篤ければ、則ち民仁に興こる。故旧遺(こきゅうわす)れざれば、則ち民偸(うす)からず。
先生が言われた、「うやうやしくても礼によらなければ骨が折れる。慎重にしても礼によらなければいじける。勇ましくしても礼によらなければ乱暴になる。 まっすぐであっても礼によらなければ窮屈になる。君子[為政者]が近親に手厚くしたなら、人民は仁のために発奮するし、昔馴染みを忘れなければ、人民は薄 情でなくなる。」
08-03
曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰、而今而後、吾知免夫、小子、
曾子、疾(やまい)あり。門弟(もんてい)子を召(よ)びて曰わく、予(わ)が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦兢兢として、深淵に臨むが 如く、薄冰(はくひょう)を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後(のち)、吾れ免(まぬが)るることを知るかな、小子。
曾子が病気に罹られたとき、門人達を呼んで言われた、「わが足を見よ、わが手を見よ。詩経には『恐れつ戒めつ、深き淵に臨むごと、薄き氷をふむがごと』とあるが、これから先は私ももうその心配が無いねえ、君たち」
08-04
曾子有疾、孟敬子問之、曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善、君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣、正顔色、斯近信矣、出辭氣、斯遠鄙倍矣、邊*豆之事、則有司存、
曾子、疾(やまい)あり。孟敬子これを問う。曾子言いて曰わく、鳥の将に死なんとするや、其の鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、其の言うこと善し。 君子の道に貴ぶ所の者は三つ。容貌を動かしては斯(ここ)に暴慢を遠ざく。顔色を正しては斯に信に近づく。辞気を出(い)だしては斯に鄙倍(ひばい)を遠 ざく。邊*豆(へんとう)の事は則ち有司(ゆうし)存せり。
曾子が病気に罹られたとき、孟敬子が見舞った。曾子は口を開いて言われた、「鳥が死ぬときにはその鳴き声は哀しいし、人が死ぬときにはその言葉は立派で す。[臨終の私の言葉をどうぞお聞き下さい]君子が礼について尊ぶことは三つあります。姿かたちを動かすときには粗放から離れます。顔つきを整えるときに は誠実に近づきます。言葉を口にするときには俗悪から離れます。[この三つが礼にとって大切なことです。]お祭りのお供えの器物などのことは、係の役人が おります。[君子の礼ではありません]」
08-05
曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校、昔者吾友嘗從事於斯矣、
曾子の曰わく、能(のう)を以て不能に問い、多きを以て寡(すく)なきに問い、有れども無きが若(ごと)く、実(み)つれども虚しきが若く、犯されて校(むく)いず。昔者(むかし)、吾が友、嘗(かつ)て斯い従事せり。
曾子が言われた、「才能が有るのに無いものに訊ね、豊かであるのに乏しい者に訊ね、有っても無いように、充実していても空っぽのようにして、害されても仕返しをしない。昔、私の友達(顔回)は、そいいうことに努めたものだ」
08-06
曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也、
曾子の曰わく、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命(めい)を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。
曾子が言われた、「小さい孤児の若君を預けることもできれば、諸侯の国家の政令を任せることもでき、大事にあたっても[その志を]奪うことができない、これこそ君子の人であろうか、[確かに]君子の人である」
08-07
曾子曰、士不可以不弘毅、任重而道遠、人以爲己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎、
曾子の曰わく、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重(おも)くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已(や)む、亦た遠からずや。
曾子が言われた、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は遠い。仁を己の任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまで止めない、なんと遠いじゃないか」
08-08
子曰、興於詩、立於禮、成於樂、
子の曰わく、詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。
先生が言われた、「[人間の教養は]詩によって奮い立ち、礼によって安定し、音楽によって完成する」
08-09
子曰、民可使由之、不可使知之、
子の曰わく、民は之(これ)に由(よ)らしむべし。之れを知らしむべからず。
先生が言われた、「人民は従わせることはできるが、その理由は理解させることはできない」
08-10
子曰、好勇疾貧、亂也、人而不仁、疾之已甚、亂也、
子の曰わく、勇を好みて貧しきを疾(にく)むは、乱なり。人にして不仁なる、これを疾むこと已甚(はなはだ)しきは、乱なり。
先生が言われた、「勇気を好んで貧乏を嫌うと[無理に貧乏から抜け出そうとして]乱暴する。人が仁でないとてそれをひどく嫌いすぎると[相手は自暴自棄になって]乱暴する」
08-11
子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已矣、
子の曰わく、如(も)し周公の才の美ありとも、驕(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。
先生が言われた、「仮令、周公ほどの立派な才能があったとしても、傲慢で物惜しみするようなら、其のほかは[どんなことでも]目を停める値打ちも無かろう」
08-12
子曰、三年學不至於穀、不易得也已、
子の曰わく、三年学びて穀(こく)に至らざるは、得やすからざるのみ。
先生が言われた、「三年も学問をして仕官を望まないという人は、なかなか得がたいものだ」
08-13
子曰、篤信好學、守死善道、危邦不入、亂邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也、
子の曰わく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る。邦に道あるに、貧しくして且つ賎しきは恥なり。邦に道なきに、富て且つ貴きは恥なり。
先生が言われた、「深く信じて学問を好み、命懸けで道をみがく。危うい国には行かず、乱れた国には留まらない。天下に道があれば表立って活動をするが、道 の無いときには隠れる。国家に道があるときなのに、貧乏で低い地位にいるのは恥であるし、国家に道が無いのに、金持ちで高い地位でいるのも恥である」
08-14
子曰、不在其位、不謀其政也、
子の曰わく、其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀(はか)らず。
先生が言われた、「その地位にいるのでなければ、その政務に口出ししないこと。」
08-15
子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉、
子の曰わく、師摯(しし)の始め、関雎(かんしょ)の乱(おわ)りは、洋洋乎(ようようこ)として耳に盈(み)てるかな。
先生が言われた、「楽官の摯(し)の歌い始め、関雎の楽曲の終わり、のびのびと美しく耳いっぱいにひろがるねえ」
08-16
子曰、狂而不直、同*而不愿、椌*椌*而不信、吾不知之矣、
子の曰わく、狂にして直ならず、トウにして愿(げん)ならず、コウコウにして信ならずんば、吾れこれを知らず。
先生が言われた、「気が大きな[積極的な]くせに真っ直ぐでなく、子供っぽい[無知な]くせに生真面目でなく、馬鹿正直なくせに誠実でない、そんな人は私もどうしようもない」
08-17
子曰、學如不及、猶恐失之、
子の曰わく、学は及ばざるが如くするも、猶(な)おこれを失わんことを恐る。
先生が言われた、「学問には追付けないかのように[勉める]。それでもなお忘れないかと恐れる。」
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老子20、48
08-18
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉、
子の曰わく、巍巍(ぎぎ)たるかな、舜禹の天下を有(たも)てるや。而(しか)して与(あずか)らず。
先生が言われた、「堂々たるものだね、舜や禹が天下を治められたありさまは。それでいて[すべてを賢明な人々にまかされて]自分では手を下されなかった」
08-19
子曰、大哉、尭之爲君也、巍巍乎唯天爲大、唯尭則之、蕩蕩乎民無能名焉、巍巍乎其有成功也、煥乎其有文章、
子の曰わく、大なるかな、尭の君たるや。巍巍(ぎぎ)として唯だ天を大なりと為す。唯だ尭これに則(のっと)る。蕩々(とうとう)として民能く名づくること無し。巍巍として其れ成功あり。煥(かん)として其れ文章あり。
先生が言われた、「偉大なものだね、尭の君としてのありさまは。堂々としてただ天だけが偉大であるのに、尭こそはそれを見習われた。伸び伸びと広やかで人民には言い表しようがない。堂々として立派な業績を打ち立て、輝かしくも礼楽制度を定められた。」
08-20
舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有亂臣十人、孔子曰才難、不其然乎、唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已、三分天下有其二、以服事殷、周之徳、其可謂至徳也已矣、
舜、臣五人ありて、天下治まる。武王曰わく、予(わ)れに乱臣十人ありと。孔子の曰わく、才難しと、其れ然らずや。唐虞(とうぐ)の際、斯に於て盛んと為 す。婦人あり、九人のみ。[文王、西伯と為りて]天下を三分して其の二を有(たも)ち、以て殷に服事(ふくじ)す。周の徳は、其れ至福と謂うべきのみ。
舜には五人の臣下がいてそれで天下が治まった。[周の]武王の言葉に「自分には治めてくれる者が十人いる。」とある。孔子は言われた、「人材は得がたいと いうが、その通りだ。尭舜時代からあとでは、この周の初めこそ[人材の]盛んな時だが、[それでも、十人の中には]婦人がいるから九人だけだ。[武王の父 の]文王は西方諸国の旗頭となり、天下を三つに分けたその二つまでを握りながら、なお殷に従って仕えていた。周の徳はまず最高の徳だといって宜しかろう」
08-21
子曰、禹吾無間然矣、菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間然矣、
子の曰わく、禹は吾れ間然(かんぜん)とすること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(ひ)くして力を溝洫(こうきょく)に盡(つく)す。禹は吾れ間然すること無し。
先生が言われた、「禹は私には非の打ち所がない。飲食を切り詰めて神々に[お供え物を立派にして]真心を尽くし、衣服を質素にして祭りの黻や冕を十分立派にし、住いは粗末にして潅漑の水路のために力を尽くされた。禹は私には非の打ち所がない」
巻 第五
9、子罕第九
09-01
子罕言利與命與仁、
子、罕(まれ)に利を言う、命と与(とも)にし仁と与にす。
先生はめったに利益について語られなかった。もし語られたなら、運命に関連し、仁徳に関連してであった。
09-02
逹巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御矣、
達巷党(たつこうとう)の人曰わく、大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし。子これを聞き、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾れは何を執(と)らんか、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾れは御を執らん。
達巷の村の人が言った、「偉大なものだね、孔子は。広く学ばれてこれという[限られた専門の]名声をお持ちにならない。」先生はそれを聞かれると、門人達に向かって言われた、「私は「専門の技術に」何をやろう。御者をやろうか、弓をやろうか。私は御者をやろう。」
09-03
子曰、麻冕禮也、今也純儉、吾從衆、拜下禮也、今拜乎上泰也、雖違衆、吾從下、
子の曰わく、麻冕(まべん)は礼なり。今や純(いと)なるは倹なり。吾れは衆に従わん。下(しも)に拝するは礼なり。今上(かみ)に拝するは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん。
先生が言われた、「[礼服としては]麻の冕(冠)が礼である。この頃絹糸にしているのは倹約だ。[そこで]私も皆に従おう。[主君に招かれた時]堂の下い 降りてお辞儀をするのが礼である。この頃上でお辞儀をしているのは傲慢だ。[そこで]皆とは違っても、私は下の方にしよう」
09-04
子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我、
子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。
先生は四つのことを絶たれた。勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らない。
09-05
子畏於匡、曰、文王既沒、文不在茲*乎、天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何、
子、匡(きょう)に畏(おそ)る。曰わく、文王既に没したれども、文茲*(ここ)に在らずや。天の将に斯の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし) の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未(いま)だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(わ)れを如何(いかん)。
先生が匡の土地で危険にあわれたときに言われた、「文王はもはや亡くなられたが、その文化はここに[この我が身に]伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそ うとするなら、後代の我が身はこの文化に携われない筈だ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、我が身をどうしようぞ」
匡人解囲図(第18図) (匡で人違いから群衆に囲まれる孔子一行の図)孔子57歳 9:5
09-06
太宰問於子貢曰、夫子聖者與、何其多能也、子貢曰、固天縦之將聖、叉多能也、子聞之曰、太宰知我者乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、
太宰(たいさい)、子貢に問いて曰わく、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なる。子貢が曰わく、固(もと)より天縦(てんしょう)の将聖(しょうせい)にして、 又た多能なり。子これを聞きて曰わく、太宰、我れを知れる者か。吾れ少(わかく)して賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや。多な らざるなり。
太宰が子貢に訊ねて言った、「あの方[孔子]は聖人でしょうな。なんとまあ多くのことが出来ますね。」子貢は答えた、「もちろん天の許した大聖であられる し、その上に多くのことがお出来になるのです。」先生はそのことを聞かれると言われた、「太宰は私のことを知る人だね。私は若いときには身分が低かった、 だからつまらないことが色々出来るのだ。君子は色々するものだろうか。色々とはしないものだ。[聖人などとは当たらない]」
09-07
牢曰、子云、吾不試、故藝、
牢(ろう)が曰わく、子云(のた)まう、吾れ試(もち)いられず、故に芸ありと。
牢が言った、「先生は『私は世に用いられなかったので芸がある。』と言われた。」
09-08
子曰、吾有知乎哉、無知也、有鄙夫、來問於我、空空如也、我叩其兩端而竭焉、
子の曰わく、吾れ知ること有らんや、知ること無きなり。鄙夫(ひふ)あり、来たって我れに問う、空空如(くうくうじょ)たり。我れ其の両端を叩いて竭(つ)くす。
先生が言われた、「私は物知りだろうか。物知りではない。つまらない男でも、真面目な態度でやって来て私に質問するなら、私はその隅々までたたいて、十分に答えてやるまでだ。」
09-09
子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、
子の曰わく、鳳鳥(ほうちょう)至らず、河(か)、図(と)を出ださず。吾れやんぬるかな。
先生が言われた、「鳳凰は飛んで来ないし、黄河からは図版も出て来ない。私もおしまいだね。」
09-10
子見齊衰者冕衣裳者與瞽者、見之雖少者必作、過之必趨、
子、斉衰(しさい)の者と冕衣裳(べんいしょう)の者と瞽者(こしゃ)とを見れば、これを見ては少(わか)しと雖も必ず作(た)ち、これを過ぐれば必ず趨(はし)る。
先生は斉衰の喪服を着けた人、冕の冠に装束した人、そして盲の人に行き会われると、見かけたときにはどんな若い相手でもきっと立ち上がられ、そばを通り過ぎるときにはきっと小走りになられた。
09-11
顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後、夫子循循善誘人、博我以文、約我以禮、欲罷不能、既竭吾才、如有所立卓爾、雖欲從之、末由也已、
顔淵、喟然(きぜん)として歎じて曰わく、これを仰げば彌々(いよいよ)高く、これを鑽(き)れば彌々堅し。これを瞻(み)るに前に在れば、忽焉(こつえ ん)として後(しりえ)に在り。夫子、循々然(じゅんじゅんぜん)として善く人を誘(いざな)う。我れを博(ひろ)むるに文を以てし、我れを約するに礼を 以てす。罷(や)まんと欲するも能わず。既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖ども、由(よし)なき のみ。
顔淵がああと感歎して言った、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、切り込めば切り込むほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、不意に又、後ろにある。 うちの先生は、順序よく巧みに人を導かれ、書物で私を広め、礼で私を引き締めて下さる。やめようと思ってもやめられない。もはや私の才能を出し尽くしてい るのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、着いて行きたいと思っても手立てがないのだ。」
09-12
子疾病、子路使門人爲臣、病間曰、久矣哉、由之行詐也、無臣而爲有臣、吾誰欺、欺天乎、且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縦不得大葬、予死於道路乎、
子の疾(やまい)、病(へい)なり。子路、門人をして臣たらしむ。病、間(かん)なるときに曰わく、久しかな、由(ゆう)の詐(いつわ)りを行うや。臣な くして臣ありと為す。吾れ誰をか欺かん。天を欺かんか。且つ予(わ)れ其の臣の手に死なんよりは、無寧(むしろ)二三子の手に死なんか。且つ予れ縦(た と)い大葬を得ずとも、予れ道路に死なんや。
先生の病気が重かったので、子路は門人達を家来にしたて[て、最後を立派に飾ろうとし]た。病気が少しよくなったときに言われた、「長いことだね、由の出 鱈目をしていることは。家来もいないのに家来がいるような真似をして、私は誰を騙すのだ。天を騙すのかね。それに私は、家来などの手で死ぬよりも、むしろ お前達の手で死にたいものだ。それに私は、立派な葬式はしてもらえなくとも、まさかこの私が道端で野垂れ死にするものか。」
09-13
子貢曰、有美玉於斯、韜*匱*而藏諸、求善賈而沽諸、子曰、沽之哉、沽之哉、我待賈者也、
子貢が曰わく、斯こに美玉あり、匱*(ひつ)に韜(おさめ)て諸(こ)れを蔵ぜんか、善賈(ぜんこ)を求めて諸れを沽(う)らんか。子の曰わく、これを沽らんかな、これを沽らんかな。我れは賈(こ)を待つ者なり。
子貢が言った、「ここに美しい玉があるとします。箱に入れてしまい込んでおきましょうか、よい買い手を探して売りましょうか。」先生は言われた、「売ろうよ、売ろうよ。私は買い手を待っているのだ。」
09-14
子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有、
子、九夷に居らんと欲す。或るひとの曰わく、陋(いやし)きことこれ如何せん。子の曰わく、君子これに居らば、何の陋しきことかこれ有らん。
先生が[自分の道が中国では行なわれないので、いっそ]東方未開の地に住まおうかとされた。ある人が「むさくるしいが、どうでしょう。」と言うと、先生は言われた、「君子がそこに住めば、何のむさくるしいことがあるものか。」
09-15
子曰、吾自衛反於魯、然後樂正、雅頌各得其所、
子の曰わく、吾れ衛より魯に反(かえ)り、然る後に楽正しく、雅頌(がしょう)各々其の所を得たり。
先生が言われた、「私が衛の国から魯に帰ってきて、はじめて音楽は正しくなり、雅も頌もそれぞれの場所に落ち着いた。」
(9-13)
杏壇礼楽図(第31図) (帰国した孔子が杏壇に礼楽を教えている図)孔子74歳 9:15
09-16
子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不爲酒困、何有於我哉、
子の曰わく、出でては則ち公卿(こうけい)に事(つか)え、入りては則ち父兄に事う。喪の事は敢えて勉めずんばあらず。酒の困(みだ)れを為さず、何か我れに有らんや。
先生が言われた、「外では公や卿(けい)[という身分の高い人々]によくお仕えし、家では父や兄達によくお仕えし、弔い事には出来る限り勤め、酒の上での出鱈目はしない。[それぐらいは]私にとって何でもない。」
09-17
子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、
子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎(や)めず。
先生が川のほとりで言われた、「過ぎ行くものはこの[流れの]ようであろうか。昼も夜も休まない。」
09-18
子曰、吾未見好徳如好色者也、
子の曰わく、吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
先生が言われた、「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人を未だ見たことがない。」
(15-13)
醜次同車図1(第19図)(衛国でパレードに参加させられる孔子{絵には不在}の図)孔子58歳 9:18(15:13)
醜次同車図2(第20図)(衛国を去るため車に乗り込む孔子の図)孔子58歳 同上
09-19
子曰、譬如爲山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也、
子の曰わく、譬(たと)えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(や)むは吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(ふく)すと雖も、進むは吾が往くなり。
先生が言われた、「例えば山を作るようなもの、もう一もっこというところを遣り遂げないのは、止めた自分が悪いのである。ちょうど土地を均すようなものだ、一もっこをあけるだけでも、その進行した部分は自分が歩いたのである」
09-20
子曰、語之而不惰者、其囘也與、
子の曰わく、これに語(つ)げて惰(おこた)らざる者は、其れ回なるか。
先生が言われた、「話をしてやって、それに怠らないのは、まあ回だね」
09-21
子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也、
子、顔淵を謂いて曰わく、惜しいかな。吾れ其の進むを見るも、未だ其の止むを見ざるなり。
先生が顔淵のことをこう言われた、「惜しいことだ[彼の死は]。私は彼の学問が日々に進歩しているのは見たが、それが停滞しているのを見たことがない。」
09-22
子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不實者有矣夫、
子の曰わく、苗にして秀(ひい)でざる者あり。秀でて実らざる者あり。
先生が言われた、「苗のままで穂を出さない人もいるねえ。穂を出したままで実らない人もいるねえ。」
09-23
子曰、後生可畏也、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣、
子の曰わく、後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
先生が言われた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今[の自分]に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判が立たないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ」
09-24
子曰、法語之言、能無從乎、改之爲貴、巽與之言、能無説乎、繹之爲貴、説而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣、
子の曰わく、法語の言は、能く従うこと無からんや。これを改むるを貴しと為す。巽與(そんよ)の言は、能く説(よろ)こぶこと無からんや。これを繹(たず)ぬるを貴しと為す。説こびて繹ねず、従いて改めずんば、吾れこれを如何ともする末(な)きのみ。
先生が言われた、「正しい表だった言葉には、従わずにおれない。だが[それで自分を]改めることが大切だ。物柔らかな言葉には嬉しがらずにはおられない。 だが[その真意を]訊ねることが大切だ。喜ぶだけで訊ねず、従うだけで改めないのでは、私にはどうしようもないものだよ」
09-25
子曰、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、
子の曰わく、忠信を主とし、己に如(し)かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚(はば)かること勿かれ。
先生が言われた、「忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人とするな。過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」
09-26
子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也、
子の曰わく、三軍も帥を奪うべきなり。匹夫も志しを奪うべからざるなり。
先生が言われた、「大軍でも、その総大将を奪い取ることができるが、一人の男でも、その志しを奪い取ることは出来ない」
09-27
子曰、衣敝蘊*袍、與衣孤貉者立而不恥者、其由也與、
子の曰わく、敝(やぶれ)たる蘊*袍(うんぽう)を衣(き)、孤貉(こかく)を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか。
先生が言われた、「破れた綿入れの上着を着ながら、狐や狢の毛皮を着た人と一緒に並んで恥ずかしがらないのは、まあ由[子路]だろうね」
09-28
不支*不求、何用不臧、子路終身誦之、子曰、是道也、何足以臧、
支*(そこな)わず求めず、何を用(もっ)てか臧(よ)からざらん。子路、終身これを誦(しょう)す。子の曰わく、是の道や、何ぞ以て臧しとするに足らん。
『害を与えず求めもせねば、どうして善くないことが起ころうぞ』子路は生涯それを口ずさんでいた。先生は言われた、「そうした方法ではね、どうして良いと言えようか。」
09-29
子曰、歳寒、然後知松栢之後彫也、
子の曰わく、歳(とし)寒くして、然る後に松栢(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る。
先生が言われた、「気候が寒くなってから、初めて松や柏が散らないで残ることが分かる[人も危難の時に初めて真価が分かる]」
09-30
子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼、
子の曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。
先生が言われた、「智の人は惑わない、仁の人は憂えない、勇の人は恐れない」
09-31
子曰、可與共學、未可與適道、可與適道、未可與立、可與立、未可與權、
子の曰わく、与(とも)に学ぶべし、未だ与に道に適(ゆ)くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権(はか)るべからず。
先生が言われた、「ともに並んで学ぶことはでき[る人でも]、ともに道徳には進めない。ともに道徳に進めても、ともに[そこにしっかりと]立つことは出来ない。ともに立つことが出来ても、ともに[物事をほどよく]取り計らうことは出来ない」
09-32
唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有哉、
唐棣(とうてい)の華(はな)、偏(へん)として其れ反せり。豈に爾(なんじ)を思わざらんや、室是れ遠ければなり。子の曰わく、未だこれを思わざるなり。夫(そ)れ何の遠きことかこれ有らん。
『唐棣(にわざくら)の花、ひらひらかえる。お前恋しと思わぬでないが、家がそれ遠すぎて。』先生は[この歌について]言われた、「思いつめていないのだ。まあ[本当に思いつめさえすれば]何の遠いことがあるものか」
10、郷黨第十
10-01
孔子於郷黨恂恂如也、似不能言者、其在宗廟朝廷、便便言唯謹爾、
孔子、郷黨(きょうとう)に於て恂々如(じゅんじゅんじょ)たり。言うこと能わざる者に似たり。其の宗廟、朝廷に在(いま)すや、便々として言い、唯だ謹(つつ)しめり。
孔子は、郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであったが、宗廟(おたまや)や朝廷ではすらすら話され、ひたすら慎重であった。
10-02
朝與下大夫言侃侃如也、與上大夫言ギンギン如也、君在シュクセキ*如也、與與如也、
朝(ちょう)にして下大夫(かたいふ)と言えば、侃々如(かんかんじょ)たり。上大夫(じょうたいふ)と言えば、ギンギン如(じょ)たり。君在(いま)せばシュクセキ如たり、与与如(よよじょ)たり。
朝廷で下級の大夫と話されるときは和やかでであり、上級大夫と話されるときは慎み深くされた。主君がおでましのときはうやうやしくされたが、また伸びやかであった。
10-03
君召使擯、色勃如也、足矍*如也、揖所與立、左右其手、衣前後贍*如也、趨進翼如也、賓退、必復命曰、賓不顧矣、
君、召して擯(ひん)たらしむれば、色勃如(ぼつじょ)たり。足カク如たり。与(とも)に立つ所を揖(ゆう)すれば、其の手を左右にす。衣(い)の前後セン如たり。趨(はし)り進むには翼(よく)如たり。賓(ひん)退けば必らず復命して曰わく、賓顧みずと。
主君のお召しで客の接待役を命じられたときは、顔つきは緊張され、足取りはそろそろとされた。一緒に[接待役として]並んでいる人々に会釈されるときは、 その手を右の方に組まれたり、左の方に組まれたりして、[腰を屈めるたびに]着物の前後が美しく揺れ動いた。小走りに進まれるときはきちんと立派であっ た。客が退出すると、必ずまた報告して「お客様は振り返りませんでした[満足して帰られた。]」と言われた。
10-04
入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位色勃如也、足矍*如也、其言似不足者、攝齊升堂鞠躬如也、屏氣似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、沒階趨進翼如也、復其位シュクセキ*如也、
公門に入るに、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。容(い)れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾(しきい)を履(ふ)まず。位を過ぐれば、色 勃如(ぼつじょ)たり、足カク如たり。其の言うこと、足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに、鞠躬如たり。気を屏(おさ)めて 息をせざる者に似たり。出でて一等を降(くだ)れば、顔色を逞(はな)って怡怡(いい)如たり。階を沒(つく)せば、趨(はし)り進むこと翼如たり。其の 位に復(かえ)ればシュクセキ*如たり。
宮城の御門を入るときは、おそれ慎んだ様子で、身体が入りかねるよにされた。門の中央すじ[は主君がおいででなくとも]顔つきは緊張され、足取りはそろそ ろとされた。その言葉使いは舌足らずのようであられた。裾を持ち上げて堂に上がられるときは、おそれ慎んだありさまで、まるで息をしない者のように、息遣 いをひそめられた。退出して[堂の階段を]一段降りられると、顔色をほぐされて安らかになられ、階段を降りつくすと、小走りに進まれるのにきちんと立派で あった。自分の席に戻られると、うやうやしくされた。
10-05
執圭鞠躬如也、如不勝、上如揖、下如授、勃如戰色、足縮縮*如有循也、享禮有容色、私覿愉愉如也、
圭を執(と)れば、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。勝(た)えざるが如し。上ぐることは揖(ゆう)するが如く、下すことは授くるが如く、勃如(ぼつ じょ)として戦色。足はシュクシュク如(じょ)として循(したが)うこと有り。享礼(きょうれい)には容色あり。私覿(してき)には愉愉(ゆゆ)如たり。
圭を持つときは畏れ慎んで、持ちきれないようにされた。上げるときはも会釈をするぐらい、下げるときも物を授けるぐらいで、緊張しておののかんばかり。足 取りは静々と摺り足で規律正しくされた。[贈物をする]享の儀式になると、和やかな顔つきになられ、[君主の代理を終わって]自分の私的な拝謁になると、 楽しげにされた。
10-06
君子不以紺取*飾、紅紫不以爲褻服、當暑袗チゲキ*、必表而出、シ衣羔裘、素衣麑裘、黄衣狐裘、褻裘長、短右袂、必有寢衣、長一身有半、狐貉の厚以居、去喪無所不佩、非帷裳必殺之、羔裘玄冠不以弔、吉月必朝服而朝、
君子は紺(かん)シュウを以て飾らず。紅紫は以て褻服(せつふく)と為さず。暑に当たりては袗(ひとえ)のチゲキ、必ず表して出(い)ず。シ衣には羔裘 (こうきゅう)、素衣には麑裘(げいきゅう)。黄衣には狐裘。褻裘は長く、右の袂を短くす。必ず寝衣あり、長(た)け一身有半。狐狢(こかく)の厚き以て 居る。喪を去(のぞ)いては佩(お)びざる所なし。帷裳(いしょう)に非らざれば必ずこれを殺(さい)す。羔裘玄冠しては以て弔せず。吉月には必ず朝服 (ちょうふく)して朝す。
君子は紺やとき色では襟や袖口の縁取りをしない[紺色は潔斎(ものいみ)のときの、とき色は喪が明け始めたときに着る色であるから]。紅と紫は[純粋な色 でないから、礼服はもとより]普段着に作らない。暑いときには一重の葛布(くずぬの)であるが、必ず[肌の透いて見えないように]うわっぱりをかけて外出 する。[冬着では]黒い着物には小羊の黒い毛皮、白い着物には鹿の子の白い毛皮、黄色い着物には狐の黄色い毛皮[を下に着込む]。普段着の皮ころもは長く するが、右の袂は[仕事に便利なように]短くする。必ず寝間着を備えて、その長さは身の丈とさらに半分である。狐や狢の厚い毛皮をしいて座る。[喪中は何 も帯にさげないが]喪が明ければ何でも腰にさげる。[祭服、朝服としての]帷裳でなければ、必ず[裳(スカート)の上部を]狭く縫い込む。小羊の黒い皮ご ろもと赤黒い絹の冠と[は、目出度い色だから、それ]では、お弔いに行かない。朔日(ついたち)には必ず朝廷の礼服を着けて出仕する。
10-07
齊必有明衣布也、斎必變食、居必遷坐、
斉(ものいみ)すれば必ず明衣あり、布なり。斉すれば必ず食を変じ、居は必ず坐を遷(うつ)す。
潔斎(ものいみ)には必ず[湯浴みの後に着る]ゆかたを備え、それは麻布で作る。潔斎には必ず普段とは食事を変え、住いも必ず普段とは場所を移す。
10-08
食不厭精、膾不厭細、食饐而曷*、魚餒而肉敗不食、色惡不食、臭惡不食、失壬*不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食氣、唯酒無量、 不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、食不語、寢不言、雖疏食菜羮瓜、祭必齊如也、
食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)してアイせると魚の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(く) らわず。色の悪しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。ジンを失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。其の醤 (しょう)を得ざれば食らわず。肉は多しと雖ども、食(し)の気に勝たしめず。唯だ酒は量なく、乱に及ばず。沽(か)う酒と市(か)う脯(ほじし)は食ら わず。薑(はじかみ)を撤(す)てずして食らう、多くは食らわず。公に祭れば肉を宿(よべ)にせず。祭の肉は三日を出ださず。三日を出ずればこれを食らわ ず。食らうには語らず、寝(い)ぬるには言わず。疏食(そし)と菜羮(さいこう)と瓜(うり)と雖も、祭れば必ず斉如(さいじょ)たり。
飯はいくら白くとも宜しく、なますはいくら細かくても宜しい。飯がすえて味変わりし、魚が腐り肉が腐れば食べない。色が悪くなったものも食べず、臭いの悪 くなったものも食べず、煮方の善くないものも食べず、季節外れのものも食べず、切り方の正しくないものも食べず、適当なつけ汁が無ければ食べない。肉は多 くとも主食の飯よりは越えないようにし、酒については決まった量はないが乱れる所までは行かない。買った酒や売り物の干し肉は食べず、生姜は除けずに食べ るが多くは食べない。主君の祭を助けたときは[頂き物の]肉を宵越しにはせず、わが家のの祭の肉は三日を越えないようにして、三日を越えたらそれを食べな い。食べるときは話しをせず、寝るときも喋らない。粗末な飯や野菜の汁や瓜のようなものでも、初取りのお祭りをするときはきっと敬虔な態度である。
10-09
席不正不坐、
席正しからざれば、坐せず。
座席がきちんとしていなければ坐らない。[必ず整えてから坐られる]
10-10
郷人飮酒、杖者出斯出矣、郷人儺、朝服而立於祚*階、
郷人(きょうじん)の飲酒には、杖者(じょうじゃ)出ずれば、斯こに出ず。郷人の儺(おにやらい)には、朝服して祚*階(そかい)に立つ。
村の人たちで酒を飲むときは、杖をつく老人が退出してから初めて退出する。村の人たちが鬼遣いをするときは、朝廷の礼服をつけて東の階段に立つ。
10-11
問人於他邦、再拜而送之、
人を他邦(たほう)に問えば、再拝(さいはい)してこれを送る。
他国の友人を訪ねさせるときは、その使者を再拝してから送りだす。
10-12
康子饋藥、拜而受之、曰、丘未達、不敢嘗、
康子(こうし)、薬を饋(おく)る。拝してこれを受く、曰わく、丘未だ達せず、敢て嘗(な)めず。
季康子が薬を贈った。[先生は]拝のお辞儀をしてから受け取ると言われた、「丘[私]は[この薬のことを]よく知りませんから、今は口にしません。」
10-13
厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬、
厩(うまや)焚(や)けたり、子、朝(ちょう)より退きて曰わく、人を傷(そこな)えりや。馬を問わず。
厩が焼けた。先生は朝廷からさがってくると、「人に怪我は無かったか。」と言われて、馬のことは問われなかった。
10-14
君賜食、必正席先嘗之、君賜腥、必熟而薦之、君賜生、必畜之、
君、食(しょく)を賜えば、必ず席を正して先ずこれを嘗(な)む。君、腥(なまぐさ)きを賜えば、必ず熟してこれを薦(すす)む。君、生(い)けるを賜えば、必ずこれを畜(か)う。
主君が食物を下されたときは、必ず座席をきちんとして、まず少し食べられた。主君が生肉を下されたときは、必ず煮てから[祖先に]お供えされた。主君が生きたものを下されたときは、必ず飼育された。
10-15
侍食於君、君祭先飯、
君に侍食(じしょく)するに、君祭れば先ず飯(はん)す。
主君と一緒に食事をするときは、主君が初取りのお祭りをされると、[毒味の意味で]先に召し上がられた。
10-16
疾、君視之、東首加朝服、它*紳、
疾(しつ)あるに、君これを視れば、東首(とうしゅ)して朝服を加え、紳(しん)をヒく。
病気をして主君がお見舞いに来られたときは、東枕にして朝廷の礼服を上にかけ、広帯を引き延べられた。
10-17
君命召、不俟駕行矣、
君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。
主君の命令で召されると、車に馬をつなぐのも待たないでおもむかれ[馬車は後から追付くようにされ]た。
10-18
入大廟、毎事問、
大廟に入りて、事ごとに問う。
大廟の中では、儀礼を一つ一つ訊ねられた。
10-19
朋友死無所歸、曰於我殯、朋友之饋、雖車馬、非祭肉、不拜、
朋友死して帰する所なし。曰わく、我れに於て殯(ひん)せよ。朋友の饋(おく)りものは、馬車と雖も、祭りの肉に非ざれば、拝せず。
友達が死んでよるべのないときには、「私の家で、殯(かりもがり)をしなさい。」と言われた。友達の贈物は車や馬のような[立派な]ものでも、お祭りの肉でないかぎりは、拝のお辞儀をされなかった。
10-20
寢不尸、居不容、
寝(い)ぬるに尸(し)せず。居るに容(かたち)づくらず。
寝るときには死体の様に[不様に]ならず、普段のときには容儀(かたち)を作られなかった。
10-21
子見齊衰者、雖狎必變、見冕者與瞽者、雖褻必以貌、凶服者式之、式負版者、有盛饌必變色而作、迅雷風烈必變、
子、斉衰(しさい)の者を見ては、狎(な)れたりと雖ども必ず変ず。冕者(べんしゃ)と瞽者(こしゃ)とを見ては、褻(せつ)と雖も必ず貌(かたち)を以 てす。凶服の者にはこれに式(しょく)す。負版(ふはん)の者に式す。盛饌(せいせん)あれば必ず色を変じて作(た)つ。迅雷(じんらい)風烈には必ず変 ず。
先生は斉衰(しさい)の喪服を着けた人に会うと、懇意な間柄でも必ず様子を改められた。冕(べん)の冠を着けた人と盲の人に会うと、親しい間柄でも必ず様 子を改められた。喪服の人には[車の前の横木に手をあてる]式(しょく)の敬礼を行い、戸籍簿を持つ者にも式の敬礼をされた。立派な御馳走にあずかると必 ず顔つきを整えて立ち上がられ[、主人への敬意を表され]た。ひどい雷や暴風には必ず居ずまいを正され[謹慎され]た。
10-22
升車、必正立執綏、車中不内顧、不疾言、不親指、
車に升(のぼ)りては、必ず正しく立ちて綏(すい)を執(と)る。車の中にして内顧(ないこ)せず。疾言(しつげん)せず、親指せず。
車に乗られるときには、必ず直立して、すがり綱を握られた。車の中では後ろを振り向かず、大声のお喋りをせず、直接に指さされなかった。
10-23
色斯擧矣、翔而後集、曰、山梁雌雉、時哉、時哉、子路共之、三嗅而作、
色みて斯(ここ)に挙(あが)り、翔(かけ)りて而(しか)して後に集(とど)まる。曰わく、山梁(さんりょう)の雌雉(しち)、時なるかな、時なるかな。子路これを共す。三たび嗅ぎて作(た)つ。
驚いてぱっと飛び立ち、飛び回ってから初めて留まる。[先生はそれを見られると]言われた、「山の橋べのめす雉も、時節にかなっているよ、時節に。」[鳥 の動きに意味を認められたのだが、]子路は[時節の食べ物のことと誤解して]それを食前にすすめた。[先生は]三度臭いを嗅がれると席を立たれた。
追記:
「孔子、敧器を観るの図」明代。著者未詳。孔子故里博物館蔵。
敧器に水が入っていない時は傾き、一杯の時はひっくり返る。
水がほどよく入っている時はまっすぐになる。
「孔子家語」「三恕」にある中庸を説いた故事を絵に表した図
敧器(きき、傾いた器)または宥坐の器(ゆうざのき)
宥坐の器(ゆうざのき)及び『論語』概念構造図:メモ
http://yojiseki.exblog.jp/15244181/