柳田国男と孝(柄谷行人『遊動論』をめぐって)&チューネン『孤立国』
(リンク::::::::::、民俗学、柳田国男、文庫版目次、作業用目次、結論部、孝=本頁、柄谷行人)
並松信久「柳田国男の農政学の展開」(「京都産業大学論集 社会科学系列」所収、二〇一〇年)
https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_dow
nload&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
荒政要覧
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/07/blog-post_29.html
___
遊動論より
並松信久「柳田国男の農政学の展開」(「京都産業大学論集 社会科学系列」所収、二〇一〇年)
…つまり、この山地の社会に、平地の農村にない「社会主義」を見出したからである。彼にとって、それは「奇蹟」であった。並松信久はつぎのように述べている。
柳田は、椎葉村が稲作ではなく、焼畑や狩猟によって暮らしている山村であるということを発見し、その生活形態に関心をもっている。柳田が椎葉村に関心をもった背景には、稲作に依存しない山村ということもあった。柳田はそこに住む人々を「山人」とよび、平野部に住む人々と異なることを強調する。とくに著書『後狩詞記』は、主に猪猟の狩詞を紹介した書籍という体裁をとっているが、柳田にとって、その猪狩の形態は自身の産業組合論とのつながりを暗示させた。猪狩を行なう場合は、老練者の指揮のもとで各自が自分の役割を分担して遂行されている。柳田によれば、猪狩は協同と自助の精神を前提として成り立っている狩猟であった。柳田は椎葉村の猪狩について、産業組合の精神を重ね合わせて観察している。
(「柳田国男の農政学の展開」)
柳田が椎葉村に見たのは、妖怪のようなものではなかった。また、たんに前代の生産形態でもなかった。…
柳田国男は報徳社の意義を理解できなかったのだと思う。NAMと同じで報徳社は母体であって主体ではない。貨幣経済が浸透していないというより貨幣を持たない人たちにいきなり信用組合は無理だ。協同組合社会は法律だけでは獲得出来ない。柳田は報徳社を理解したふりをしているが理解していない。江戸から連続する協同組合の芽を摘んでしまった。明治官僚の枠を出られなかった。柄谷論考でも引用されている以下の並松論文を読んで改めてそう思う。
日本人は孝より忠を重視してきたという『遊動論』139頁以降における柄谷の儒教への言及は、
加地伸行や呉善花の指摘してきたことと同じだ。
http://1000ya.isis.ne.jp/1205.html
《「儒」の基本は、もともと「孝」にあった。なぜ「孝」であったかといえば、血族や家族が
「家」にまつわる死者を慰撫する原儒の本来からして、生前に「孝」を積んでおくことが最も
有効であると思われていたからだった。》
NAMs出版プロジェクト: エマニュエル・トッド - Wikipedia
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/wikipedia-httpsja.html
NAMs出版プロジェクト: 柳田国男と孝(柄谷行人『遊動論』をめぐって)&蝸牛考
http://nam-students.blogspot.jp/2014/01/blog-post_30.html@並松信久「柳田国男の農政学の展開」(「京都産業大学論集 社会科学系列」所収、二〇一〇年)
https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_dow
nload&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
荒政要覧
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/07/blog-post_29.html
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遊動論より
並松信久「柳田国男の農政学の展開」(「京都産業大学論集 社会科学系列」所収、二〇一〇年)
…つまり、この山地の社会に、平地の農村にない「社会主義」を見出したからである。彼にとって、それは「奇蹟」であった。並松信久はつぎのように述べている。
柳田は、椎葉村が稲作ではなく、焼畑や狩猟によって暮らしている山村であるということを発見し、その生活形態に関心をもっている。柳田が椎葉村に関心をもった背景には、稲作に依存しない山村ということもあった。柳田はそこに住む人々を「山人」とよび、平野部に住む人々と異なることを強調する。とくに著書『後狩詞記』は、主に猪猟の狩詞を紹介した書籍という体裁をとっているが、柳田にとって、その猪狩の形態は自身の産業組合論とのつながりを暗示させた。猪狩を行なう場合は、老練者の指揮のもとで各自が自分の役割を分担して遂行されている。柳田によれば、猪狩は協同と自助の精神を前提として成り立っている狩猟であった。柳田は椎葉村の猪狩について、産業組合の精神を重ね合わせて観察している。
(「柳田国男の農政学の展開」)
柳田が椎葉村に見たのは、妖怪のようなものではなかった。また、たんに前代の生産形態でもなかった。…
柳田国男は報徳社の意義を理解できなかったのだと思う。NAMと同じで報徳社は母体であって主体ではない。貨幣経済が浸透していないというより貨幣を持たない人たちにいきなり信用組合は無理だ。協同組合社会は法律だけでは獲得出来ない。柳田は報徳社を理解したふりをしているが理解していない。江戸から連続する協同組合の芽を摘んでしまった。明治官僚の枠を出られなかった。柄谷論考でも引用されている以下の並松論文を読んで改めてそう思う。
日本人は孝より忠を重視してきたという『遊動論』139頁以降における柄谷の儒教への言及は、
加地伸行や呉善花の指摘してきたことと同じだ。
http://1000ya.isis.ne.jp/1205.html
《「儒」の基本は、もともと「孝」にあった。なぜ「孝」であったかといえば、血族や家族が
「家」にまつわる死者を慰撫する原儒の本来からして、生前に「孝」を積んでおくことが最も
有効であると思われていたからだった。》
(加地伸行『儒教とは何か』の松岡正剛による要約)
特に呉とは「父爲子隱、子爲父隱」(『論語』子路13-18)という引用箇所も同じだ。
《中国や韓国のように、儒教が国家の制度思想として採用された国では、孝が忠に優先する
ことは、国としては少々困った問題でもあった。たとえば『論語』に、羊を盗んだ父親の罪を
正直に役人に訴えた息子について、どう思うかと問われた孔子が「父は子のためにその罪を隠
し、子は父のためにその罪を隠す」ことが正直なことなのだと言った、という有名な話がある。
儒教はこのように、血縁共同体を超えた規範になるためには最初から限界を抱えていた。その
ために『孝経』がつくられて、孝と忠の調整がはかられたとも言われるが、この問題は結局は
根本的には解決されなかったように思う。》
http://www.amazon.co.jp/dp/B00E60ARNA/
(新 スカートの風 角川文庫 呉善花=お・そんふぁ著)
ここで指摘したいのは柄谷の儒教への言及は必然だったということだ。
柳田は朱子学から社倉のアイデアを得ていたという指摘に加え(75,48,59頁参照)、
柳田の父は神官である以前に儒者だった。
柳田の思考パターンは神道以上に儒教的である。
柳田は孝行の重要性を語っている。
http://1000ya.isis.ne.jp/1205.html
《桑原武夫が柳田国男に、こういうことを尋ねたことがあるらしい。かつて日本には内藤湖
南、狩野直喜、西田幾多郎といった強靭な学者がいたと思うのですが、最近はどうも軟弱で、
線が細くなったと感じるんですが、先生はどういうふうに感じられますでしょうか。すると
柳田は、「それは孝行というものがなくなったからです」と答えたという。》
儒者が乱神を語るのはおかしいと思われるかもしれないが、白川静が指摘するように孔子はもと
もとは葬儀屋なのだ。とはいえ柳田は折口や熊楠のようには神秘体験を主張しない。ここは儒者
らしい。
そもそも『遊動論』で柄谷が指摘したように、「神道」は仏教や儒教を模倣することによって体系化された。
《神道学者らがいう日本固有の「神道」は、実は、仏教や道教・儒教から得た理論を用いて体系化した
ものにすぎない。》(『遊動論』129~130頁)
だから神道を儒教的に扱う柳田に矛盾はない(*)。
宣長の漢意批判は、別のレベルで柳田に受け継がれている。
柳田にとっては神道、儒教、仏教、道教、西欧文化はすべて補完関係にある。
ただし、必然的に柳田の体系も儒教を超えていない。
朱子学のように、構造主義ではなく構図主義にとどまる。(理論よりも事実を重視するわけだから)
『蝸牛考』も構図主義的だ(**)。
*
旧作インスクリプト『柳田国男論』27頁以下で柄谷は柳田を(古道を絶対化した)宣長よりも儒者である(歴史に意識的な)荻生徂徠に
近いと言っている(初出1986年)。
最新作が神道寄りなら儒学寄りにかつては(=1986年版。1975年版では宣長への言及から始まるが)柳田を解釈していたことになる。
それも先に述べたように神道が儒教を手本に構築されていったと考えれば矛盾はない(荻生徂徠の朱子学批判、本居宣長の荻生徂徠批判は観念
論批判として同質であり逆に彼らの同質性、継承性を示す)。
同書33頁(及び184~5頁=1974年初出「柳田国男試論」)では柳田が孝行を重視したという桑原武夫の証言も、花田清輝からの孫引き(「柳
田国男について」『花田清輝評論集』岩波文庫219頁参照。出典は桑原武夫「学問を支えるもの」『雲の中を歩んではならない』桑原武夫全集第
資本論 1:23:1 …
河出書房新社版
深澤論考 https://ygu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_ download&item_id=3363&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=4&block_id=82 その二人の中で、チューネンは『資本論』では第1巻に、一度だけ簡単に名が出てくるだけであり(6)、その後マルクスからエンゲルスへの書簡に三度ほど名が出てくる(7)。結局のところ、マルクスはチューネンに関して、あまり深い検討や考察をしてはいないのである。今日からすれば、「限界生産力の発見者」とか「農業経済学における数理経済学的・計量経済学的手法の開拓者」として名前と研究成果が挙げられるチューネンであるが、マルクスは当時そうした評価や扱いを全くしてはいないのである。
(6)K.Marx[1867]Band23,S.649/811ページ。そこでマルクスは、なぜ労働者は資本の支配者から奴隷となるのかというチューネンの起こした疑問に対して、「功績」という評価を与えているが、「だが、彼の答えはまったく子供じみたものでしかない」という評価を下している。
7)「このテューネン[チューネンのこと]にはどこかほろりとさせられるところがあります。メクレンブルクのユンカーで(ついでながら、ドイツ流の傑出した思考はもっている)、自分の領地テロを農村、メクレンブルク‐シュヴェリーンを都市として扱い、これを前提にすえて、観察、微分計算、簿記等を使いながら、リカードの地代論を自分で組み立てているのであるから。これこそまさに大したものでもあり、滑稽でもあります。」(「マルクスからルートヴィヒ・クーゲルマン(在ハノーファー)へ〔1968年〕K.Marx-F.Engels[1965]Band32,S.538/441ページ。)この他に『マルクスエンゲル全集』には、二箇所チューネンについての簡単な記載がある。(K.Marx-F.Engels[1965]Band32.S.533/437ページ。K.Marx-F.Engels[1966]Band34.S.151/125ページ。)
マルクスの仮想敵はデューリングだとわかる。不安、生意気など自己投影が見られる。
ケインズは一次産品の価格安定のために国際緩衝在庫案(1942年)を出した。
柳田國男が着目した三倉(義倉・社倉・常平倉)の国際版ようなものだ(参考:柄谷行人『遊動論』他)。
バンコールはこれでわかりやすい実体を持つようになる。
(『危機の中でケインズから学ぶ』2011年・平井論考より)
協同組合というと小さすぎて軽視されるかもしれないが、国際社会でも結局同じ原理が応用できる。
似たアイデアを先に出したウォーレス副大統領は実際に中国の常平倉("The Ever-Normal
こう見るとチューネン自然労賃の認識はマルクスの認識とそこまで違いはない
(『資本論』123:1河出書房新社版)
特に呉とは「父爲子隱、子爲父隱」(『論語』子路13-18)という引用箇所も同じだ。
《中国や韓国のように、儒教が国家の制度思想として採用された国では、孝が忠に優先する
ことは、国としては少々困った問題でもあった。たとえば『論語』に、羊を盗んだ父親の罪を
正直に役人に訴えた息子について、どう思うかと問われた孔子が「父は子のためにその罪を隠
し、子は父のためにその罪を隠す」ことが正直なことなのだと言った、という有名な話がある。
儒教はこのように、血縁共同体を超えた規範になるためには最初から限界を抱えていた。その
ために『孝経』がつくられて、孝と忠の調整がはかられたとも言われるが、この問題は結局は
根本的には解決されなかったように思う。》
http://www.amazon.co.jp/dp/B00E60ARNA/
(新 スカートの風 角川文庫 呉善花=お・そんふぁ著)
ここで指摘したいのは柄谷の儒教への言及は必然だったということだ。
柳田は朱子学から社倉のアイデアを得ていたという指摘に加え(75,48,59頁参照)、
柳田の父は神官である以前に儒者だった。
柳田の思考パターンは神道以上に儒教的である。
柳田は孝行の重要性を語っている。
http://1000ya.isis.ne.jp/1205.html
《桑原武夫が柳田国男に、こういうことを尋ねたことがあるらしい。かつて日本には内藤湖
南、狩野直喜、西田幾多郎といった強靭な学者がいたと思うのですが、最近はどうも軟弱で、
線が細くなったと感じるんですが、先生はどういうふうに感じられますでしょうか。すると
柳田は、「それは孝行というものがなくなったからです」と答えたという。》
儒者が乱神を語るのはおかしいと思われるかもしれないが、白川静が指摘するように孔子はもと
もとは葬儀屋なのだ。とはいえ柳田は折口や熊楠のようには神秘体験を主張しない。ここは儒者
らしい。
そもそも『遊動論』で柄谷が指摘したように、「神道」は仏教や儒教を模倣することによって体系化された。
《神道学者らがいう日本固有の「神道」は、実は、仏教や道教・儒教から得た理論を用いて体系化した
ものにすぎない。》(『遊動論』129~130頁)
だから神道を儒教的に扱う柳田に矛盾はない(*)。
宣長の漢意批判は、別のレベルで柳田に受け継がれている。
柳田にとっては神道、儒教、仏教、道教、西欧文化はすべて補完関係にある。
ただし、必然的に柳田の体系も儒教を超えていない。
朱子学のように、構造主義ではなく構図主義にとどまる。(理論よりも事実を重視するわけだから)
『蝸牛考』も構図主義的だ(**)。
*
旧作インスクリプト『柳田国男論』27頁以下で柄谷は柳田を(古道を絶対化した)宣長よりも儒者である(歴史に意識的な)荻生徂徠に
近いと言っている(初出1986年)。
最新作が神道寄りなら儒学寄りにかつては(=1986年版。1975年版では宣長への言及から始まるが)柳田を解釈していたことになる。
それも先に述べたように神道が儒教を手本に構築されていったと考えれば矛盾はない(荻生徂徠の朱子学批判、本居宣長の荻生徂徠批判は観念
論批判として同質であり逆に彼らの同質性、継承性を示す)。
同書33頁(及び184~5頁=1974年初出「柳田国男試論」)では柳田が孝行を重視したという桑原武夫の証言も、花田清輝からの孫引き(「柳
田国男について」『花田清輝評論集』岩波文庫219頁参照。出典は桑原武夫「学問を支えるもの」『雲の中を歩んではならない』桑原武夫全集第
5巻再録)としてではあるが柄谷は引用している。
柳田のテクストをマルクスと同質のものとして救い上げる手腕(同書40,66,168頁)は、テクスト論としては最新作より一貫した重心の低
さがあり、(超越的な見取り図は提出されないが)見事と言っていい。
旧作(1986,1974,1975年初出)が、折口、熊楠との比較、小さき者への視座という最新作と同じ題材を扱いつつも、吉本隆明のような大上段の
見取り図=理論の下をくぐり抜けるテクスト群であるとし たら(1974年版68頁ではスピノザ、1974年版203頁ではデカルトを引用していたが、
特に1975年「柳田国男の神」ではパスカルとの類似が指摘される(***))、最新作は(74頁ではカントが言及される)吉本に真正面から向
かい合いかつそれを超越し、オルタナティブな見取り図を提出している。
デデムシ→マイマイ→カタツムリ→ツブリ→ナメクジ
**
参考:
方言周圏論(柳田国男『蝸牛考』1930年初版。柄谷行人『遊動論』111頁、旧『柳田国男論』37、93頁他参照):
(古い順に)
ナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシ
(斜めの長方形は日本列島。☆は京都)
___________________
/ ナメクジ / \\
/ ________/______ \\
/ / ツブリ/ \ \\
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山人と島人との同質性もこれで説明できる(『遊動論』91頁参照)。
ちなみに、(柳田=柄谷はこうした一般化を認めないが)方言周圏論と同じことが基礎と
なる文化、宗教についても言えるだろう。
アイヌ→神道→仏教→道教→欧米(キリスト教)
キリシタン弾圧など、復古思想により新しい文化が周辺に追いやられることもある。
縄文人の子孫の人口分布も(これは明らかに弥生より古層にあるが)そうした傾向を持つ。
柳田のテクストをマルクスと同質のものとして救い上げる手腕(同書40,66,168頁)は、テクスト論としては最新作より一貫した重心の低
さがあり、(超越的な見取り図は提出されないが)見事と言っていい。
旧作(1986,1974,1975年初出)が、折口、熊楠との比較、小さき者への視座という最新作と同じ題材を扱いつつも、吉本隆明のような大上段の
見取り図=理論の下をくぐり抜けるテクスト群であるとし たら(1974年版68頁ではスピノザ、1974年版203頁ではデカルトを引用していたが、
特に1975年「柳田国男の神」ではパスカルとの類似が指摘される(***))、最新作は(74頁ではカントが言及される)吉本に真正面から向
かい合いかつそれを超越し、オルタナティブな見取り図を提出している。
デデムシ→マイマイ→カタツムリ→ツブリ→ナメクジ
**
参考:
方言周圏論(柳田国男『蝸牛考』1930年初版。柄谷行人『遊動論』111頁、旧『柳田国男論』37、93頁他参照):
(古い順に)
ナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシ
(斜めの長方形は日本列島。☆は京都)
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/ ナメクジ / \\
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山人と島人との同質性もこれで説明できる(『遊動論』91頁参照)。
ちなみに、(柳田=柄谷はこうした一般化を認めないが)方言周圏論と同じことが基礎と
なる文化、宗教についても言えるだろう。
アイヌ→神道→仏教→道教→欧米(キリスト教)
キリシタン弾圧など、復古思想により新しい文化が周辺に追いやられることもある。
縄文人の子孫の人口分布も(これは明らかに弥生より古層にあるが)そうした傾向を持つ。
例えば「後狩詞記」でも九州の山人の小屋がアイヌと似ていることが指摘されている(文庫全集第5巻18頁)。
***
マルクス(通奏低音として)→スピノザ→デカルト→パスカル→カント
あるいは、
改訂稿:
柄谷の柳田論、最新作74頁ではカントが柳田と同質的なものだという肯定的文脈で言及され、
旧作1974年版50頁ではアラン、68頁ではスピノザ、
1974年版203頁ではデカルトが引用され(1974年版74,82頁ではデカルトと並べてベーコンが言及される。ベーコンは244頁でも言及される)、
***
マルクス(通奏低音として)→スピノザ→デカルト→パスカル→カント
あるいは、
改訂稿:
柄谷の柳田論、最新作74頁ではカントが柳田と同質的なものだという肯定的文脈で言及され、
旧作1974年版50頁ではアラン、68頁ではスピノザ、
1974年版203頁ではデカルトが引用され(1974年版74,82頁ではデカルトと並べてベーコンが言及される。ベーコンは244頁でも言及される)、
1975年「柳田国男の神」279頁ではパスカルとの類似が指摘されている。
マルクスは1974年版から一貫して言及される(旧作40,66,168頁、新作76~7頁)。
こうした柄谷の趣味を周圏論的に捉えると、
(古い順に)
マルクス&アラン→スピノザ&フロイト→デカルト&ベーコン→パスカル→カント
となる。
1974年版135頁で言及され、新作184頁付論でも言及されるフロイトをマルクスとともに
通奏低音として追加してもいいかもしれない。
(斜めの長方形は人間、☆はその可能性の中心?)
___________________
/ マルクス アラン \\
/ ________/______ \\
/ / スピノザ/フロイト \ \\
/ / ____/______ \ \\
/ / / デカルト ベーコン \ \ \\
| / / /______ \ \ / |
| | / / パスカル \ \ | |
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柳田は自然と人間の関係を考察するとされる(1975年論考)。だから図のさらに周辺に位置するとも考えられる。
ただし、その分野は熊楠の方が一歩リードしている。柳田の関わるのはあくまで歴史である。
マルクスは1974年版から一貫して言及される(旧作40,66,168頁、新作76~7頁)。
こうした柄谷の趣味を周圏論的に捉えると、
(古い順に)
マルクス&アラン→スピノザ&フロイト→デカルト&ベーコン→パスカル→カント
となる。
1974年版135頁で言及され、新作184頁付論でも言及されるフロイトをマルクスとともに
通奏低音として追加してもいいかもしれない。
(斜めの長方形は人間、☆はその可能性の中心?)
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/ マルクス アラン \\
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/ / スピノザ/フロイト \ \\
/ / ____/______ \ \\
/ / / デカルト ベーコン \ \ \\
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柳田は自然と人間の関係を考察するとされる(1975年論考)。だから図のさらに周辺に位置するとも考えられる。
ただし、その分野は熊楠の方が一歩リードしている。柳田の関わるのはあくまで歴史である。
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| |目
| |デ
| |見
| |ル
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| | | |人
| | | |ノ
| | | |感
| | | |覚
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俗 口 習
信 碑 俗
柳田国男(民間伝承の)「三部分類」
(『民間伝承論』ちくま文庫版全集第28巻373頁より。同26巻「国史と民俗学」にも同様の説明がある。「柄谷行人『柳田国男論』113頁参照)
柳田国男は民間伝承の三部分類(目・耳・心)を提唱している。
あくまで帰納法であり、宇野弘蔵のようなヘーゲル経由ではない。
座標が縦横にあるから応用が効き、秘教化しないところがミソだ。
柄谷の論考はこれらを精神分析的に遡行するものだ。
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俗 口 習
信 碑 俗
柳田国男(民間伝承の)「三部分類」
(『民間伝承論』ちくま文庫版全集第28巻373頁より。同26巻「国史と民俗学」にも同様の説明がある。「柄谷行人『柳田国男論』113頁参照)
柳田国男は民間伝承の三部分類(目・耳・心)を提唱している。
あくまで帰納法であり、宇野弘蔵のようなヘーゲル経由ではない。
座標が縦横にあるから応用が効き、秘教化しないところがミソだ。
柄谷の論考はこれらを精神分析的に遡行するものだ。
追記:
柳田は蝸牛考におけるチューネンからの影響を公言している。
孤立国 (近代経済学古典選集) 単行本 – 1989/12
水野論考
自然労賃は,以下のようにして導かれる8.
新たに農場を建設する場合,農場建設の直接的作業を行う者(第一班)と彼等の生活維持のために食糧生産を行う者(第二班)との二つに分かれる (『孤立国』邦訳p.377). 第一班の人達の生存維持に必要な食糧等は、第二班の人達の労働から生みだされるので,一人当たりの賃金を生活必要賃金a とそれを越える分(超過分9)y とすると,第一班の職糧は,第二班の人達の労賃のうちの(超過分)yによって賄われる必要があるので,全体人数を求め,一人当たり生産額pから賃金(a+y)を控除したものを微分して収益最大値を求めると,a + y =√ apが求められる.
これは賃金が労働者の必要生活費と労働の生産物の売り上げの比例中項となる場合であり,そのとき生産者の収益が最大になることを意味している.それを自然賃金と呼んだ.これが生産者の収益を最大にするためにあるべき賃金である。
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柳田の協同組合への着目(三倉=義倉・社倉・常平倉。柄谷行人『遊動論』、ケインズ全集#27参照)は
マルクス経由ではなく、飢饉の経験からくる
柳田はマルクスの抽象能力の影響下にはない
柳田は暴力革命を危惧していたから
マルクス資本論の影響はない。チューネン孤立國の影響はある(方言周圏論-柳田国男『蝸牛考』)
ただマルクスはチューネンの影響を受けていたから柳田とマルクスは学問的には同門であると言える
マルクスのチューネン評は以下で見られる。
資本論1:23:1(子供じみている)、クーゲルマン宛て書簡#32(ほろりとさせられる)。
参考:
チューネン自然労賃(生活必要賃金a+超過分y)=√ a一人当たり生産額p
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
差額地代しか見ていないと揶揄される傾向もあるが
こう見るとチューネン自然労賃の認識はマルクスの認識とそこまで違いはない
第二三章 資本制的蓄積の一般的法則
第一節 資本の構成が同等不変であれば労働力に対する需要は蓄積につれて増加する
人間は、宗教において自分じしんの頭の作物によって支配されるのと同じように、資本制的生産においては自分じしんの手の作物によって支配される(*77a)。
77a 「さて、資本そのものが人間の労働の産物にすぎないことを証明したわれわれの最初の研究にたち帰るならば、……人間が自分じしんの生産物たる資本の支配下におちいって、これに隷属させられうるということは、まったく理解できないように思われる。しかも、現実においては確かにそのとおりなのだから、おのずから次ぎのような疑問がおこる、──資本の創造者たる労働者がいかにして、資本の支配者から資本の奴隷となりえたか?」(フォン・テューネン『孤立国家』、第二部第二篇。ロシュトック、一八六三年、五、六頁。)疑問をおこしたのはテューネンの功績であるが、彼の解答はまったまったく子供じみたものである。
戦後世界の形成―雇用と商品 (ケインズ全集#27)単行本 – 1996/8
https://www.amazon.co.jp/dp/4492813276/
https://www.amazon.co.jp/dp/4492813276/
ケインズは一次産品の価格安定のために国際緩衝在庫案(1942年)を出した。
柳田國男が着目した三倉(義倉・社倉・常平倉)の国際版ようなものだ(参考:柄谷行人『遊動論』他)。
バンコールはこれでわかりやすい実体を持つようになる。
(『危機の中でケインズから学ぶ』2011年・平井論考より)
協同組合というと小さすぎて軽視されるかもしれないが、国際社会でも結局同じ原理が応用できる。
参考:
平井俊顕ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/olympass/49302436.html
https://blogs.yahoo.co.jp/olympass/49302436.html
似たアイデアを先に出したウォーレス副大統領は実際に中国の常平倉("The Ever-Normal
Granary")からアイデアを得たようだ。
ゲゼルとケインズは長期的かつ世界的視野を持った数少ない経済学者だ。
ゲゼルとケインズは長期的かつ世界的視野を持った数少ない経済学者だ。
水野論考
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
チューネン自然労賃は,以下のようにして導かれる
新たに農場を建設する場合,農場建設の直接的作業を行う者(第一班)と彼等の生活
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
チューネン自然労賃は,以下のようにして導かれる
新たに農場を建設する場合,農場建設の直接的作業を行う者(第一班)と彼等の生活
維持のために食糧生産を行う者(第二班)との二つに分かれる (『孤立国』邦訳p.377).
第一班の人達の生存維持に必要な食糧等は、第二班の人達の労働から生みだされるので,
一人当たりの賃金を生活必要賃金a とそれを越える分(超過分)y とすると,第一班の
職糧は,第二班の人達の労賃のうちの(超過分)yによって賄われる必要があるので,
全体人数を求め,一人当たり生産額pから賃金(a+y)を控除したものを微分して収益
最大値を求めると,a + y =√ apが求められる.
これは賃金が労働者の必要生活費と労働の生産物の売り上げの比例中項となる場合であり,
これは賃金が労働者の必要生活費と労働の生産物の売り上げの比例中項となる場合であり,
そのとき生産者の収益が最大になることを意味している.それを自然賃金と呼んだ.これ
が生産者の収益を最大にするためにあるべき賃金である。
チューネン自然労賃(生活必要賃金a+超過分y)=√ a一人当たり生産額p
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
こう見るとチューネン自然労賃の認識はマルクスの認識とそこまで違いはない
ちなみに、柳田の協同組合への着目(三倉=義倉・社倉・常平倉。柄谷行人『遊動論』、ケインズ
全集#27参照)は マルクス経由ではなく、飢饉の経験からくる
柳田はマルクスの抽象能力の影響下にはない
柳田は暴力革命を危惧していたから
マルクス資本論(抽象能力の産物)の影響はない。チューネン孤立國の影響はある(方言周
圏論-柳田国男『蝸牛考』)
ただマルクスはチューネン、ハイネの影響を受けていたから柳田とマルクスは学問状況的には同門であると言える
マルクスのチューネン評は以下で見られる。
資本論1:23:1(子供じみている)、クーゲルマン宛て書簡#32(ほろりとさせられる)。
参考:
チューネン自然労賃:(生活必要賃金a+超過分y)=√ a一人当たり生産額p
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
(均衡賃金としての自然賃金は生存賃金と労働生産性の幾何平均であるというチューネンの公式)
差額地代しか見ていないと揶揄される傾向もあるが
こう見るとチューネン自然労賃の認識はマルクスの再生産表式の認識とそこまで違いはない
《「…次ぎのような疑問がおこる、──資本の創造者たる労働者がいかにして、資本の
支配者から資本の奴隷となりえたか?」(フォン・テューネン『孤立国家』、第二部
第二篇。ロシュトック、一八六三年、五、六頁。)疑問をおこしたのはテューネンの
功績であるが、彼の解答はまったまったく子供じみたものである。 》
《このチューネンにはどこかほろりとさせられるところがあります。メクレンブルクの
ユンカーで…観察、微分計算、簿記等を使いながら、リカードの地代論を自分で組み立て
ているのであるから。これこそまさに大したものでもあり、滑稽でもあります。》
(「マルクスからルートヴィヒ・クーゲルマンへ〔1868年〕K.Marx-F.Engels[1965]Band32
一般に生産手段が技術的に進歩するから生産様式(関係)まで発展的に進歩すると思われがちだが
覇権国家の力が強い時は自由主義が、
その覇権が衰えれば帝国主義が交互に現れる(今は後者)
国家が産業資本に働きかける時期も交互に現れる
技術の進歩は社会の不可逆的な進歩ではない
産業資本の衰えた覇権国家が金融資本に転化するのもパターン化している
オランダ、イギリス、アメリカ…
ソニーのような企業も似た傾向を持つ
1607年に兪如為が記した中国の救荒書『荒政要覧』
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002693_20040929055329451.pdf#search='荒政要覧とは'
きゅうこうしょ みんかんびこうろく 日本最初の本格的救 荒 書『民間備荒録』(Q611-2)
救荒書とは一般には飢饉を生き延びる術を記した書物を指します。飢饉への備えを説き、飢饉 の際にどのようにして食糧を食いつなげ、またどのような食物が食べられるかを伝えることを 目的としています。救荒書の登場は、中国では15世紀初頭の『救荒本草』が最初です。日本で
たてべせいあん はさらに遅れ18世紀後半に現れます。奥州一関藩藩医建部清庵(正徳2(1712)年~天明3
(1783)年)が記した『民間備荒録』が、本格的な日本最初の救荒書で、それ以降の救荒書の一つ の手本となりました。当館の久能文庫には、版本2巻が所蔵されています。(Q611-2)
建部清庵は漢方外科を修得しながら、 オランダ医学にも深い知識を持っていました。また『解 らんがくかいてい おおつきげんたく
体新書』で有名な杉田玄白と親交を結び、さらに『蘭学階梯』の著者大槻玄沢の師でもありま した。
ほうれき めい わ 『民間備荒録』の最初の刊行は宝暦5(1755)年、10(1760)年、明和8(1771)年と諸説がある
ものの、当館が所蔵するものは文政7(1824)年版です。 『民間備荒録』の記述からみると、宝暦5年に東北地方は 5 月から異常な低温となり、8 月
まで雨が降り続く冷害に遭い、16世紀末以来という惨状となったとあります。清庵はその惨状 ゆじょい こうせいようらん
を目の当たりにし、さらに1607年に兪如為が記した中国の救荒書『荒政要覧』を見たこと じょこうけい のうせいぜんしょ みやざきやすさだ
で同書の編纂を思い立ちました。本書は『荒政要覧』や徐光啓の『農政全書』をもとに、宮崎安貞 のうぎょうぜんしょ かいばらえきけん や ま と ほんそう てらじまりょうあん わ か ん さんさい ず え
の『農業全書』や貝原益軒の『大和本草』や寺島良安の『和漢三才図会』などの成果を参考 にしながら成立しました。建部はこの書を見てもわかるように中国の成果を受け継ぎ、農書・ 本草学分野の成果を活用し、地域性を考慮した植物の栽培にまで神経を払っていました。序の
きもいり くみがしら 部分で、「この書は、もっぱら肝煎・組頭という村役人に、飢饉に苦しむ貧しい農民を救わせ
る方法を教えることを目的としており、実のなる木々を植えて、今後の飢饉に備えさせようと するものである。」といい、村役人に飢え苦しむ民を救う方法を伝えるという現実的な飢饉対策 を唱え、同時に飢饉対策の責任が村役人にあることを断言しています。
本編は上下巻によって大きく内容を変えており、上巻では飢饉の際に食糧とする植物(なつ め・栗・柿・桑・菜種)の栽培法や飢饉に備えて食料を蓄える方法が記され、下巻では人々を 飢えから救うために草根木葉の正しい食べ方とその解毒法を述べています。
びこう
『民間備荒録』に記載した救荒のための植物を中心に、104種の植物を採録した図集が『備荒 そうもくず す ぎ たげんぱく す ぎ たはくげん
草木図』です。『備荒草木図』は、清庵死後、杉田玄白の娘婿になった息子杉田伯玄が、父の遺 稿を校訂し世に出しました。文字の読めない当時の庶民にも一見してわかるようにとの配慮の もとに編纂されたものです。
【参考資料】
『日本農書全集』第18巻・第68巻(610.8/11) 「日本における救荒書の成立とその淵源」白杉悦雄
(『東アジアの本草と博物学の世界 上』所収 499.9/16) 『近世農書に学ぶ』飯沼二郎(610.3/127)
『近世科学思想 上』古島敏雄
(『日本思想体系62』 121.08/100)