金曜日, 10月 27, 2017

純粋意志の倫理学 ヘルマン・コーヘン


純粋意志の倫理学 ヘルマン・コーヘン


NAMs出版プロジェクト: 定本柄谷行人集目次(付『世界共和国へ』)+総合索引

http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_01.html#2
コーヘン(ヘルマン・).Cohen,Hermann,❸T.4,197,478,
 (『純粋意志の倫理学』),❸T.478

柄谷のコーヘンへの言及は和辻哲郎経由だと思う。

西田やハイデガーが影響を受けた、
ヘルマン・コーエンに代表される新カント派マールブルク学派の特徴は、数学/自然科学と神学。

『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』 村岡晋一 (2008)が詳しい。
同シリーズ同著者の『ドイツ観念論:カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(2012)の人。

ヘルマン・コーヘン哲学の体系(村上寛逸 訳、第一書房)
・第1巻『純粋認識の論理学』(1932)
・第2巻『純粋意志の倫理学』(1933)
・第3巻『純粋感情の美学』(1939) 

国立国会図書館デジタルコレクション - 純粋意志の倫理学

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215889


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純粋意志の倫理学

目次・巻号

書誌情報

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目次・巻号

純粋意志の倫理学 [470]

標題

目次

第一版序言

第二版序言

序說/47

第一章 眞理の根本法則/161

第二章 純粹意志の根柢附け/197

第三章 行爲に於ける純粹意志/273

第四章 純粹意志の自己意識/325

第五章 自己意識の法則/401

第六章 意志の自由/437

第七章 自己意識の自律/489

第八章 理想/577

第九章 神の理念/631

第十章 德の槪念/685

第十一章 誠/729

第十二章 讓/773

第十三章 勇/803

第十四章 淳/827

第十五章 義/857

第十六章 仁/893


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火曜日, 10月 24, 2017

【文藝春秋】もっとも狡猾なロシアの教科書、北方領土問題は…―佐藤優が読む 「 隣国の歴史教科書」ロシア編[2017/10/25]


        (リンク::::::歴史学

NAMs出版プロジェクト: 歴史学:インデックス

http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_22.html

 【文藝春秋】もっとも狡猾なロシアの教科書、北方領土問題は…―佐藤優が読む 「 隣国の歴史教科書」ロシア編[2017/10/25]&韓国&中国

http://nam-students.blogspot.jp/2017/10/20171025.html

【文藝春秋】もっとも狡猾なロシアの教科書、北方領土問題は…―佐藤優が読む「隣国の歴史教科書」ロシア編[2017/10/25]


参考:
韓国
中国
1ねこ名無し ★2017/10/25(水) 10:27:05.32ID:CAP_USER
日本の隣国である中国、韓国、ロシアはどのような歴史観を持ち、どのような日本観を持っているのか。中国編、韓国編に続き、本稿ではロシアの歴史教科書を分析する。 

ロシアという国家の「狡猾」な部分 

最後に、ロシアの歴史教科書を見て行きましょう。他の2カ国に比べて内容が圧倒的に難しく、大学レベルといっていい。まず面白いのは、日露戦争を帝国主義国家同士の戦争だ、と冷静に認識している部分です。 

〈多様な原料を豊富に持つが、同時に政治及び軍事面では非常に弱い中国と、また中国に依存している韓国は、他のヨーロッパ諸国にとっては比較的手を伸ばしにくく、ロシアとは国境を接していた。しかし、ここでロシアは思いもよらないライバル日本と衝突した〉(『ロシアの歴史』教育出版社) 

開戦を「戦争はロシアにとって深刻な試練だった」として、日本とロシアの軍事力の分析を行います。 

〈軍幹部に関しても日本は大きな強みを有しており、その働きは熟慮されエネルギッシュなものだった。ロシアの統帥は反対に、消極性とイニシアティブの欠如が際立っていた。このような特徴は、満州軍を率いていたA・N・クロパトキンにも見られる〉(同前) 

また、兵士たちも戦争の目的がわかっていなかったため士気が上がらなかったとも記します。これは、防衛戦争という大義があった大祖国戦争(独ソ戦)と対照的です。 

戦闘の記録は、コンドラチェンコ将軍の旅順防衛、マカロフ提督の戦死などかなり細かく描かれますが、中でも印象に残るのがポーツマス条約に関するくだりです。 

〈極東において日本が過度に強大化することは、その同盟諸国、特にアメリカの計画には全く入っていなかった。まさにそのアメリカ政府が、ポーツマス(アメリカ)で行われた和平交渉において仲介者の役割を果たした〉(同前) 

ポーツマスでは、アメリカが日本を抑えようとしたために交渉が上手くいったと解説しているのです。ロシア外交団の勝利とはせずに、外交のリアリズムをきちんと分析した箇所です。その後に次の設問が続きます。 

〈インターネット情報を用いて「露日戦争:国民的恥辱かあるいは堅忍の学び舎か?」というテーマで発表をしなさい〉(同前) 

これは、「インターネット情報を用いて」という前段部分が、重要なポイントです。なぜなら、ロシア語で「露日戦争」と検索すれば、スターリンが1945年9月2日に行った対日勝利演説が必ずヒットするのです。 

「1904年の露日戦争の時のロシア軍の敗北は、国民の意識の中に重苦しい思い出を残した。それは、我が国の上に汚点をとどめた。わが国民は、いつの日にか日本が粉砕され、汚点が払拭される時が来ると信じて、待っていた。われわれの年長者たちは、四十年の間、その日を待ちわびた。そして、その日が到来したのである」 

これを読めば、第二次大戦の日本との戦争が、日露戦争の復讐戦だったことが、すぐ理解できるようになっている。ロシアの教科書執筆者は、この辺りまでしっかりと計算した上で、設問を作っているのです。復讐戦となった第二次大戦における対日戦争の記述からは、ロシアという国家の狡猾な部分が読み取れます。 

〈ヤルタ会談での根本的な合意に従って、ソヴィエト政府は1945年4月5日に日本との中立条約の破棄を通告し、8月8日に日本に宣戦布告した〉(『ロシアの歴史』) 

日ソ中立条約の破棄を通告しているから、一見正々堂々としているように思えます。ところが、この条約が翌年まで有効だったことは全く書かれていないのです。 

確かにソ連は日本に対し宣戦布告も行ないました。しかし、電報を封鎖して日本に連絡がいかないように策略をめぐらし奇襲攻撃をしたことにはまったく触れてない。また、日本では火事場泥棒のごとき突然の参戦だったように扱われますが、周到な準備をしていたことをにおわせています。 

〈8月19日に関東軍司令部は、降伏する準備があると表明した。同盟諸国軍の共同攻撃を受けて、1945年9月2日に日本は完全に降伏した。これは第二次世界大戦の幕を下ろす出来事だった。サハリン南部とクリル列島がソヴィエト連邦の手に渡った〉(同前) 

最後に書かれているクリル列島とは千島列島と北方領土のことです。 

http://bunshun.jp/articles/-/4521 

(続く) 

2ねこ名無し ★2017/10/25(水) 10:27:20.13ID:CAP_USER
>>1の続き) 

ロシアでは、8月19日になって初めて日本が降伏の準備を始めたように書かれているのです。千島列島の最北端にある占守島に、ソ連軍が上陸を始めたのは8月18日のことでした。 

戦争が終わり武装解除中だったにもかかわらず、突如としてソ連軍が、攻撃を仕掛けたためやむなく応戦したと日本人は理解しています。ところが、ロシア人はそうはとらえていません。 

戦争は、9月2日まで継続されていたのだから、日本領を攻撃し占領したのは、通常の戦闘行為だと考えているのです。当然、クリル列島の占領も正当化されます。 

戦後は、日ソ共同宣言の記述と北方領土問題に関する記述が若干あるだけで、日本はほとんど登場しません。 

ロシアの教科書が歴史を細かく記述できるのは、古代から現代まで5年くらいかけて学ぶようにカリキュラムが組まれているからです。日本のように駆け足で近現代史を学ぶ国とは、そこが根本的に違うのです。 

http://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/d/b/-/img_dbb2f0d0ee244f63e9ece92a4d32ce7f256484.gif 

旧時代の教育をする日本 

翻って、日本の教科書について考えてみましょう。私は現在は同志社大学、過去に早稲田、慶應などで演習を受け持った経験があります。 

そこで世界史の重要な項目「ロシア革命」「真珠湾攻撃」や「ソ連崩壊」などの年号に関して、100問の小テストをしてみました。ところが、全く答えられません。100点満点で、早稲田では平均5.0点、慶應では4.8点でした。 

なぜ、このような事態になるのか。それは日本の教科書には物語がなく、単なる事実や用語の羅列ばかりが延々と続く、受験勉強以外には役に立たないものだからです。受験が終われば知識が定着せずにすべて忘れられてしまう。 

中国、韓国、ロシアそれぞれの教科書は、独自の物語性があって、読んでみると非常に面白い。一方の日本では、巨大な年表でしかないので、読み進めるのが苦痛です。 

これは、日本のエリート養成のシステムが後進国型であることの証明に他なりません。記憶とその再生を、ことのほか重視する。これは、旧時代の教育です。 

教科書から各国の歴史観や思考法のポイントを見てきました。ロシア・中国は世界のどこの国の人間とも話ができるような、徹底したリアリズムと普遍性を持った歴史を教え、韓国は独自色が強く、国際的に通用しない内側を向いた歴史を教えています。 

そして日本は、単なる年表を暗記させる、後進的な歴史教育です。 

日本の歴史教育は、1年間で通史を勉強するような暗記中心の詰込み型から、少しでも早く脱するべきです。そして物語性を重視し、今までより分量の多い教科書を作る必要があります。 

その教科書をロシアのように数年かけて学ぶことこそが、これからの世界で生き抜く知恵と思考を身に付ける、有効な方法になるでしょう。 

(おわり)

【文藝春秋】北朝鮮より過激な韓国「歴史教科書」のテロリスト史観―佐藤優が読む「隣国の歴史教科書」韓国編[10/23]

1ねこ名無し ★2017/10/23(月) 08:31:53.96ID:CAP_USER>>31>>34>>40>>42
日本の隣国である中国、韓国、ロシアはどのような歴史観を持ち、どのような日本観を持っているのか。前回の中国編に続き、本稿では韓国の歴史教科書を分析する。 佐藤優(作家・元外務省主任分析官) 

◆ ◆ ◆ 

「友好の歴史」はほぼ言及なし
 

続いて韓国の教科書です。今回、私が一番驚いたのは、この韓国の教科書に書かれた歴史観でした。この国の歴史観は日本にとって脅威だといっても過言ではありません。世界の教科書の中でも極めて珍しい、「テロリスト史観」によって貫かれているからです。 

「我が国の先達はここまで追い詰められ、テロをせざるを得なかった」、そういった歴史が延々と綴られているのです。 

北朝鮮との親和性は予想以上に強く感じられ、また北朝鮮の歴史教科書よりも過激な内容になっています。 

「テロリスト史観」については後述しますが、歴史の書き換えを行ったり、肝心なことを記さないのが韓国の歴史教育のもう一つの特徴です。たとえば、豊臣秀吉の朝鮮出兵という「敵対の歴史」は数ページに渡って記しても、江戸時代の朝鮮通信使のような「友好の歴史」についてはほぼ言及がない。 

日韓併合に関しては、現在の韓国政府の主張をなぞったもので、目新しい部分はありません。乙巳(いつし)条約(第二次日韓協約)は〈外国との条約締結権を持った皇帝の裁可を受けていない〉ので無効である、というのはその一例です。日韓併合のその日はこう書かれています。 

〈1910年8月、総理大臣・李完用と統監・寺内正毅が韓日併合条約を公布した。これにより大韓帝国は主権を奪われ、日帝の植民地に転落してしまった〉(『高等学校 韓国史』志学社) 

韓国の教科書の本当の特異性が見られるのは、日韓併合前後からです。日本では韓国のテロリストと言えば伊藤博文を暗殺した安重根が思い浮かびます。ところが、その扱いはあっさりしたものです。 

〈張仁煥と田明雲はアメリカのサンフランシスコで日本の侵略を美化していたスティーブンスを狙撃し、安重根は満州のハルピンで伊藤博文を暗殺した(1909)〉(同前) 

そして、安重根以外のテロリストの行動に関する記述が続きます。 

〈朴烈は1923年日本で国王の暗殺を企てた。趙明河は1928年台湾で日本の皇族を刀で襲う義挙を行った〉 

〈1932年に韓人愛国団員の李奉昌が東京で日本の国王が乗ったとみられる馬車に爆弾を投げた。失敗したが、このことに対して上海の新聞では失敗を惜しむ論調で報道した〉 

〈韓人愛国団員だった尹奉吉は記念式の壇上に爆弾を投げ日本軍将軍と高官らを暗殺した。尹奉吉の義挙は世の中を驚かしたものであり、特に中国人に深い印象を与えた〉(同前) 

きりがないのでここまでにしますが、要するに天皇や政府高官を暗殺しようとしたテロリストを延々と紹介(李奉昌と尹奉吉は肖像写真つき)しているのです。安重根の“功績”がそれほど高くないこともわかる。 

その理由は明白です。伊藤博文は初代首相と言っても、国の元首ではありません。重要なのは「玉」。日本の国家元首である天皇や皇族の命を狙った者が、韓国の教科書では最も偉大だとされているのです。 

文明国において、テロによって現状を打破する試みを褒め称えることは、通常考えられません。しかし、韓国は違う。伊藤博文暗殺に「成功」した安重根よりも、天皇暗殺に「失敗」したテロリストについて詳しく書いています。 

さらに言えば、これらの記述からは、天皇暗殺という動機を掲げただけで称賛に値し、手段や結果はどうでもよいという場当たり的な思考も見え隠れしています。 

この教科書で教えられるのは「我が国のテロリズムの歴史はこれだけ長い」ということに他なりません。イスラエルでもアイルランドでもそういった教育はしていません。韓国は“恨”の文化といわれますが、教科書も怒りに突き動かされて作られている。カーッと頭に血が上る怒りの感情が底流を貫いているようです。 

「日韓の問題は解決しなかった」 

日本の朝鮮統治については、「日帝の植民統治と経済収奪」として、多くのページが割かれています。 

http://bunshun.jp/articles/-/4520 

>>2以降に続く) 

2ねこ名無し ★2017/10/23(月) 08:32:06.46ID:CAP_USER
>>1の続き) 

〈朝鮮総督府は1910年に会社令を制定し、会社を設立する際に朝鮮総督府の許可を受けるようにした。これは韓国人の会社設立を抑制することで民族資本の成長を防ぐための処置であった。 
(中略)1915年には朝鮮鉱業令を制定し、鉱業権に対する許可制を実施した。韓国人の鉱山経営を規制しながら、金、銀、鉄、石炭など経済性のある鉱山はほとんど日本人が独占した。一方、高麗人参、煙草、塩などに対しては専売制を実施し、朝鮮総督府の収入を増やした〉(同前) 

〈三井、三菱などの大企業はもちろん、日本の多くの中小企業も朝鮮に進出した。これらの企業は朝鮮の安い労働力を利用して大きな利益を上げた〉(『世界の教科書シリーズ39検定版 韓国の歴史教科書』明石書店) 

収奪とテロリズム、そしてまた収奪の繰り返しで、日本統治時代の記述は終始します。日本が「民族抹殺政策」を行なおうとしたという記述も複数回登場します。 

〈「民族抹殺政策を実施する」 中日戦争をきっかけに日帝は内鮮一体を打ち出し、皇国臣民化政策を本格的に推し進めた。内鮮一体は「日本と朝鮮は一つ」という意味で、韓国人を日王に忠誠をつくす臣下と民にするというものだった〉(同前) 

韓国にとっての8月15日は、光復節(独立記念日)です。 

〈日本は8月15日に連合国のポツダム宣言を受諾して無条件降伏を宣言した。これにより36年間日帝の植民支配を受けていた韓国はついに光復を迎えた〉 
〈国を取り戻すために韓国人は日帝に立ち向かって絶えず闘争した。その結果、国を取り戻すことができた。しかし、これは韓国人の独自の努力で得られたものではなかった〉(同前) 

独立運動と抵抗運動について非常に詳しく触れる一方、その熱量に比して、独立の日については、意外と冷静に書かれています。また、「独自の努力」だけでは独立できなかったと、ここでは一歩引いた視点から書かれているのは意外な感じに映ります。 

現在韓国政府が問題としている事象が、非常に明確な形で開示されている点もこの国の教科書の特徴です。たとえば、「建国神話」の域に達している竹島問題に関しては、多くのページが割かれ、課題も設けられています。 

〈日本政府は「独島を自国の固有の領土」と主張している。(中略)このような日本の主張を下記のインターネットサイトを参考に、歴史的根拠を示して批判してみよう。また、このような問題の解決のための方案を話し合ってみよう〉(同前) 

この課題には、生徒たちが日本の主張を知っても、それらは、すべて論破できるものだという自信がよく表れています。また、慰安婦問題や徴用工問題など、まさに今ニュースを賑わす問題も取り上げられています。 

〈日帝は徴用制を実施し、戦時に必要な労働力を強制的に動員した。韓国人青壮年は徴用で日本だけでなく中国、東南アジア、サハリンなどへ送られた。(中略)相当数の女性は戦地に送られて日本軍の軍隊慰安婦として利用された〉(同前) 

この記述は、朴正熙政権の部分と合わせて読む必要があります。 

〈朴正煕政府は国民の反対を押し切って韓日協定を批准した。その結果韓国は経済開発に必要な資金の一部を充当でき、韓米日共同安保体制が形づくられた。その反面、日本の植民支配に対する謝罪、略奪文化財の返還、日本軍「慰安婦」や強制徴用者などさまざまな問題を解決することができなくなってしまった〉(同前) 

教科書に、「日韓の問題は解決することができなくなってしまった」とわざわざ記すところに韓国の歴史観の特異性が見て取れます。 

このように韓国の歴史教科書では、自民族内での同質化の比重が非常に高いため、普遍性がありません。ありていにいえば、この教科書を学んでも世界と渡り合う客観的な知性や歴史観を持てるとは思えない。これが、中国やロシアの教科書との最大の違いです。 

しかし、隣にこうした歴史観を持った国があることは、我々も改めてしっかりと認識しておかねばなりません。 

http://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/6/7/-/img_67e93117ef55659808efa0a26f1008e7234212.gif 

(おわり)

【文藝春秋】中国の「歴史教科書」は単なる反日教育ではない―佐藤優が読む「隣国の歴史教科書」中国編[10/22]

1ねこ名無し ★2017/10/22(日) 07:33:23.62ID:CAP_USER>>36>>65>>77>>78>>80>>95>>104
日本の隣国である中国、韓国、ロシアはどのような歴史観を持ち、どのような日本観を持っているのか。作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が、隣国の歴史教科書をもとに分析する。 

歴史とは、ギリシャ語でいうところの
クロノス」と「カイロス」で出来上がっています。「クロノス」とは時系列という意味で、流れていく時間を指し、一方の「カイロス」とはタイミングです。つまりある出来事が起こって、その前後で世の中が大きく変化した瞬間を指す。この「カイロス」の比較で、その国の歴史観を知ることができるのです。 

そのために、最も有効なテキストが歴史教科書です。歴史教科書には、その国の次世代を担う若者が知っていなければならない知識や思考法が詰め込まれています。 

今回は、中国、韓国、ロシアの歴史教科書を読み解きながら、その3国がどういった思想と歴史観の上に立って日本という国家を見ているのかについて考えてみたいと思います。彼らが中等教育(日本の中学・高校に相当)の現場において、どのような日本観を植え付けているのかを学べば、日本が国際社会で生き抜くために必要な知恵が見つかるはずです。 

分析にあたっては、2012年から2014年にかけて各国で使用された高校レベルの教科書を編集部で独自に邦訳したものと、明石書店が刊行している世界の教科書シリーズからそれぞれの国のものを、合わせて利用しました。 

「行き詰ったら変える」 

まずは中国から見ていくと、中国の歴史教科書は、階級闘争史観と徹底したリアリズムに貫かれていることがよくわかります。 

古代ギリシャの民主主義の歴史やヨーロッパの宗教改革など、古今東西の改革を扱った高校教科書「歴史上重大改革回眸」の序文「編者の一言」の一節にはこう書かれています。 

〈中国の古典『周易』には「行き詰ったら変える。変えたら通る。通ったら続ける」と書いてある。改革とは変えることであり、時代に遅れた旧制度や旧文化と旧思想を取り除き、豊かな活力のある新制度や新文化と新思想を創ることである〉(『歴史 選修1 歴史上重大改革回眸』人民教育出版社) 

簡単に言ってしまえば「行き当たりばったりでいいから、上手くやれよ」ということです。マルクス・レーニン主義的な発展史観ではなく、臨機応変であることこそが歴史から学べることだ、と言っているのです。 

重要なのは、この言葉が歴史教科書自体にも適用される点です。この教科書を学んでいて、行き詰るところがでてきたら、そこは切り捨ててしまえばよい、自分の都合のいいものに入れ替えてしまってもいい、ということです。中国が共産党の一党独裁でありながら事実上、資本主義化しているのも、この言葉で簡単に理解ができます。社会主義に「行き詰ったから変えた」のです。 

ここで私が思い出すのは、イギリスの歴史教科書です。同書の最終章で、「この教科書は大英帝国について私たちの解釈だけでまとめたものだ」と、内容についての不備をわざわざ指摘しています。 

その上で、虐げられたものへの章が少ないこと、女性に関する記述が少ないことなどが、列記されている。この教科書では、歴史が単一の物語ではなく、複数存在することを自然と気付かせる構成になっているのです。 

中国の教科書はイギリスのそれと同じく、学ぶ者に常に考え続けることを要求し、何事も懐疑的に見ることを教えています。そして原理原則に捉われず、最後の帳尻を合わせればいい、という非常にリアリズム的な思考を持つ人間を育成しようとしていることが読み取れます。 

明治維新を徹底研究 

この「重大改革」を扱った教科書の中には、日本の明治維新も取り上げられています。教科書には章ごとに設問が作られ、学習のまとめを行うことが一般的ですが、ここに教科書制作者の意図が最もよく現れていると言っていいでしょう。 

〈当時の日本の国内外の環境と結びつきを、資料を使って調べ、明治維新がなぜ成功したのかをディスカッションしなさい〉(同前) 

明治維新を徹底的に研究し、短期間で日本が帝国主義国になった理由を分析しようとしています。 

http://bunshun.jp/articles/-/4519 

>>2以降に続く) 

2ねこ名無し ★2017/10/22(日) 07:33:42.67ID:CAP_USER
>>1の続き) 

他にも「五箇条の御誓文」を読んで考えましょう、とか、イギリスの権利章典と大日本帝国憲法とを比較しなさい、といったかなり高度な設問が用意されています。 

この教科書の記述を見る限り、戦前の日本帝国主義を単なる侵略思想として切り捨てていないことがわかります。日本を反面教師として、中国の近代化を進めていこうという意図が強く感じられるのです。 

日本は帝国主義発展の中で「虐殺」を起こしたが、逆に言えば、「虐殺」のような行為を除けば、日本から学ぶべきことは多い、というスタンスがはっきり表れています。 

中国の教科書は、「帝国主義とは元々そのようなものである」という、リアルな構造分析が非常にしっかりとできています。では、日本の帝国主義が誤った方向に進んだ「カイロス」(タイミング)はいつだと書かれているのでしょうか。 

〈1872年に日本は中国台湾島と日本の間にある琉球諸島に進出し、琉球国王に自国を日本領であることを認めるよう促した。琉球は従来中国の属国であり、清政府から爵位を得ていた。2年後、日本は海難に遭った船員が台湾で殺されたことを理由に、出兵した。 
台湾人民は勇ましく抵抗し、多くの死傷者が出た。日本は代わりに清政府に賠償を迫った。弱腰の清政府は譲歩し、日本に50万両の白銀を支払った。1879年、日本は正式に琉球を自分のものにし、沖縄県とした〉(同前) 

沖縄を日本の版図に組み込んだ「琉球処分」は「中国侵略」の第一歩であり、日本の「帝国主義」の過ちの始まりでもあると規定した上で、こう続けます。 

〈1894年に日本は甲午戦争(日清戦争)を起こし、清国政府に勝利して下関条約を締結した。条約によって台湾と澎湖諸島は割譲され、日本に2億両以上の賠償金を支払った。これから日本の中国侵略が始まった〉(同前) 

日清戦争の敗戦によって、台湾を割譲し、ここから本格的に「侵略」が始まったとしています。 

しかし、その後の、日本の中国進出の記述に関しては、我々が「反日」教育と捉えられるような記述は少なく、むしろ、あっさりとした文章が目につきます。 

〈1931年、日本侵略軍は九・一八事件を起こし、中国東北軍駐屯地を砲撃し、瀋陽を占領した。半年もたたずに東北部の全土を占領した〉 

〈1932年1月、日本侵略軍は中国上海を襲撃し、一・二八事変を起こした〉 

〈1932年3月、日本帝国主義は廃された清朝皇帝溥儀に手を貸し、傀儡として利用し、中国東北部で偽満州国を造り上げた〉 

〈日本の全面的対中侵略戦争の脅威に対し、国共両党が内戦を中止し、抗日民族統一戦線を結成し、全国民が奮い立って抗戦をはじめた〉(『歴史(1) 必修』) 

以上は、満州事変、上海事変、満州国建国、国共合作についての記述です。この辺りの視点は、一昔前の日本の「進歩主義史観」と大差はありません。その中で、私が注目したのは、「田中上奏文(田中メモランダム)」の扱いです。 

「田中上奏文」は、田中義一首相が、昭和天皇に「中国侵略と世界征服のために満蒙を支配下に置く」と上奏したとされるものです。「上奏文」は反日のプロパガンダとして作成された偽書として知られ、昭和初期から日本政府は強く抗議していました。 

しかし中国では、これをあたかも史実であったように扱っており、教科書でも「田中上奏文」に依った記述を見ることができます。 

南京事件の記述 

南京事件は次のように記述されています。 

〈日本侵略者は至る所で、放火、殺戮、強姦、略奪と悪事の限りを尽くした。1937年12月、日本軍は南京を陥落させた後、南京の平和居民に対し、非人間的な、悲惨凄愴な虐殺を行った。6週間で30万人を超える身に寸鉄を帯びない平民と、武器を下ろした軍人たちを虐殺した〉 
(『歴史 選修3 20世紀の戦争と平和』人民教育出版社) 

虐殺の被害者数30万人は、中国が勝手に主張している数字ですが、その数は「日本の侵略」の象徴になっています。それを頭に入れたうえで、次の記述を読んでみてください。 

〈1945年8月6日と9日、アメリカは日本の広島と長崎に、それぞれ一発の原子爆弾を投下し、30万人近くの死者を出した〉(同前) 

広島、長崎の原爆の死者は、それぞれ約20万人、約7万人だったと日本の教科書には記載されています。ところが、中国では、犠牲者数を合算し、30万人近くと表記しているのです。 

これは恐らく数字の偶然の一致ではないでしょう。 

(続く) 

3ねこ名無し ★2017/10/22(日) 07:33:53.40ID:CAP_USER
(続き) 

つまり、南京事件と原爆の犠牲者が同じ人数であったと示すことによって、「日本軍は原爆2発分の殺戮をしたんだ」と教えやすくなり、30万人が原爆で殺されたことで日本は報いを受けたと捉えることもできるのです。 

終戦に関する記述は、このように書かれます。 

〈8月8日、ソ連は日本に対して宣戦布告し、中国東北部にいる関東軍に破滅的な攻撃を加えた。中国抗日軍民も戦略的反攻を発動した。窮地に陥った日本は、投降を声明した。1945年9月2日、日本は正式に投降書に署名した〉(同前) 

日本の教科書と違い、ここには、8月15日という日付は書かれていません。9月2日の降伏文書への署名をもって戦争が終結したことのみを述べています。 

そして戦後の日本に対する言及は極端に少なく、日中国交正常化に関して事実が淡々と記されているのみです。 

全体を通して見てみると、中国の歴史教科書は基本的に、反日教育でナショナリズムを煽るのではなく、世界史の中で中国がどのように振る舞ってきたのかを描こうとしています。 

領土を奪われたのも一時的に弱かった時代のことであって、本質的に我々は昔から一貫して大国であった、と考えていることは節々から伝わってきます。彼らは決して、経済が発展したから大国の仲間入りを果たしたのではないと考えていることもわかる。次の記述は、現代中国の立ち位置をよく表しているものです。 

〈国際的な反ファシズム統一戦線ができてから、同盟国は経済面でお互いに支援し、軍事面でお互いに協力することは、勝利にとって決定的な効果があることがわかった。国際的な統一戦線は共通の敵を叩く強い武器である〉(同前) 

続いて以下の設問も用意されています。 

〈「世界の反ファシズム戦争は人類史上一番偉大な正義の戦争であり、人類に一番大切な教訓を残した」――江沢民。あなたは第二次世界大戦は人類にどんな大切な経験と教訓を残したと思いますか?〉(同前) 

かつては「日本軍国主義」という言葉を使っていたのですが、近年では、あえて「ファシズム」と表現しています。ナチスのホロコーストと日本が中国で犯した「罪」を同列のものとして扱っていることも注目点でしょう。 

〈ブラント首相はワルシャワ・ゲットーの記念碑の前に跪いて、ドイツが犯した罪を謝罪した。それに対して、日本は1975年に三木武夫首相が参拝してから、数多くの首相が任期内にA級戦犯が祀られている慰霊施設を参拝している。日本とドイツの戦争の罪に対する認識の違いについてあなたはどう考えますか?〉(同前) 

即ち中国は、単なる反日ではなく、反ファシズム陣営としてアメリカやイギリスなどと共に大きな戦争を戦い、そして勝ったことを強調したいのです。現在まで続く世界秩序を作ったプレイヤーであるという自負がひしひしと伝わってきます。 

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(おわり)

土曜日, 10月 21, 2017

近松物語 1954



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近松物語 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/近松物語

近松物語』(ちかまつものがたり)は、1954年(昭和29年)の日本映画。溝口健二監督 作品。 目次. [非表示]. 1 概要; 2 スタッフ; 3 キャスト; 4 関連項目; 5 外部リンク. 概要[ 編集]. 近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目『大経師昔暦』(だいきょうじ むかしごよみ、  ...

概要-スタッフ-キャスト

アーヴィング・フィッシャーの景気循環論(2)古川論考


アーヴィング・フィッシャーの景気循環論(2)古川論考

「社会が過剰債務の状況にあるとき,債務の清算それ自体は実質債務を減少させるのではなくて,しばしばそれを増大させる。もちろん,名目的には清算は債務を減少させるが,実質的には(一国の貨幣価値を増大させることによって)未払いの債務残高を膨張させる」(Ibid.,p.25)。


好況と不況 未邦訳 
[1932]Booms and Depressions,Some first princiI Ples,London,George AllenandUnwin.Fisher,Ⅰ.
When a whole community is in a state of over-indebtedness, the dollar reacts in such a way that the very act of liquida-tion may sometimes enlarge the real debts instead of re-ducing them! 
p.25


完全に裏切って一段と景気の悪化が進み,文字通り「大恐慌」に突入していくのである。
 有名な「負債デフレーション理論」(thetheoryofdebt-deflation)は,以上のようなフィッシャー自身の苦い経験を踏まえ,大恐慌の渦中に,『好況と不況』(Fisher[1932])の中で詳細に論じられた。そして,その嘗旨が『エコノメトリカ』第1巻に掲載された論文「大恐慌のデット・デフレーション理論」(Fisher[1933])にまとめられている。その基本的な考え方は,物価の下落が債務者の実質債務負担を増大させ,それを通じて経済活動に抑制的な効果を及ぼすというものである。フィッシャーの負債デフレーション論は,大恐慌の中で景気悪化のプロセスに重点が置かれているとはいえ,彼の従来の景気循環論の集大成ともいえるように思われる。以下では,景気循環の下降局面に焦点を絞って,負債デフレーション理論を要約することにしよう。
 フィッシャーは,景気循環過程に介在する9つの要因,すなわち①過剰債務,②通貨量,③物価水準,④正味資産,①利潤,⑥生産・取引・雇用,⑦心理的要因-(楽観と悲観),⑧通貨の流通速度,⑨利子率に注目する2)。フィッシャーは以上の要因に関して,次のような因果関係を考える。(1)過剰な債務が原因となり,銀行借入の返済による債務の清算(debtliqui-

\と言う。一つは,「ドルのダンス」に基づくユ920年代の景気循環の分析と,深刻で長期にわたる不況の理論的解明との間のギャップを捜めることであり,それが『好況と不況』(Fisher[1932])および「大恐慌の負債デフレーション理論」(Fisher[1933])という輝かしい業績となって結実したことである.もう一つは,こうした業績とは正反対に,上述のようなフィッシャーの誤った株式市場の予測およびケインズによる『貨幣論』[ユ930]の出版やハイエクによる『価格と生産』[1931]の出版の影響などもあって,フィッシャーの影響力が急速に失われしまったことであるとしている(Ibl,d.)。またディマンドは,「フィッシャーの蔵も洞察力に満ちたマクロ経済学への貢献の一つ,負債デフレーション過程の分析が,同時代の人々からほとんど注目されなかったのは,学界のみならずフィッシャーの不幸でもある」(Ibid.,p.141)と述べている。2)これらの要因を取り上げた理由について,フィッシャーは『好況と不況』の序文において次のように述べている。「本書の取り上げる範囲は限られており,ほとんどは9つの主要な要因に限られる。それは,これらの要因がすべての[景気循環の]課題を網羅するからではなく,すべてではないにしても,他のほとんどの不況-影響はもちろん,現在の不況における顕著な影響であると思われる要因を含んでいるからである」(Fisher[1932]序文p.vii)


dation)と投げ売りが生じる。(2)債務の清算は預金通貨の収縮と流通速度の低下をもたらす。(3)預金通貨の収縮と流通速度の低下は,「ドルの膨張」(aswellingofthedollar),すなわち物価水準の下落を引き起こす。(4)物価水準の下落は,リフレーション政策などによって妨げられない限り,企業の正味資産価値の減少と破産を引き起こす。(5)同時に,物価の下落は企業の利潤を減少させ,赤字操業を行う企業も増大する。(6)その結果,産出量,取引量,雇用量の減少が生じる。(7)それに伴う損失,破産,失業の増大は将来に対する悲観および信頼の喪失をもたらす。(8)悲観と信頼の喪失は,通貨の保蔵および流通速度のいっそうの低下を招く。(9)以上の8つの変化は,名目利子率を低下させる一方,実質利子率を上昇させるという「利子率の複雑な撹乱」(Ibid"p.342)を引き起こす。
 もちろん,フィッシャーは現実の景気循環過程においては,以上の「論理的なリスト」には存在しない多くの変数や相互依存関係が介在すると考えているし,また事態が上のような順序とは若干異なって生起する場合があるという留保条件も付けている。しかし,「論理的リストの最初と最後,すなわち債務とその利子を除けば,すべての変動は物価下落を通じて生じるということに注意すべきである」(Ibid.,p.344,傍点部分は原文ではイタリック)として,これまで同様,物価の変動,ここでは物価下落の経済活動に及ぼす影響を重視する3)。フィッシャーにとって,「デフレーションはほとんどすべての害悪の根源」(Fisher[1932]p.39)なのである。

3)フィッシャーが従来同様,物価の変動が企業利潤の変動を通じて経済活動に及ぼす経路を重視していることは,負債デフレーション理論においても一貫している。彼は,物価の下落に関して,「利潤は収入と費用の差額であり,前者は物価が下落する時に減少するが,後者は完全には固定されていないものの,物価ほどはデフレーションの攻撃に感応的ではない」(Zbid.,pp.29-30)と述べ,さらに次のように付け加える。「近代的な企業では,間接費用および固定的費用の比率がより大きくなるがゆえに,〔物価下落の〕困難がとりわけ感じられるということである。もし企業組織が,そうなりそうであるが,より多くの固定費用とより少ない運転費用への傾向を続けるとすれば,その利潤は物価水準の変動にますます敏感となるだろう」(Ibid.,p.30,fn.1)Oもちろん,こうした物価下落が企業の利潤に及ぼす直接的な経路とは別に,フィッシャーが『貨幣の購買力』において指摘したように,物価の下落が先行きの物価下落期待を通じて消費の減少を引き起こし,景気の悪化に拍車をかけるという経路も重要である。

 さらにフィッシャーは次のように続ける。「過剰債務それ自体だけでは,すなわち過剰債務が物価の下落を招かないような場合は,結果として生じる景気循環ははるかに穏やかで規則的なものである。同様に,デフレーションが過剰債務以外の要因から生じる場合は,結果としての害悪はずっと小さい。壊滅的影響を及ぼすのは両者の組合せ,すなわち負債の病(thedebtdisease)が最初に生じ,次いでドルの病(thedollardisease)に陥る場合である」(Fisher[1933]p.344)。重要な点は,この「債務の病」と「ドルの病」という2つの柄,つまり過剰債務の存在と物価の下落とは,前者が後者を導き,後者が前者を導くという相互依存の関係にあることである。フイッシャ←の言葉を用いれば,「われわれは誰でも,小さな病気が大きな病気を導くことを知っている。悪性の風邪が肺炎を招くのとまったく同様に,過剰債務がデフレーションを招く。そして逆も成り立ち,債務によって引き起こされたデフレーションは債務に反作用する」(Ibl'd.)のである。こうして「債務の病」と「ドルの病」が重なりあって景気の「螺旋的な悪循環」(theviciousspiraldownward)(Fisher[1932]p.25)を生じさせる4)。
 以上の過剰債務と物価下落の関係について,フィッシャーはより具体的に次のように説明する。「社会が過剰債務の状況にあるとき,債務の清算それ自体は実質債務を減少させるのではなくて,しばしばそれを増大させる。もちろん,名目的には清算は債務を減少させるが,実質的には(一国の貨幣価値を増大させることによって)未払いの債務残高を膨張させる」(Ibid.,p.25)。すなわち,債務を返済しようとする過程(清算の過程)において,銀行組織全体の預金は減少し,この預金通貨を含む貨幣量の減少は物価の下落を引き起こす。そして債務の返済は物価下落に追いつかず,かえって借り手の実質債務は増大すると





4)債務の病(債務病)と物価の病(物価病)という2つの病気が相乗作用を起こして深刻な不況を導くという点について,フィッシャーは次のようにも表現している。「病理学者はいまや,一一一線の病気は,そのどちらか一方,あるいは2つの病気をただ足し合わせるよりもしばしば身体に悪いことを発見している。そして誰でも,小さな病気は大きな病気を招くということを知っている。ちょうど悪い風邪が肺炎をもたらすように,過剰債務はデフレーションをもたらすのである」(Fisher[1933]p.344)a



H.G.,EdwardElgar.Fisher,I.[1896]AppreciationandInterest,NewYork,AugustusM.Kelley,1965.[1907]TheRateofInterest:ItsNature,Dete7・minationandRelationtoEconomicPhenomena,NewYork,Macmillan.[1911]ThePurchasingPowerofMoney,Thedeterminationandrelatz-07,Itocreditandcrisis,NewYork,Macmillan.[1912]ElementaryPrinciplesofEconomics,NewYork,Macmillan.[1920]StabilizingtheDollar,NewYork,Macmillan.[1923]"TheBusinessCyclesLargelya'DanceofDollar',"JournalofAmericanStat2'sticalAssociation,18,December.[1925]"OurUnstableDollarandtheSo-calledBusinessCycles,"JournalofAmericanStatisticalAssociation,20,June.[1930a]TheTheor3,0fInterest,Asdete77ninedbyimpatiencetospendin-comeandopportunitytoinvestit,NewYork,Macmillan.(気賀勘重・気賀健三訳『利子論』日本経済評論社,1980年)0〔1930b]TheStockMarketCrashandAfter:,NewYork,Macmillan.
[1932]Booms and Depressions,Somefllr:stprinciI Ples,London,George

AllenandUnwin.Fisher,Ⅰ.
[1933]"TheDebt-DeflationTheoryofGreatDepressions,"Econometrica,1,October.[1935]100%Money,Desz'gnedtokeepcheckingbankslOO%liquid,~topreveniinflationanddePation,・largelytocureorpreventdepressions,・andwipeoutmuchoftheNationalDebt,NewYork,AnAdelphiPublication.


好況と不況 未邦訳 
[1932]Booms and Depressions,Some first princiI Ples,London,George AllenandUnwin.Fisher,Ⅰ.
When a whole community is in a state of over-indebtedness, the dollar reacts in such a way that the very act of liquida-tion may sometimes enlarge the real debts instead of re-ducing them! 
p.25






木曜日, 10月 19, 2017

【時計】カシオの「Gショック」が1億個突破 たった1行の企画書から誕生 失敗 続きの実験、諦めかけたら「頭の中でピカーッと光った」

【時計】カシオの「Gショック」が1億個突破 たった1行の企画書から誕生 失敗続きの実験、諦めかけたら「頭の中でピカーッと光った」

1ばーど ★2017/10/20(金) 11:28:06.96ID:CAP_USER9>>2>>70
 始まりは20代の若手社員が出した、たった1行の提案。「落としても壊れない丈夫な時計」――。その1行が仲間を引き寄せ、会社を動かし、のちの大ヒット腕時計「G-SHOCK(ショック)」を生んだ。1983年4月に発売したGショックは2017年8月末の時点で、世界累計1億個を出荷するロングセラー商品になっている。ここに至るまでは決して順風満帆ではなく、むしろ何度も座礁しかけた。初代Gショックの生みの親、カシオ計算機アドバイザリー・エンジニアの伊部菊雄氏と取締役専務執行役員で時計事業部長の増田裕一氏、2人の証言から振り返る。 

■ソフトボール大になった実験サンプル 

 81年のことだ。カシオ計算機で腕時計の外装設計を担当していた伊部氏はその年、来る日も来る日も東京都羽村市の技術センターのトイレにこもり、ある実験を繰り返していた。 

 役員が審議する月に1度の提案会議に「落としても壊れない時計を作りたい」という1行だけの企画書を出して通ったものの、どうすればそんな時計が作れるのかはわからなかった。そこで社屋の3階にあるトイレの窓からサンプル時計を自由落下させ、どれくらい厚みのあるゴムを貼り付けたら壊れないかを調べていた。 

 テープでゴムを巻いた時計を落下させては1階へ。「今度こそ」。期待に胸を膨らませながら、地面に落ちた時計を拾って調べると「だめか……」。心を落ち着かせながら階段を上り、3階のトイレへと戻る。実験している間、彼は一度もエレベーターを使わなかった。 

 「落とすたびに、次は大丈夫だろうという期待値が膨らむ。そのワクワク感を楽しみたかったんです。だけど、壊れているのを知った後の階段を上る足取りの重さったら、なかったですよ」(伊部氏) 

 1枚、また1枚と、時計の周りに衝撃を吸収するゴムを貼り付けていった。ようやく落としても壊れない状態になったと思ったとき、サンプルはソフトボールほどの大きさに膨らんでいた。「成功確率は50%だな」と伊部氏は思った。 

■若手3人がチームを組んだ 

 伊部氏と同じ時計事業部で企画を担当していた増田氏はそのころ、日々、フラストレーションを溜めていた。当時はまだ20代の若手社員。年齢は伊部氏より2つ下だ。 

 「カシオのものづくりは伝統的にバトンタッチ方式で、開発本部、技術本部、生産本部、営業本部と順番に仕事が流れていく。当時はLSI、つまり半導体の進化が著しく、次々と新しい技術が生まれていました。だからほとんど、商品開発イコール技術になってしまう。企画といっても実際はプロジェクトを進行するためのコーディネートが中心です。技術ありきで仕事が降ってきていたため、全く違うやり方で商品を開発してみたいと思っていました」(増田氏) 

 そんな折、伊部氏から「壊れない時計を一緒に作らないか」と声がかかった。伊部氏は基礎実験をしている間、しょっちゅうトイレに様子を見に来る増田氏のことを覚えていた。ほかの社員がいぶかしがって声もかけずにいるなかで、「何をしているんですか?」と興味を持って話しかけてきたのは、増田氏だけだったからだ。 

「時計は感性が必要とされる商品です。中身を作ってからデザインする手法ではいいものは作れない。落としても壊れない時計を作るプロジェクトは、新しいやり方を試すいい機会だと思いました」(増田氏) 

「当時、そんな言葉は使っていませんでしたけれど、今でいうところのコンカレント方式で進めていくのがいいと思ったんです」(増田氏) 

 コンカレント方式とは、設計、試作、生産などの各工程を担当する部門が情報を共有し、複数の工程を同時並行で進めていくものづくりの手法だ。増田氏は当初、伊部氏をリーダーにと考えていたが、「全体のコーディネートをするのは企画の人間がいいだろう」という声が社内からあがり、増田氏がプロジェクトのリーダーになった。 

>>2以降に続く 

配信2017/10/19 
NIKKEI STYLE 
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO22179580S7A011C1000000?channel=DF190720172684&page=3 

2ばーど ★2017/10/20(金) 11:28:54.60ID:CAP_USER9>>4
>>1 続き 

■袋小路を抜け出せた、意外なきっかけ 

 時計の心臓部を5つの緩衝材で保護する「5段階衝撃吸収構造」を考案するところまでは、比較的順調だった。これでソフトボール大だった実験サンプルは実際に発売された初代Gショックと同じサイズにまで小さくなったが、問題はそこからだった。 

 「サンプルを3階から落とすと、電子部品が1つだけ壊れるという現象にぶつかりました。壊れた部品を強化すると、今度は別の部品が壊れる。まるでモグラたたきのようで、らちがあかなくなってしまったのです」(伊部氏) 

 いっこうに解決策が見えず、伊部氏は内心、「90%ダメかもしれない」と感じたという。だが、壁にぶつかって悩んでいることを、チームメンバーにさえ正直に打ち明けられなかった。 

 「基礎実験もしないまま企画書を出した負い目がありましたから、うまくいかなかったら会社を辞めるしかない、と思い詰めていました。けれど、ほかの2人はそんな私の気持ちを知らないから、『いつになったらできるの?』とか、『もうそろそろなんじゃない?』とか簡単に言うわけです。悪気がないのはわかっていたのですが、ささいな言葉が気に障り、毎日、けんかばかりしていました」(伊部氏) 

 袋小路を抜け出せたのは、ある偶然のおかげだ。伊部氏が続ける。 

 「実はそのころ、どうやってこの企画を終わらせるべきかと考えるようにもなっていました」 

 月曜日の朝、実験サンプルを自宅に持ち帰り、日曜日の朝までと期限を切った。 

 「土曜日の晩になったときにはこのまま眠らなければ朝がこない、とさえ思いました」 

 それでも、朝はやってきた。いよいよ期限の日曜日。週が明けたら会社に謝りを入れて辞表を出そうと決心し、部屋を片付けるために休日出勤をした。 

 「それでも諦めきれなくてですね。未練たらしく実験をしていました。社員食堂が開いていないから、お昼を食べに外出したんです。そうしたら、会社に戻りたくなくなってしまいました」(伊部氏) 

 公園のベンチに座ると、女の子がゴムボールをついて遊んでいるのが目に入った。「自分がしている落下実験と、どこか似て見えたんでしょうね」と伊部氏。魅入られるようにじっとボールの動きを見つめていると、ふと、中に時計の心臓部が浮かんでいるのが見えた。「その瞬間、頭の中でピカーッと光ったんです」と伊部氏は言う。 

 心臓部を宙づり状態にすれば衝撃は伝わりにくくなり、落としても壊れない。ひらめきは間もなく確信へと変わり、Gショックの構造設計が完成した。 

■最初に売れたのは米国市場だった 

 伊部氏が完成させたサンプルはあまりにも構造上の制約が多すぎて、デザインする余地がほとんどなかった。それでも二階堂氏は悩みながら、黒と赤を基調にしたコンセプトに合ったデザインを編み出した。もう1人のメンバーである増田氏は、この時流に逆行した製品を「どう売るか」で悩んでいた。 

 「当時、腕時計の主流は薄型でした。売るためには営業の販売計画に入れてもらう必要があるのですが、国内はいくら説得しても『こんなもの売れない』の一点張り。唯一、興味を示してくれたのが、米国の販売部門にいた現地のセールスマネジャー。彼がおもしろがって販売計画に入れてくれたおかげで、なんとか出荷することができました」(増田氏) 

 初代Gショックの発売は83年4月だが、それから約10年間、国内では泣かず飛ばずの状態が続いた。先行して売れたのは米国だ。 

 「米国では最初から動いていました。というのも、発売の翌年、テレビCMを流したんです。Gショックをアイスホッケーのパックに見立てて、たたいても壊れないことをアピールした。すると視聴者から『誇大広告ではないか』という声があがり、現地の人気番組で検証することになりました」(増田氏) 

 ホッケーの選手がフルスイングしてたたいても、大型ダンプカーにひかせても時計は壊れなかった。結果的にそれが宣伝となり、消防士や警察官など野外で働く人たちを中心にユーザーが広がっていった。 

続く 

3名無しさん@1周年2017/10/20(金) 11:29:14.48ID:hudKCOeE0>>46
お前らは頭頂部がピカーッと(´・ω・`) 

4ばーど ★2017/10/20(金) 11:29:23.35ID:CAP_USER9>>56
>>2 続き 

■道路工事で働く人たちに使ってほしかった 

 開発の途中から、伊部氏は心の中で、ある明確なターゲットを思い浮かべていたという。 

 「実験をしていたころ、道路工事の現場を見たら、作業している人たちが全員、腕時計をしていなかったんです。壊れるからでしょうが、屋外で時間がわからないのは不便だろうなと思いました。だから、その人たちに使ってもらえる丈夫な時計を作ろう、と思っていました」(伊部氏) 

 国内でGショックが売れ始めたのは、90年代に入ってからだ。米国西海岸のスケートボーダーの間で流行し、それが日本に逆輸入され、ストリートファッション誌で取り上げられるようになった。情報をつかんだ増田氏が幹部を通じて取締役会に販売促進を働きかけたが、当初はなかなか理解してはもらえなかったという。 

 ブレークスルーのきっかけは、取締役の息子が発した「お父さん、Gショック買ってよ」のひとことだった。それを聞いて、上層部もようやくGショックが若者の間で流行していることを知った。当時も今も、開発者たちの苦労はそれほど大きくは変わらないものだ。 

おわり