土曜日, 8月 31, 2019

スピノザ、ケインズ、マルクス

参考:
三宅義夫『マルクス信用論体系』1970
https://nam-students.blogspot.com/2020/01/1970.html

Japanese Owl (@KF0612)
“マルクス哲学、MMT、れいわ新選組(IV)資本、とは?|小料理屋おかみ|note” htn.to/25J1rotQRA

https://twitter.com/kf0612/status/1214535848294662145?s=21

マルクス全集40
1837年11月の父への手紙に
カント法学を勉強して間違えたとある
学生時代
マルクスはカント哲学と近かった

岩波文庫7
重金主義(モネタルジュステム)は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金を嫌う The Scotch hate gold.」。紙券としては、諸商品が貨幣として存在することは、一つの単に社会的な存在(ダーザイン)である。聖列に加わらしめるものは、信仰である。商品の内在的霊魂としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自己自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての、個々の生産担当者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義は、重金主義の基礎から解放されない。》

宇野、熊野が引用した部分。
マルクスが引用文の前で述べたインドの金保有量はケインズが研究したものでもある。

シェイブテイル (@shavetail)
グレーバー(負債論)によれば5000年に及ぶ貨幣の歴史の中で世界的に「信用」よりも地金が支配的になる時代は紀元前800年~紀元後600年と大航海時代以後の1450年~1971年の2回で、どちらも戦乱と掠奪の時代で、現代のような国家による信用ネットワークは構築できない時代だったようです。 twitter.com/LucGov/status/…
https://twitter.com/shavetail/status/1290616714569293827?s=21


参考:
簿記
https://nam-students.blogspot.com/2019/09/abc.html

ケインズ全集#29
103~4頁
第3章 「一般理論』に向かって
[ここで原稿の一頁が消失している。]
   III
 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの
観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定
するようにC-M-C'、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品品(あるいは労力)を貨幣と
交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。
ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるい
は労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*)H.L.マクラッケン『価値理論と景気循環』[ニューヨーク、一九三三年]四六ハ頁を参照。ここで現代理論との関係でマルク
スの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史
における一つの珍品である。古典的な公式C-M-Cに公式 M-C-M' をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年
の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければ
ならないと信じるか、あるいはMはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に搾取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーショ
ンと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、M
の超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と
過少雇用によって、連続的なM'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん Mが超過しな
ければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然
としてMとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融
和する効果を持つだろう!

第1部
83
古典派理論は次のように想定する。企業家が生産過程に着手するのは、自分の取り分になると予想する生産物で測
った価値の量に依存する、と。すなわち、自分自身に帰属すると予想する生産物が多ければ多いほど、いつそう多く
の雇用をするのである。しかし企業家経済においては、企業計算の性質に関するこの分析は間違いである。企業家は、
「生産物の数量ではなく、その取り分になる。
、貨幣の数量に関心を寄せるの一
「産出量を増やせば彼の貨幣利
潤を増やせると企業家が予想するならば、
たとえその利潤が以前よりも少ない生産物数量であるとしても、産出量を
増やすだ
このことの説明は明白である。産出量を増やすために生産諸要素を雇用すると、企業家は生産物ではなくて貨幣の
「支出(disbursement)に巻き込まれる。企業家が雇用するかどうかを決定する際に選択できるのは、
ある用途に貨
幣を使うか、それとも別の用途に使うか、あるいはまったく使わないかのいずれかである。彼は(手持ちあるいは借
入れにより)
一〇○ポンドを使用できるとする。彼は、一○○ポンドを使用するとき、その一〇○ポンドに対する利
子を含む可変費用を控除した後に、一〇〇ポンドを上回る貨幣に替えることができるだろう
と予想するなら、その一
○○ポンドを使用するだろう。
が直面するただ一つの問題は、一〇〇ポンドを使ういろいろな用途の中から、貨幣
で測って最大の利潤を生み出すだろう用途を選ぶことである。将来の価格は、それが予見される限りで、持越し費用
および所与の商品の現物価格と先物価格を関係づけるその間の生産機会をあれこれ考慮したうえで、すでに現行価格
( )
に織り込まれていることを覚えておかなければならない。したがって、資産保有者が推計する貨幣および既存諸資産
「保有の相対的有利さを、現物,先物価格の構造がすでに均衡させている、と想定しなけ、
ない。したがって、
貨幣を使って生産過程に着手することの貨幣で測った有利さが増すならば、
それは企業家がより多く雇用するのを促
進するだろう。ある状況ともう一つの状況を比べると、ある状況
もう一つの状況よりも貨幣利潤が大きくて





スピノザ、マルクス、ケインズ


流動性選好(外生的)ケインズ一般理論+内生的ムーア

実体スラッファ
  +
会計カレツキ

   スラッファ
ケインズB+ムーア
   カレツキ

   スピノザ
 マルクス+ケインズA
    カント



《真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。 》
スピノザ『エチカ』第一部公理六   http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6

《重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。「スコットランド人は金貨をきらう。」
(The Scotch hate gold.)紙幣としては、諸商品の貨幣定在はただ社会的な定在で
ある。救済するものは信仰である。諸商品の内在的精霊としての貨幣価値を信仰
すること、生産様式とその予定秩序とを信仰すること、自己じしんを増殖する
資本の単なる人格化としての、生産の個々の代理者を信仰すること。だが、新教が
旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》
マルクス『資本論』3-35-2河出書房新社世界の大思想

Das Monetarsystem ist wesentlich katholisch, das Kreditsystem wesentlich 
protestantisch. "The Scotch hate gold." <"Die Schotten hassen Gold."> Als 
Papier hat das Gelddasein der Waren ein nur gesellschaftliches Dasein. Es ist der
 Glaube, der selig macht. Der Glaube in den Geldwert als immanenten Geist der 
Waren, der Glaube in die Produktionsweise und ihre pradestinierte Ordnung, der 
Glaube in die einzelnen Agenten der Produktion als blose Personifikationen des 
sich selbst verwertenden Kapitals. So wenig aber der Protestantismus von den 
Grundlagen des Katholizismus sich emanzipiert, so wenig das Kreditsystem von 
der Basis des Monetarsystems.


《貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。…
…国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。…》

ケインズ全集#5:4~5頁

ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。
そしてスピノザはマルクスに先行している。
スピノザの心身論は金属主義のような属性の絶対化とは違う。
むしろスピノザの平行論だけが商品貨幣論と信用貨幣論の平行関係を整理するだろう。


カント関連

純粋悟性の原則の体系
  第三節 純粋悟性のあらゆる総合的原則の体系的表現
{2 知覚における予料〔先取的な知〕
もしわたくしが十三ターレルを或る金銭量と称するとすれば、それは、わたくしがそれによって純銀一マルクの実質を解するかぎり正当である。けれどもマルクはもちろん連続量であり、そのいかなる部分も最小の部分をなさず、各部分は貨幣を構成しようが、それは、つねにもっと小さい部分に対する質料を含むものであろう。しかしもしわたくしが右の十三ターレルという呼び名によって、それだけの数の貨幣(その銀の実質がどうであろうと)としてのちょうど十三個の円いターレル貨幣を解するとすれば、わたくしがそれをターレルの量という語によって名づけるのは適当でなく、それは集合すなわち或る数の貨幣と呼ばれねばならない。〔A171〕ところで、あらゆる数においてやはり統一ということがその根柢になければならないから、統一としての現象は量であり、かつこのような量としてつねに連続体である。

第三章    第四節 神の現実的存在に関する実体論的証明の不可能なゆえんについて〔B620〕〔A592〕

あるということは明らかに何ら実在的述語ではない。…現実的なものの含むものが単に可能的なものにほかならないこととなる。現実の百ターレルの含むところは、可能的な百ターレル以上の何ものでもないこととなる。けだし可能的な百ターレルが概念を意味するに対し、現実の百ターレルは対象並びにその定立そのものを意味するわけであるから、現実の百ターレルが可能的な百ターレル以上のものを含むということになると、わたくしの概念が全対象を表わしておらず、したがってまたその対象に十分合致した概念ではないこととなろうからである。

カント『純粋理性批判』

しかし、カントはこうした神の存在論的証明を次のように批判する。なるほど神は純粋理性の理想ではあるが、それはやはり理念であって、その客観的な実在性を求めたとしても到達されえないものである。つまり、もっとも実在的な存在者であるという神の概念からその存在を導き出すことは不可能である。たとえば、百ターレルというものを考えてみると、現実の百ターレルも可能な百ターレルも、概念としては同じものである。しかし、私の財産状態においては、両者はまったく異なったものである。すなわち、その状態においては、「現実の百ターレルの方が百ターレルという単なる概念(すなわちその可能性)よりも多くを含んでいる」。どこに相違が存するかといえば、現実の対象は私の概念に「総合的に付け加わるもの」であるからである(K.d.r.S.572)。










独逸名目的貨幣理論の系譜 - Core

 
(Adobe PDF)
 

core.ac.uk/download/pdf/148782636.pdf
ここでは筆をカント貨幣理論に起し,それをフィヒテと対比しよう。 (1) 高田保馬博士,「 経済学新調」第三巻(貨幣の理論)昭和5 ...

イマヌエル・カント(1724-1804)の貨幣論はその「法律学の形而上学的基本原理」のうち,「契約により取得する一切の権利の解釈的分類」の章下において論ぜられている。かれは契約を三種に分つ。(1)無償契約(2)有償契約ならびに(3)保証契約これであり,更に第二の有償契約を(1)譲渡契約(2)賃約に大別し,前者は財と賃幣の交換であり,そこに始めて貨幣が契                    くの約分類表に占むる地位が与えられることになる。 かれの貨幣概念はかかる有償契約履行の要具とされ,その形式的解釈を次の如く試みる。「貨幣とはそれの使用がただこれを譲渡することによってのみ可能な物件である。この貨幣             (3)                          ウイルキユールの(アッヘンヴァルに従う)すぐれた名目上の説明,すなわち意欲のこの種の対象を他の一切から区別するに十分なものである。が,この説明はかような物件の可能性に関して何等の決断をも与えない。ただこれによって,第一にこの譲渡が取引において贈与としてでなく交                          へ  も  も                              ヘ  へ  も  へ互的取得のために(有償契約)企てられること,第二に貨幣は(隠る民族において)一般的にへ  し  も  へ  も  も  も  セ  セ  へ  も  も  も  も  へ     も  あ  し  へ  も  へ  も  ヘ  ヘ  へ  も  し  ヘ     へ  も  つ  ヤ  も  も  も  も  も  ヘ  へ喜ばれる一の商取引の手段であり,それ自身何らの価値を有せず,商品たる物件との対立にも ヘ ヘ ヘ ヒ も へ も へ も   へ も へ も ヘ ヘ へ も ヘ へ も へ               くりおいて考えられるから,それは一切の商品を代表することが明かである。」(傍点は筆者)かく                                    レアルァブイニチオンカントは交換手段としての貨幣の機能を認め交換財たる特質を明かにし,更に実質的定義を掲げ,「それは人聞の勤労Fleiss der Menschenを相互に取引するための一般的手段である。」という。財の貨幣たるべき要件として,これを生産するためにまたこれを他人に与えるために,自ら勤労(労働)を投下したるものでなければならず,その費せる勤労は貨幣によって収得する商品(自然又は加工産物)とそれに対して交換せられる勤労とが等しくなければならぬ。何となれば「貨幣と呼ばれる素材を作ることが,商品を生産するより容易ならば,商                            くの品が売出されるよりも多くの貨幣が市場に現われるであろう。」売主は買主よりも多くの勤                     くの労を費さねばならぬから産業も富を衰頽しよう。カントは貨幣の実体をそれに投ぜられた労働であるとみなし労働を要せざる「銀行券やアヅシニや紙幣はたとい一時的に貨幣に代ると
しても,貨幣と認められない。」と断言し更にまた商品が貨幣となる可能に就て,その素材を統治者が貢納としてある種の物を収受し住民も相互にこれを利用するに至る。「これによってのみ(余の意見に従へば),一商品が住民相互の間の勤労の法定の要具となり,また国家             く ラ                                   く うの富の取引手段たる貨幣となる。」ともみ,かの貨幣貢納起源説(福田徳三博士)を提唱するのである。 ところが,貨幣はなお所有の交換において概念され,「一切の他の物体(商品)の価格を                 ブレテイウム規定する物件の概念で(も)ある。……価格は勤労の交互的交換(流通)の一般的代表たる                   ヴアロ ル                        くユのところのものの比量との関係における物件の価値に関する公けの判断である。」と定義し,価格の絶対価格たる規定を明かにしている。かく貨幣は交換手段たると共に同時に価値尺度たる機能を営むとみるのであって,スミスを引合いに出す問題の定義となる。「『賃幣はそれ故に(アダム・スミスに従えば),それの譲渡が勤労の手段であると同時に尺度であり,これをもって人聞及び諸民族が相互に取引を行うところの物体である。』一かかる説明は,それがただ有償契約における交互的給付の形式のみを考え,(そしてこの給付は実質を抽象し),而して余のもの汝のものの交易(広義の交換)一般における法律概念を考え,これによって先天的な解釈的分類の,従って体系としての法の形而上学の前述の表に適合したものとして表                  インチレクチュアン          (11)心することによって,貨幣の経験的概念を曲想的のそれに導く。」 カントの貨幣理論は元来その法哲学体系で究明されたため,その法学的構成が前面に現われているが,その間よく貨幣の一般的交換手段であり価値の尺度たる経済学的解釈を進めていること,上記の通りである。なかでも,貨幣の実質価値はメタリストの如く金属に依存せ                                       (12)しめず,これが獲得に要せる労働量に求めた点は,かれのスミス研究に基くものであろう。                              くユヨラ尤も,スミスは労働を交換価値の唯一の一般的尺度であると論じたが,労働を貨幣の構成要                                   くユの件と認めたことなく,また「カントの貨幣定義に対応すべきものを示していない。」とはいえ,かれが労働を重視したことはボナーの評言の如く,かれの継承者が経済問題に潜心するに当               くユのり何らかの影響をもたらしたことは,覆うべくもない。かれが貨幣に就て銀行券の貨幣性を否定し,或は貢納を貨幣成立の契機に数えたことは,僅かに三年後に公刊されたフィヒテの所説に対比し興味少し,と言い得ないのである。(1)Immanuel Kant, Metaphysische Anfangsgrttnde der Rechtslehre.(Cassirer)Bd皿.(2)Kant, Ebd, SS,90-91.恒藤・船田両氏訳「法律哲学」カント著作集9.(昭和8年)163-5頁。 カントの契約分類表を次に掲げる。契  約約契償無{イロバ寄託使用貸借贈与e)賃約   ・一一   ロ  イ約契償有二七 無爵 契利約任 約傭 約息、     e     譲     渡一一 契ハ ロ イ 約消貸売 交費借買 換約三二保一イ口抵当の設定と受領保証ハ 人格



内生的ムーア
流動性選好(外生的)ケインズ一般理論

会計カレツキ
実体スラッファ



流動性選好(外生的)ケインズ一般理論+内生的ムーア

実体スラッファ
  +
会計カレツキ

   スラッファ
ケインズB+ムーア
   カレツキ

   スピノザ
 マルクス+ケインズA
    カント
_____

真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。  
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6


 貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。…
…国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。…

全集#5:4~5頁
資本論
重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。
…だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》マルクス『資本論』3-35-1河出書房新社世界の大思想

ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。
そしてスピノザはマルクスに先行している。





真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。  
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6


 貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。…
 ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。

…国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
 したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。…

全集#5:4~5頁
資本論
3:5:35:2
《第三五章 貴金属と為替相場〔612〕

第二節 為替相場(末尾)

重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。
…だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》マルクス『資本論』3-35河出書房新社世界の大思想

熊野資本論の思考712頁参照(結語)
宇野弘蔵経済原論岩波全書版64頁岩波文庫版74頁(1:1:2)
(冒頭に置いた宇野の洞察力は凄い)
岩波文庫7

経済原論=74
3:35:2


ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。
そしてスピノザはマルクスに先行している。









 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。  
 (スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6


 貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。この違いは、イギリス国王(それは誰であってもよい)とジョージ国
王との違いのようなものである。一〇年後にイギリス国王の体重に等しい重量の金を支払うという契約は、現在ジョ
ージ国王であるその個人の体重に等しい重量の金を支払うという契約と同じものではない。そのときになって誰がイ
ギリス国王であるかを布告するのは、国家の役目である。
 ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
 したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。

全集#5:4~5頁

646 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2019/08/29(木) 06:15:50.36  ID:NgG4Z2FF 
資本論
3:5:35:2
《第三五章 貴金属と為替相場〔612〕

第二節 為替相場(末尾)

重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。「スコットランド人は金貨をきらう。」
(The Scotch hate gold.)紙幣としては、諸商品の貨幣定在はただ社会的な定在で
ある。救済するものは信仰である。諸商品の内在的精霊としての貨幣価値を信仰
すること、生産様式とその予定秩序とを信仰すること、自己じしんを増殖する
資本の単なる人格化としての、生産の個々の代理者を信仰すること。だが、新教が
旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》河出書房新社世界の大思想

熊野資本論の思考712頁参照

ケインズの脱金本位制案も金の流出を防ぐためのものだ。マルクスは ケインズに先行している。
そしてスピノザはマルクスに先行している。

ISHIZUKA Ryouji (@ISHIZUKA_R)
Tax-Driven Money の起源がアダム・スミスにあるとForstaterが書いていた。
それどころかマルクスも。

cfeps.org/pubs/wp-pdf/WP…
https://twitter.com/ishizuka_r/status/1170979810081820672?s=21

シェイブテイル (@shavetail)
@matsumotot68 MMTのみならず、MMTとは全く無関係の日本の研究者、建部正義氏も、国情、金融制度が多少違うのに、財政出動では「政府支出が先、預金発生は後」という同じ結論に到達しています。決して老人の預金が先ではありません。それは事実をみせられても松本さんの目から取れないウロコ、思い込みですよ。

参考:
スピノザ、ケインズ、マルクス

《重金主義(モネタールジステール)は本質的に旧教的であって、信用主義(クレディッ
トジステール)は本質的に新教的である。
…だが、新教が旧教の基礎から解放されていないように、信用主義は重金主義の基礎から解放され
ていない。》マルクス『資本論』3-35-1河出書房新社世界の大思想


Tax-Driven Money: Additional Evidence from the History of Thought, Economic History, and Economic Policy by Mathew Forstater*   Working Paper No.  35 August 2004 
p.6
In the  Grundrisse, Notebook I, “The Chapter on Money,” Marx recognized that  “Prussia has paper money of forced currency. (A reflux is secured by the obligation to pay a portion of taxes in paper.)” (Marx, 1857, pp. 132).  Furthermore, Marx viewed this as part of the larger transition associated with money and the role of the State:

 ( To be further developed, the influence of the transformation of all relations into money relations: taxes in kind into money taxes, rent in kind into money rent, military service into mercenary troops, all personal  services in general into money services, of patriarchal, slave, serf and guild labour into pure wage labour.) (Marx, 1857, pp. 146)   

In the period of the rising absolute monarchy with its transformation of all taxes into money taxes, money indeed appears as the moloch to  whom real wealth is sacrificed. (Marx, 1857, p. 199) 
This same theme was brought out in  Capital, where Marx discussed the  

“primitive accumulation” necessary for capitalist development: 

The different moments of primitive accumulation can be  assigned in particular to Spain, Portugal, Holland, France, and England, in more or less chronological order. These moments are systematically combined together at the end of the seventeenth century  in England; the combination embraces the colonies, the national debt, the modern tax system, and the system  of protection. These methods depend in part on brute force, for instance the colonial system. But, they all employ the power of the state, the concentrated and organized force of society, to hasten, as in  a hot-house, the process of transformation of the feudal mode of production into the capitalist mode, and to shorten the transition.  Force is the midwife of every old society which is pregnant with a new one. It is itself an economic power. (Marx, 1990 [1867]: 915-916) 

tax driven money
1:24:6
さて、本源的蓄積のさまざまな契機は、多かれ少なかれ時間的序列をもって、殊にスペイン、ポルトガル、オランダ、フランスおよびイギリスに配分される。〔791〕イギリスでは、これらの契機が一七世紀末に、植民制度、国債制度、近代的な租税制度および保護制度において、体系的に総括された。これらの方法は、部分的には残虐きわまる暴力にもとつくのであって、たとえば植民制度はそうである。だが、いずれの方法も、封建制的生産様式の資本制的生産様式への転化過程を温室的に助長して過渡期を短縮するために、社会の集中的で組織的な暴力たる国家権力を利用する。暴力は、新たな社会を孕むあらゆる旧社会の助産婦である。それ自身が一つの経済的力能である。

 And again: 

The modern fiscal system, whose pivot is formed by taxes on the most necessary means of subsistence...thus contains within itself the germ of automatic progression.  Over-taxation is not an accidental occurrence, but rather a principle. In Holland, therefore, where this system was first inaugurated, the great patriot, DeWitt, extolled it in his Maxims as the best system for making the wagelabourer submissive, frugal, industrious…and overburdened with work.  Here, however, we are less concerned with the destructive influence it exercises on the situation of the wage-labourer than with the forcible expropriation, resulting from it, of peasants, artisans, in short, of all constituents of the lower middle-class. There are no two opinions about this, even among the bourgeois economists. Its effectiveness as an expropriating agent is heightened still further by the system of protection, which forms one of its integral parts. (Marx, 1990 [1867]: 921)  

1:24:6
国債は、年々の利子その他の支払に充当すべき国家収入を支柱とするものであるから、近代的租税制度は国債制度の必然的補足物となった。国債は政府をして、ただちに納税者に感じさせないで臨時費を支出することを可能ならしめるが、結果としては増税を必要ならしめる。他面、つぎつぎと契約された負債の堆積によってひきおこされる増税は、政府をして、新たな臨時支出にさいし、たえず新たに起債することを余儀なくさせる。必要生活手段への課税(したがってその騰貴)を中軸とする近代的国家財政は、だから、それ自身のうちに自動的累進の萌芽を宿している。過重課税は偶然事でなく、むしろ原則である。だから、この制度がまっ先に開始されたオランダでは、大愛国者のデ・ヴィットが、その筬言のなかでこの制度を讃美して、賃労働者を従順・節倹・勤勉にし……過度の労働に服させるための、最良の制度だとした。だが、ここでわれわれに関係があるのは、この制度が賃労働者の状態に及ぼす破壊的影響よりも、むしろ、この制度によってひきおこされる農民や手工業者の──要するに下層中間階級のあらゆる構成分子の──暴力的収奪である。この点については、ブルジョア経済学者の間でさえも意見の相違はない。この制度の収奪的効果は、その主要部分の一つたる保護制度によって、さらに強化される。

 Marx’s understanding of the role  of taxation in the creation of wage-labor expanded after 1861 during his study of the Russian peasantry and their proletarianization (White, 1996, p. 247).  In particular, he was influenced by his reading of N. Flerovsky’s The Condition of the Working Class in Russia  (Flerovsky was the pseudonym of V. V. Bervi (White, 1996, p. 247).  Marx wrote to Engels that “this is the most important book which has appeared since your  Condition of the Working Class” (White, 1996, p. 248): 

Flerovsky made it plain that…not all Russian peasants were on the same economic level…While rich peasants…could earn their living entirely from the land, the poorer ones could not because ‘the amount of taxes levied on the peasantry is so great that they cannot pay it without earning wages.’ (White, 1996, p. 248) 

税主導型のお金:マシューフォースタターによる思考史、経済史、および経済政策の追加証拠*ワーキングペーパーNo. 35 August 2004
http://www.cfeps.org/pubs/wp-pdf/WP35-Forstater.pdf
p.6
グルンドリス、ノートI、「お金の章」で、マルクスは「プロイセンには強制通貨の紙幣がある。 (逆流は、税金の一部を紙で支払う義務によって確保されています。)」(Marx、1857、pp。132)。さらに、マルクスはこれを、お金と国家の役割に関連するより大きな移行の一部と見なしました。

 (さらに発展するために、すべての関係を金銭関係に変換する影響:現物税から金銭税へ、現物税から金銭家賃へ、兵役からmerc兵部隊へ、兵役から一般に金銭サービスへ、家父長制の、奴隷、農奴、ギルド労働から純粋な賃金労働へ。)(Marx、1857、pp。146)

すべての税金を金銭税に変換する上昇する絶対君主制の時代に、お金は実際に本当の富が犠牲にされるモロクとして現れます。 (Marx、1857、p.199)
これと同じテーマが資本論に持ち込まれ、マルクスは

資本主義の発展に必要な「原始的蓄積」:

特に、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、およびイングランドには、多かれ少なかれ年代順に、原始的な蓄積のさまざまな瞬間を割り当てることができます。これらの瞬間は、イギリスでは17世紀の終わりに体系的に結合されます。この組み合わせには、植民地、国債、現代の税制、保護制度が含まれます。これらの方法は、たとえば植民地システムなどのブルートフォースに一部依存しています。しかし、彼らはすべて、国家の力、社会の集中的かつ組織化された力を利用して、温室のように、封建的な生産モードから資本主義モードへの転換のプロセスを早め、移行を短縮します。フォースは、新しい社会を妊娠しているすべての古い社会の助産師です。それ自体が経済力です。 (Marx、1990 [1867]:915-916)

 そしてまた:

最も重要な自給手段に対する税金によってピボットが形成される現代の財政システム...したがって、それ自体に自動進行の芽が含まれています。過剰課税は偶然の発生ではなく、原則です。したがって、このシステムが最初に発足したオランダでは、偉大な愛国者であるデウィットが、賃金労働者を従順で、質素で、勤勉に、そして仕事で過負荷にするための最良のシステムとして彼のマキシムで称賛しました。ただし、ここでは、農民、職人、要するに中流階級のすべての構成員の強制収用よりも、それが賃金労働者の状況に及ぼす破壊的な影響についてはあまり懸念していない。ブルジョア経済学者の間でさえ、これについて2つの意見はありません。収用剤としての有効性は、その不可欠な部分の1つを形成する保護システムによってさらに高められます。 (Marx、1990 [1867]:921)

 賃金労働者の創出における課税の役割に関するマルクスの理解は、ロシアの農民とそのプロレタリア化の研究中に1861年以降に拡大した(White、1996、p。247)。特に、彼はN.フレロフスキーのロシアの労働者階級の条件を読んだことに影響を受けた(フレロフスキーはVVベルヴィーの仮名であった(White、1996、p。247)。マルクスはエンゲルスに次のように書いた。あなたの労働者階級の条件以来登場した本」(White、1996、p。248):

フレロフスキーは、ロシアのすべての農民が同じ経済レベルにいるわけではないことを明らかにしました...豊かな農民は土地から完全に生計を立てることができましたが、貧しい人々は「農民に課される税額が大きいため、賃金を稼ぐことなしにそれを支払うことはできません。」(White、1996、p。248)


経済をやるなら簿記の基本も知っておこう ~ 政府の〇〇は民間の●● ~

毎度ごぶさたの更新です。ツイッターに浮気しておりました。
https://twitter.com/tasan_121
「ツイッター、広報力や返信もらいやすいのはいいですね!(使っていれば)」
ということを学習しました。その反面、
「ダラダラ見がち。リアルな声もわかっていいなぁ、、、ってニュースだこれ」
と思いました。中には勉強なる人もいるわけですが、見ててもそれ以上に深まるわけではないので。ツイッターでもっと発信したいなら、ツイッター以外のことも、きっと必要ですね!

「経済をわかるようになりたいなら、簿記の基本だけでも知っておこう」

お盆とかいつもの友人と長野に行ったりしたんですが、その会話の中で。
一応経済系の学部を出ているんですが、簿記は知らないって言います。
これ結構問題だと思うんですよね。
なぜかといえば、経済と簿記、この基本を組み合わせるだけで、
政府の負債 = 民間の資産
政府の黒字 = 民間の赤字

これが本当なら、いわゆる国の借金(国債=政府の負債)を増やした方が、民間の資産は増える、ということです。同様に、政府が黒字を目指す、ということは、民間の赤字を目指す、ということが言えます。
いやはや、これをニュースに投下したら大問題ですね。しかし、これが簿記と経済の基本から言えてしまいます。これに反する人には「簿記わかんないの?」って言っておしまいです。というわけで、説明していきます。

簿記は仕訳をいっぱい書いて整理したもの

簿記。簡単に言えば、鉛筆買ったら

事務消耗品100円 / 現金100円

とメモします。これを仕訳と言います。終わり。
仕訳いっぱい書いて整理したのが簿記です。

左を借方(かりかた)、右を貸方(かしかた)

と言います(覚えて)。お金出ていくのが、現金を右に書きます(これも覚えて)。会社で経理やるなら以上だけど、経済なら相手を意識。鉛筆売った相手が同時にいるので、相手は

現金100円 / 売上100円

となります。左は入金(暗記) 
こんなふうに、相手がいる場合は、相手だって仕訳があります
簿記3級の教科書でも、最初の方に書いてあることです。

誰かの費用は誰かの収益

仕訳項目の名前=勘定にはいろいろありますが、大きく5分類あります
資産、負債、純資産、費用、収益です。
先の鉛筆の話だと以下の通りです。
買った人 「 事務消耗品100円 / 現金100円 」 ( 費用 / 資産 )
売った人 「 現金100円 / 売上100円 」   ( 資産 / 収益 )
というわけで、買った人の費用は売った人の収益となっています。
買った売っただから当たり前ですね。
資産や負債も同じ。例えばお金貸すとか。

借りる人 「 現金 / 借入金 」 ( 資産 / 負債 
貸した人 「 貸付金 / 現金 」 ( 資産 / 資産 )

というわけで、あなたの会社でも家計簿でもいいですが、それを仕訳して、
「今月の収益はいくらだなぁ」「費用はこんだけかぁ」
「うち、いま資産はいくらあって、負債はこんだけあるのかぁ」
と分類してみたとき、それは反対に、誰かにも逆勘定が発生している、ということです。
だから、誰かの負債は誰かの資産。誰かの費用は誰かの収益、と言えます。
ちなみに資産や負債をまとめたのが、貸借対照表:バランスシートBS
費用や収益をまとめたのが、損益計算書:プロフィット & ロス ステイトメントPL
と言います。いろんな会社が発表していますね。

立場で大別すると民間と政府しかいない

さて、今度はマクロ経済の話にちょっと飛ぶと、経済の立場には、大きく分けると民間と政府しかありません。内閣府のGDP統計見たりするとよくわかります(外国は今はおいときます。外国だって同じ構造だし)。それに、政府でなかったら何?って民間ですしね。
つまり、マクロ的に大きく分けると、政府の相手は民間となります。民間の相手も政府しかいません。ですから、先ほどの「誰かの費用は誰かの収益」としましたが、「誰か」に主語を入れると「政府の費用は、民間の収益」となります。
これは、政府が入札などで仕事を発注して、それを受注して仕事をし、お金をもらうのは民間業者ですね。こうやって、政府サイドから民間サイドへのお金の経路となっているわけです。まさに民間のパイの拡大ですね。
ですから、政府がお金ないとか言って、支出を減らすと、入札企業の売上が下がり、トータルでも民間景気は悪化します。だって、売上が下がった企業は、仕入れだって、給料の支払いだって減るので、周囲だって悪化しますからね。
また、逆に「政府の収益は、民間の費用」とも言えます。これは税収のことですね。これは民間サイドから政府サイドにお金を引き上げていますから、民間のパイの縮小が起きています。
じゃあ次の話は、民間のパイ、お金の総量は、どのくらいだったらいいの?って話になります。増えもせず、減りもせず、一定ならいいのか?増え続けるものなのか?それとも減っていく?ものなのか?

民間のパイはマネーストックを見ます

政府サイドはマネタリーベースとかベースマネーって言いますね。私たち民間人は普通の銀行口座は持っていますが、日本銀行の口座は持っていません。日本銀行の口座を持っていて、そこのお金を出し入れできるのは、政府と日銀、それから日銀代理店となっている銀行だけになります。
というわけで、民間を見るならマネーストック。以下の状況です。
ちょっと面倒くさかったので、日銀上のグラフそのまま・・・ともあれ、マネーストック。順調に増えている様に見えます。
しかし、経済は前年比で見ます。それは前年比でいろんな指標が連動しているからです。それを教科書ではなぜか教えられません。よって、以下のグラフは%表示となります。物価もGDPもニュースで前年比2%やら3%目標と言われてますよね。
で、グラフを見ると、政府支出と連動して、マネーストックも底辺だとわかります。よって、政府の支出(費用)と民間のパイ(資産)は連動しているとわかりました。残念な連動でしたが。
民間の収益を計算したいなら、GDPの政府支出抜きと相関取ればいいですかね。それ=民間消費+民間投資なので、うん、何度もグラフ作っているので、間違いなく相関していますね。
政府の費用 ≒ 民間の資産  ≒ 民間の収益

結論:政府の〇〇は民間の●●

ほかには?一度書き出してみると
① 政府の費用 ≒ 民間の収益 ≒ 民間の資産 :いまやったやつ
② 政府の収益 = 民間の費用
③ 政府の資産 = 民間の負債 
④ 政府の負債 = 民間の資産 
一応正反対のものばかり書き出し。簿記から正しいと言えます。
①で民間資産が出てますが、④にもあるので、タテ列も繋がってそうですね。①≒④
④政府の負債は国債のことで、財源なので、①の政府の費用=支出を通して、民間の収益となり、民間の資産となっているのでしょう。
経済指標で言えば、国債×政府支出×民間GDP×マネーストック
ああ、民間GDP=民間支出+民間投資は、合算して言えば、民間支出、と言えますので、民間の費用②とも言えますね。
また、②については、これ税収のことも言えますね。ちなみに税収もGDPと連動していますので、民間GDP(民間の収益)とも、連動しているでしょう。なのでやはり①≒②です。
③の資産や負債って私はやったことないですねー。

① 政府の費用 = 民間の収益 ≒ ②④
② 政府の収益 = 民間の費用 ≒ ①
③ 政府の資産 = 民間の負債 
④ 政府の負債 = 民間の資産 ≒ ①
①も②も④もすぐ繋がりが見えてしまいました。
③やったことなのでちょっと今度やってみたいところです。
以上、簿記から既に正しいと言えるので、統計でやってみたりしても、すんなり相関が見えそう。今までのデータと突き合わせても齟齬がありません。当たり前ですがよかたよかた。

ということで
「政府が収支  で黒字(収益)目指します!」とか言うのは、イコール
「民間赤字目指します!」って、簿記から言えるわけです。
※ 基礎的財政収支=プライマリーバランスPB
他にも
「国の借金(政府の負債)を減らします!」というのは
「民間の資産を減らします!」のと同じ。(だって財源けずる話ですし)
「政府の費用を節約して減らします!」というのは
「民間の収益を減らします!」のと同じ。(だって入札金額へる話ですし)
簿記、基本だけでも重要じゃありませんか?

ニュースを見れば真逆ばかり

よく、プライマリーバランスの黒字(収益)を目指して、財政を健全化します!って言ってますけど、それやってるから民間赤字(費用)で不景気なんですよね。
安倍総理が
①消費税の増税分を、
②国の借金返済に使いました。さらに
③翌年度の国債はさらに1兆円減らします。
とも報道ありましたが
①増税したら、政府の収益UP = 民間の費用がUP。
②回収したけど再分配せず。
③税収外の財源も減らす。翌年の政府の負債が減少=民間の資産も減少。
です。
皆さんもおかしなこと見かけたら「簿記わかんないの?」で済んでしまうのではないかと思います。

そもそも日銀と政府はひとつ

そんなこと言っても、政府に財源がないと、ダメじゃないか、の考えにも答えておくと、
日本円は日銀で発行しており、政府はそれを得るために、国債を現金交換券として使っているので、自分の国のお金なら、何の問題もありません。そもそも日銀と政府はひとつだったから、形式上、このようになっています。
ただし、直接交換しているわけではなく、
・政府は民間に国債を販売
・日銀は民間から国債を買い取る
という形式になっています。財政法で直接交換は原則禁止となっています。原則なので、いくらかは直接ありますけどね。
実務だともう少し違うでしょうが、ざっくりこういう形、原理かと思います。
発行銀行券が右側の貸方にあって、奇妙に思うかもしれませんが、これは負債扱いなので、OKです。日銀ホームページを見てください。昔はここからさらに、小判や銀貨に交換していたので、その名残らしいです。
ということで、国債は日銀に、現金(当座預金)は政府に渡りました。まとめにて、国債が両方にあるので、交換していることがわかりますね。日銀は元手無しにお金を作る。政府も元手無しに国債証券を作る。それを交換する
なので私は国債を現金交換券と言います。国債は現金で財源みたいなものですから。国債残高を見れば、過去にどのくらいのお金を交換してきたのか?がわかりますね。国債も途中からできましたけど。1965年あたりからだったかな?
さて、そんなただの記録、、、政府はこれを財源にして、民間に支出してきたのだから、国債残高が多いことは、それだけ民間にお金を流してきたことの名残ですが、現在では「国の借金」と言って「減らせ!」と糾弾するわけです。
確かに政府の右側にあるので「負債」ではありますが、簿記で言えば、政府の負債は民間の資産なわけです。皆さんも、自分たちの首を絞めろ!という人には「簿記わかんないの?」と言ってあげてください。それで終わります。
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----編集後記----
ツイッターはよく更新しないとあれなんで、不定期にまとめるなら、自分はブログの方があっていそうです。よく練ることができるので。ツイッターは単発式ですし。
アメーバの記録を信用すれば、こんなブログでも30-60名くらい、コンスタントに見てくれる人がいるようなので、なかなか悪くないように思います。
両方使いようですかね!

なお、ツイッターはこちらです。よかったら見てください。プロフからメディアに絞ると、グラフ画像とかいろいろ見れると思います
https://twitter.com/tasan_121


木曜日, 8月 29, 2019

MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由 | 国内政治 | 東洋経済オンライ ン | 経済ニュースの新基準 中野剛志 2019/8/30



MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由 | 国内政治 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 中野剛志

2019/8/30 

https://nam-students.blogspot.com/2019/08/mmt-2019830.html@

https://toyokeizai.net/articles/amp/298560

MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由

新理論による「現実」対「虚構」の歴史的転換点

世代交代が、MMTと経済学の「科学革命」を引き起こすかもしれません(写真:adam121/PIXTA)

「財政は赤字が正常で黒字のほうが異常、むしろ、どんどん財政拡大すべき」という、これまでの常識を覆すようなMMT(現代貨幣理論)。関連報道も増え続け、国会でも議論され、同理論提唱者の1人、ステファニー・ケルトン氏(ニューヨーク州立大学教授)も来日し、各所での講演が話題になるなど、ますますホットなテーマとなっている。

このたび邦訳された、同理論の第一人者L・ランダル・レイ氏(バード大学教授)による著書『MMT現代貨幣理論入門』に解説を寄せ、著書『富国と強兵 地政経済学序説』で日本にいち早く紹介した中野剛志氏が、MMTの歴史的背景と意義を解き明かす。

意外に長いMMTの歴史

「現代貨幣理論(Modern Monetary TheoryもしくはModern Money Theory)」。通称「MMT」。

200年に及ぶ経済学の歴史においても、これほどまでに革命的であり、そしてスキャンダラスな経済理論が脚光を浴びることは、そうめったにはない。

『MMT現代貨幣理論入門』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

もっとも、最近になって現れたかに見えるMMTであるが、実は、20世紀初頭のゲオルク・F・クナップ、ジョン・M・ケインズ、ヨーゼフ・A・シュンペーターらの理論を原型とし、アバ・ラーナー、ハイマン・ミンスキーなどの業績も取り込んで、1990年代に、本書の著者L・ランダル・レイ、ステファニー・ケルトン、ビル・ミッチェルといった経済学者、あるいは投資家のウォーレン・モズラーらによって成立したという系譜をもっている。

MMTの歴史は、その原型も含めて考えるならば、意外と長いのである。

それにもかかわらず、MMTの登場は、やはり、革命的で、スキャンダラスな事件だと言わざるをえない。

それは、世界中の経済学者や政策担当者が受け入れている主流派経済学が大きな間違いを犯していることを、MMTが暴いてしまったからである。


MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由

新理論による「現実」対「虚構」の歴史的転換点

しかも、単なる間違いではない。貨幣の理解からして間違っているというのである。

経済学とは、貨幣を使った活動についての理論だと考えられている。しかし、その「貨幣」について、主流派経済学は正しく理解していなかったというのだ。もし、そうだとしたら、主流派経済学の理論はその基盤から崩れ去り、その権威は地に堕ちるだろう。これ以上スキャンダラスなこともないではないか。

さて、その貨幣についてであるが、主流派経済学は、次のように説明してきた。

原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、特に金である。これが、貨幣の起源である。

しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量を持った金貨を鋳造するようになる。次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。

最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす(『マンキューマクロ経済学Ⅰ入門編【第3版】』110─112ページ)。

これが、主流派経済学の貨幣論、いわゆる「商品貨幣論」である。しかし、商品貨幣論が間違いであることは、歴史学・人類学・あるいは社会学における貨幣研究によって、すでに明らかにされている。また、イングランド銀行国際決済銀行も、商品貨幣論を否定している。
  
「貨幣とは何か」については、依然としてさまざまな説があるが、少なくとも、商品貨幣論のような素朴な貨幣論を未いまだに信じている社会科学は、もはや主流派経済学のみなのではないか。

延命を図る主流派経済学

では、MMTの貨幣論は、どのようなものであるか。詳しくは、『MMT現代貨幣理論入門』に譲るとして、その概要だけ触れておくならば、こうである。

まず、政府は、債務などの計算尺度として通貨単位(円、ドル、ポンドなど)を法定する。

次に、国民に対して、その通貨単位で計算された納税義務を課す。

そして、政府は、通貨単位で価値を表示した「通貨」を発行し、租税の支払い手段として定める。これにより、通貨には、納税義務の解消手段としての需要が生じる。

こうして人々は、通貨に額面通りの価値を認めるようになり、その通貨を、民間取引の支払いや貯蓄などの手段としても利用するようになる。こうして、通貨が流通するようになる。

要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるからだというのである。


MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由

新理論による「現実」対「虚構」の歴史的転換点

MMTの理論は、この正しい貨幣論を「前提」として構築される。MMTは、貨幣論という理論の「前提」からして、主流派経済学とはまったく異なっている。それゆえ、MMTが導き出す政策的含意もまた、当然にして、主流派経済学とは大きく違ったものとなる。

その結論だけ言えば、主流派経済学は、マクロ経済運営の中心に、中央銀行による金融政策を位置づけている。他方、財政政策の評価については、消極的あるいは否定的である。金融政策が「主」であり、財政政策は「従」という扱いなのである。

これに対して、MMTは、この主従を逆転させる。マクロ経済運営で中心的な役割を果たすべきは、財政政策なのである。中央銀行による金融政策も重要ではあるが、その役割はあくまで「従」としての位置づけとなると言ってよい。

主要先進国における経済政策は、おおむね、主流派経済学の理論に従って運営されてきた。とりわけ1990年代後半以降は、日米欧いずれにおいても、金融政策中心の傾向が顕著に強まった。

しかし、この金融政策中心のマクロ経済運営は、金融市場の不安定化(資産バブルとその崩壊の繰り返し)や低成長、あるいは所得格差の拡大といった結果をもたらした。とりわけ、2008年の世界金融危機、その後のユーロ危機、あるいは日本の長期デフレによって、主流派経済学が処方する金融政策中心のマクロ経済運営は失敗に終わったということが、白日の下にさらされたのである。

このため、世界金融危機以降は、ポール・クルーグマン、ローレンス・サマーズ、あるいはオリヴィエ・ブランシャールなど、主流派に属する経済学者の中からでさえ、金融政策の限界を認め、財政政策を重視すべきだという声が上がってきている。

「科学革命」を恐れる経済学者たち

しかし、彼らは、財政政策の重要性を認めたとはいえ、主流派経済学が貨幣論という「前提」から間違っていたことまでは、いまだ認めていない。もし、それを認めてしまったら、主流派経済学の理論体系が根底から崩壊し、MMTに取って代わられてしまうだろう。トーマス・クーンの言った「科学革命」が経済学において勃発するのだ。

だから、クルーグマンもサマーズもブランシャールも、今のところ、MMTを批判的に評価し、受け入れようとはしていない。彼らは、主流派経済学の既存の枠組みを破壊することなく、その中で「財政政策が主、金融政策が従」という結論を導き出そうとしているように見える。要するに、主流派経済学の延命を図っているのだ。

日本の経済学者や評論家、あるいは政策担当者の大半も、海外の主流派経済学者の虎の威を借りつつ、MMTを「極論」「暴論」扱いしている。その中には、消費増税論者がMMTを批判するのに、消費増税に反対するクルーグマン、サマーズあるいはブランシャールの名を引いてくるなどという滑稽な例すら見られる。

だが、主流派経済学が間違った貨幣論のうえに成立している以上、その枠組みの中で、結論だけ変えるような論理操作を施したところで、何の意味があるというのだろうか。そのような姿勢は、研究者として不誠実であると言うべきではないのか。


MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由

新理論による「現実」対「虚構」の歴史的転換点

なぜ、主流派の経済学者や政策担当者たちは、MMTに対して、このような不誠実な態度をとり続けるのであろうか。

意外なことに、その答えは、シュンペーターが教えてくれる。

ちなみに、シュンペーターは、MMTの形成に大きな貢献をしたミンスキーの指導教官である。ミンスキーは、本書の著者レイの師であるから、レイはシュンペーターの孫弟子ということになろう。

あまり知られてはいないが、シュンペーターは、知識人、とりわけ経済学者の在り方にも、非常に強い関心を抱いていた。

シュンペーターが指摘した「経済学者の不誠実さ」の理由

例えば、大著『経済分析の歴史』の未定稿の中で、シュンペーターは、科学について、次の3つの論点を挙げている。

第1の論点は、科学の進歩についてである。

どの科学者も、独自の視点から理論を構築していくのではなく、専門の科学者たちの間ですでに確立された学説や方法を引き継ぎ、それを基礎として研究を進めるものである。

しかし、それゆえに、科学が既存の理論の枠組みから逸脱することは、極めて難しくなる。

既存の科学構造がもたらす抵抗のせいで、学説や方法における大きな変化は転換という形ではなく、最初は遅れ、そして後に革命という形で起きるのである。そして、その過程の中で、恒久的に価値があるかにみえた、あるいは未だすべての成果を収穫する時期に至っていない既存の科学構造の諸要素は失われることになる。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

このようにシュンペーターは、クーンの「科学革命」説に先行する議論を展開するのである。

第2の論点は、「世代」の問題である。

科学は継続性のある構造を有しており、学説や方法は容易には変更されない。この継続性は、同じ時代に属する科学者たちはその姿勢も類似したものになるという「世代」という現象によって理解し得る。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

ということは、科学の転換は、環境の変化だけではなく、世代の交代によってももたらされるであろうということだ。

第3の点は、経済学者という社会集団の問題である。

科学者たちは特殊な社会集団を形成するが、「経済学においては、この集団は成熟するまでに長くかかったが、成熟してみると、物理学におけるものよりもはるかに重要なものとなった」。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

この経済学者という社会集団について、シュンペーターは、主著『資本主義・社会主義・民主主義』においても、「知識人の社会学(the sociology of the intellectual)」として考察している。そこで彼が「知識人」と言っているのは、端的に「経済学者」と読み換えてよい。


MMTが「就職氷河期世代」に支持される深い理由

新理論による「現実」対「虚構」の歴史的転換点

知識人(経済学者)には、次の3つの特徴があるとシュンペーターは言う。

第1に、「実際の事件に対して直接の責任をもたない」、第2に「実際の経験からのみ得られる生の知識をもたない」、そして第3に「批判的態度」を旨とする(『資本主義・社会主義・民主主義』)。

経済学者たちは、政党のパンフレットや演説の原稿を書いたり、政治家の秘書や顧問として働いたりするなどして、より直接的に政治に入り込む。また、経済学者と官僚の関係も密接なものとなる。

なぜなら

官僚は、同じような教育をうけ多くの共通点をもっている現代の知識人に従って主義を改めることにはやぶさかではない(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

からだ。

こうして、経済学者たちは、政策に深く関与し、社会に多大な影響を及ぼすようになる。しかし、経済学者たちは「実際の事件に対して直接の責任をもたない」し、「実際の経験からのみ得られる生の知識をもたない」のである。そんな彼らが構築した理論は、しょせんは机上の空論である。机上の空論なのだから、現実の社会で通用するはずもない。

だが、「批判的態度」を旨とする経済学者たちは、理論に合致しない現実の社会のほうを批判する。そして、現実の社会を破壊しようと企てるというのである。

MMTによる経済学の「科学革命」

このシュンペーターによる「経済学者の社会学」は、主流派経済学者たちがMMTに対して異様なほど抵抗した理由をよく説明しているであろう。

2018年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーですらも、主流派経済学者たちが画一的な学界の中に閉じこもり、極めて強い仲間意識を持ち、自分たちの仲間以外の専門家たちの見解や研究にはまるで興味がないことをひどく嘆いている。

また、主流派経済学者の理論の是非の判断基準は、事実ではなく、数学的理論の純粋さのみになっている、と強く批判している。

MMT批判の中には、「MMTには、数学的理論がない」などという低レベルのものが散見されたが、これなども、ローマーの批判を裏づけるものであろう。MMTが論じているのは、数学的な純粋さではなく、ビル・ミッチェルが強調するように、あくまでも「現実」なのだ。

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このように、近年、主流派経済学の在り方については、主流派の内部からも批判の声が上がっていた。そこへ来て、突然のMMTのブームである。

これは、経済学における「科学革命」が起きる予兆なのであろうか。もちろん、断言はできない。

しかし、シュンペーターによれば、科学の在り方は「世代」の問題と深く関係しているという。

1990年代に成立したMMTが、それから一世代後の今になって注目を浴びていること。

また、MMTが、日本の「就職氷河期世代」など、停滞や格差の時代を経験した比較的若い世代によって支持されていること。

こうした現象は、MMTによる経済学の「科学革命」が世代交代に伴って起き始めたことを示しているのかもしれない。

もし、そうだとしたら、われわれは、経済学の歴史的転換点に立ち会っているということになろう。

いずれにしても、筆者としては、主流派経済学ではなく、それに挑戦するMMTを支持する側にいることを幸福に思っている。

そして、できるだけ多くの方が『MMT現代貨幣理論入門』を読んで、経済学の科学革命に参画することを切に願っている。

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