【その後の資本論翻訳史考】
資本論翻訳は、高畠の没後も、河上肇、その門下の長谷部文雄らによって試みられるが、時勢の困難もあり、遂に完訳には至らなかった。そのため高畠訳『資本論』は、戦前を通じて唯一の全訳『資本論』となった。
敗戦後、高畠訳『資本論』は二度ほど出版されたが、既に長谷部文雄、向坂逸郎、岡崎次郎らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。
http://yojiseki.exblog.jp/19832401/
『資本論』冒頭翻訳各種:
"Das Kapital"
<Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine ungeheure Warensammlung, die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.>
(1867年初版。MEW Bd. 23, S.49)
<La richesse des sociétiés dans lesquelles règne le mode de production capitaliste s’annonce comme une 《immense accumulation de marchandises.》L’analyse de la marchandise, forme élémentaire de cette richesse, sera par consequent le point de départ de nos recherches.>
(1872年、J・ロア訳、マルクス自身の校閲によるフランス語訳)http://monsieurk.exblog.jp/17300334/
<The wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as “an immense accumulation of commodities,” its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity. >
(1887年英語版)
「資本家的生産の支配してゐるやうな社会の富は、『巨大なる商品の集積』として現れ、個々の商品はそれの単位として現れる。そこで我々の討究は商品の分析からして始められねばならぬ。」
(生田長江訳、1919年大正六年、緑葉社、第一分冊第四章まで)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962748/37
<資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『尨大なる商品集積』(一)として現はれ、個々の商品(1)はその成素形態として現はれる。故に我々の研究は、商品の分析を以つて始まる。
(一)拙著『経済学批判』(ベルリン、一八五九年刊、第四頁)(2)。>
(高畠素之訳、1925年大正14年、新潮社、のちに改造社他)
http://awatasan.web.fc2.com/kansoku/kyuuban/capital/01_01.html
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971555
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971555/33
「資本家的な生産の仕方の支配してゐる諸社会の富は一個の『恐ろしく厖大な商品の集大成』として、個々の商品はかゝる富の原基形態として、現はれる。だから吾々の研究は商品の分析をもつて始まる。」
(河上肇、宮川実訳。1927年岩波文庫37頁)
「資本主義的生産様式の支配する社会の富は、一つ「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の要素形態(Elementarform)として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析からはじまる。」
(宮川実訳1946年。引用は、あゆみ出版1977年57頁より)
<資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は、一つの「厖大な商品集成」として現象し、個々の商品は、こうした富の原基形態として現象する。だから、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(昭和39年(1964)初版、長谷部文雄訳、河出書房新社、35頁)
<資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。>
(向坂逸郎訳、岩波文庫全9巻 1969年 第一巻67頁)
<資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(平成3年(1972)第1刷、岡崎次郎訳、大月書店、国民文庫第一巻71頁。全集第23a巻47頁)
<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大なる商品集積」(マルクス『経済学批判』一八五九年)としてあらわれ、個々の商品は、その富の基本形態としてあらわれる。だからわれわれの研究は、商品の分析からはじまる。>
(鈴木鴻一郎訳、1973年、中公世界の名著43,98頁)
<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集積物(1)」として現われている。
したがって、この富の要素形態である商品の分析は、われわれの研究の出発点である。
(1) カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、三ページ。>
(江夏美千穂、上杉聡彦訳、フランス語版資本論、1979年、法政大学出版局,3頁)@ 1872年ラシャトル版
<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。>
(平井規之訳、新日本出版社、1982年、第一巻59頁、新書全13巻)
《資本主義的な生産様式が広まった社会の富というものは、「商品のものすごい集積」という形で出てくる。個別の商品は、その要素的な形として出てくるわけだ。だからわれわれの検討も、商品の分析から始めよう。》
(山形浩生訳2004年、ネット上無料公開@未完冒頭、商品の章のみ)
http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf
<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。>
(今村仁司、三島憲一、鈴木直訳『マルクス・コレクション Ⅳ 資本論 第一巻(上)』筑摩書房、2005年1月)
<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体(1)」の姿をとって現われる、ひとつひとつの商品はこの富の要素形態となる。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(今村仁司訳『マルクス・コレクション 第3巻』所収、資本論初版、第一章のみ、筑摩書房、2005年3月)
<資本主義的生産様式が支配している社会的富は、「巨大な商品のかたまり」として現れ、この富を構成しているのがこの商品である。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(超訳、祥伝社2008年)
<資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり」として現れ、ここの商品はその要素形態として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。>
(中山元訳、日経、第一部全4巻第一巻27頁、2011年)
<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は,《一つの巨魔的な商品集合》として(als eine ,,ungeheure Warensammlung’’)現われ,個々の商品はその富の要素形態として(als seine Elementarform)現われる。したがって,われわれの研究は商品の分析から始まる。>
(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」2012年より。pdf公開されているこの論文で内田は集合-要素の対概念が大事だと強調する。その観点から新日本出版社訳が推奨される。筑摩、日経訳もこれにあてはまるだろう。)
マルクスと集合論に関してはトラクリの価値形態に関する考察を参照(定本310頁)。
その柄谷の考察によって、初版にあった集合論的矛盾の記述は以降削除されたことがわかる。
マルクスはgoldによって集合論的矛盾を回避していると思う。
<それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他のすべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個別的化身が存在しているようなものである>
(定本トラクリ318頁。岡崎次郎訳『資本論 第1巻初版』、大月書店 (国民文庫)、1976 年。27頁)
http://fourier.ec.kagawa-u.ac.jp/~kosuke/ideology.pdf
G
D: ◎ 貨幣形態
◯
C: /| 一般的価値形態
☆☆☆
☆☆☆
B:|/ 拡大された価値形態
◯
形態一、A:◯=☆ 単純な価値形態
(相対的価値形態 = 等価形態)
価値形態論とゲーデルの不完全性定理を比べるとよくわかるが、マルクスはゲーデルの半分しか叙述していない。不完全性定理においてゲーデル数が王権を得たまま固定することはあり得ない。これは時間というものを自らの歴史観に無意識に依拠しつつ扱ったマルクスの不備に起因する。価値形態A~Dは全て同時に存在し得るというのがゲーデルからマルクスへの答えである。
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アプリが不十分、ダウンロード不可?で推奨出来ない。やはりibooksを推奨する。
大月のon lineは検索機能だけでも画期的。ただコピペは出来ない。
CamScannerHD等scanアプリを使う手もあるが、、、、