http://www.freeassociations.org/
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den037.htm
…和辻哲郎によると、「もののあはれ」は「永遠への思慕」である。
美学者大西克禮は単なる「あはれ」を一つの派生的美的範疇として論じ
ようとする論文の中で、その語を「世界苦」(ドイツ語のWeltschmerz)として
定義したこともある…
https://deepstsky.net/Blog/0100-Weltschmerz-I/
ドイツ語における言葉自体は、ゲーテと同時代の作家でゲーテと並ぶ巨匠とも
言われたりしていますが、その割には読んだことがあると言う人をあまり見かけ
ないジャン・パウルの造語のようです。…
退屈だとかアンニュイだとかはブルジョアの特権だと鈴木大拙はよくわかっている
Weltschmerz
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den037.htm
中心的に解釈するので、意見の相違はかなり激しい。例えば、和辻哲郎によると、「もののあはれ」は「永遠への思慕」である。美学者大西克禮は単なる「あはれ」を一つの派生的美的範疇として論じようとする論文の中で、その語を「世界苦」(ドイツ語のWeltschmerz)として定義したこともある。九鬼も「あはれ」について言葉を残している。しかしここで、これらの近代の説を飛ばして、「物のあはれ」の原点まで遡りたいと思う。それで平安と鎌倉文学から三つの引用を中心に見てみたいと思う。その三つはそれぞれ「物のあはれ」が持つ異なる要素を示していると言ってもよかろう。
■美的趣味論の要素
大西 克禮(おおにし よしのり、1888年10月4日 - 1959年2月6日)は、日本の美学者。東京帝国大学名誉教授。東京生まれ。
目次
略歴 編集
東京帝国大学哲学科卒業
1922年 東京帝国大学講師
1927年 東京帝国大学助教授(命により一年間ヨーロッパに留学)
1930年 東京帝国大学教授
1946年 帝国学士院会員
1949年 定年退官
研究活動 編集
シラー、ヘーゲルなどの美学を学び、これを日本美に応用して『幽玄とあはれ』などの著作に結実させ、また京都帝国大学教授・深田康算によるカント『判断力批判』の未完訳を完結させた。比較美学の先駆者である。定年後は博多に隠棲し研究と著述に明け暮れた。
著書 編集
美学原論 不老閣書房, 1917
現代美学の問題 岩波書店, 1927
カント「判断力批判」の研究 岩波書店, 1931
現象学派の美学 岩波書店, 1937
幽玄とあはれ 岩波書店, 1939、のち復刊
風雅論 「さび」の研究 岩波書店, 1940
万葉集の自然感情 岩波書店, 1943
美意識論史 角川書店, 1949
美学 弘文堂(上下), 1959、のち復刊-上巻 基礎論、下巻 美的範疇論
古典的と浪漫的 弘文堂 アテネ文庫, 1960
浪漫主義の美学 弘文堂, 1961
浪漫主義の美学と芸術観 弘文堂, 1968
東洋的芸術精神 弘文堂, 1988
大西克礼美学コレクション 書肆心水, 2013
1 幽玄・あはれ・さび
2 自然感情の美学 万葉集論と類型論
3 東洋的芸術精神
翻訳 編集
社会学より見たる芸術 ギユヨー 内田老鶴圃, 1914 のち「社会学上より見たる芸術」ギュイヨー、小方庸正共訳で岩波文庫
レムブラント 芸術哲学試論 ジムメル 岩波書店, 1927
カント著作集 第4 判断力批判 岩波書店, 1932 のち文庫(現在は一穂社よりオンデマンド版が出ている)
外部リンク 編集
全国名前辞典・大西克礼
『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』公開ゲネプロ
ゲネプロより
原作における彗星の描写、
《「およしなさい、そんなことを言うのは。あなたの生活はこれからなのです」と彼はナターシャに言った。
「あたしの? いいえ! あたしにはすべてが破滅してしまいましたわ」と彼女は自分を卑しんで恥ずかしそうに言った。
「すべてが破滅してしまった?」と彼はくりかえした。「もしぼくがこんなぼくでなく、この世でもっとも美しい、もっとも聡明で、もっともりっぱな人間で、そして自由の身だったら、ぼくはいまこの場にひざまずいて、あなたのお手と愛を請うたことでしょう」
ナターシャは、長い苦しい日々ののちはじめて、感謝と感動の涙で頰をぬらした、そしてじっとピエールを見て、部屋を出ていった。
ピエールもそのあとから、喉元に突き上げてくる感動と幸福の涙をおさえながら、ほとんど走るようにして控室へ出た、そして袖を通さぬままに、シューバの胸をかきよせて、橇に乗った。
…
寒気のきびしい、明るく冴えた夜だった。薄暗いよごれた通りと、黒い屋根の上に、暗い星空があった。ピエールは、空ばかり見上げていたので、自分の心を領している高揚に比べて、あらゆる地上のものの腹だたしい低劣さを感じなかった。アルバート広場へはいると、暗い星空の巨大な広がりがピエールの目のまえにひらけた。この空のほぼ中央、プレチステンスキイ並木道の上空に、まわり一面にまきちらされた無数の星屑にとりまかれ、しかしどれよりも地上に近いことと、強い光と、上へ長くひいた尾とで、すべての星を威圧しながら、一八一二年の明るい巨大な彗星がかかっていた。これはあらゆる恐怖と世の終りを予告すると噂されていたあの彗星だった。しかしきらきら光る尾を長くひいたこの明るい星も、ピエールの胸にすこしの恐怖感も呼びおこさなかった。それどころか、ピエールは涙にうるんだ目で、喜びに胸をふるわせながら、この明るい星を見上げていた。この星はさながら無限の空間を、放物線を描きながら、言葉にあらわせぬほどの速度で飛来し、ふいに地面に突き刺さった矢のように、みずから選んだ黒い空の一点に粘着して停止し、勢いあまって尾をぴんとはね上げ、光を放射しながら、きらめく無数の星のあいだで自分の光をもてあそんでいるかのようだった。ピエールには、この星が、新しい生活に向って花を開き、やわらげられて、勇気をとりもどした彼の心の中にあるものに、完全に応えてくれているように思われたのだった。 (第三巻につづく)》
戦争と平和(二)より
同⑷エピローグ 第二部より
《…われわれは歴史の次の二つの本質的な問題に、率直に、決定的に答えることができるのである。
(一)権力とは何か?
(二)どんな力が諸民族の運動を生み出すのか?
(一)権力とは、ある人間の他の人々に対する一つの関係で、その人間が活動に参加することが少ないほど、ますます多く、おこなわれている共同の活動に対する意見や、予想や、弁明を表明する、という関係である。
(二)諸民族の運動を生み出すのは、権力ではない、知的活動ではない、歴史家たちが考えたように、その両者の結合でもない、それは、事件に参加し、常に事件に最大の直接参加をする者が、最小の責任を負い、当然その逆もなりたつように編成される、すべての人々の活動である。》
前者はフーコー、後者はプルードンを想起させる。
ただし結論の一行はスピノザ的である。ショーペンハウアー経由のスピノザであろう
《…意識される自由を拒否して、われわれに感じられぬ従属を認めなければならないのである。 了》
戦争と平和における彗星がモチーフとなりミュージカル化された
レミゼラブルほど有名ではないが
https://spice.eplus.jp/articles/104330
KING LEAR
Dost thou call me fool, boy?
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リア王
おまえはわしを阿呆呼ばわりするのか。
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Fool
All thy other titles thou hast given away; that thou wast born with. (1:4.165)
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道化
だって他の称号はみんな譲ってしまっただろう。残ったのは生まれつきの阿呆だけ。
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ライムンドゥス・ルルス(ラテン語: Raimundus Lullus、1232年頃– 1315年)
ラモン・リュイ(カタルーニャ語: Ramon Llull; カタルーニャ語: [rəˈmon ˈʎuʎ])またはライムンドゥス・ルルス(ラテン語: Raimundus Lullus、1232年頃[1] – 1315年6月29日[2])は、マヨルカ王国・パルマ・デ・マヨルカ出身の哲学者・神学者・神秘家[4]。フランシスコ会第三会(在俗会)会員。
初期のカタルーニャ語文学において主要な作品を制作しており[5]、「カタルーニャ語の父」(カタルーニャ文学の祖[6][7])と呼ばれる。リュイはまた計算理論の先駆者とされ、特にゴットフリート・ライプニッツに影響を与えている[8][9][10]。
1229年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国のハイメ1世がバレアレス諸島のマヨルカ島に侵攻し、イスラーム教徒のムワッヒド朝を退けてマヨルカ島を征服した[11][12]。ハイメ1世は1231年にマヨルカ王国を建国し、パルマ・デ・マヨルカを主都とした。このキリスト教徒によるマヨルカ島征服後、リュイの両親は植民活動の一環としてイベリア半島本土のカタルーニャ地方からマヨルカ島にやってきた。当時のマヨルカ島はイスラーム教徒のサラセン人が多数を占めており、ユダヤ人も暮らしていた[13]。マヨルカ島はハイメ1世によるキリスト教的生活規範に則りながらも、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する特異な状況下にあった[14]。
マヨルカ王国成立直後の1232年頃[1]、リュイはパルマにある裕福な家庭に生まれた。幼少期にハイメ1世の小姓となり、廷臣として騎士道や詩作などの素養を身につけた[15][14]。ハイメ1世の次男ハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の守役となり、後の1291年にハイメがマヨルカ王となるとセネスチャル(アラゴン王室の行政長、すなわち執事長)として相談相手を務めている[15][14]。25歳頃の1257年にはブランカ・ピカニーと結婚し、一男一女(ドメネク、マグダレーナ)を儲けた[15][14]。こうしてリュイは一家の主となったが、トルバドゥール(吟遊詩人)のように勝手気ままで浪費的な生活を続けた。
30歳頃の1263年には宗教的な啓示を受け[17][18]、この時の様子を後に自伝『Vita coaetanea』に書いている。リュイは計6回の啓示を受け、神に仕える生活を追求するために家族・地位・所有資産を手放す決心を下した。具体的には、リュイは以下の3点を企てた[19][15][18]。
1265年にはイベリア半島北西部のガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの聖地巡礼を行った[18]。その帰路でアラゴン=カタルーニャ連合王国の中心都市であるバルセロナに立ち寄り、フランスのパリに出て学問を修める決意を固めたが、家族やドミニコ会司祭の助言で断念し[19][15][14]、マヨルカ島に戻った[18]。わずかな財産を妻子に残すと、それ以外の全財産を処分[15]。マヨルカ島でラテン語、自由学芸(自由七科)、神学、哲学などを独学し、約9年に渡ってムーア人の奴隷からアラビア語とアラビア文化を学んだ[19][15][18]。
1271年から1274年の間に、イスラーム教徒の思想家であるガザーリーの理論の概要と黙想を通じて真実を見つけるための長大な手引書『神の観想についての書』を書いた[18]。1274年にはリュイがアラビア語を学んだムーア人奴隷が死去し[18]、マヨルカ島のランダ山で啓示を得て[19][15]、『真理に到達するための術の提要』の草稿を書いた[18]。その後にはランダ山の修道院[17]に入り、神からイスラーム教徒のサラセン人に対する福音宣教の召しが与えられたという確信を得た[17]。
1275年にはフランシスコ会の神学専門家がリュイの著書の内容を精査[20]。1276年にはハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の財政的援助の下、ローマ教皇ヨハネス21世の承認を得て、マヨルカ島のバルデモーサのミラマールにアラビア語学院を設立した[21][22][20]。こうして13年前に志した三点のひとつが実現し、13人のフランシスコ会士がアラビア語や「術」を学び始めた[20]。リュイが1287年にマヨルカ島を出た後には適役の後任が見つからず、このアラビア語学院は開校から12年後に閉鎖されている[22][20]。
1276年から1287年にはマヨルカ島のミラマールと南フランスのモンペリエで過ごし[22]、1283年にはモンペリエで小説『エヴァストとアローマとブランケルナについての書』を著した[20]。リュイは常に宣教の志を胸に秘めており[20]、1287年以降には地中海地域の全域をめぐって宣教活動を行っている[22]。1287年にはローマ教皇庁を訪問したほかに、初めてフランスのパリを訪れ、フランス王フィリップ4世(美麗王)に謁見して「術」の啓蒙活動の重要性を提言した[20]。1290年にはフランシスコ会総長のライムンド・ガウフレディからイタリアの諸修道院で「術」を教えるよう依頼され、1292年にはローマ教皇ニコラウス4世から公式に顕彰された[20]。
この頃にはすでに60歳を越えていたが、リュイは北アフリカで最初の宣教活動を行った[20]。1293年には北イタリアのジェノヴァで健康を害したが、1294年に南イタリアのナポリで静養した後に故郷のマヨルカ島に戻った[20]。1295年にはローマに滞在して『学問の樹』の執筆に取りくみ、1297年から1299年にはパリに滞在して『愛の哲学の樹』をフィリップ4世に献呈した[23]。1297年にはパリ大学でドゥンス・スコトゥスと議論を交わしている[23]。リュイはヨーロッパのユダヤ人をカトリックに改宗させることにも熱心であり、ユダヤ人やユダヤ教のカトリックに対する影響を緩和させようとしていた。バルセロナのShlomo ben Aderet、サレルノのMoshe ben Shlomoなどのラビがリュイの論争相手となった[24]。
1300年からは約1年間マヨルカ島に戻ったが、1302年には地中海東部のキプロス、アルメニア、エルサレムを訪れた[23]。1303年から1305年にはジェノヴァに滞在し、さらには3度目のパリ訪問を行った[23]。1307年には北アフリカに2度目の宣教旅行を行い、1308年にはピサで『結合術』を著した[23]。1309年には再びパリを訪れ、『アヴェロエス主義駁論』など30編以上の作品を残した[23]。当時のパリではイスラーム世界の哲学者であるイブン・ルシュド(アヴェロエス)の思想からなるラテン・アヴェロエス主義が興隆しており、リュイは作品を執筆するほかにラテン・アヴェロエス主義者と論争を行っている[22]。1311年のヴィエンヌ公会議ではリュイの提唱によって、アラビア語・ヘブライ語・カルデア語の3言語を、パリ大学、ローマ大学、ボローニャ大学、サラマンカ大学、オックスフォード大学の5大学で教えることが認められたが[21][23]、「術」の使用は却下された[22]。
1313年から1314年には南イタリアのメッシーナに滞在し[25]、1314年から1315年にはイスラーム教徒の土地に3度目の伝道に赴いた[17]。アラゴン王ハイメ2世の親書をこの地のスルタンに届け、さらには自身の著作も献上している[25]。1315年12月から1316年3月のあいだ[25]、チュニスでの宣教の際にイスラーム教徒に石を投げられた[26]。この時のけがが元で、マヨルカ島に帰郷後すぐに死去した[21][26]。なお、マヨルカ島帰郷前に死去したとする説もある[25]。生年・没年ともに複数の説があるが、いずれにしてもリュイの生涯は84年から90年であり、当時としてはかなりの長寿であった[27]。
1200年代末から1300年代初頭にかけて、文字列を生成する機械仕掛け(日本では、「ルルスの円盤」等と呼ばれる)によって世界の真理を得る術(ルルスの術、アルス・マグナ)を考案する。ガリヴァー旅行記のラピュータで出てくるザ・エンジンはこれに着想を得たものとする説がある。これについて『ブルバキ数学史』は、ライプニッツの数学における、記号の機械的な操作のみによることで、正しい推論のみを得る、という発想について、ラモン・リュイにまで遡ることができる、としている。
哲学者[6][7]、神学者[6][7]、神秘家(神秘思想家)[6][7]、宣教者(宣教師)[6][7]、百科全書家[6][7]、教育者[6][7]、作家(著述家)[6][7]、詩人[6]、騎士[6][7]、宮廷詩人[7]、医者[7]、薬学者[7]、数学者[7]、語学研究者[7]、など、リュイには様々な肩書が与えられている。夢想家[6][7]、ユートピアン(理想主義者)[6][7]、狂気の人(狂気に満ちた人)[6][7]、見神博士[6][7]、カタルーニャ文学の祖[6][7]、魔術師[7]などという二つ名がつけられている。
リュイはその著書の中で、聖書、クルアーン、タルムード、プラトン、アリストテレス、ディオニュシオス・ホ・アレオパギテス、アエギディウス・ロマヌス、サン=ヴィクトルのリカルドゥス、カンタベリーのアンセルムスなどを引用している[28]。ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』、アウグスティヌスの『三位一体論』、トマス・アクィナスの『対異教徒大全』などの教会博士も引用している[28]。イブン・スィーナー(アヴィセンナ)、マテウス・プラテアリウス、コンスタンティヌス・アフリカヌスなどの意見を批判している[28]。
リュイはドミニコ会の神学者であるアクィナス(1225年頃-1274年)より約10歳若い[29]。活動内容や影響力の点でリュイはアクィナスと遜色ないとされる[29]。リュイもアクィナスも聖書や教父の写本に精通し、イスラーム思潮やアリストテレス哲学などに影響を受けながらもそれらと思想を異にしていた点で共通している[29]。リュイは中世キリスト教思想と近代思想の橋渡し役となったとされる[30]。さらには、キリスト教思想とイスラーム教やユダヤ教などの異教思想の対話において先駆的な役割を果たしたとされる[30]。
死後の1376年、カトリックの尋問官であるニコラウス・エイメリクスはリュイによる100の理論や思想を考え違いであるとして非難した。同じく1376年には、ローマ教皇グレゴリウス11世が公式にリュイの20の著作を非難し[31]、やがてローマ教皇パウロ4世がグレゴリウス11世による非難を追認した[32]。一方で、1416年にはローマ教皇マルティヌス5世がグレゴリウス11世による非難を撤回した[31]。このように死後にローマ教皇による非難は受けたものの、生前のリュイはカトリック教会と良好な関係を保った。フランシスコ会においてリュイは殉教者とされており、1857年にはローマ教皇ピウス9世によって列福された[33]。リュイの祝祭日は6月30日であり、フランシスコ会第三会によって祝われている[33]。
14世紀前半にはパリやバレンシアなどでリュイの信奉者が学派を形成した[34][35]。特にリュイが4度滞在したパリでは、講義を聴講したパリ大学の学生が中心となってリュイの思想の伝承に務め、聴講生のトマ・ル・ミエジェは『リュイ選集』や『小約格言集』を刊行した[35]。15世紀にはヨーロッパ全土にリュイの思想が伝わり[35]、カタルーニャ地方、マヨルカ島、イタリア、フランス、ドイツなどにリュイ信奉者の学派が広がっていった[34]。16世紀後半にはスペイン国王のフェリペ2世がリュイの著作物を収集して各地の図書館で保管することに努めた[36]。フェリペ2世は神学者や修道者などにスペイン国内で活動することを求め、16世紀のスペインでは神秘霊性が活性化された[36]。イエズス会の創立者であるイグナチオ・デ・ロヨラ(1491年-1556年)、神秘家で修道院改革者のアビラのテレサ(1515年-1582年)、同じく神秘家で修道院改革者の十字架のヨハネ(1542年-1591年)などが活躍したが、いずれの人物にもリュイの思想に影響されている[36]。
17世紀後半には哲学者や数学者であったゴットフリート・ライプニッツがリュイの「術」やリュイ主義者の「記憶術」を洗練させた[37]。ライプニッツのおかげでリュイに対する関心が再度高まったとされる[30]。19世紀から20世紀になると、リュイの思想は「神秘的な魔術」としての地位に落ち込み、オカルティズム、神智学、秘密結社などが用いる道具となった[38]。しかし、現代になると再びリュイに対する関心が強まり、数理論理学、象徴記号学、図像学などの分野でリュイの再評価が始まった[38]。1957年にはリュイの思想を専門とする雑誌「ルルス研究」が刊行され、1960年、1976年、1984年にはリュイの思想を主題とする国際学会が開催された[30]。リュイの出生地であるマヨルカ島にはマヨルカ・リュイ学院が、ドイツのフライブルクにはラモン・リュイ研究所が設立され、それぞれリュイの思想を探求している[30]。
特にバルセロナ大学やバレンシア大学などでリュイの思想の普及が行われている。リュイはもっとも大きな影響力を持つカタルーニャの著作家とされている。英語が「シェイクスピアの言語」、フランス語が「モリエールの言語」、スペイン語が「セルバンテスの言語」、ドイツ語が「ゲーテの言語」と呼ばれることがあるように、カタルーニャ語はしばしば「リュイの言語」と呼ばれる。スペインの科学研究高等評議会はロゴマークにリュイの『学問の樹』を採用している。カタルーニャ語やカタルーニャ文化を世界に発信する公的機関として、2002年にはインスティトゥット・ラモン・リュイが設立された。スペイン語におけるインスティテュート・セルバンテス(セルバンテス文化センター)、フランス語におけるアリアンス・フランセーズ、英語におけるブリティッシュ・カウンシル、イタリア語におけるダンテ・アリギエーリ協会、ドイツ語におけるゲーテ・インスティトゥートなどと同様の役割を持っている。
リュイはラテン語、カタルーニャ語、アラビア語などで著作を残した[26][25]。真正な著作265、擬書(仮託文書)400がリュイの作品として伝わっている[25]。当時はラテン語で著作を執筆することが慣例であったが[25]、リュイは大多数をカタルーニャ語で執筆した[21]。ラテン語以外の言語を用いた中世初のキリスト教的哲学者であるとされ[19]、ダンテ・アリギエーリ(1265年-1321年、イタリア語)やマイスター・エックハルト(1260年頃-1328年頃、ドイツ語)に先んじ[21]、自言語を使用する著述家の先駆けとなった[25]。宣教相手であるイスラーム教徒の言語(アラビア語)でも執筆したことも特筆される[25]。
1276年から1278年にマヨルカ島で著した『愛する者と愛された者についての書』は、「リュイの神秘主義のみならず全哲学が要約されている」と評価され、数多くの言語に翻訳されている[41]。文学的著作の中でもよく知られた『エヴァストとアローマとブランケルナについての書』(『ブランケルナ』)は教育論的説話である[41]。アラビア語の著作は散逸しており、一作も現存しない[21][13]。
著名なリュイ研究者(ルリスタ)であるトマス・カレーラス・イ・アルタウは、リュイの著作を10の分野に分類している[26]。詳しくはカタルーニャ語版にあるリュイの著作一覧を参照。
ラモン・リュイ大学(カタルーニャ語: Universitat Ramon Llull: URL)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県バルセロナに拠点を置く私立大学(カトリック大学)。1990年創設。7つの異なるカレッジの集合体であり、その多くはバルセロナのダウンタウンに位置する。
大学の名称は13世紀に活躍した哲学者・著述家のラモン・リュイに因んでいる。1989年10月に4つの教育機関が集まって、1990年3月1日にラモン・リュイ大学が設立され、1991年5月10日にカタルーニャ州議会によって承認された。その後複数の教育機関が加わっている。