火曜日, 7月 30, 2019

キャス・サンスティーン(Cass R. Sunstein、1954~)


キャス・サンスティーン(Cass R. Sunstein、1954~)



キャスサンスティーン - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/キャスサンスティーン

キャスサンスティーン(Cass R. Sunstein、1954年9月21日 - )は、アメリカの法学者、 ハーバード大学ロースクール教授。

生い立ちと学歴-経歴-主張-著書

キャス・サンスティーン: 本 - Amazon.co.jp

www.amazon.co.jp/...キャスサンスティーン/s?...

賢い組織は「みんな」で決める:リーダーのための行動科学入門. 2016/9/8. キャスサン スティーン、 リード・ヘイスティ ...

書籍の窓 2018/3~2019/1連載
行動経済学を読む① ~⑥ …依田 高典

リチャード・セイラー

エステル・デュフロ
ジョン・リスト

シェアリング・エコノミー

ダン・アリエリー

マシュマロテスト
サンスティーン

書斎の窓 2019年1月号 行動経済学を読む⑥(最終回)リバタリアン・パターナリズムが世界を変える 依田高典

第6回(最終回) リバタリアン・パターナリズムが世界を変える

1 リバタリアン・パターナリズムを知る

 意思決定には2種類ある。下から積み上げるボトムアップ型か、上から決めるトップダウン型か。同じように、政策主張にも2種類ある。個人の選択の自由を重視するリバタリアン(自由主義)と、為政者が個人の選択の自由を制限してもよいとするパターナリズム(温情主義)である。

 選択の自由を重視する近代経済学者の多くは、過剰な干渉にもつながりかねないパターナリズムには疑問を呈する。近年、限定合理性という観点から、基本的には選択の自由を尊重しながら、場合によっては選択のデフォルト(初期値)に介入することが許容されるという新しい立場、「リバタリアン・パターナリズム」が、キャス・サンステイン/ハーバード大学ロースクール教授たちによって提唱されている(その有力な同盟者が、2017年ノーベル経済学賞受賞者リチャード・セイラー/シカゴ大学ビジネススクール教授である)。

 その考え方は、選択をする人が、自分にとってより良い結果となる選択を、選択者自身の判断に基づいて行うように、選択に影響を与えることとしてまとめられる。行動経済学では、人々の合理性は限定的であり、どの選択肢を選ぶかは、選択肢の与えられ方によって左右される。これを「フレーミング効果」と呼ぶ。例えば、確率50%で賞金がもらえると説明されるか、同じ確率で賞金がもらえないと説明されるかによって、内容は同じであるにもかかわらず、人々の選択の仕方が変わってくるのだ。選択が選択肢の与えられ方に依存する以上、為政者は、人々の選択の自由を認めつつも、彼らが後悔しない選択肢を選ぶように選択肢の与え方を工夫すべきである。これがサンスティーンたちのいう「ナッジ」である。節を改めて紹介しよう。

2 ナッジを利用する

 ナッジとして、よく用いられる例を紹介しよう。オランダのアムステルダムの国際空港では、男子トイレの小便器の排水溝付近に、ハエの絵が描かれている。そうすると、男性たちはハエの絵を狙って、用を足すので、飛び散りが80%減ったという。このハエの絵は、人間の注意を引きつけて、良い方向に行動を変容させるナッジだと言えよう。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。

リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(著)、遠藤真美(訳)『実践 行動経済学――健康、富、幸福への聡明な選択』日経BP社、2009年

(日経BP社のサイトに移動します)

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 『デフォルト・オプションをうまく設定すると大きな効果が生まれるが、これはナッジが緩やかな力をもっていることを示す事例の一つにすぎない。われわれの定義に従えば、「ナッジ」とは、エコノには無視されるものの、ヒューマンの行動は大きく変えるあらゆる要素を意味する。エコノは主にインセンティブに反応する。政府がキャンディーに課税すると、エコノはキャンディーを買う量を減らすが、選択肢を並べる順番のような「関係のない」要因には影響されない。ヒューマンもインセンティブに反応するが、ナッジにも影響される。インセンティブとナッジを適切に配置することによって、人々の生活を向上させる能力が高まり、社会の重大な問題の多くを解決できるようになる。しかも、すべての人の選択の自由を強く主張しながらそうできる。』(『実践行動経済学』21―22頁)

 ナッジを実際の行動変容に活用しようとする国もある。2008年7月、イギリスの野党第一党である保守党のデーヴィッド・キャメロンとその協力者は、行動経済学を経済政策に活用することに興味を持って、セイラーに協力を求めた。2010年5月の総選挙で保守党が勝つと、キャメロンは首相となり、イギリスの内閣府の下に、「行動洞察チーム」(通称ナッジ・ユニット)を組織した。

 例えば、税金滞納者に税金を支払うように催促するために、「イギリスの納税者のほとんど(90%以上)が税金を期限内に支払っている」「あなたはまだ納税していない少数派の一人です」というメッセージを手紙で添えるというフィールド実験を行ったところ、税金の納付率が5%以上も高まったという。ナッジを使えば、やり方次第では、大したコストをかけずに、大きな効果が期待できるのだ。

 時を同じくして、サンスティーンは、アメリカの首都ワシントンDCで、ホワイトハウス社会・行動科学チームという小さなユニットを立ち上げ、ナッジを使った社会問題解決に取り組んだ。2014年現在、136ヵ国が公共政策に何らかの形で、行動科学的知見を活用しているという。

3 予防原則で備える

 想定外という言葉がよく使われるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災の以降だ。未曽有の巨大地震とその後の原発事故も、想定外の巨大リスクだった。このような時、巨大リスクの発生前と発生後を比較してみると、人間は往々にして、想定外のリスクの完全な無視から過剰な反応へ、正反対な態度に一転しがちである。

 サンスティーンは、どちらの極端な態度にも陥らず、費用対効果を考慮しながら、予防的なリスク削減措置を講じるべきだと主張した。人類は、今、テロや巨大災害など確率が見積りにくい想定外の巨大リスク(サンスティーンは「キャットリスク」と呼ぶ)の脅威にさらされている。そうした脅威を想定外に置いて安心するのではなく、予防措置の経済性を慎重に考慮しながら、リスクを低く抑える対策を取ることが重要である。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。

キャス・サンスティーン(著)、田澤恭子(訳)『最悪のシナリオ――巨大リスクにどこまで備えるのか』みすず書房、2012年

(みすず書房のサイトに移動します)

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 『本書では、この種の問題の解決を進めることを目指す。そのために具体的な目標を三つ定めている。一つめは、最悪のシナリオに対して人がどう反応するか、特に過剰反応と完全な無視という二つの対照的な問題にどれほど陥りやすいかを理解することだ。これから見ていくように、この二つの問題は個人にも政府にも同じように影響する。二つめの目標は、低確率の災害リスクを伴う状況について、個人と当局者はどうしたらより賢明に考えられるかを検討することである。あらゆる場所に存在するリスクの確率と規模を重視する、広い視野を求めることから始めるとよいだろう。三つめの目標は、費用便益分析の用い方と限界について、特にすぐには起こらないと思われる損害を扱う場所について検討することである。金銭ではなく幸福という真に大事なものを評価する場合、費用便益分析はせいぜい代替的尺度にしかならない。しかし、代替的尺度が役に立つこともある。』(『最悪のシナリオ――巨大リスクにどこまで備えるのか』11頁)

 サンスティーンは、重大で取り返しの付かないキャットリスクに対して、何とか、予防原則と費用便益分析の緩やかな両立を図ろうとしている。同書には、齊藤誠 一橋大学教授の丁寧な解説が付いている。科学的根拠を無視し、費用対効果を度外視する極端な予防原則は暴走し社会を混乱させてしまう。そこで、著者は危機における人間の弱さを徹底的に見つめ直しながら、その弱さを克服できる仕組みを作らなければならないと、斎藤氏は述べている。専門家、行政、市民を含めた多様な人間が、忍耐と寛容をもって多様な意見を交換する「熟議による合意形成」が危機の領域の到達点となるのである。

4 理解を深めるための読書案内

 それにしても、サンスティーンの生産力には呆れるばかりだ。上で取り上げた2冊の発表後、毎年のように、ナッジと予防原則の思索を深めた著作を発表している。以下、代表作を3冊選んで論評しよう。

キャス・サンスティーン(著)、⻆松生史(訳)、内野美穂、神戸大学ELSプログラム(訳)『恐怖の法則――予防原則を超えて』勁草書房、2015年

(勁草書房のサイトに移動します)

 本書で、サンスティーンは予防原則をさらに深く考察した。人間は、恐怖の対象であるキャットリスクを前にして、なぜ完全な無視と過剰な反応にぶれてしまうのだろうか。サンスティーンは、人間が思い出せる事象を同じ頻度で起きるが思い出せない事象よりも、ずっと高く確率で評価するという想起可能性バイアスを持っているからだという。より良いデフォルト・ルールを設定できれば、リバタリアン・パターナリズムがそうしたバイアスを克服できるとサンスティーンはいう。

キャス・サンスティーン、リード・ヘイスティ(著)、田総恵子(訳)『賢い組織は「みんな」で決める――リーダーのための行動科学入門』NTT出版、2016年

(NTT出版のサイトに移動します)

 本書で、サンスティーンはデフォルト・ルールをさらに深く考察した。インターネットの発展で、個人情報を大規模に集めるプラットフォーム企業が登場している。そうした企業は、一人ひとりに対して、個別化したデフォルト・ルールを設定することが可能だ。そうした時代に、個別化したデフォルト・ルールが新たな問題を生みかねない。個別化したデフォルト・ルールは、我々の選択のための学習を妨げてしまう。また、個別化したデフォルト・ルールが、個人のプライバシーを侵害する重大な懸念がある。しかしながら、個別化したデフォルト・ルールは、好むと好まざるとにかかわらず、ますます利用されるだろうと、サンスティーンは予想する。

キャス・サンスティーン(著)、伊達尚美(訳)『選択しないという選択――ビッグデータで変わる「自由」のかたち』勁草書房、2017年

(勁草書房のサイトに移動します)

 本書で、サンスティーンは、集団が個人の間違いを正すどころか、その間違いを増幅すると表明する。集団には、往々にして、最初に行動する人間に従うという「カスケード効果」が存在するからである。その結果、楽観的な集団は益々楽観的に、悲観的な集団は益々悲観的になったりする。対策として、集団の少数が持っている答えを、他のメンバーも納得し受け入れることが必要だ。熟議を通じて集団内で情報を共有できれば、集団が革新的な問題解決法を発見できるとサンスティーンはいう。

 さて、6回にわたって、行動経済学にかかわる著作を紹介してきた。これで、連載は終わりであるが、行動経済学のブームはまだ当分終わりそうにない。次から次へと新しい行動経済学の著作が発売されている。これからの行動経済学の発展を祈りたい。


MMT(現代貨幣理論)が、日本経済を「大復活」させるかもしれない 現代ビジ ネ ス 2019/7/31 小川 匡則



MMT(現代貨幣理論)が、日本経済を「大復活」させるかもしれない

現代ビジネス
2019/7/31 小川 匡則

 アメリカの次期大統領選で民主党の最有力候補と目されているバーニー・サンダース上院議員は、進歩的な経済政策で若者を中心に支持を拡大したことは記憶に新しい。そんなサンダースの経済政策の支柱となっているのがMMT(現代貨幣理論)。いまこの新しい経済政策が世界的な大注目を集めている。


 そんなMMT論者で、サンダースの経済政策顧問を務める経済学者のステファニー・ケルトン氏がこのほど来日。経済に対する価値観を180度転換させるこの理論は、「日本経済を救う可能性に満ちている」と語るのだ。

 MMT(現代貨幣理論)が問いかけるのは「単純な経済政策論」ではない。MMTは経済に対する見方や価値観の大胆な転換を求める経済理論だ。

 --たとえば、税金とは何のためにあるのか。

 従来からの常識は「税金=予算の財源」である。しかし、MMTは税金を財源確保のためとは捉えない。そのことを理解するには経済の仕組みを改めて理解し直す必要があるという。

 ケルトンは講演の冒頭、ある物語を語り始めた。経済学者のウォーレン・モスラーから聞いた話で、彼女はそれ以来お金に関して従来とは「異なる概念」を持つようになったという。

 「ウォーレンには2人の子供がいました。そして彼らに対して『家事を手伝いなさい。手伝ったら、報酬として私の名刺をあげよう』と言いました。例えば皿洗いをしたら3枚、芝刈りをしたら20枚、といった具合に内容に応じて名刺を渡します。

 しかし、数週間経っても子供たちは手伝いを全くやらなかった。ウォーレンが『どうしたんだ? お金を払うと言っているんだぞ』と言うと、『パパの名刺なんかいらないよ』と返されてしまった。そこでウォーレンはあることを思い立ちました。そして、『この美しい庭園のある家に住み続けたいのであれば、月末に名刺30枚を自分に提出せよ』と義務化したんです」

すると、子供たちはそこから急激に手伝いをするようになった。

 いったい、なぜか。



MMT(現代貨幣理論)が、日本経済を「大復活」させるかもしれない

7/31(水) 7:01配信

現代ビジネス

「政府のための税収」ではない

 ケルトンが続ける。

 「なぜなら名刺を集めないと自分たちが生きていけないことを認識したからです。そこでウォーレンは気づきました。『近代的な貨幣制度ってこういうことなんだ』と。つまり、もし彼が子供に国家における税金と同じものを強要できるのであれば、この何の価値もない名刺に価値をもたらすことができる。そして、彼らはその名刺を稼ごうと努力するようになるのです。

 もちろん、ウォーレンは名刺を好きなだけ印刷することができる。しかし、子供達が来月も手伝うために名刺を回収すること(=提出を義務づけること)が必要だったんです」

 これこそが「信用貨幣論」。つまり、お金は限られた量が回っているのではなく、信用によって増やせる。そして、その貨幣の信用を担保するものこそが「税金」というわけだ。

 この物語から得られる教訓としてケルトンは、「ウォーレンは名刺を回収する(課税する)前に、まずは名刺(お金)を使わなくてはならない。つまり、課税の前に支出が先に来なくてはならないのです」と語るのだ。

 そのことを政府に置き換えるとどういうことになるのか。ケルトンは続ける。

 「政府は税収の為に税を課し、それで財政支出をするのではないということです。まずは政府が支出することが先です。その支出される円を発行できるのは政府です。政府は好きなだけお金を発行でき、財政的に縛られることはありません」

 つまり、国民から集めた税金が執行する予算の「財源」になるわけでは「ない」のである。政府は国債を発行することで、事実上の貨幣を発行し、それが財源となる。それでも国民が税金を支払うのは「納税の義務があるから」であり、後述するように「インフレの調整機能を果たすため」である。

 もちろん無条件に国債を発行しまくっていいというわけではない。制約となるのは「インフレ」である。

インフレもデフレも防ぐ

 ケルトンはこう説明する。

 「政府にとって財政が制約になるわけではない。何が制約になるかというと『インフレ』です。インフレは最も注目すべきリスクです。貨幣量は使えるリソースによって供給量が決まります。もし支出が需要を上回ればインフレになる。それはまさに気にするべき正当な制約なのです」

 「インフレをどうやって防ぐか」、というのは同時に「デフレをどう防ぐか」を考えることでもある。つまり、経済とは「インフレもデフレも過度にならないちょうどいい状態を維持させるための調整を行うことである」というのがMMTの柱である。

 ここでケルトンは一つの図を示した。

 「経済」は洗面台のシンクに例えることができる。シンクに溜まっている水が「お金」である。これは水が多くてシンクから溢れている状態だ。

 ケルトンは言う。

 「水が溢れているのは、インフレの状態です。税金はその水を減らすためのものなのです。税金の目的は所得を誰かから奪うことです。なぜ、支出能力を減らすのか。それはインフレを規制したいからです。つまり、徴税というのは政府支出の財源を見つけるためではなく、経済から支出能力を取り除くためのものです」

 つまり、税金とはインフレを抑制するための調整機能として大きな役割があるのであって、予算の財源ではないのだ。

 ケルトンによれば、インフレを抑制する手段は他にもある。その一例として「規制緩和」を挙げた。

 「例えば石油ショックで石油価格が高騰した際、規制を緩和し、天然ガスを使うようになった。その結果、石油価格も下がった」

 政府は適切なインフレ率を維持するために、インフレが過度になりそうであれば「増税」、「規制緩和」などの政策を駆使するべきだということ
だ。


日本政府は「目標設定」からして間違っている

 次にこの図を見て頂きたい。

 これはさきほどと打って変わって、シンクの水が少ない状態だ。

 つまり景気が悪い状態であり、まさに今の日本である。ではどうすれば水を貯められるのか。当然ながら、政府が国債を発行して支出をする(水をたくさん出す)ことと、減税する(出ていく水を減らす)ことである。

 しかし、いま政府がやろうとしているのが、「消費増税」である。

 これについてケルトンは「現在インフレの問題を抱えていない日本のような国が消費増税するということは経済的な意味をなしていない。予算の財源を得ようとしているからです。適切な政策目的にはなり得ない」と断じている。

 では、政府がやるべきことは何なのか。ケルトンはこう主張する。

 「経済のバランスをとることです。予算を均衡することではなく、支出と税金を調整することによって、『シンクの水が完全雇用になっても溢れ出ない』、『インフレをきたさない』という状況にコントロールすることです」

 現在、日本政府は「PB黒字化」、「財政均衡」、「財政再建」などといった目標を掲げて経済政策を立案している。しかし、ケルトンはそうした目標設定自体が間違っていると指摘する。

 「MMTは特定の予算支出を目標とすることはないし、政府赤字を何%にするといった目標設定もしない。適切な政策目標は『健全な経済を維持する』ということです。あくまで経済のバランスをとることが重要です。つまり、予算の均衡ではなく、経済の均衡です」

財政赤字とは「単なる手段」

 MMTの話題になると、必ず「ハイパーインフレになるリスクがある」といったステレオタイプな批判が出るが、むしろそのインフレ率の調整にこそ注力するのがMMTなのである。

 だからこそいま日本人が考えるべきは、経済状況や社会状況を踏まえた上で「インフレの要因」を分析することだろう。

 例えば、国債を財源として教育無償化を実現するとしよう。それで果たしてインフレ要因になるだろうか。タダで教育を受けられ、教員をはじめとしてそこで働く人たちに仕事を与えることができる。それでいて何かの価格高騰を招くのだろうか。

 一方、公共工事を一気に極端に増やした場合には人手不足、資材不足などで工事費が大幅に上がり、一時的にインフレ圧力を招くかもしれない。では、どの程度の投資であれば適切なインフレ率に収まるのか。大切なことはそうした分析をして、適切な政府支出額を決めていくことである。

 「財政再建」の旗印のもとで、いつも目の敵にされる「財政赤字」だが、そもそもこれを悪いものと決めつけていいのだろうか。

 ケルトンは次のグラフを示して問いかける。

 「それは政府側からの見方でしかありません。我々民間の側からバランスシートを見ましょう。すると、政府の赤字と同じだけが民間の黒字となります」

 このグラフから明らかなように、重要なことは、「政府の赤字は非政府にとっての黒字である」という事実なのである。

 ケルトンは財政赤字を経済状態の指標とすることに異議を唱える。

 「政府の赤字は悪でも脅威でもなく、財務のミスマネジメントの証拠となるものでもない。そういう見方ではなく、政府の赤字は単なる手段なのです」

 赤字国債が膨らみ続けて政府が破綻することはない。自国通貨建てであるからだ。

 それゆえにMMTはユーロ加盟国でユーロを使っている国々には通用しない。国債発行額の制約となるのはあくまで「インフレ率」なのである。


消費増税などしている場合ではない

 ここまで見てきたようにMMTの論理は非常に興味深い。

 しかし、そんなMMTへの反論といえば「いかがわしい」「そんなうまい話があるわけない」といった非論理的なものばかりだ。唯一具体的な反論が「インフレ基調になった時、それを止められない」というものだが、それならば過度なインフレには絶対にならないという範囲で計画的に導入してみてはどうだろうか。

 そもそも20年以上のデフレに苦しむ日本である。

 例えば消費税を廃止して、足りない税収20兆円を全て国債で賄うとする。それで果たしてどの程度のインフレとなるのか分析してみて、インフレ率が過度にならない試算であれば実行してみるというのでもダメなのだろうか。それだけでも日本経済を大きく好転させられるのではないか。

 MMTの重要な示唆は、景気を好転させるための第一歩として「赤字国債をあえて増やして国民生活を向上させる政策」を実行すべきだということだ。

 MMTは言説のブームではない。出口の見えない不況。希望の見えない日本経済に大きなヒントを与えてくれていると捉え、最重要テーマとして国会で議論を始めるべきではないだろうか。

小川 匡則

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MMTを批判するエリートたちのどうしようもない愚民観 中野剛志 2019/7/29

MMTを批判するエリートたちのどうしようもない愚民観

中野剛志
2019/7/29

  MMT(現代貨幣理論)を巡る論争は、提唱者の一人ステファニー・ケルトン教授が7月16日に来日したこともあり、ますます盛んになっています。
(参考:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190725/k10012008501000.html)

この記事の写真はこちら

 MMTの主張を一言で言うと、「自国通貨を発行できる政府はデフォルト(財政破綻)しないので、高インフレでない限り、財政赤字を拡大してよい」というものです。

 なお、ここではMMTの詳しい説明は省きますが、ご関心の方は、下載の記事をご覧ください。
https://facta.co.jp/article/201908017.html

 

 もっとも、論争が盛んと言っても、政策当局はもちろん、経済学者、アナリスト、ジャーナリストの間では、MMT批判の方が、圧倒的に多い。
 つまり、政策に大きな影響を与えられる立場の人たち(いわゆる「エリート」)は、ほぼ全員、MMT批判者というわけです。

 普通であれば、これでは、MMTが陽の目を見ることは、まずないですね。

 ところが、どうも、いわゆる「エリート」ではない一般の人々の間では、SNSなどを通じて、MMTに対する理解や支持が広がりつつあるように感じます。

 これは、アメリカでも起きた現象らしいです。 

 実に面白いですね。

 いや、エリートたちには、ちっとも面白くない。

 そこで、彼らは、MMTに「ポピュリズム」というレッテルを貼りました。
 MMTなんかを支持する連中は、「財政赤字は心配ない」などといううまい話に乗せられた無知蒙昧な「愚民」だとでも言いたいのでしょう。

 では、なぜMMTはダメなのかと言うと、エリートたちによれば、「いったん、財政赤字の拡大を許したら、インフレが止まらなくなる」からなのだそうです。

 というのも、「国民は、歳出削減や増税を嫌がるので、インフレでも、財政支出の拡大を止められない」からなのだそうです。
(参考:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10463)

 でも、高インフレで自分の生活が大変なのに、なお財政支出の拡大を要求し続ける国民がいるとしたら、これ、相当の「愚民」ですよ。

 ということは、MMTを批判するエリートたちは、「日本の国民は、愚民である」という大前提を置いているということになります。

 乱暴に言えば、「なにぃ、インフレがひどくなる前に、財政赤字を削減するだとぉ? そんなこと、お前ら愚民どもに、できるわけないだろーが!」というわけですね。

 もちろん、日本国民は、そんな「愚民」ではありません。
 その証拠に、戦後日本において、財政赤字の拡大を放置したがために、インフレが止まらなくなったことなどないのです。
(参考:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10462)

 それに、そもそも、インフレが止まらなくなるなどということは、めったに起るものではありません。

 

 説明しましょう。

 インフレとは、需要(消費と投資)が過剰になり、供給が不足することで発生します。

 他方、インフレ(物価が継続的に上がること)とは、裏を返せば、おカネの価値が継続的に下がるということです。

 おカネの価値が下がっていくなら、個人や企業は、おカネを持っておくよりも使った方がよいと考えるので、貯蓄よりも消費や投資に積極的になります。


MMTを批判するエリートたちのどうしようもない愚民観

  さて、インフレでは、消費や投資が拡大して、需要過剰・供給不足になるので、ますますインフレが進んで止まらなくなるように思われるかもしれません。

 しかし、そう簡単には、そうはならないのです。

 それは、なぜか。

 インフレで拡大するのは、消費だけではありません。「投資」も、です。
 設備「投資」であれば、数年後、生産設備が完成して稼働すれば、供給力が高まります。
 技術開発「投資」であれば、将来、技術革新が起きれば、供給力が高まります。
 教育「投資」もまた、将来、優れた知識や技能をもつ人材を増やすので、やっぱり供給力が高まります。
 要するに、インフレで拡大した「投資」は、今は「需要」を増やしますが、近い将来には「供給」を増やすのです。

 したがって、インフレによって、一時的に需要過剰・供給不足になっても、少し経つと投資の成果が出て、供給力が高まるので、供給不足は解消へと向かい、インフレ圧力が弱まります。

 でも、インフレが続く間は、投資は拡大し、また需要過剰・供給不足になる。

 しかし、いずれ投資の成果が出れば、供給不足は解消される。
 これが繰り返されます。

 すると、インフレはマイルドな水準で維持されつつ、供給力が高まっていくことになります。

 これこそが、経済成長の基本的なメカニズムなのです。

 

 ちなみに、これと逆のメカニズムが働いているのが、二十年もデフレが続く日本です。つまり、デフレのせいで投資が抑制されているので、供給力は高まらず、経済成長もしないのです。

 積極財政に否定的なエリートたちは、しばしば、「財政出動はカンフル注射で、短期的にしか効かない。必要なのは、潜在成長力を高める成長戦略だ」などと、もっともらしいことを言います。

 しかし、財政赤字を拡大してインフレになると、民間の設備投資や技術開発投資も増えるので、それで「供給力」=「潜在成長力」が高まり、持続的な経済成長が実現するのです。

 デフレ下では、財政出動なしの成長戦略など、あり得ないのです。

 そんなあり得ない成長戦略を、虚しく二十年も捜し続けたのが、平成の日本でした。

 

 ところで、高インフレの例として、よく挙げられるのが戦争です。

 戦争は、どうして高インフレを起こすのでしょうか。

 まず、戦争になると、軍艦や大砲の需要が、拡大します。

 しかし、軍艦や大砲は、生産設備ではないので、供給力は高まりません。

 平時の投資は、需要を拡大した後に供給力を高めます。これに対し、戦時の投資は、需要を拡大するだけで供給力を高めないのです。

 また、徴兵によって労働者が戦争に駆り出されるので、労働者不足になり、供給力はむしろ下がります。

 加えて、敵の攻撃によって生産設備が破壊され、労働者が犠牲になれば、需要過剰・供給不足は、いっそう深刻になります。

 だから、戦時においては、平時と違って、インフレが高進しやすいのです。

 MMTを批判するエリートたちは、よく、戦時中や終戦直後の高インフレを「歴史の教訓」として持ち出してきます。

 しかし、これは「戦争をすると高インフレになる」という教訓ではあるかもしれませんが、「財政赤字を拡大するとインフレが止まらなくなる」という教訓ではないのです。

 

 どうも、エリートたちは、MMT支持者を愚民扱いしている割には、経済について、よく分かっていなかったようですね。
 むしろ、MMTについて知った一般の人々の方が、経済をよく理解しているのです。

 『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』と『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』は、普通のサラリーマンや学生でも、エリートたちをしのぐ経済知識を学べてしまう、まったく新しい教科書です。

MMTの批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性 野口旭


参考:

The natural rate of interest is zero! billSunday, August 30, 2009

The Natural Rate of Interest Is Zero

Journal of Economic Issues  Volume 39, 2005 - Issue 2: Papers From The 2005 AFEE Meeting
Pages 535-542 | Published online: 04 Jan 2016


MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性 野口旭

https://nam-students.blogspot.com/2019/07/mmt2.html@



貨幣中立説は本来内生的なはずなのに小さな政府という強大な権力をマネタリストは想定する
そこに自己矛盾がある
MMTは民主的な国家を想定する
でなければ地域主体のJGPは不可能だ


にゅん オカシオコルテス (@erickqchan)
がっかり。野口もこのパターンか。

G-T(政府による貨幣供給)はΔB+ΔMなのであって、Mの話をしたって何ら意義はない。 twitter.com/Newsweek_JAPAN…

https://twitter.com/erickqchan/status/1156150580873588737?s=21

野口は第一回でせっかく G+iB-T≡ΔB+ΔM という式を拾ったのにねえ。。。

東谷さんと同じように、原典を読んでるといいつつ明らかに意味が分かっていない。

わざとかよ



昨日ちょっと書いたのですがG−TはΔB+ΔMなのに、一回目で書いてた式が消えてBとMのバランスというド主流ビューになってる。

ぜんぜん理解していないからマトモな批判になるわけがなかった、、、



ここでの野口旭のMMT批判が失当であることは指摘したけれど(ΔB+ΔMでなくMの話しかしない)論の立て方も酷くて強く言えば卑怯だわ。


MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性|野口旭|ニューズウィーク日本版


ミッチェルらは新しい教科書Macroeconomicsで「新しい貨幣的合意(NMC)」は酷いもんだと徹底批判をしている。

そこは読んだそうで、「正統派のレンズ」だとMMTが辺鄙な異端理論なのだと言い返す。


言い返すなら、その批判にちょっとでも応えるかと思いきや、その30章の批判内容には一切触れない。本当にびっくりだ。そして吐いた唾を飲み込む。


巧妙なのは、批判に一切答えないかわりに批判の矛先をMMTでなく「MMTや内生的貨幣供給論」に大拡大。

別のところでのレイの短い発言に猛然と襲いかかる。

なんだこいつ。


レイのこの発言にね

「MMTは、中央銀行はマネー・サプライや銀行の準備預金をコントロールできないという「内生的貨幣」あるいは「水平主義者」のアプローチを共有している。」


ほいで、レイが、バジル・ムーアの1988年論文(!)を「この部分はMMTと同じ」と参照しているからという理由で、ムーア論文を批判できればMMTの批判になると野口は暴走する。

アホかと。





賢明な皆さんはおわかりのように、「中央銀行はマネー・サプライや銀行の準備預金をコントロールできない」に加えて、「貨幣供給は財政支出と税で決まる、つまり政府が決める」、が加わったのがMMTだよね。


なんで国債と準備預金の交換の話を延々とするんだこいつらはっていう。


そうやってNMCだか主流さまだかが、実はメインプレーヤーで動いている政府を見ないように見ないようにしてきたこともその30章には批判として書いてあるわけだ。

本当に読んだのか?野口。


MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

野口旭
2019年07月30日(火)17時30分

<現在、世界および日本の経済論壇において、賛成論と反対論の侃々諤々の議論が展開されているMMT。その内実を検討する......。第二弾>

●前回の記事はこちら:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割

MMT(現代貨幣理論)の主唱者たちによれば、彼らがその理論を提起した大きな目的は、これまでの「正統派」によって作り上げられてきたマクロ経済に対する「ものの見方」あるいは「思考枠組み」を根底から覆すことにある。彼らは、その既存の視角は、堅牢で強固なものであるかのように装ってはいるが、実際には現実の経済を大きく歪めて見せる、いわば「歪んだレンズ」のようなものであるという。それに対して、MMTは現実の姿をありのままに見せる「歪みのないレンズ」であるというのが、彼らの自負である。

そうしたMMTからの批判に対して、「正統派」の側からは果たしてどのような反論が可能であろうか。そのことを、多くの「正統派」経済学者たちがこれまで紡ぎ上げてきた理論に基づいて考えてみようというのが、本連載「MMTの批判的検討」の主旨である。

前回の検討(1)で述べたように、ここで主に念頭においている「正統派」とは、MMT派の教科書Macroeconomics 第30章で要約されている「マクロ経済学における支配的主流としての新しい貨幣的合意(the dominant mainstream New Monetary Consensus in macroeconomics)」のことである。マイケル・ウッドフォードやベン・バーナンキらに代表されるその担い手たちは、一般にはニュー・ケインジアンと呼ばれている。その立場が「新しい貨幣的合意(NMC)」とされているのは、マクロ安定化のための政策としてはまずは金融政策を重視する彼らの考え方が、元々はケインジアンと厳しく対立していたマネタリズムやその後の「新しい古典派」による旧来的なケインズ経済学への批判を消化した上で生み出されたものだったからである。

MMTにとっての彼ら主流派すなわちNMCは、ケインズを名乗ってはいるが実際にはその敵である新古典派から流れ込んだ亜流ケインジアン(Bastard Keynesians)の末裔にすぎない。しかし主流派の側からみれば、MMTあるいはポスト・ケインズ派の内生的貨幣供給論は、これまでのマクロ経済学全体の大きな進展に背を向け、特定の視角に固執して狭い党派的思考の中でガラパゴス的な進化を遂げた辺鄙な異端理論でしかない。以下では、MMTや内生的貨幣供給論がどのような意味で「辺鄙」なのかを、逆に「正統派のレンズ」を通して考えてみることにしよう。

正統派とMMT=内生的貨幣供給論との真の対立点

最初の焦点は、貨幣供給の内生性と外生性についてである。MMTあるいはその前身である内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは、内生的貨幣供給こそが通貨制度についての正しい理解であって、正統派の最も大きな誤りはその点の看過にあると主張し続けてきた。この批判はしかし、正統派の側にとっては単なる「いいがかり」にすぎない。というのは、確かに経済学のテキストの多くでは貨幣供給は「あたかも外生であるかのように」描写されてはいるが、それはあくまでも説明の便宜のためであって、少なくとも現実の金融政策実務に関しては、正統派においてもMMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンとほぼ同様な理解が共有されているからである。

つまり、正統派にとってみれば、対立点は決して貨幣供給が内生か外生かにあるのではない。両者の最大の対立点は、中央銀行が果たすべき役割についての把握にある。MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは常に、中央銀行が政策金利を一定に保とうとする以上、貨幣供給は内生的に決まる以外にはなく、したがって中央銀行は貨幣供給をコントロールできないと主張する。実は、その把握は、少なくとも金利一定を前提とする限り、正統派もまったく同じである。しかし、正統派にとっては、それはあくまでも金融政策の出発点あるいは「前提条件」にすぎない。というのは、その前提条件の上に立って、「その政策金利の水準を中央銀行がどのように決めるのか」を考えることこそが、正統派にとっての金融政策だからである。

つまり、MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンが中央銀行受動主義の立場であるとすれば、正統派は中央銀行能動主義の立場である。前者すなわち中央銀行受動主義は、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という意味での中央銀行無能論と言い換えることもできる。これが、「新しい貨幣的合意」へと進展してきた「正統派」の中央銀行把握とはまったく相容れないのは明らかであろう。

「貨幣内生説vs外生説」という偽りの対立図式

内生的貨幣供給については、レイのModern Money Theoryでは以下のように説明されている。


MMTは、中央銀行はマネー・サプライや銀行の準備預金をコントロールできないという「内生的貨幣」あるいは「水平主義者」のアプローチを共有している。というのは、中央銀行は銀行準備に対する超過需要に対して同調する以外にはないからである(水平主義についてはMoore 1988を参照せよ)。他方で、中央銀行の目標金利は、操作上は明らかに外生である。(Randall Wray, Modern Money Theory, p.89)

レイがここで参照を求めているのは、バジル・ムーアの1988年の著作Horizontalists and Verticalists: The Macroeconomics of Credit Moneyである。それは、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給理論を代表する著作として知られている。そこで定義されている水平主義者(Horizontalists)とはまさに内生的貨幣供給派のことであり、垂直主義者(Verticalists)とはマネタリストに代表される「正統派」のことである。この区分は、内生的貨幣供給派が貨幣は常に中央銀行によってあらゆる利子率に対してそれを一定に保つように供給される(水平の供給曲線)と考えるのに対して、マネタリストら「正統派」は、貨幣は利子率とは無関係に一定であるがごとく供給される(垂直の供給曲線)という誤った考えを前提としているという、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアン固有の把握に基づく。

しかしながら、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンらのこうした把握は、正統派にとっては単に「偽りの対立図式」にすぎない。というのは、正統派もまた、金融政策を実務的には「量の操作」というよりは「政策金利の操作」として把握しており、その局面では水平主義的なアプローチとまったく差はないからである。正統派は確かに、金融緩和とは要するに中央銀行が貨幣供給を増やすことと把握しているが、だからといってそれが「中央銀行による紙幣のばらまき」によって実現されているなどとは考えていない(いわゆるヘリコプター・マネーは通常の金融緩和とはその意味がまったく異なる)。

それでは、正統派はなぜ、しばしば貨幣供給を「あたかも外生であるかのように」論じているのであろうか。それは、たとえば「中央銀行が金融引き締めを実行する」という状況を考えると、「政策金利を引き上げる」のと「貨幣供給を減らす」のでは、事実上ほとんど同じことを意味するからである(金融緩和の場合にはその逆になる)。

中央銀行が金融引き締めを実行するとは、具体的には「中央銀行が政策目標である銀行間の短期市場金利を2%から2.25%に引き上げる」といったことを意味する。このように中央銀行が短期市場金利をより高い水準に誘導するためには、中央銀行は、銀行全体への準備預金の供給を絞る必要がある。さらに、短期市場金利が上がれば、それに伴って銀行の貸出金利も上昇するので、銀行貸出の縮小を通じて銀行預金全体の縮小が生じる。それは、銀行による準備預金への需要そのものを減少させる。したがって、政策金利の引き上げは通常、準備預金を含むベース・マネーと銀行預金を含むマネー・サプライ全体の収縮をもたらすわけである。

多くの「正統派」によるマクロ経済学教科書ではしばしば、金融政策の効果を説明する時に、この「政策金利から貨幣供給へ」の経路の部分がショートカットされ、中央銀行があたかも貨幣の量を直接増減させているかのように描かれている。それは、マクロ経済学の教科書が、読者に中央銀行の政策実務を理解させるためのものではなく、金融政策すなわち中央銀行による金融緩和や引き締めがマクロ経済全体にもたらす効果を理解させるためのものだからである。

要するに、「貨幣供給外生説」は正統派にとっての本質的構成要素ではまったくない。それは単に、説明の便宜のための抽象化にすぎない。その意味で、「貨幣内生説vs外生説」という対立図式は、正統派にとっては捏造以外の何物でもないのである。

正統派における貨幣外生・内生の位置付け

ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、イギリス・ケインジアンを代表する存在であったニコラス・カルドアが1970年代から80年代初頭にかけて展開していたマネタリズム批判を発端としている(代表的には1982年に出版されたThe Scourge of Monetarism)。確かに、マネタリズムの中核理論は「物価は貨幣の供給量によって決まる」という古典派経済学以来の貨幣数量説であり、それはそれ自体としては典型的な貨幣供給外生モデルである。それがまさに、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンやMMT派が未だにマネタリズムを親の敵でもあるかのように論難するゆえんである。

実際のところは、このマネタリズムですら必ずしも内生的貨幣供給論とは矛盾しない。マネタリズムの考え方は、1980年代以降、中央銀行の金融政策運営に実際に影響を与え始めたが、それは「中央銀行がマネー・サプライを安定化させるように政策金利を調整していく」という、いわゆるマネタリー・ターゲティングとしてであった。マネー・サプライは一般に、銀行貸出に影響を与えるさまざまな外生的要因によって増減する。上述のように、それは他方で中央銀行が決める政策金利からも影響を受ける。中央銀行はしたがって、マネー・サプライの安定化のためには、その外生的な増減を吸収するように政策金利を調整していかなければならない。マネタリズムの現実的実装としてのこのマネタリー・ターゲティングは、少なくとも「その時々に目標とされた政策金利を維持する」という局面においては、MMTや内生的貨幣供給論が強調する「現実」と何ら変わることはないのである。

これまでの代表的な「正統派」の経済モデルを振り返ってみても、それらが貨幣外生一辺倒であったとは決していえない。上述のように、利子率と貨幣供給との間には「利子率の上昇(下落)は貨幣供給の縮小(拡大)をもたらす」という負の関係があるので、一方を外生変数として固定すれば他方は必ず内生変数となる。したがって、一般的なマクロ経済モデルの多くは「利子率外生、貨幣内生」か「利子率内生、貨幣外生」のどちらかである。少なくとも、両方を外生扱いにはできないということである。

MMT派の教科書Macroeconomics第28章では、「新しい貨幣的合意(NMC)」が成立する以前の「亜流ケインジアン」たちにとっての支配的マクロ経済モデルとして、IS-LMモデルが批判的に紹介されている。IS-LMモデルとは、一国の所得と利子率を、それぞれ財市場と貨幣市場の均衡を示すIS曲線とLM曲線の均衡点として導くモデルである。これは、利子率が内生的に決まるモデルであるから、貨幣供給は当然ながら外生である。

IS-LMモデルは、イギリスの経済学者ジョン・リチャード・ヒックスがケインズの『一般理論』(1936年)をモデル化したものである。つまり、ポスト・ケインジアンによる「ケインズの本来あるべき姿」についての思い入れ的解釈がどうであれ、ケインズ本人は『一般理論』では間違いなく貨幣外生を仮定していたのである。

他方で、『貨幣論』(1930年)でのケインズは、『一般理論』とは異なり、「利子率外生、貨幣内生」のモデルを想定していた。それは、『一般理論』が出現する以前には、ケインズを含む経済学者の多くが、スェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルの『利子と物価』(1898年)の定式に従い、中央銀行が利子率を外生的に操作し、貨幣供給はそれに応じて内生的に決まるという形式のモデルを用いて景気変動の問題を考察していたためである。このヴィクセルの追随者たちは、経済学史家によって「ヴィクセル・コネクション」と呼ばれている。

この金融政策についてのヴィクセル的把握の伝統は、IS-LMモデルの隆盛によっていったんは途絶えたかのように思われた。しかしそれは、「新しい貨幣的合意(NMC)」の成立とともに見事に復活した。Macroeconomics第30章のAppendixでも解説されている通り、NMCの背後にあるニュー・ケインジアンのモデルは、利子率が金融政策を表示する唯一の変数とされ、貨幣供給量は明示的には現れないため、しばしばネオ・ヴィクセリアン・モデルともいわれている。

MMTのIS-LMモデルを用いた説明

以上から明らかなように、正統派にとっては、貨幣供給の扱いが内生か外生かは、単に現実をどのように抽象化するのが適切かという観点から考察されるべき問題であり、マクロ経済に関する把握を本質的に左右する問題ではない。実際、MMTから得られる結論の少なくとも一部は、IS-LMモデルで貨幣供給量ではなく利子率を外生化すれば十分に説明可能なのである。

image001.jpg

この左の図は、貨幣外生、利子率内生が仮定された、通常のIS-LM分析である。その図が示すように、政府が赤字財政支出を行えば、IS曲線が右にシフトし、利子率と所得はともに拡大する。それに対して、右の図は、利子率外生が仮定された「貨幣内生版のIS-LM分析」である。ここでは、MMT派や内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンが通常想定するように、中央銀行は常に利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うことが仮定される。その場合、図が示す通り、LM曲線は必ず右にシフトする。それは、利子率を外生化した場合には、政府の赤字財政支出の結果、貨幣供給の自動的拡大メカニズムが作用することを意味する。

この「政府の赤字財政政策が貨幣供給の自動的拡大をもたらす」というメカニズムは、MMT派が想定する図式とほぼ同じである。より詳しく吟味すると両者の間にはやや異なる部分も存在するが、それは主に、IS-LMモデルにおけるIS曲線すなわち財市場分析に相当するものがMMTには明示的には存在していないためである(その問題は改めて取り扱う)。

ところで、この利子率内生版と外生版の二つのIS-LM分析を比較すると、政府が同じように赤字財政支出を行う場合でも、その結果には一つの大きな相違が存在することが分かる。それは、利子率外生版の方では、政府の赤字財政支出によって貨幣供給の自動的拡大がもたらされる結果、「所得のより一層大きな拡大」が実現されている点である。問題は、そのことをマクロ経済の安定化という観点からどう評価すべきかにある。

マクロ経済政策に関する「正統派」の文献では、こうした「利子率をできるだけ安定化させようとする」金融政策運営は、一般に「同調的金融政策」と呼ばれている。MMT派や内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンはいわば、この同調的政策運営こそが金融政策の「常態」と考えているわけである。

それに対して、「正統派」の側は、金融政策のそうしたあり方をほぼ一貫して批判し続けてきた。その同調的金融政策の持つ問題性を最も理論的に明確に示した経済学者こそが、上述のヴィクセルである。しかしそれは実は、19世紀初頭のデヴィッド・リカードウらによるイングランド銀行批判から、ごく最近の金融政策に関するさまざまな論争に至るまで、金融政策をめぐる思考の対立のまさに中核であり続けてきたのである。
(以下、MMTの批判的検討(3)に続く)


スプリンクラーの穴が壊れているのに水の量を増やしても

そりゃ水は行くだろうが効率が悪い

ちゃんと個別に直してから給水した方がいい

リフレと財政出動の関係も同じ


前回よくできてると思えた野口先生の解説。

これではだめだわ。実質金利のことを言いたいんた思うけど、信用乗数の回復を考えたらこの説明では無理で名目が重要


利子率と貨幣供給との間には「利子率の上昇(下落)は貨幣供給の縮小(拡大)をもたらす」という負の関係がある


利子率の話は資産選択として貯蓄か実物資産の選択、つまり企業の投資行動に影響を与えることにより、信用乗数の回復を図る内容でしょう。

これは民間の話であって政府債務の話ではない。

野口さんがMMTを理解できていないのが、よくわかった。

金利は物価上昇が影響する

長期金利3%の時に

5%のインフレなら信用乗数がのび貨幣供給は拡大

2%のインフレなら信用乗数は停滞し貨幣供給は縮小

期待金利の話を書きたいなら、名目と実質のことに触れないと正確ではない

MMTは簿記的な話が中心なのだし「正統派」として批判するなら緻密な展開がいる



 

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜


<MMT派と正統派とは、基本的に水と油にように混じり合わないマクロ経済思考の上に構築されている。しかし、反緊縮正統派の側からは時々「少なくともゼロ金利であるうちはMMTと共闘できる」といった発言が聞こえてくる。それはなぜか......>

●前回の記事はこちら: MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

MMT(現代貨幣理論)の主唱者たちによれば、MMTと正統派の最も大きな相違の一つは、前者が貨幣内生説であるのに対して後者は貨幣外生説を信奉している点にある。しかしながら正統派にとってみれば、貨幣内生と外生の相違は、単に現実を理論化する場合の抽象の仕方の相違にすぎない。実際、近年のニュー・ケインジアンのモデルも含めて、ヴィクセルに発する系譜のモデルは基本的にすべて貨幣内生である。

正統派にとっては、本質的な対立点はまったく別のところにある。それは、貨幣供給の内生性を強調する議論は一般に、利子率の外生性を絶対視する「同調的金融政策」の是認ないしは擁護に陥ってしまう点である。それが、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という中央銀行無能論である。

その立場は、古くは真正手形主義(Real Bills Doctrine)と呼ばれていた。ランダル・レイの1990年の著作 Money and Credit in Capitalist Economies: The Endogenous Money Approachでの学説史的整理が示すように、ポスト・ケインズ派の内生的貨幣供給論は、まさしくその系譜の上にある。当然ながら、MMTによる「赤字財政の拡張によって貨幣(ソブリン通貨)の拡張を誘導する」という政策戦略も、その延長線上にある。

以下でみるように、正統派はこれまで、この同調的金融政策を厳しく批判してきた。というのは、インフレやデフレを伴う貨幣的な攪乱の背後には、必ずといってよいほど、この同調的金融政策が存在していたからである。その政策批判の系譜は、19世紀初頭のリカードウから19世紀末のヴィクセル、さらには20世紀後半の日本にまで及んでいる。

ヴィクセルの不均衡累積過程

経済学の展開の中で、同調的金融政策の持つ問題性を最初に理論的に明らかにしたのは、クヌート・ヴィクセルである。それが、ヴィクセルの主著『利子と物価』(1898年)で展開された、不均衡累積過程の理論である。

ヴィクセルのそもそもの発想は、少なくともその出発点としては内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンと同じであった。というのは、「古典派の中心的な物価理論である貨幣数量説は、中央銀行が貨幣をどのように供給するのかを無視しているため、現実の適切な近似になっていない」というのが、自らの理論を導くに際してのヴィクセルの問題意識であったからである。

ヴィクセルは、社会で実際に用いられる貨幣が、数量の限られた貴金属ではなく、帳簿や証書上にのみ存在する簡単に創造可能な「信用貨幣」である以上、物価理論もその前提に基づいて再構築されるべきだと考えた。その信用貨幣は、中央銀行から民間への信用供与を通じて供給される。したがって、「貨幣供給は中央銀行が外生的に設定した利子率に対する民間の資金需要によって内生的に決まるように定式化されるべきだ」というのが、ヴィクセルの基本的な発想であった。この図式は、まさしく内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの水平主義そのものである。しかし、同じなのはここまでである。

この「利子率外生、貨幣内生」の水平主義世界では、中央銀行は確かに貨幣供給量をコントロールはできないが、利子率は「勝手に」決めることができる。というよりも、中央銀行はとにかく利子率をどこかに決めなければならない。

例えば、毎年5%成長している経済で、中央銀行が利子率を2%に設定したとしよう。成長率が5%ということは、銀行から資金を借り入れて投資を行った場合の収益率もほぼ5%程度と考えることができる。それは、中央銀行が利子率を2%に設定した場合、民間の人々は2%の投資コストで5%の収益を得られてしまうことを意味する。こうした状況が続けば、民間の資金需要そして貨幣供給は無制限に拡大していくことになろう。その結果は、仮に貨幣数量説を前提とすれば無制限のインフレである。中央銀行による信用貨幣の供給は「帳簿上の操作」のみで可能なのであるから、それを制約するものは何もない。同様に、中央銀行が利子率を過度に高く設定した場合には、逆のメカニズムを通じて累積的な貨幣収縮とデフレが生じることになる。

それでは、インフレにもデフレにもならないようにするためには、いったいどうすればよいのであろうか。その答えは、「中央銀行が利子率をインフレもデフレも起きないような水準に設定する」である。そのインフレもデフレも起きないような水準の利子率が、ヴィクセルが定義する「自然利子率」である。この率は、長期的には経済成長率に収斂する傾向を持つと考えられるので、上の設例では5%程度である。しかし、現実の経済では、自然利子率それ自体が失業率や設備稼働率を含むさまざまな循環的要因に左右されるため、中央銀行が設定した利子率が本当に自然利子率に適合したのか否かは、基本的には事後的な物価動向によってしか分からない。


MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜

いずれにせよ、このヴィクセル的世界では、中央銀行が利子率を適切に調整しない限り、マクロ経済の安定化は実現できない。というのは、中央銀行が利子率を適当に固定してそれに同調しているだけの場合、経済は必ずインフレかデフレのいずれかの累積過程に陥ってしまうからである。つまり、このヴィクセル的世界では、マクロ安定化はひとえに中央銀行の金利調整すなわち一般的な意味での金融政策に委ねられることになる。それは、中央銀行には貨幣を必要に応じて供給する以外の役割はないという、MMT的な金融同調主義あるいは中央銀行無能論とは対極にある。

要するに、同じ「利子率外生、貨幣内生」ではあっても、ヴィクセルとMMTの政策的結論は正反対と言えるほどに異なる。両者は明らかに、それぞれ根本的に対立するマクロ経済把握と結びついている。その証拠に、MMT派はこれまで、中央銀行による政策金利調整を重視するこのヴィクセル的な把握を、その「自然利子率」という中核概念ともども批判し続けてきた。その実例の一つは、MMTの主唱者の一人であるビル・ミッチェルによる2009年8月の8月のブログ記事 The natural rate of interest is zero!である。そこでは、本稿とほぼ重なる事柄が、まったく逆の評価に基づいて論じられているのである。

真正手形主義とその批判

以上のように、貨幣に関するヴィクセルの把握によれば、中央銀行による金利調整の失敗は必ずインフレないしデフレへの途に通じる。それは、決して机上の空論ではなく、現実の世界で何度も起きていた。そして、経済学者たちはそれを指摘し続けてきた。

最初の実例は、19世紀初頭に展開された、いわゆる地金論争である。これは、ナポレオン戦争を背景にイングランド銀行が銀行券の金兌換を停止した時期(1797〜1819年)に生じたインフレの原因と対応策をめぐる論争である。この時、地金論者といわれた人々は、インフレの原因はイングランド銀行による不換紙幣の過剰発行にあるとして、イングランド銀行を攻撃した。その急先鋒が、『地金の高い価格』(1810年)というパンフレットで颯爽とデビューしたリカードウであった。

ただし、この論争で最も重要な役割を果たしたのは、実はリカードウではなかった。それは、上のビル・ミッチェルのブログ記事でヴィクセルの先駆として言及されているヘンリー・ソーントンである。ソーントンはこの時、『紙券信用論』(1802年)という書の中で、真正手形主義に基づくイングランド銀行の弁明論を、本質的にヴィクセルと同じ論法を用いて完全論破していた。

イングランド銀行がこの時に信奉していた真正手形主義とは、「銀行券の発行が実需に基づく真正手形の割引を通じて行われている限り、仮に不換紙幣であっても銀行券の過剰発行は生じない」とする考え方である。これはまさしく、「中央銀行は経済が必要とする貨幣を供給するしかない」という金融同調主義あるいは中央銀行無能論の先駆である。この真正手形主義によれば、仮に銀行券がどんどんと発行され、それにつれて物価がどんどんと上がったとしても、それは「民間が真正手形をどんどんと持ち込んで来たのだから仕方がない」ということになる。それに対してソーントンは、「そうやって真正手形がどんどんと持ち込まれるのは、そもそもイングランド銀行が決めている手形割引率(今で言う政策金利)が低すぎるせいだ」と批判したわけである。

「日銀理論」をめぐる論争

こうした経済学者たちによる批判にもかかわらず、真正手形主義の思考様式は、その後も中央銀行固有の政策思想として生き残った。それは、この理論を用いれば、貨幣供給の変動もその結果としてのインフレやデフレも、「貨幣を求めた民間側の都合によるものだ」という言い逃れで対応できるため、責任回避にはきわめて好都合であったからである。

そうした実例の典型的な一つは、1970年代初頭に発生した日本の高インフレの原因をめぐって展開された、経済学者・小宮隆太郎と日銀の外山茂による論争である。その発端は、小宮が「1970年代初頭の高インフレは高いマネー・サプライの伸びを放置した日銀の政策ミスである」と論じたことよる(「昭和48、9年のインフレーションの原因」『経済学論集』1976年4月)。それに対して、日銀理事であり調査局長であった外山は、「この時期のマネー・サプライとベース・マネーの高い伸びは民間部門における貨幣需要増加の結果にすぎない」と反論した(『金融問題21の誤解』東洋経済新報社、1980年)。小宮はその外山への再反論の中で、「資金の過不足はそもそも金利水準に依存するのだから、その金利を無視して資金需給実績の恒等式だけから資金の逼迫とか緩慢を云々すること自体がおかしい」と指摘したのである(『現代日本経済』東京大学出版会、1988年、131-2頁)。この論争以降、小宮が「日銀流貨幣理論」と名付けて批判した考え方は、より手短に「日銀理論」と呼ばれるようになった。

この「日銀理論」をめぐっては、1990年代初頭に、経済学者・岩田規久男と日銀の翁邦雄との間で、再び同様な論争が展開された。この時の両者の立場は、岩田による『金融政策の経済学--「日銀理論」の検証』(日本経済新聞社、1993年)と翁による『金融政策--中央銀行の視点と選択』(東洋経済新報社、1993年)によって確認できる。岩田はそこで、日本のベース・マネーとマネー・サプライは景気過熱期の80年代後半に急拡大し、バブル崩壊による景気後退とともに急減したが、これは日銀による「同調的金融政策」の結果に他ならないと批判した。翁はそれに対して、政策金利(オーバーナイトのコールレート)を一定とする限り、日銀は対応するベース・マネー需要に応じてそれを供給するしかなく、日銀にベース・マネーを任意に増減させる余地はないと反論した。それはまさしく、中央銀行能動論と無能論との対立であった。

翁の上掲『金融政策』を今読み直してみると、MMTの生みの親であるウォーレン・モズラーのSoft Currency Economics IIと視角があまりにも似ていることに驚かされる(特にその第Ⅰ部「金融調節」)。違いがあるのは、当然だがモズラーの本が主に米FRBを念頭に置いている点と、日銀の資金需給実績でいう「財政等要因」にもっぱら焦点が当てられている点である。要するに、真正手形主義、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論、日銀理論、そしてMMTは、その思考回路においてまったく地続きなのである。


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ヘンリー・ソーントン (Henry Thornton) - Cruel.org

https://cruel.org/econthought/profiles/thornton.html

cruel.org/econthought/profiles/thornton.html

ヘンリー・ソーントン (Henry Thornton), 1760-1815. 原ページ · Google, WWW 検索 cruel.org 検索. Portrait of H.Thornton.

ヘンリー・ソーントン (Henry Thornton), 1760-1815.

原ページ
 
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WWW 検索 cruel.org 検索

Portrait of H.Thornton

真手形 (Real Bills) ドクトリンの反対者で、金塊主義の立場を雄弁に擁護した、お金の理論における重要人物の一人。かれの金融拡大プロセスはクヌート・ヴィクセル累積過程 を予見するもので、これは貨幣数量説を理論的に一貫性ある形で述べ直したものだった。またいろんな意味で原-限界論者でもあった。

ヘンリー・ソーントンの主要著作

  • An Enquiry into the Nature and Effects of the Paper Credit of Great Britain , 1802.

ソーントン・ハーカウェイ | Harry Potter Wiki | FANDOM powered by Wikia

harrypotter.fandom.com/ja/wiki/ソーントン・ハーカウェイ

1760年、アメリカ合衆国魔法議会はソーントン・ハーカウェイ議長の故郷であるバージニア州ウィリアムズバーグに本部を移転した ...

反穀物法の運動家トムソン文書

 

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www.kyokuto-bk.co.jp/detailpdf/KA2008-30.pdf

1791 年、地金論争の理論家ヘンリー・ソーントン1760-1815)が議長を務. めた議会で制定された「シェラレオネ会社」の殖民 ...

ソーントンとは - コトバンク

kotobank.jp/word/ソーントン-90650

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ソーントンの用語解説 - [生]1714?[没]1803 アメリカの ... 1760‐1815 イギリスの銀行 ...

ソーントン・紙券信用論 (実業之日本社): 1948|書誌詳細|国立国会 ...

iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000673221-00

タイトル, ソーントン・紙券信用論. 著者, 渡辺佐平, 杉本俊朗 共訳. 著者標目, Thornton, Henry, 1760-1815. 著者標目, 渡辺 ...

タイトルソーントン・紙券信用論
著者渡辺佐平, 杉本俊朗 共訳
著者標目Thornton, Henry, 1760-1815
著者標目渡辺, 佐平, 1903-1983
著者標目杉本, 俊朗, 1913-
出版地(国名コード)JP
出版地東京
出版社実業之日本社
出版年月日等昭和23
大きさ、容量等357p ; 22cm
注記原タイトル: An enquiry into the nature and effects of the paper credit of Great Britain
注記巻末: フランス・ボーナアの本書批評
JP番号46011729
別タイトルAn enquiry into the nature and effects of the paper credit of Great Britain
出版年(W3CDTF)1948
NDC337
NDC337.4
原文の言語(ISO639-2形式)eng : English
対象利用者一般
資料の種別図書
言語(ISO639-2形式)

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000673221-00

目次

序文

  • 第一章 商業信用について それから起る紙券信用について 商業資本について / 41 (0027.jp2)

  • 第二章 物々交換による取引について 貨幣について 爲替手形及び約束手形について 割引かれる物としての爲替手形と約束手形について 空手形もしくは融通手形について / 49 (0031.jp2)

  • 第三章 流通する紙券について 銀行券について 流通する紙券として考察した場合の手形について 各種流通手段の流通における速度の相違及び同一種の流通手段が時を異にする場合に現はす流通速度の相違 A・スミス博士の誤謬 流通速度の右の相違の結果として一國の支拂ひを完濟するために要する量の相違すること 一七九三年の事件に徴して得られた例證 紙券信用を全然廢止し得るといふ假定に含まれる謬論 / 61 (0037.jp2)

  • 第四章 英蘭銀行に關するスミス博士の考察 その制度の性質 同行の銀行券を決して甚しく減少せしめない理由 ギニー貨を涸渇せしめたことに對する同行の責任 正貨支拂の停止は銀行券の過大な發行に由るものではない また過大な貸出に由るものでもない 議會の干渉の當否 / 79 (0046.jp2)

  • 第五章 貿易の差額について 爲替相場について 不利な爲替相場が金を國外に持出させる傾向を有すること 國内に金が復歸する見込について 輸出された金が大陸において用ひられるとおぼしきその使用法について 英蘭銀行の正貨支拂ひを停止せしめた法律を更新した理由 / 131 (0072.jp2)

  • 第六章 現實に窮迫が起つた場合に金を貯備し得ると想像することの誤謬 英蘭銀行の理事たちが前以て適當な金準備を備へて置かなかつた廉を以て非難されねばならぬとの推定をば承認し得ない理由 / 158 (0086.jp2)

  • 第七章 地方銀行について その便益と不利益 / 167 (0090.jp2)

  • 第八章 銀行券の過大な發行が造幣價格を上廻る金の市場價格の超過分を生ぜしめる傾向について その過大な發行がこの超過分を作りだす方法つまり財貨の價格や爲替相場やに對する作用によることについて 過剩紙券の問題についてのA・スミス博士の誤謬 英蘭銀行券の量についての制限が王國内のあらゆる紙券の量を制限し、その價値を支えるのに役立つ、その樣態について / 201 (0107.jp2)

  • 第九章 地方における總べての紙券のみか英蘭銀行の紙券についても、その價値が同銀行券の量に正確に比例して調整されるのを不可能ならしめる諸事情について / 228 (0121.jp2)

  • 第十章 前二章に述べた學理に對する反對論に答ふ 英蘭銀行がその紙券の量に制限を置くのを必要ならしめる諸事情について 高利取締の法律の効果 英蘭銀行の貸付を制限するのを必要とすることに關して、資本が外國へ移動する場合に鑑みて得られた證明 / 251 (0132.jp2)

  • 第十一章 紙券信用が諸商品の價格に及ぼす影響について モンテスキュー及びヒュームの或る章句についての考察 結語 / 291 (0152.jp2)

  • 附録 フランシス・ホーナアの主書批評 / 315 (0164.jp2)


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