日曜日, 7月 31, 2011

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』参考動画

Cinéma 1: L'image-mouvement (1983)
『シネマ1 運動イメージ』財津理、斎藤範訳 法政大学出版局、2008
Cinéma 2: L'image-temps (1985)
『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一ほか訳 法政大学出版局、2006 
  NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
 
ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 プラトンカント
     Hegel\   |   /Heidegger
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
Bergson
             \|/
 【規定】差異と反復ーーシネマーー意味の論理学【反省】
             /|\     [修辞学]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud
          /・オイディプス
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ
Nietzsche 

シネマ1は以下、
http://nam-students.blogspot.com/2010/08/blog-post_31.html

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』:目次

第1章 運動イメージを超えて
第2章 イメージと記号の再検討
第3章 回想から夢へ―第三のベルクソン注釈
第4章 時間の結晶
第5章 現在の諸先端と過去の諸層―第四のベルクソン注釈
第6章 偽なるものの力能
第7章 思考と映画
第8章 映画、身体と脳、思考
第9章 イメージの構成要素
第10章 結論


ライプニッツの真なるものの力能は複数世界だったが、系列的に示されるニーチェ的力能は同一世界での多元性である。
ボルヘス原作の『はみだした男(他者たち)』が例示される(第6章 187頁)。

並行関係はデュラスにおいては音声的イメージと視覚的イメージの間に見られる(第9章)。

それは哲学と映画でも同じだ(第10章 結論)。



     運動 エイゼンシュテイン

     時間 アルトー、ロッセリーニ、小津、アントニオーニ、ブレッソン、タルコフスキー
    (結晶)ウェルズ、ロブ=グリエ

脳の映画    身体の映画
レネ      ゴダール
キューブリック カサヴェテス(直接話法)
     
     パゾリーニ、ロメール(間接話法 第6章 207頁 第7章256頁)


 第1章 運動イメージを超えて

<バザンが例として引いている名高いシーン、、、若い女中が、、、一連の機械的な、うんざりする動作を続ける。、、水をまいて蟻を追いはらい、、彼女は妊娠した自分の腹に目をむける。あたかも世界のあらゆる悲惨がそこから生まれるかのように。一連の動作が続くうちに、突然出現するのは一つの純粋な光学的状況であって、若い女中はこれに答えることも反応することもできない。、、、、これは見る人の映画であって、もはや行動の映画ではない。>
(シネマ2邦訳p.2-3)
2頁ウンベルトD
Umberto D Vittorio De Sica PARTE 1

http://www.youtube.com/watch?v=69hsEbT7BDM&t=13m13s
あるいは、
Umbεrtο D. (1952) 2/9
(リクエストによる埋め込み無効)
http://www.youtube.com/watch?v=fQhuJgNXPfA&t=3m

11、31さすらい
Il Grido (1957) trailer

http://www.youtube.com/watch?v=vdh5djkAONA

19秋刀魚の味
『秋刀魚の味』予告編

http://www.youtube.com/watch?v=kp2S77LARkg

麦秋
鵠沼海岸  (麦秋 1951)

http://www.youtube.com/watch?v=D77KYlKEt5I

 第2章 イメージと記号の再検討

58頁
<タルコフスキーは、長大な射程をもつテクストを書いていて、重要なのは、ショットの中を時間が流れるそのあり方であり、…「ショットにおける時間の圧力」であると述べている。…タルコフスキーが拒否しているのは、映画が、まさに相対的な様々な単位によって働く言語活動のようになることなのである。>
タルコフスキー
Tarkovsky on Art Part One

http://www.youtube.com/watch?v=V27XlEDLdtE

参考:「記号とは効果なのである」(ドゥルーズ『批評と臨床』280頁)

 第3章 回想から夢へ―第三のベルクソン注釈

63頁
<客観的なものと主観的なもの…。それら二つの項が…識別不可能な点へ落ち込んで一体になろうとする…。『ヨーロッパ1951年』のヒロインは、工場のいくつかの特徴を見て、囚人たちを見たと思い込む。>
ヨーロッパ1951年
Ingrid Bergman - Europa '51 [R. Rossellini, 1952]

http://www.youtube.com/watch?v=_hy2RXXnC68



84バンドワゴン
The Band Wagon - Fred Astaire and Cyd Charisse

http://www.youtube.com/watch?v=yuJxYmJlEHY

 第4章 時間の結晶

94勝手に逃げろ/人生
Sauve qui peut (la vie) de Godard - Bande annonce

http://www.youtube.com/watch?v=JqYUG_ArgqY

107頁
<傑作『ラルジャン』…金銭に直面することと、運動イメージが時間イメージに場を譲ることは、同じ事態にほかならなかった。>


L'Argent

http://www.youtube.com/watch?v=_vtKf3ftuVs


114頁
<ドヴジェンコの『ズヴェ二ゴーラ』、ヒッチコックの『めまい』、レネの『ジュテーム・ジュテーム』。レネのこの映画の中の不透明な球体は、最も美しい結晶イメージの一つ…。潜在的なもの…二重化する純粋な潜在性、時間を定義するものとしての「自己による自己の触発」なのだ。>
Je t'aime, je t'aime, Alain Resnais, 1968 [excerpts]

http://www.youtube.com/watch?v=5VnilJjdQTc


 第5章 現在の諸先端と過去の諸層―第四のベルクソン注釈

137、146市民ケーン
<非時系列的な時間の逆説的な性格、つまり過去一般の先在、過去のあらゆる層の共存、最も収縮した度合いの存在…。こういったものが、時間についての映画の最初の傑作であるウェルズの『市民ケーン』において見いだされる着想である。>
137頁
1. Citizen Kane (1941)

http://www.youtube.com/watch?v=IGUYOQUzrKU






158審判

170頁
<『ジュテーム・ジュテーム』の機械は過去の諸層を攪拌し、断片化する。>

171ミュリエル、去年マリエンバートで、プロビデンス


 第6章 偽なるものの力能(175-217頁)

178黒澤明白痴(第7章 246頁にもドストエフスキーと比較した記述あり)
The Idiot 1951

http://www.youtube.com/watch?v=Eoq6eGknp88

http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-1
http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-2
http://www.peteava.ro/id-625656-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-3
http://www.peteava.ro/id-625654-akira-kurosawa-1951-hakuchi-the-idiot-part-4
結晶的な説話
…視覚は…行動の代理となる。…運動は零に…


<視覚はもはや、行動にすっかりとってかわり行動の代理となる。>
<小津における固定ショットの再発見はブラウン運動であり、様々な規模における運動の多様性となる>(第6章 179頁)。


183
ロブグリエ 嘘をつく男
" L'homme qui ment", 1968, Alain Robbe-Grillet, 1968. Sec.inicial

http://www.youtube.com/watch?v=s3-KArENrrw

" L'homme qui ment", 1968, Alain Robbe-Grillet, 1968. Sec. La casa de las mujeres

http://www.youtube.com/watch?v=muEJVn4vvS8

187
ヨーロッパ横断特急
Trans-Europ-Express (1967) - Marie-France Pisier

http://www.youtube.com/watch?&v=cya8peNqPxw

187頁
<ヒューゴ・サンティゴの『他者たち』を引こう。…偽なるものの変貌が真なるものの形態にとってかわる。>
はみだした男 
les autres

http://www.youtube.com/watch?v=yq9-D-qpuAQ

188
Subterfuge  Faux fuyants (1983) 逃げ口上
https://mubi.com/films/subterfuge/prescreen


189
ラ・ピラート

ラ・ピラート 投稿者 Bouscarle
http://www.dailymotion.com/video/x8ygpy_y-yyyy

189
<…『偽の運動』[日本語タイトルは『まわり道』]の中で表現されることによって説話を紡ぎ出す偽なるものの力能…>
Falsche Bewegung


Faux mouvements partie 1 (Falsche bewegung) vostfr

Faux mouvements partie 1 (Falsche bewegung) vostfr 投稿者 ancoliemagic
http://www.dailymotion.com/video/xk3fqv_faux-mouvements-partie-1-falsche-bewegung-vostfr_shortfilms

Faux mouvements partie 2 et fin (Falsche bewegung) vostfr

Faux mouvements partie 2 et fin (Falsche... 投稿者 ancoliemagic
http://www.dailymotion.com/video/xk3r6c_faux-mouvements-partie-2-et-fin-falsche-bewegung-vostfr_shortfilms



190
シュレンドルフ 偽造者
Die Fälschung trailer

http://www.youtube.com/watch?v=lh7vWf07m2o

<『オーソン・ウェルズのフェイク』という偉大な系列…ニーチェとの無意識な類縁性>
202-3頁
Fraude (F. for Fake)_ [1973]_ [Documental]

Fraude (F. for Fake)_ [1973]_ [Documental]
http://www.youtube.com/watch?v=7vfE9orS0kU

<カムレーの『クロノポリス』は、時間の要素が新たなものを生み出すためには、人間との異常な出会いが必要だということを示している。>205頁
CHRONOPOLIS 1982- animation by Piotr Kamler -

http://www.youtube.com/watch?v=YVxXh_ptCzg


注:
ドゥルーズの弁証法を避ける系列の思考が発揮されるのは、偽なるものの力能を論じた部分だ。
メルヴィル『信用詐欺師』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』が文学で例示される。
ドキュメントとフィクションは一つの作品内で優劣なく反転交差する。それは哲学と映画との並行関係にまで対応する。

215
アメリカの影、フェイシズ
Shadows (John Cassavetes)

http://www.youtube.com/watch?v=_JMuLsGPp-k



 
 第7章 思考と映画

233頁
<想起不可能なものとの関係…表現主義は、覚醒状態に夜の処理をほどこすが、アルトーは夢に昼の処理をほどこす。表現主義の夢遊病者に、『十八秒』における、あるいは『貝殻と僧侶』におけるアルトーの覚醒病者が対立する。>
貝殻と僧侶
ジェルメーヌ・デュラック監督 『貝殻と僧侶』Part1

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14635284


243テオレマ、ソドムの市
Pier Paolo Pasolini's Teorema

http://www.youtube.com/watch?v=ZRfOa8MiUS8

1 - Teorema (1968, Pasolini)

http://www.youtube.com/watch?v=LTacF9xp2fE

Pasolini - Salò o le 120 Giornate di Sodoma (Finale 1 di 2)

http://www.youtube.com/watch?v=6q_Jz4SfHA4

 第8章 映画、身体と脳、思考

265頁 カルメロ・ベーネ『カプリッチ』
Carmelo Bene - Capricci (1969)

https://www.youtube.com/watch?v=af-pHcC_M3Y
カルメロ・ベーネ
参考文献:
http://www.fondazionecarmelobene.it/
http://it.wikipedia.org/wiki/Carmelo_Bene
ジル・ドゥルーズ「マイナー宣言」in『重合』法政大学出版局
ジル・ドゥルーズ「マンフレッド、なみはずれた革新」in『狂人の二つの体制』河出書房新社
(ちなみにベーネはパゾリーニ『アポロンの地獄』にクレオン(=イオカステの弟)役で出演している。)

269頁 カルメンという名の女
Prénom Carmen - L'Aurore - Godard - Sub. Ita.

http://www.youtube.com/watch?v=P7u781bhpzU

286頁
博士の異常な愛情
<キューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『二〇〇一年宇宙の旅』の巨大コンピュータ、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテル…のように頭脳と世界との同一性が成立している。>
博士の異常な愛情 予告編

http://www.youtube.com/watch?v=MqBIOfZC-I4

310頁
<…黒人たちがアメリカのB級映画や、老練なパリジャンたちを演じているとき、『私は黒人』と彼はいうのだ。言語行為は…自由間接話法として植えつけるのだ。>
私は黒人
jean rouch _ moi un noir _ eu um negro _ 1958

http://www.youtube.com/watch?v=nmg-s3VEJ-I

 第9章 イメージの構成要素

312頁
タブウ

353頁
<視覚的イメージと音声的イメージを分離…『インディア・ソング』は、なみはずれた準安定的均衡を両者の間に確立している。>
インディアソング
India song 1

http://www.youtube.com/watch?v=41g1MlO3nis


 第10章
363頁
<もはやカリガリから(あるいは一つのドイツ映画から)ヒトラーへ、ではなく、ヒトラーから『一つのドイツ映画』[ジーバーベルク『ヒトラー』の副題]へであり、変化は映画の内部で起きるのだ。…ヒトラーがその代理をつとめてしまった…心的自動装置を再構築…しなければならない。つまり映画が最初から運動とイメージの間に結んでいた絆を放棄し、映画が支配していた別の力能を解放しなければならない。>

ヒトラー、一つのドイツ映画
Hitler - Un film dalla Germania 1p.

http://www.youtube.com/watch?v=0Gm01KBcJnU

381
<現代的イメージ…イメージがもはや合理的切断によって連結されるのではなく、非合理的切断において再連結される。われわれはその例としてゴダールの系列を提示し…とりわけレネにおいてそれを見た(『ジュテーム・ジュテーム』において、すべてがそのまわりをめぐり、行きかう契機とは、典型的な非合理的切断である)。>381頁
『ジュテーム・ジュテーム』(第4章114頁、第5章170頁でも言及されていた)
Alain Resnais - Je t'aime, je t'aime - Dialogue about cats


http://www.youtube.com/watch?v=-TgCvi7KK3w

Alain Resnais - I love you, I love you (Je t'aime, je t'aime) - 1968, English subs

http://www.youtube.com/watch?v=vsxFqEqy8d4

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亜硫酸日記:ドゥルーズ『シネマ2 時間=イメージ』英訳版への序文
http://blog.livedoor.jp/aryusan_nikki/archives/51568752.html
 ギリシャの哲人ども以来カントまで何世紀にもわたって、哲学にはある革命が起こっていた。運動に対する時間の従属は転倒され、時間は普遍的な運動のものさしであることをやめ、いよいよそれそのものとしてあらわれ、矛盾にみちた運動を創造するようになる。時間はタガが外れてしまった、というハムレットのことばは、時間がもはや運動に従属させられることもなくなり、むしろ運動が時間に従属させられるようになったということを意味している。これと同じ経験、同じ転倒を、映画はそれそのものの領域で、より早く推移する状況のなかで繰りかえしている、といえるだろう。戦後、古典映画と呼ばれる運動=イメージは、直接的な時間=イメージに道をゆずった。こうした一般的観念はもちろん、適切化され、修正され、具体的な事例に当てはめられねばならない。
 なぜ第二次世界大戦は一個の変化とみなされるのか? 実はヨーロッパでは、もはやどう反応すればいいかわからないような状況や、もはやどう描写すればいいかわからないような空間が戦後の時代にぐっと増加したのである。見捨てられて誰も住まないような、廃倉庫や、不毛の大地や、破壊あるいは再建の途上にある都市などといった「空間以上の何ものでもない空間」だ。そして空間以上の何ものでもない空間には、ミュータントのたぐいの、新種の登場人物が跋扈する。彼らは行動するよりまず見ようとする、見者たちである。それゆえロッセリーニの三部作、『ヨーロッパ1951年』、『ストロンボリ、神の土地』、『ドイツ零年』に出てくるのは、破壊された都市にいる子供であり、ストロンボリ島にいる異邦の女性であり、周りにあるものを「見る」ことにつとめはじめるブルジョワ女性なのである。状況は異常なものであるか、あるいは真逆に日常の陳腐なものであったり、またその両者が同時にあらわれていたりする。崩壊しつつあるもの、あるいは少なくともそのポジションを失いつつあるものこそが、古い映画の行動=イメージを構成していた感覚=運動図式である。そして感覚=運動の結びつきがゆるめられたおかげで、スクリーン上にあらわれてきたのが「純粋状態にある若干の時間」という時間なのだ。時間は運動に由来するものであるのをやめて、それそのものとしてあらわれるとともに「偽りの運動」として自らをあらわす。それゆえ現代映画においては「間違ったつなぎ」が重要なのであって、イメージどうしはもはや理にかなったカット割りやつながりによって結びつけられることもなく、間違ったつなぎ方と不合理なカット割りによって結びつけなおされる。身体でさえもが、もはやまったく運動するもの、すなわち運動の主体あるいは行動の道具ではなくなり、むしろ時間の現像者[レヴェラトゥール]となって、その飽きや待ちぼうけを通して時間を見せつけるようになる。
 映画的イメージが現前している、ということはまったく適当でない。現前しているものは「表象=再現前している」イメージであるが、絵画におけるそれのように映画においては、イメージそのものでないかぎり、それが表象=再現前しているものと混同されるということは決してない。イメージそのものはその要素どうしの間における関係性の体系であり、すなわち、ただ流れていくだけのうつろいやすい現前=現在からなる時間の関係性の一群である。わたしはこの意味において、タルコフスキーがショットにおける「時間の圧力」によって映画を定義するとき、彼はモンタージュとショットの区別をこころみているのだと考えている。イメージに固有のものは、それが創造的であるかぎりで、表象された対象のなかには見られないような、そして現前するところにまで自らをおとしめさせることのないような時間の関係性を知覚可能にし、可視化するのである。たとえば、ウェルズにおけるフィールドの深さや、ヴィスコンティにおけるトラッキング・ショットをとりあげよう。われわれは交差する空間よりもむしろ、時間のなかへと追いこまれる。サンドラの車は、ヴィスコンティの映画の冒頭において、すでに時間のなかで運動しているし、ウェルズの登場人物は空間内において場所を変えるよりもむしろ、時間において広大な場所を占めている。
 これは時間=イメージがフラッシュバックや、あるいは回想とさえも何の関係もないということである。回想は以前のものの現前にすぎないが、現代映画における記憶喪失の登場人物たちは、文字どおり過去へと沈降していったり、回想においても隠されているものを可視化することによって警告をうけたりする。フラッシュバックは手がかりにすぎないが、偉大な作家に用いられるとき、そこにはもっとずっと複雑な時間構造を見せつけることになる(たとえば、マンキーウィッツにおける「分岐する」時間という、時間が異なったコースをとりえた瞬間の再獲得など)。あらゆる場合において、われわれが時間構造とか直接的な時間=イメージと呼んでいるものは、純粋に経験的な時間の連続――過去=現在=未来、を明らかに超えていっている。それはたとえば、別個の持続どうしや持続の複数のレベルどうしの共存である。ある単独のできごとはさまざまなレベルに属しうる。過去という広がりは、非=年代的な秩序においても共存するのだ。われわれはこれを、ウェルズの力強い大地の直観や、さらには死地から帰還するレネの登場人物たちに見いだしている。  まだたくさんの時間構造が存在する。この本の全体的な目的は、映画的イメージが把握し、また明らかにしてきたものであったり、科学の教説、その他の芸術がわれわれに明らかにするもの、あるいは哲学がわれわれに理解できるようにするものなどに影響を与えうるものであったりを、それぞれの方法で提供することである。映画はまだ、イメージの創造物においてしかあらわれえないような時間の関係性を可視化しようとする研究の出発点にあるのだから、映画の死について語るのはばかげている。テレビを必要としているのは映画ではない――映画芸術によって豊かにされないかぎり、テレビのイメージは残念ながら現前でありつづけるのだから。ヴィジュアルとサウンドの間の、あるいは見られるものと話されるものとの間の関係と分離は、(ピエール・ペローやストローブ、ジーバーベルクらがそれぞれ異なった方法でしているような)イメージにおける時間の獲得のために問題をよみがえらせ、映画に新たな力をもたらす。そう、当初の力を保っているかぎり、映画は虐殺によって命を落としたりはしないのだ。逆にわれわれは戦前の映画やさらにはサイレント映画にさえも、すでに運動=イメージを画期的に進歩させたり、あるいは押しとどめたり、または包括したりしてきたような、きわめて純粋な時間=イメージに目をむけなければならない。たとえば小津の静物画は、時間の不変の形態としてのものなのか? など。
 この運動と時間についての冒険を翻訳するという労について、ロバート・ガレータとヒュッフ・トムリンソンに謝意を表したい。   ジル・ドゥルーズ 1988年7月

火曜日, 7月 26, 2011

Lacan ,frangment of "Télévision 1973"



Begining of "Télévision 1973"

Jacques Lacan «Je dis toujours la vérité : pas toute, parce que toute la dire, on n'y arrive pas... Les mots y manquent... C'est même par cet impossible que la vérité tient au réel.»
[ Jacques Lacan ] - Séminaire - Télévision 1973

ラカン「私は常に真実を語るが、すべてを語るわけではない」