http://www.freeassociations.org/
テオドラ (ユスティニアヌスの皇后) - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%
83%A9_(%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%
8B%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%9A%87%E5%90%8E)
Teodora, emperatriz de Bizancio, parte 1 (1954)
Teodora, emperatriz de Bizancio, parte 2 (1954)
ビザンツ世界の歴史映画
http://heartland.geocities.jp/zae06142/bizantfiction.html
ビザンツ歴史映画「戦車を駆る女王テオドラ」
http://heartland.geocities.jp/zae06142/theodra.html北川景子 悠久の都 トルコ イスタンブール~2人の皇后 愛の軌跡を辿る~ - Gガイド.テレビ王国
http://tv.so-net.ne.jp/schedule/200181201412302100.actionアンドロメダー - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%BCアンドロメダーの物語は日本・欧米ともによく知られている。アンドロメダーを描いた絵画が残り、アントニオ・ヴィヴァルディは「救われたアンドロメダ」というセレナータを作曲している。
アンドロメダーが生け贄になった時の状態は、裸体だった(裸にされて海岸に据えられた)という設定と、着衣だった(白い服の着用など。なお、この衣服も他のギリシア神話の人物と同じような形で、古代アフリカ人の衣服ではない)という設定がある。名画などでは前者の設定が多く、生け贄としての姿は全裸のものが多い。しかし、映画作品・星座物語(書籍・プラネタリウムなど)のストーリー・絵を伴うアンドロメダ座の星図では着衣であることが多い。なお彼女は白人の姿で描かれることが多いが、エチオピア王国の王女ということから黒人と看做されるのが神話時代からの定説である[3]。
私たち日本人はどのようにして生まれ、どこへ向かおうとしているのか。その答えが1300年前に生まれた日本最古の歴史書「古事記」にある。
ドラマティックな「古事記」の物語のハイライトを3DCGアニメーションで紹介。そこに秘められた様々な「謎」をスタジオトークで紐解いていく。
また、紀行パート「古事記の旅」では、今も残る「古事記」神話の里を訪ね、土地にまつわる伝説・民話や祭りと共に、今も残る雄大な自然・風景を美しい映像でお届け。
昨年6月に放送した第1話【国生み】、第2話【黄泉の国】に引き続き、今回は下記の内容でお送りする。
■第1話「国生み」~日本はこうして誕生した~ 12月29日(月) 10:00~10:55
イザナミの出産によって誕生する日本の国土、そして2人の神によって作り出されるありとあらゆる神々の物語をアニメーションで紹介。
紀行編では、日本のはじまりの島といわれる瀬戸内海の小島「オノゴロ島」、イザナキとイザナミがその周りを回って国土を生んだ「天の御柱」と伝えられる奇岩など、古事記ゆかりの地を紹介する。
■第2話「黄泉の国」~日本人の死生観に迫る~ 12月30日(火) 10:00~10:55
夫・イザナキノミコトとともに国土を生み、様々な神々を生んできたイザナミノミコトが亡くなり、その死を悼むイザナキが、死者が住む黄泉の国へイザナミを訪ねるところから始まる。
紀行では、島根県「黄泉平坂」(よもつひらさか)と言われる場所や、イザナキノミコトが祭られた日本最古の神社の一つを紹介する。
■第3話「天の岩屋 ~姉弟神の対決~」 12月31日(水) 10:00~10:55
高天の原(たかまのはら)を治める姉・天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、弟・スサノヲノミコトが対峙した「誓約(うけひ)」とは何か?紀行パートでは、アメノウヅメが舞い踊る「天の岩屋」の舞台となった宮崎県・高千穂を訪れる。
■第4話「八俣大蛇 ~英雄の誕生~」 1月 1日(木) 10:00~10:55
高天の原を追放され地上に降り立ったスサノヲノミコトは、恐ろしいヲロチに生け贄にされようとする娘に出会う。ヲロチ退治を引き受けたスサノヲノミコトの策略とは?稲羽のシロウサギを助ける大国主神(オオクニヌシノカミ)も登場。二柱の神を通して日本人の英雄像を考察する。
■第5話「根の堅州国(ねのかたすのくに)~新たなる試練~」 1月 2日(金) 10:00~10:55
兄である八十の神々に命を狙われるオホナムヂの神(後の大国主神)。逃れた根の堅州国でスサノヲノミコトの娘と恋に落ちる。スサノヲノミコトがオホナムヂに課した、「王者」になるための数々の試練とは?紀行では、神の力が宿る石「翡翠」の原郷、新潟県・糸魚川を訪ねる。
■第6話「国譲り ~日本国成立~」 1月 3日(土) 10:00~10:55
試練を乗り越え、地上の王となった大国主神に、天照大御神を始めとする高天の原の神々は、国を引き渡すよう迫る。大国主神の下した決断とは?日本を二分した戦いの謎とは?
<放送スケジュール>
■12月29日(月) 10:00~10:55【第1話】
■12月30日(火) 10:00~10:55【第2話】
■12月31日(水) 10:00~10:55【第3話】
■ 1月 1日(木) 10:00~10:55【第4話】
■ 1月 2日(金) 10:00~10:55【第5話】
■ 1月 3日(土) 10:00~10:55【第6話】
ホラン千秋
里中満智子(漫画家)
三浦佑之(立正大学 教授)
参考:
同シリーズ
古代中国 よみがえる伝説「項羽と劉邦 王者の条件」 -14.04.25-—在线播放—优酷网,视频高清在线观看
http://v.youku.com/v_show/id_XNzAzODc5MDA0.html
項羽と劉邦 四面楚歌
:古代中国 よみがえる伝説「曹操と孔明~乱世の英雄 知られざる素顔~」 | チャンネル:BSプレミアム
| |||||||
番組HP: http://www.nhk.or.jp/bs/t_culture/ |
前漢の武帝は、辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせた(軍屯)。後漢末期に徐州の陶謙が陳登を典農校尉に任じて屯田のことを行わせ、続いて196年には魏の曹操は、韓浩・棗祗らの提言に従って屯田制を導入した。これは、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させるもの(民屯)で、当初は許都の周辺で行われ、のち各地に広まった。屯田制下の人民は、各郡の典農中郎将、各県の典農都尉によって、一般の農村行政とは別に軍事組織と結びついた形で統治された。司馬懿の提言で、長期にわたる抗争を繰り広げていた呉・蜀それぞれの国境付近(淮河流域、関中)でも軍屯が展開され、これにより安定した食糧供給を維持した魏は、両国との争いを有利に進めた。晋の時代になると民屯が廃止され、軍屯のみが残った。こうした国家が土地・人民を直接に管理・支配しようとする試みは、のちの均田制にも通じるものであったといえる。
こうした軍戸制は、モンゴルの千戸制を模した組織を作ろうとした元代の漢人部隊で復活し、明代になるとより大々的に実施され今日では衛所制と言われている。また軍隊が、必要応じて耕作する、という意味での広義の屯田は、唐宋以後も、清に至るまで、特に辺境防衛の兵糧確保の手段として、しばしば行われている。
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。 諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。
益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。
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噫吁戲危乎高哉
蜀道之難難于上青天
蚕叢及魚鳧
開國何茫然
爾來四萬八千歳
不與秦塞通人煙
西當太白有鳥道
何以橫絶峨眉頂
地崩山摧壯士死
然后天梯石棧相鉤連
噫吁戲(ああ) 危ふきかな高い哉
蜀道の難きは青天に上るよりも難し
蚕叢と魚鳧(ぎょふ)と
開國 何ぞ茫然たる
爾來 四萬八千歳
秦塞と人煙を通ぜず
西のかた太白に當りて鳥道有り
何を以てか峨眉の頂を橫絶せん
地崩れ山摧けて壯士死す
然る后 天梯 石棧 相ひ鉤連す
ああ、なんと危ういことよ険しいことよ。
蜀道の険しさといったら、晴天に登るよりも大変なほどだ。
蚕叢と魚鳧が開国した頃のことは今では知りようもなく、
それ以来四万八千年の月日が流れているが、境を接する秦国と人の行き来はなかった。
西方の太白には鳥の通う道があるが、それも峨眉山の頂には達していない。
地が崩れて山がくだけ、ここを通る多くの壮士が死んだ。
そんなことがあってから天に登る梯子と吊り橋がかけられたのだ。
蜀への道の険しさを歌った詩です。「ああ危ういかな難いかな」の出だしが、すごく気持ちよかったです。だいぶ気合の入った朗読が録れたと思います。
蜀は周囲を険しい山に囲まれ、外部から隔絶された世界でした。(だから孔明はすでに強い勢力を持っている魏、呉と争うのを避け、蜀の地に国を作りなさいと劉備にすすめた。)
【峨眉山】は四川省峨眉の東南にあるけわしい山。仏教や道教の聖地として知られます。李白の詩では「峨眉山月の歌」が有名です。
蜀道の険(しょくどうのけん)は、戦国時代、秦の恵王が蜀王を騙して敷かせた道。
蜀道とは漢中から成都への桟道の事を指す。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。 中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所として知られる。
若武者・姜維に策を見抜かれ、生まれて初めて敗北を味わった孔明は、姜維を味方 につけようと動きだす。天水城に夜襲をかけた孔明は、暗闇の中に姜維そっくりの兵士を 登場させ、姜維を反逆者に仕立てあげる。行き場を失った姜維は蜀に帰順 .... 孔明は 食糧を運ぶ一輪車「木牛流馬」を作り、仲達の作戦をくつがえす。魏軍は木牛流馬に しかけが ...
噫吁戯危乎高哉/蜀道之難難於上青天 (ああああ危ういかな高いかな、 蜀道の難きは 青天に上るよりも難い)。 ... てこずった挙句、孔明が考案したと伝えられる運搬道具で、 詳細は図として残っていないので推測の域を出ないが、どうやら一輪車のようである。
孔明のものが多いため人物別にまとめようとも思いましたが物語の順のほうが流れが わかりやすそうなのでこうしました。 他にも「これは名 ... へ 孔明(蜀) 曹操への降伏を 考えている呉の周瑜に孔明が「絶世の美女という喬公の姉妹を曹操は手に入れたいと 言っている。 ..... 孔明(蜀) 六度目の北伐の際に造った、兵糧を運ぶ牛の形をした一輪車 。 道 ...
参考:
同シリーズ
項羽と劉邦 四面楚歌
http://varadoga.blog136.fc2.com/blog-entry-40363.html?no=40347
(リンク::::::::::、『差異と反復』、アンチ・オイディプス、ノート)本頁
存在論的リスト、『差異と反復』より(ドゥルーズ:メモ)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/12/blog-post_27.html@
ドゥルーズ『差異と反復』はドゥルーズ流哲学史だ。シュミラクルのシステムもデカルト(5)→スピノザ(4)→ライプニッツ(1,2,3)→ヘーゲル(6)→ニーチェ(7)の順に解釈及び書き換え可能だ(ベルクソンの逆円錐は全体のモデルとしては有効だが、横からではなく上下から見る形が重視される)。
《要するに、見せかけ(シュミラクル)のシステムは、表象=再現前化の諸カテゴリーとは、はじめから、きわめて異なるように思われる諸概念によって、記述されなければならないのだ。
(1)諸強度〔差異〕がそこで組織される、深さ、スパティウム〔強度的空間〕。
(2)諸強度によって形成される、齟齬する諸セリー、諸強度によって描き出される、個体化のもろもろの場(個体化の諸ファクター)。/
(3)諸強度を連絡の状態に置く、「暗き先触れ」。/
(4)カップリング、内的共鳴、そこから生じる強制運動。
(5)そのシステムにおける受動的自我と幼生の主体との構成、および、時-空的純粋力動の形成。
(6)そのシステムの二重の異化=分化を形成し、それらのファクターを覆ってくる、質と広がり、種と部分。
(7)質と延長が展開された世界において、それでもなおその諸ファクターの執拗な持続を証示する、包み込みの中心。
見せかけ(シュミラクル)のシステムは、発散〔分岐〕と脱中心化を肯定する。》
邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、より
《まずは(1)と(2)の概念が創造の母胎、/
(3)の概念が媒介者、/
(4)から(7)が生起のメカニズムという点を押さえればよい。》
哲学の歴史、鈴木泉640頁
1,2ニーチェ
4スピノザ
5デカルト
3,5,7文学
1,2,3,6,7ニーチェ
4,スピノザ
5,デカルト
まず『差異と反復』の全体像を把握するためにドゥルーズ自身の言葉をみる。
《差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。<差異は「つねに」それらの諸要請に服従させられていたのか、そうだとすればどのような理由で>という疑問は、当然注意深く検討してみるべきものである。しかし、純然たる齟齬するものたちが、わたしたちの表象=再現前化的な思考には近づくことのできない或る神的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の《大洋》の、わたしたちには測深できない手前にある冥府を形成しているということも明らかである。いずれにせよ、それ自身における差異は、その差異を思考されうるものに仕立てあげてしまうような、異なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒絶するように思われる。まさしく思考されうるものへと、それ自身における差異が生成するのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表象=再現前化の四重の首伽〔諸要請〕──概念における同一性、述語における対立、判断における類比、知覚における類似──に服従される場合でしかないと思われる。》(『差異と反復』結論、冒頭391頁)
別訳:
《(1)諸強度(=内包量)がそこで組織される強度的(=内包量)空間(スパティウム)
(2)諸強度(=内包量)が形成する齟齬する諸系列(セリー)、諸強度(=内包量)が描き出す、個体化のもろもろの場(個体化の諸要因)/
(3)諸強度(=内包量)を交通させる暗き先触れ/
(4)そこから生じるカップリング、内的共振、強制運動
(5)システムにおける受動的自我と幼生的主体との構成、および時-空的純粋ダイナミスムの形成
(6)システムの二重の分化=差異化を形成し、先の諸要因を覆う、質と広がり、種と部分
(7)質と延長が展開された世界において、それでもなお、それらの諸要因の執拗な持続を告げる包み込みの中心。…
…まずは(1)と(2)の概念が創造の母胎、/
(3)の概念が媒介者、/
(4)から(7)が生起のメカニズムという点を押さえればよい。》(哲学の歴史、鈴木泉639~640頁)
上記前半部分は、邦訳単行本『差異と反復』412~3頁、結論、見せかけ、とは別訳。
The ontological list
1the depth or spatium in which intensities are organized; 2the disparate series these form, and the fields of individuation that they outline (individuation factors); 3the “dark precursor” which causes them to communicate; 4the linkages, internal resonances and forced movements which result; 5the constitution of passive selves and larval subjects in the system, and the formation of pure spatio-temporal dynamisms; 6the qualities and extensions . . . which form the double differenciation of the system and cover over the preceding factors; 7the centres of envelopment which nevertheless testify to the persistence of these factors in the developed world of qualities and extensities.
Intensive Science and Virtual Philosophy (Bloomsbury Revelations)
by Manuel DeLanda
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Kant Spinoza
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《Se tale è la ricchezza e, insieme, l'ambiguità contenuta nel diagramma testamentario L'immanence: une vie..., la sua assunzione come compito filosofico implicherà retrospettivamente la ricostruzione di un tracciato genealogico che distingua chiaramente nella filosofia moderna – che è, in un senso nuovo, in gran parte una filosofia della vita – una linea dell'immanenza da quella della trascendenza, secondo uno stemma approssimativamente di questo tipo: 》(Pagina 377 L'immanenza assoluta )
ドゥルーズ『批評と臨床』より
第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
1「〈時間〉の蝶番がはずれている……」
──シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場
…『純粋理性批判』とは、北方の王子たるハムレットの本なのだ。カントは、この逆転の全射程を把握することを可能にする歴史的状況の中にいる。…[邦訳単行本『差異と反復』第2章146頁参照]
2「〈私〉とは他者である……」
──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、
一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。
…概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私─自我〉関係によって二重化されているのである。…[邦訳『シネマ2』第6章213~4頁参照]
3「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!
……というのも、それらの法の性質は
かくしてその内容について秘密を要求するからである」
──カフカ『万里の長城』*
…『実践理性批判』において、カントは法と〈善〉の関係の逆転を行なっており、かくして、純粋にして空虚な単一性にまで法を押し上げている。〈法〉の告げることが善であり、善は法に従属するのであって、その逆ではない。…[*邦訳『カフカ』(第五章87頁^)185頁の訳者解説によると、「法の問題について」(「掟の問題」邦訳『カフカ・コレクション ノート2』147~8頁)が正確な出典元。]
3「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ
到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、
あらゆる感覚の錯乱によって」
──ランボー、前掲書簡。
…不協和音の解放、不調和な調和──これこそが、『判断力批判』の偉大なる発見であり、カントの最後の転倒である。…[錯乱については同じく『批評の臨床』第1章「文学と生」に《文学は錯乱である。だが、錯乱は父─母にかかわる事態ではない。民衆=人民、人種、部族の数々を経由せず、世界史に憑依しないような錯乱は存在しない。あらゆる錯乱は歴史─世界的なものであり、「人種と大陸の数々の移動」なのである。文学とは錯乱である。そしてこの資格において、それはみずからの運命を錯乱の二つの極のあいだに賭ける。》とある。]
ハムレットとオイディプスはアンチノミーの関係だ。
「…してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。」(財津訳『差異と反復』、単行本版、p.144)。
///////////
ドゥルーズと柄谷にあって吉本にないもの、それはカント**への遡行である。
**
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*
第17章 スピノザと三つの『エチカ』
《『エチカ』は三つの要素を呈示している。それらは内容であるのみならず、表現の形式でもある。すなわち、〈記号〉あるいは情動[affect]、〈概念〉あるいはコンセプト[concept]、〈本質〉あるいは知覚対象[percept]がそれである。これらは認識の三つのジャンルに対応しており、このジャンルとは、実存および表現の様態でもある。》
《スピノザがライプニッツから本質的に区別されるのは、ライプニッツが、バロック的インスピレーションに近いと言うべきだが、〈暗きもの〉(《fuscum subnigrum》)のうちに、ある母胎を、ある前提を見てとるから──明─暗が、さまざまな色彩が、そして光さえもがそこから生じてくることになる、そんな母胎を、前提を見てとるからである。スピノザにおいては、反対に、すべては光であり、〈暗きもの〉も影にすぎない。》
《様態とは投影=射影のことである。…
光の投影としての様態は、同様にして色彩であり、色彩を与える原因である。さまざまな色彩は補完性とコントラストの関係に入り、この関係は、一つひとつの色彩が限界においては全体を構成し、またすべての色彩が組み合わせの秩序にしたがって、あるいは、そこから分解の秩序へと抜け出すことによって、白(無限の様態)のうちに再び結び合うようにするのである。》
《…証明三〇は、一種の崇高な三角形を──だが点描で──描いている。その頂点が光の形象(私、〈世界〉、そして神)であり、距離としてのその辺が、今度は最大のものとして開示される絶対的速度で踏破される、そんな崇高な三角形を。第五部の特殊な性質、先行する部の方法を乗り越えるそのやり方が差し向けるのはつねにここだ。すなわち、光の諸形象の絶対的速度。
諸々の定義、公理、公準、証明、そして系からなる『エチカ』は、みずからの流れを展開する大河─としての書物である。だが、注解の数々からなる『エチカ』は、火の、地下に隠れた書物である。第五部の『エチカ』は大気の、光の書物であり、稲妻によってそれは事を行なうのだ。記号の論理、コンセプトの論理、本質の論理。すなわち〈影〉、〈色彩〉、〈光〉。三つの『エチカ』のそれぞれは、その本性の差異にもかかわらず、他のものと共存し、他のものの中にみずからを延長している。それは唯一にして同じ世界なのだ。たがいを隔てる空虚を踏み越えるために、それぞれがブリッジを差し伸べているのである。》
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p30
定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。
証明 永遠性とは神の本質が必然的存在を含む限り神の本質そのものである(第一部定義八により)。ゆえに物を永遠の相のもとに考えるとは、物を神の本質を通して実在的有として考えること、すなわち物をその存在が神の本質の中に含まれているとして考えることである。したがって我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに考える限り必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り云々。Q・E・D・
スピノザ『エチカ』について
時間のない人は、
第四部終わりの付録から読むのがいいかも知れないが、岩波文庫版だと
第三部が上巻にあるから4から3へ遡りにくい
内容的に1,2と3,4,5で二巻に分かれている方がいい
合本ならなおいいが、、、、
電子書籍版でも2巻本は検索しにくい
ドゥルーズ『千のプラトー』電子版のように合本版を別途出して欲しい
☆
https://mitizane.wordpress.com/2013/03/24/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%
80%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%
A6%E3%80%82%E3%81%82%E3%81%AE%E7%8B%82%E3%81%A3%E3%81%
差異と反復
ジル・ドゥルーズ
財津 理 訳
河出書房新社 ISBN4-309-23029-6
pp.143-144.
第二章 それ自身へ向かう反復
ひび割れた《私》、受動的な自我、そして時間の空虚な形式
デカルトは、《コギト》を瞬間に帰し、時間を排除することによって、あるいは連続創造を行う神にその時間を委ねることによって、はじめて結論を出すことができた。 一般的に言うなら、〔デカルトにおける〕《私》の前提的な同一性の保証は、神自身の一性にほかならないのである。 そのようなわけで、《私》が、まさしく神に負っている同一性を保持するかぎり、〔中世的な〕「神」の視点のかわりに〔近代的な〕《私》の視点を〔デカルトが〕用いたということの重要性は、世間で言われているよりもはるかに小さいのである。 《私》が、神との類似を余すところなく表現するおのれの存続、単純性、同一性を所有するかぎり、神は生き続けるということになる。 逆に言うなら、神が死ねば、《私》の同一性は存続せず、反対に、《私》のうちにおいて、本質的な非類似が、「印の消去(デマルク)〔投げ売り用の商標外し〕」が、神の印(マルク)〔商標〕あるいは刻印のかわりに創設され内化されるのである。 これこそ、カントが、少なくとも一度は、つまり『純粋理性批判』において、きわめて深く見抜いたことである。 すなわち、合理的神学と合理的心理学の同時的消滅、および神の思弁的な死が《私》の亀裂を惹起するその仕方。 〔『純粋理性批判』における〕先験的哲学の最高の主導性が、思考そのものに時間の形式を持ち込むことにあるとするならば、今度はこの形式が、純粋で空虚な形式であるかぎりにおいて、死んだ神と、ひび割れた《私》と、受動的な自我を、破棄できないかたちで意味するのである。 カントはその主導性を徹底していない、というのは確かである。 というのも、神と《私》は、〔『実践理性批判』における〕実践的な復活を体験するからである。 しかも〔『純粋理性批判』における〕思弁的な領域においてさえ、その亀裂は、新たな形式の同一性によって、つまり能動的な総合的同一性によってたちまち埋め合わされてしまい、その一方において受動的な自我は、受容性によって定義されるにすぎず、そのかぎりにおいて、いかなる総合の力能もそなえていないからである。 反対に、すでにわたしたちが見たとおり、もろもろの触発を受け取るキャパシティーとしての受容性は、ひとつの結果でしかなく、そして、受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照-縮約)によって、さらに深いところで構成されるのである。 もろもろの印象や感覚を受け取る可能性は、そうした受動的な総合に由来しているのだ。 カントによる総合と受動性の割りふりは、表象=再現前化の世界を救うための至高の努力である以上、それを維持するわけにはいかないのである。 すなわち、カントによるそのような割りふりにおいて、総合は、能動的なものとして考えられ、《私》における新しい形式の同一性に依拠し、受動性は、総合なき単純な受容性として考えられている。 いま言及したカント的な主導性が繰り返されうるのは、そして時間の形式が死んだ神とひび割れた《私》を同時に維持するのは、受動的な自我に関するまったく別の評価においてである。 そうした意味において、カント哲学の帰趨は、フィヒテあるいはヘーゲルにではなく、ひとりへルダーリンのみにあると言ってよい。 というのも、ヘルダーリンは、純粋時間の空虚〔な形式〕を発見し、この空虚のなかに、神的なものからの連続的な逸脱〔転回〕と、《私》に走る長い亀裂と、そして《自我》を構成する受苦〔受動〕を同時に発見しているからである。ヘルダーリンは、そのような時間の形式のなかで、オイディプスの悲劇と冒険の本質とを、相補的な諸形態をそなえたひとつの死の本能として見てとったのである。 してみると、カント哲学はもしかして、オイディプスの後継者ではないだろうか。
國分功一郎@lethal_notion
そのドゥルーズ没後20年に合わせて、大きなものを出します。ドゥルーズが死後発表を条件に収録したインタビュー映像『アベセデール』のDVD(全三枚)、その日本語版を僕の監修で発売します。最高のチームが翻訳を進めています。作業は終盤に入っています。
発売日も近いうちに発表されるでしょう。
現実性(アクチュアリティ)
実在性(リアリティ)+ 可能性(ポッシビリティ)
潜在性(ヴァーチャル)
http://yojiseki.exblog.jp/6300419/
実在性(リアリティ)と可能性(ポッシビリティ)
に、
現実性(アクチュアリティ)
と潜在性(ヴァーチャル)
が対立した軸として交差する。
これは柄谷行人『探求2』*における特殊/普遍と個別/一般の区別に相当する。
(リアリティとアクチュアリティの訳語が東浩紀に習って逆になっている。)
B現実性(アクチュアリティ)
A実在性(リアリティ)+ 可能性(ポッシビリティ)
潜在性(ヴァーチャル)
カント、プラトンは両義的な読みが可能なためABがある。
『差異と反復』はAからBへの読み替えを可能にする運動としてある。
差異と反復5
潜在的
可能的+実在的
現働的
潜在的なものは実在的でもあり得る(左下)、ということ。
訳語は普遍論争と同じで定着していない。
差異と反復5
可能的
現働的+潜在的
実在的
現働的
可能的+実在的
潜在的
柄谷交換図に対応するのは上図かも知れないが(ヴァーチャルリアリティーがD)、下図もあり得る。
現働的
実在的+可能的
潜在的
ヴァーチャルリアリティーが資本主義なら、ヴァーチャルポッシビリティーがアソシエーションか?
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY2/9.html
《●垂直方向にアクチュアル/ヴァーチュアルの軸を引く。それは下方(潜在性)から上方(現実性)への力の矢印となるだろう。C.S.パースにならって普遍(確定されないもの)から個別(確定されたもの)へと言ってもいいし(『ヨーロッパ精神史入門』第7章)、木村敏の言葉を借りて「ディオニューソス的ゾーエー」から「アポロン的ビオス」(『関係としての自己』序論)へと言い換えてもいい。リアル/ポッシブルの軸はこの垂直軸(生成軸)に直角に交差する水平軸(存在軸もしくは認識軸)をなす。それは(離人症患者でないかぎり)アクチュアリティとリアリティが表裏一体のものとして現象する世界の界面である。そしてこの二軸の交点において「私」が制度化される。
この図式はフェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』(49頁)で示した「四つのカテゴリーの交差行列」と相同である。》
ドゥルーズのウィト嫌いはABCを見るまで半信半疑だった。ショーペンハウアー経由で重なるし、ドゥルーズは分析哲学というか論理学(主にライプニッツ関連)から得ているものもあるから水と油ではないはず。