弁証法の拒絶:ゴダール『ソシアリスム』(2010)&『さらば、愛の言葉よ』(2014)&『イメージの本』(2018)
https://twitter.com/slowslow2772/status/1618563476699611136?s=61&t=oqDD0hSjW8nvqS4omb9QcgFilm socialisme 2010 godard
— slowslow2772 (@slowslow2772) January 26, 2023
Bernard Maris pic.twitter.com/kDyY5H4Xpy
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/moi-je.html
弁証法の拒絶:ゴダール『さらば、愛の言葉よ』
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NAMs出版プロジェクト: モンテーニュ、ゴダール
NAMs出版プロジェクト: 資本主義と死の欲動
http://nam-students.blogspot.jp/2017/11/blog-post_6.html弁証法の拒絶:ゴダール『さらば、愛の言葉よ』
ゴダールの3Dは、ドゥルーズがゴダール作品の特質として最初に指摘した、弁証法の拒絶の結実だ。映画内の章にも1(隠喩)と2(自然)はあるが3はない(『ソシアリスム』にはあったが)。エイゼンシュテインがその立体映画論において未来に存在を楽観視した民衆のための広場はそこにはないが、未来の代わりに現在がある。子供の代わりに犬がいる(『ソシアリスム』に続いてではあるが、デリダへの応答は珍しい*)。
夫婦から生まれる赤ん坊の隠喩はヘーゲルの弁証法のプロトタイプだが、ゴダールは音だけで処理する。
想像力がある者は現実に頼らない、ということだろう。
未来はないと言ったが、前半仕切りに流れるスラブ行進曲(音楽ではなく音への遡行、むしろ数学への傾倒)は、プーチンの暴走を予言している。ゴダールはプロセスをそのまま作品にしているが、未来を予言しているところもある。例えば、『ソシアリスム』冒頭に出ていた経済学者はシャルリーへのテロに巻き込まれて2015年に殺されている。
左右のカメラをわざとズラすシーンは2箇所。ともに男女の乖離を描いているが、すぐに元に戻る。モンタージュされないのだ。2Dではどういう処理になるのだろうか?
ちなみに同じく視差を扱って成功しているのは宮崎駿の風立ちぬ(冒頭メガネのシーン)くらいだろう。
3Dの効用は、望遠が使えず、画角が一定になり、人物に近づくしかなくなるために、かえって被写体が生き生きしてくることだ。
邦題が不評だが、ハードボイルド小説を踏まえた命名はこれまでのゴダール作品の流れからは正しい。しかし今回はもっと素のゴダールが出ている。
引用群はここではない何処かではなく(アフリカが記号的に使われるが)、日常を異化効果によって蘇らせる。『ソシアリスム』にあった資本への視点は消え、自然への視点が増えた。映画の引用は素材が3Dではないからか後退しており、それがいい方向性を示している。『リア王』の時のソニマージュ(における実験の体験)を立体映画でやり直している観がある。もっと私小説的なのだ。
政治的問題は男女間の問題(排泄と平等及び『アリア』的女性の叫びの変奏)に二重写しされる。
ゴッホの点描を見た後のような視覚の広がりを歴史的にゴダールは我々にもたらした。
普通の日本語字幕が浮き出て見えることで映像と観客との溝は広がるのだが、その溝が心地よい。
弁証法の拒絶は、同一化への希求の表れ(キリーロフ〜『中国女』でも描かれた〜)でもある。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris
http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/
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<第1楽章 こんな事ども>
(地中海の月明かりで)黒黒々とした海面。
経済学者ベルナール・マリス「(オフ)お金は公共財産だ。」
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris
http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/
http://www.amazon.co.jp/dp/448084743X/
内容紹介
猫に自らの裸を見られた体験から始まる講演など4編を収録。デカルト、カント、レヴィナス、ラカン、ハイデッガーを辿り直し、動物と人間の伝統的な対立関係を考察する。
ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(5)音楽
デルタ関数とは
デルタ関数とは、空間の一点にだけ存在する粒子を数式中に表現したいためにディラックによって発明された関数である。 理論上の話だが、ある一点において密度は無限大、 しかしその密度を積分して全体量を求めると有限量であるという性質が欲しかったのである。 イメージとしては次のような関数である。

実は次のように定義しておけば万事解決することが分かる。





なぜこれでうまく行くのかを説明しよう。 上の定義のところに、常に 1 であるような関数








というわけで、(1) 式や (2) 式では無限積分を使っているが、 積分区間に


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非Aの世界
THE WORLD OF NULL-A
A・E・ヴァン・ヴォークト
1945
第二次世界大戦終戦の年に発表され、日本では文庫として1966年の冬に登場している。私は、1979年の第20版を所有している。300円。近年、新装版として再発行されたが、在庫限りのようである。
SFの中では、歴史的作品として名高い。今回、おそらく初再読であるが、初読は高校生の頃だろう。どうにも、入り込めなかったのを覚えている。たしか、続編の「非Aの傀儡」も持っていて、読んでいたはずなのだが、手元にない。記憶もおぼつかない。
今回、読み終えて、それでも腑に落ちない点があり、ちょっとネットで調べたら「一般意味論」とアリストテレス(A)の前提の否定についての解説を見つけ、ようやく得心がいった。20世紀初頭から1933年頃に形成された理論というか、考え方だったのだね。
それを前提にしてヴォークトがSFに仕立て上げたわけだ。20世紀後半に、エコロジー思想が一部のSFに取り入れられていったように。ふうん。
それで得心がいったからといって、どうなるものでもないのだが、その非A=一般意味論がある故に、話しがややこしくて、私には理解できなかった作品である。今も、すっきりしたとは言えない心持ちである。私の理解力は浅いのだ。
さて、2006年の時点で読み直してみて、「機械」(世界をコントロールするコンピュータ)と、その機械が行うゲームによって職業などが決まるという社会や、拡張された脳、クローンと、同一性確保による記憶の移転での「無限の生」など、現代SFではナノテク・ヴァーチャルリアリティ技術・バイオ技術などによって表現される外挿が行われている点で、歴史的名作であろう。
また、ひとつの考え方や方法論を外挿するとどのような作品が可能なのかを理解させる点でも、優れた作品かも知れない。
話しはというと、非A者であるギルバート・ゴッセンは、機械によるゲームによって非A者の世界である金星に行くことを願っていた。しかし、自らの記憶が偽りのものであることを知った彼は、宇宙規模の陰謀に巻き込まれていることを知る。一度は殺され、その記憶があるのに、再び彼は生を得て、金星で目覚める。自分に一体何が起きているのか、誰が自分を殺そうとするのか、誰が自分を操っているのか、誰がどんな目的で彼の記憶を操作しているのか。様々な疑問を自ら解決しつつ、次第に判明する地球と金星の危機に対応するためにギルバート・ゴッセンは、彼をサポートする人たちとともに奮闘する。
というところでよいのかな。
つい先日読んだばかりなのに、私が非A人ではないばかりに、作品のイメージすらおぼつかない。とほほ。
さてと、1945年に書かれた本作品だが、舞台は2560年。2018年に一般意味論協会が金星の非A的可能性を認識し、2100年代に非A的能力を伸ばすための機械によって選別された人が金星に来るようになっていた。舞台の2560年頃の地球人口50億人。金星には2億4千万人が暮らしている。
大体、20世紀中葉の作品では地球人口が50億人ぐらいで、当時の予想人口の倍というのが多い。50億人は多かったのであろう。
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http://aiaikawa-rj.lyricnet.jp/2015/02/blog-post.html
昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』、デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。
たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。
たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ-の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。
たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ-への愛と3Dへの好奇心のみだ。
内容紹介
資本主義と死の欲動 〔フロイトとケインズ〕単行本 2017/11/25
ジル・ドスタレール (著), ベルナール・マリス (著), 斉藤 日出治 (翻訳) 藤原書店
https://www.amazon.co.jp/dp/4865781501/
フロイトとケインズが看破した「資本主義」の自己破壊への道
貨幣とは病的欲望の対象であると指摘したフロイトに応答し、世界恐慌のなかで、経済成長は
「死の欲動(タナトス)」の先送りだと看破したケインズ。二人の天才のメッセージを通じて、
経済的な「自由」の拡大とされる現代のグローバリゼーションが、実際は自己破壊のリスクの
際限ない拡大であることを示す。ケインズ研究の大家と気鋭のエコノミストによる野心作。
2015年シャルリー事件で殺された経済学者ベルナール・マリス(『資本主義と死の欲動』)は
ゴダール『ソシアリスム』冒頭に出演していた。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris
http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/
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<第1楽章 こんな事ども>
(地中海の月明かりで)黒々とした海面。
経済学者ベルナール・マリス「(オフ)お金は公共財産だ。」
アリッサ(アガタ・クーチュール)「(オフ)水と同じ?」
マリス「(オフ)そうだ。」
同パンフ採録シナリオより