木曜日, 12月 24, 2015

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig Heinrich Edler von Mises)


https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig Heinrich Edler von Mises、1881年9月29日 - 1973年10月10日)は、オーストリア=ハンガリー帝国出身の経済学者であり、現代自由主義思想に大きな影響を及ぼした。著名な弟子にフリードリヒ・ハイエクがいる。
…『国民経済学、行為と経済の理論』Nationalökonomie, Theorie des Handelns und Wirtschaftens を執筆し始めたが、それを全面的に改訂増補し英語で書き直して、1949年に『ヒューマン・アクション』(Human Action: A Treatise on Economics)という新しい表題で出版した。 
 それよりもはるか昔にミーゼスは、彼の二大著作である『貨幣及び流通手段の理論』 Theorie des Geldes und des Umlaufsmittel (The Theory of Money and Credit)を、1912年に『共同経済』Die Gemeinwirtschaft(後の英訳名は Socialism)を1922年に、それぞれ既に著していた。これら二冊とも、今や経済学説史上の金字塔として認められている。ノーベル賞経済学者のフリードリヒ・A・ハイエク教授は、「『貨幣及び流通手段の理論』は従来の経済理論体系の最も明白な欠落部分を補ったのみでなく、価値と価格という根本問題にも貢献した。」 「『社会主義』が出版されたとき、それを読んだ私の世代は、深い感銘を受け……それを読んだ者で世界を見る目が一変しなかった者は一人もなかった」と述べている。
夫人によるまえがきより

      ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス/著 村田稔雄/訳
http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00VH9AWOW kindle版
ヒューマン・アクション 人間行為の経済学
新版
出版社名 : 春秋社
出版年月 : 2008年12月
ISBNコード : 978-4-393-62183-7
(4-393-62183-2)
税込価格 : 12,960円
頁数・縦 : 1160P 22cm

商品の内容
[要旨]
経済を動かしているのは見えざる神の手ではなくひとりひとりの行為である!進化経済学、行動経済学をはじめとする、最先端の経済学の源流。
[目次]
第1部 人間行為
第2部 社会機構における行為
第3部 経済計算
第4部 カタラクティクス―市場社会の経済学
第5部 市場なき社会的協業
第6部 妨害された市場経済
第7部 社会における経済学の地位
[出版社商品紹介]
社会主義の不成功を予言、自由の不滅の価値を理論化し、自由主義思想の金字塔となったミーゼスの代表作。

[目次]
序論
第1部 人間行為
 第一章 行為する人間
 第二章 人間行為科学の認識論的問題
 第三章 経済学と理性への反逆
 第四章 行為のカテゴリーに対する最初の分析
 第五章 時 間
 第六章 不確実性
 第七章 外界における行為
第2部 社会機構における行為
 第八章 人間社会
 第九章 観念の役割
 第十章 社会内での交換
第3部 経済計算
 第十一章 計算なき価値評価
 第十二章 経済計算の領域   1 貨幣による記入の性格   2 経済計算の限界   3 価格の可変性  
               4 安定化   5 安定化思想の根源
 第十三章 行為の用具としての貨幣的計算
第4部 カタラクティクス―市場社会の経済学
 第十四章 カタラクティクスの領域と方法
 第十五章 市 場
 第十六章 価 格
 第十七章 間接交換
 第十八章 時間経過中の行為
 第十九章 利 子   1 利子という現象   2 本源的利子   3 利子率の高さ   
           4 変化する経済での本源的利子   5 利子の計算
 第二十章 利子、信用膨張および景気循環
 第二十一章 仕事と賃金
 第二十二章 人間以外の本源的生産要素
   1 地代論に関する全般的所見   2 土地利用における時間的要因   3 限界以下の土地   
  4 場所としての土地   5 土地の価格     ◆土地神話
 第二十三章 市場のデータ
 第二十四章 利害の調和と衝突
第5部 市場なき社会的協業
 第二十五章 社会主義社会の仮構
        1 社会主義思想の歴史的起源   2 社会主義の教説   3 社会主義の人間行為学的特性
 第二十六章 社会主義下での経済計算不可能性
第6部 妨害された市場経済
 第二十七章 政府と市場
 第二十八章 課税による干渉
     1 中立税   2 悉皆税   3 課税の財政的目的と非財政的目的   4 三種類の租税干渉主義
 第二十九章 生産の制限
 第三十章 価格構造に対する干渉
 第三十一章 通貨と信用の操作
 第三十二章 没収と再分配
 第三十三章 サンディカリズムとコーポラティヴィズム
     1 サンディカリストの思想   2 サンディカリズムの誤り
     3 人気のある政策に含まれるサンディカリスト的要素   4 ギルド社会主義とコーポラティヴィズム
 第三十四章 戦争の経済学
 第三十五章 福祉原理と市場原理
        1 市場経済反対論   2 貧 困   3 不平等   4 不安定   5 社会的正義
 第三十六章 干渉主義の危機
第7部 社会における経済学の地位
 第三十七章 経済学の非記述的性格
 第三十八章 学問における経済学の地位
 第三十九章 経済学と人間存在の本質的問題
付 録 「ベーム=バヴェルク時間選好説の論拠に対する批判」
ミーゼス用語解説

(章以下、節の表記は興味深いものを恣意的に選んで残した)


著者紹介
ミーゼス,ルートヴィヒ・フォン (ミーゼス,ルートヴィヒフォン)   Mises,Ludwig von
1881年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のリブーフ(現レンベルグ)生まれ。1906年ウィーン大学法学博士。1934‐40年、ジュネーヴの国際 研究大学院教授。1940年ニューヨーク市へ移住。1945‐69年ニューヨーク大学客員教授。1973年逝去。オーストリア学派の巨頭として、人間行為 論を根底に経済学を体系化するとともに、市場経済と自由主義思想の世界的発展に貢献した
村田 稔雄 (ムラタ トシオ)  
1923年、高知市生まれ。ウィリアム・フォルカー奨学生に選ばれ、ニューヨーク大学に留学、ミーゼスの指導を受け、同大学MBA(経済学専攻)を取得。 横浜商科大学教授、学部長、学長を経て、名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 

椎原伸博 著
リシャ語における交換行為を意味する「カタラクティス」という言葉である。 中沢はこの語の理解を、オーストリア学派のミーゼス、そしてハイエクによって検討し、そこから. 導かれる「カタラクシー」という語が、「「交換すること」だけでなく、「コミュニティーに入ること」 ...

著書

  • 1902年 Die Entwicklung des gutsherrlich-bäuerlichen Verhältnisses in Galizien (1772-1848).
  • 1912年 Theorie des Geldes und der Umlaufsmittel.
  • 1919年 Nation, Staat und Wirtschaft: Beiträge zur Politik and Geschichte der Zeit.
  • 1920年 Die Wirtschaftsrechnung im sozialistischen Gemeinwesen.
  • 1922年 Die Gemeinwirtshaft: Untersitchungen über den Sozialismus.
  • 1923年 Die geldtheoretische Seite des Stabilisierungsproblems.
  • 1924年 Theorie des Geldes und der Umlaufsmittel第2版. 東米雄訳『貨幣及び流通手段の理論』実業之日本社, 1949年. 日本経済評論社, 1980年, 2004年(オンデマンド版)
  • 1927年 Liberalismus.
  • 1928年 Geldwertstabilisierung and Konjunkturpolitik.
  • 1929年 Kritik des Interventionismus: Untersuchungen zur Wirtschaftspolitik und Wirtschaftsideologie der Gegenwart.
  • 1931年 Die Ursachen der Wirtschaftskrise: Ein Vortrag.
  • 1932年 Die Wirtschaftsrechnung第2版
  • 1933年 Grundprobleme der Nationalökonomie.
  • 1934年 The Theory of Money and Credit(上記Theorie des Geldes und der Umlaufsmittelの英訳)
  • 1936年 Socialism(上記Die Gemeinwirtschaftの英訳)
  • 1940年 Nationalökonomie: Theorie des Handelns und Wirtschaftens.☆
  • 1940年 Interventionism: An Economic Analysisを執筆(出版されたのは1998年)
  • 1940年-1944年 アメリカ亡命を機にウィーン時代を振り返る自伝的文章を執筆
  • 1944年 Omnipotent Government: The Rise of the Total State.
  • 1944年 Total War and Bureaucracy.
  • 1947年 Planned Chaos執筆(1951年のSocialismのエピローグとして掲載されるもの)
  • 1949年 Human Action: A Treatise On Economics (上記Nationalökonomie: Theorie des Handelns und Wirtschaftensに基づいての英語版)☆☆
  • 1951年 Socialism新版
  • 1952年 Planning for Freedom: And Other Essays and Addresses.
  • 1953年 The Theory of Money and Credit(新たに"Monetary Reconstruction"の章を含む)
  • 1956年 The Anti-Capitalistic Mentality.
  • 1957年 Theory and History.
  • 1960年 Epistemological Problems of Economics(上記Grundprobleme der Nationalökonomieの英訳)
  • 1962年 The Ultimate Foundation of Economic Science. 村田稔雄訳『経済科学の根底』日本経済評論社, 2002年
  • 1962年 The Free and Prosperous Commonwealth(上記Liberalismusの英訳)
  • 1963年 Human Action第2版
  • 1966年 Human Action第3版. 村田稔雄訳『ヒューマン・アクション』春秋社, 1991年☆☆☆
  • 1978年 Notes and Recollections. 上記の自伝的文章
  • 1979年 Economic Policy: Thoughts for Today and Tomorrow. 村田稔雄訳『自由への決断--今日と明日を思索するミーゼスの経済学』広文社, 1980年. 1959年に行ったアルゼンチン旅行の際の講演記録
  • 1998年 Interventionism: An Economic Analysis(上記1940年の著作)
  • ミーゼスの殆どの著書はmises instituteから無料ダウンロードできる。

競争のない国家社会主義と競争して勝った後には何も残らない。国家だけが残る。

水曜日, 12月 23, 2015

リチャード・プライス( Richard Price, 1723 - 1791)



Richard Price - Wikipedia, the free encyclopedia

ドグター・プライス(Richard Price, 1723-1791)


リチャード・プライスはマルクスに馬鹿にされているが、その複利の認識は歴史的に重要だ。また彼はアメリカ独立を支持したように、進歩的だった。その数学を基盤にしたその成長理論はロバート・ソローの成長理論の先駆だ。

ジョーゼフ・プリーストリ(Joseph Priestley, 1733‐1804)は、ロック急進主義の継承者としてリチャードプライスRichard Price, 17231791)とともによく知られている。


《ドクター・プライスの思いつき… 
 「複利を生む貨幣ははじめはゆっくりふえてゆく。しかし、ふえる率はだんだん速くなって
ゆくので、ある期間がたてば、想像もでぎない速さになる。われわれの救世主が生まれた年に
五%の複利で貨し出された1ペニーは、今ではもう、すべて純金から成っている一億五千万個
の地球に含まれているよりももっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出
されたとすれば、同じ期間にたった七シリング4と1/2ペンスにしかふえていないであろう。
今日までわが国の政府はその財政を第一の道よりも第二の道によって改善しようとしてきたの
である。
」**》(『資本論』第三巻 第五篇利子生み資本 第24章「資本関係の外面化」より、
大月書店国民文庫7巻141頁)

s=c(1+z)^2なる数式*まで持ち出して複利を批判するマルクスはまさに二重の態度を取る。
複利で儲けようとする人間を嘲笑するが、その現実を変えようとしないという評論家的態度だ。
複利が実体経済と合わないという指摘は正しい。しかし、短期的には複利は現実をそのシステム
にあわせようとして被害者を生む。長期的にも、現代では国家が複利による赤字を拡大させてお
り、これは社会秩序に直結する問題だ。『共産主義者宣言』が一面的なら、『資本論』は悪い意
味で二重の態度を取った書物だ。


s = c ( 1 + z )^2
《このsは資本・プラス・複利の合計、cは前貨資本、zは利子率(一〇〇の可除部分で表わし
たもの)、nはこの過程が続く年数である。》(上記書143頁) 

**
リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕


54頁
19世紀初期に利用できた生存および疾病についての確率表は,1789年に当時
の著名な数学者であったドグター・プライス(Richard Price, 1723-1791)がマセーノレ(Franci::lMaser出,1731-1824)の個人年金法案。ndividual1ifean~ nuities)のために計算したものであコた。プライ1は18世紀末のイギリスではもフとも署名な数学者であったから,19世紀初期には信頼できるものとして使用された。プライス表の使用の経験を通じて,その正確きに対する信頼は低下L, 1825年の友愛協会特別委員会ではそれに対する疑問の戸があがるが,数学者としのてのプライスの盛名のために,それを否定するところまではいっていない。

39) プライスは数学者であると同時に畠進主革酌立場からの政治問題の執牢者で;!;, ,非国教佐牧師で,フランス革命の支持者としても有名。1789年11月4日,彼は「祖国愛について」と題する講演を行なったが,これに対する抗判としてハタ(EdmundBurke, 1729-'97)が「フフンス革命の考察J(1790)を書L、た。またマルサス「人口論」には,プライスに対する批判がある。数学者としてのプライスには,今世紀になると次のような#凶Uがある。40) 「プライスは木揮な瞳敬を残した白被の意見は当時の人びとに大いに重んじられたが,今では控は,その誤りによってのみ記憶されているムCM.C. BueI ; Health,同出lth,and Population 問theEa.rly Days in the Industrial Revolution, Lonnon. 1926. p. 14) C. Ansell, A Treatise 071 Friendly Societies z"nωhich the D



中野保男 論稿
Marx, Capital, Volume III, Part V, Chapter 24 | Library of Economics and Liberty
http://www.econlib.org/library/YPDBooks/Marx/mrxCpC24.html
The idea of capital as a self-reproducing and thereby self-expanding value, lasting and growing eternally by virtue of its inherent power—by virtue of the hidden faculties of the scholastics—has led to the fabulous fancies of Dr. Price,which far outdo the fantasies of the alchemists; fancies, in which Pitt seriously believed and which he used as pillars of his financial administration in his laws concerning the sinking fund.
V.XXIV.10
"Money bearing compound interest grows at first slowly; but since the rate of increase is constantly accelerated, it becomes so fast after a while as to defy all imagination. A penny, loaned at the birth of our Savior at compound interest at 5%, would already have grown into a larger amount than would be contained in 150 million globes, all of solid gold. But loaned at simple interest, it would have grown only to 7 sh. 4½ d. in the same time. Hitherto our government has preferred to improve its finances in the latter instead of in the former way."*81
V.XXIV.11
He flies still higher in his "Observations on Reversionary Payments, etc., London, 1782." There we read: "1 sh. invested at the birth of our Savior" (presumably in the Temple of Jerusalem) "at 6% compound interest would have grown to a larger amount than the entire solar system could contain, if it were transformed into a globe of the diameter of the orbit of Saturn." "A state need never to be in difficulties on this account; for with the smallest savings it can pay the largest debt in as short a time as its interests may demand." (P. 136.) What a pretty theoretical introduction to the national debt of England!
V.XXIV.12
Price was simply dazzled by the enormousness of the figures arising from geometrical progression. Since he regarded capital, without taking note of the conditions of reproduction and labor, as a self-regulating automaton, as a mere number increasing itself (just as Malthus did with men in their geometrical progression), he could imagine that he had found the law of its growth in the formula s = c(1 + i)Ñ, in which s stands for the sum of capital plus compound interest, c for the advanced capital, i for the rate of interest expressed in aliquot parts of 100, and n for the number of years in which this process takes place.

Notes for this chapter


Richard Price, An Appeal to the Public on the subject of the National Debt, 2nd ed., London, 1772. He cracks the naive joke: "A man must borrow money at simple interest, in order to increase it at compound interest." (R. Hamilton,An Inquiry into the Rise and Progress of the National Debt of Great Britain,2nd ed., Edinburgh, 1814.) According to this, borrowing would be the safest means for private people to gather wealth. But if I borrow 100 pounds sterling at 5% annual interest, I have to pay 5 pounds at the end of the year, and even if the loan lasts for 100 million years, I have meanwhile only 100 pounds to loan every year and 5 pounds to pay every year. I can never manage by this process to loan 105 pounds sterling when borrowing 100 pounds sterling. And how am I going to pay the 5 pounds? By new loans, or, if it is the state, by new taxes. Now, if the industrial capitalist borrows money, and his profit amounts to 15%, he may pay 5% interest, spend 5% for his private expenses (although his appetite grows with his income), and capitalise 5%. In this case, 15% are the premise on which 5% interest may be paid continually. If this process continues, the rate of profit, for the reasons indicated in former chapters, will fall from 15% to, say, 10%. But Price forgets wholly that the interest of 5% pre-supposes a rate of profit of 15%, and assumes it to continue with the accumulation of capital. He does not take note of the process of accumulation at all, but thinks only of the loaning of money and its return with compound interest. How that is accomplished is immaterial to him, since for him it is the innate faculty of interest-bearing capital.


An appeal to the public, on the subject of the national debt.
https://macsphere.mcmaster.ca/bitstream/11375/14773/1/fulltext.pdf
p.19

______
以下、別訳

 資本とは、みずからを再生産し、再生産において自らを増殖する価値であり、その生得の属性により──つまりスコラ哲学者たちのいう隠れた素質により──永遠に存続し増大する価値であるという考えは、鍊金術師の幻想でさえ及びもつかぬプライス博士の荒唐無稽な思いつきを生んだのであるが、この思いつきたるや、ピットがこれを本気で信用して、減債基金にかんする彼の法律において財政経済の支柱たらしめたものである。
 「複利を生む貨幣は初めには徐々に増大する。だが、その増大率はたえず加速されるから、ある期間後にはどんな想像も及ばぬほど速くなる。一ペンスがキリスト降誕のとき五%の複利で貸出されたとすれば、それは今日ではすでに、一億五〇〇〇万個の純金からなる地球に含まれるのであろうものより巨額なものに増大しているであろう。だが、単利で貸出されたとすれば、それは同じ期間に七シリング四½ペンスにしか増大しなかったであろう。今日までわが政府は、第一の方法によってでなく第二の方法によって、財政を改善しようとしてきたのである。」〔431〕

八一 リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕第二版、ロンドン、一七七四年〔一八─一九頁〕。彼のいうことは素朴で気がきいている。「ひとは、かねを複利でふやすためには単利で借りなければならない」と。(R・ハミルトン『大ブリテンの国債の起こりと増加にかんする研究』第二版、エディンバラ、一八一四年〔第三部第一篇「プライス博士の財政観の吟味」、一三三頁〕。)これによれば、借金は総じて個人にとっても最も確実な致富手段であろう。だが、私が一〇〇ポンドを年利五%で借りるならば、私は年度末には五ポンドを支払わねばならぬのであって、この投資が一億年間つづくと仮定すれば、そのあいだ、私は毎年いつも一〇〇ポンドを貸出しうるのみであり、また毎年五ポンドを支払わねばならない。この仕方では私は、一〇〇ポンドを借りることによって一〇五ポンドを貸すことにはならない。また、何から私はこの五%を支払うべきか? あらたな借金によって、または、私が国家であるならば租税によって。だが、産業資本家がかねを借りるならば、彼は、利潤をたとえば一五%とすれば、五%を利子として支払い、五%を消費し(彼の食慾は収入とともに増大するとはいえ)、五%を資本化しなければならない。だから、たえず五%の利子を支払うためには、すでに一五%の利潤が前提されている。この過程がつづくならば、利潤率は既述の理由によって、たとえば一五%から一〇%に低落する。しかるにプライスは、五%の利子が一五%の利潤率を前提することを忘れてしまって、この利潤率は資本の蓄積とともに継続するものとしている。彼は、現実の蓄積過程に関係する必要はなく、ただ、貨幣が複利で還流するように貸出しさえすればよい。貨幣の複利還流がいかにして始まるかは、彼にとっては全くどうでもよい、というのは、それは他ならぬ利子生み資本の生得の素質だからである。
 彼は、その著『据置支払にかんする諸考察』、ロンドン、一七七二年、でさらにとっぴなことをいう、──「キリスト降誕のとき」(おそらくエルサレムの寺院で)「六%の複利で貸出された一シリングは、全太陽系が土星の軌道に等しい直径の球に変わったばあいに含みうるであろうよりもいっそう巨額な金に増大していることであろう。」──「だからといって、国家は困難をきたすわけではない。けだし国家は、最小の貯蓄をもって最大の負債を、その利益上必要とされるような短期間に償却しうるからである」(別付、一三、一四頁)と。イギリスの国債にたいする何と結構な理論的手引きであることよ!
 プライスは、幾何級数から生ずる数の尨大さにすっかり眩惑された。彼は、資本をば、再生産および労働の諸条件を顧みることなく、自動的にはたらく機構と見なし、(あたかも、マルサスが人間を幾何級数的に増殖するものと見なしたように)おのずから増殖するたんなる数と見なしたので、彼は、s=c(1+z)^ nという範式において資本増大の法則を発見したものと妄想することができたのであって、この範式中のsは資本プラス複利の総額であり、cは投下資本であり、zは利子歩合(百分比で表現された)であり、nは過程がつづく年数である。〔432〕
  ピットは、プライス博士の誑かしを、すっかり本気にとった。…

『資本論第三巻』(河出「世界の大思想」第一期〈10〉)より
~この邦訳は土星の下りを本文ではなく註に回している。

要するにマルクスは自分の産業資本の分析を引き立てるために、プライスを政治的に貶す。そのため利子の考察は不完全に終わる。また、利潤逓減理論も利子のインフレ吸収を無視した、底の浅いものになり、近代経済学に後れを取ることになる。

深貝保則 論稿
貧困認識をめぐる文明史論と政治算術 ― 18 世紀スコットランド (Adobe PDF) 
11頁
プライスは『生残支払いの観察』の第4版で「人口」を主題とする追加を行ない、文明の初期段階までは農業を含む生産が食糧を供給するので人類は増加し、幸福でもあるのに対して、文明が進展し大都市が展開する段階に至ると、奢侈とならんで苦境、貧困などがはびこる、としてコントラストを描いた。 36)
36) Richard Price, Observations on Reversionary Payments; …, 4th edition, 2 vols., 1783, vol. II, pp.258-259. なお、ウィリアム・イーデンやジョン・ハウレットら、名誉革命期以降の人口増加を主張してプライスを批判する議論が1780年前後に立て続けに登場したことから、プライスはこの『生残支払いの観察』第4版に、これら諸論調に対する反論を付け加えた(vol. II, pp.275f.)。

Observations on Reversionary Payments: On Schemes for Providing Annuities ... : Richard Price : Free Download & Streaming : Internet Archive 初版1773
xv(マルクス引用箇所)


参考1:
              (経済学マルクスダーウィンリンク::::::::::

マルサス『人口論』1798年初版、目次:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_16.html


参考2:
プルードンの貨幣改革について       ゲゼル研究会
http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm
プルードンの貨幣改革について
::藤田 勝次郎  
… フランスでは、プルードンの前にサン-シモン主義に影響されてマゼル銀行という名の銀行が考えられ、それもオウエンやブレイの「交換所」や「発券銀行」と同じようなものでした。マルクスはプルードンの「交換銀行」をマゼル銀行と完全に同一視し、「それは銀行の専制主義を生むだけだ」といって批判していますが、そのような見当違いのプルードン批判はマルクスのプルードンに対する無知を示す以外のなにものでもありません。…

土曜日, 12月 12, 2015

『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991

                 (リンク::::::::::ドゥルーズ
『哲学とは何か』ドゥルーズ Deleuze-Guattari:Qu'est-ce que la philosophie ? 1991
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/Deleuze-Guattari-Quest-ce-que-la-philosophie.html(本頁) 

ドゥルーズ『哲学とは何か』原著初版1991,邦訳初版1997,邦訳文庫2012
(ガタリとの共著名義だが、ドゥルーズが一人で書いたと言われている。)

Qu'est-ce que la philosophie ?  1991,2005
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/index.php?sp=liv&livre_id=2316
Gilles Deleuze
Félix Guattari


208 p.    
Qu'est-ce que la philosophie ?
2005
Introduction. Ainsi donc la question.

I - PHILOSOPHIE
1. Qu'est-ce qu'un concept ?
2. Le plan d'immanence.
3. Les personnages conceptuels
4. Géophilosophie.

II - PHILOSOPHIE, SCIENCE LOGIQUE ET ART
5. Fonctifs et concepts.
6. Prospects et concepts.
7. Percept, affect et concept.

Conclusion. Du chaos au cerveau.


Qu'est-ce que la philosophie ?
1991,2005
http://www.leseditionsdeminuit.fr/f/flip.php?editor=3&livre_id=2316

Couverture1
Des mêmes auteurs 4
Titre 5
Copyright 6
Introduction. Ainsi donc la question... 7
I – PHILOSOPHIE 19
1. Qu’est-ce qu’un concept ? 21
2. Le plan d’immanence 39
3. Les personnages conceptuels 63
4. Géophilosophie 86
II – PHILOSOPHIE, SCIENCE, LOGIQUE ET ART 115
5. Fonctifs et concepts 117
6. Prospects et concepts 135
7. Percept, affect et concept 163
Conclusion. Du chaos au cerveau 201
Table des matières 220
Des mêmes auteurs (suite) 221
Dans la même collection 222
Justification 223

NEOACA BLOG: ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』
http://neoaca.blogspot.jp/2012/10/blog-post_30.html

目次

序論 こうして結局、かの問は・・・・・・

Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ


脳 6
 +
5 7

参考:
ドゥルーズ、ティンゲリー、宮崎駿 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51717849.html

Jean Tinguely Museum in Basel

哲学者のドゥルーズが、ほぼ遺作となった著作のなかで、動く彫刻群↑で知られるティンゲリーの「哲学者たち」シリーズについて触れています。
ドゥルーズはその連作にティンゲリーの作品の中ではそれほど高い評価を与えているわけではありませんが、ティンゲリーの造る動くオブジェとドゥルーズの連結していくテクストのイメージはかなり近いと思われます。
ちなみにティンゲリーの動く彫刻は宮崎駿の『ハウルの動く城』↓にも似ています。
http://jp.youtube.com/watch?v=VfjnVV4uDHM&feature=related
同時性を連結した装置として体験させる手法はこの三者に共通しているかも知れません。

以下引用です。

<最 近、ティンゲリーが、哲学者たちの記念碑的な機械状の肖像をいくつか展示した。それらは、音と、閃光とによって、さらには湾曲した複雑な平面に即した存在 の質料および思考のイメージとによって、連言的もしくは選言的な、そして折り畳まれることと広げられることが可能な、様々な力強い無限運動を遂行する作品 である。しかし、かくも偉大な芸術家にいささか批判の言を呈してよいとするなら、彼の試みは、いまだ完成の域に達していないように思われる。ティンゲリー は、『ニーチェ』以外の作品においては、たいへんうまくもろもろの機械をダンスさせることができたにもかかわらず、作品『ニーチェ』においては、何もダン スをするものがない。〔根拠律の〕四つの《根》すなわちマーヤのヴェールは、意志と表象としての世界という二面的な平面をいまにも占拠してしまいそうに見 えていたのに。作品『ショーペンハウアー』は、わたしたちに、決定的なものは何も与えてくれない。作品『ハイデガー』は、まだ思考をおこなっていない思考 の平面の上で、(隠蔽性・非隠蔽性〔真理性〕)をまったく保持していない。機械として描かれる内在平面と、その機械の部品として創造される諸概念に、おそ らくいっそうの注意を向ける必要があったのだろう。そのような観点からすれば、かの錯覚を含むカントの機械状の肖像を思い描くことができるだろう(前ペー ジの図を見られたい)。

カント、ドゥルーズ


(画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。クリックすると拡大します。)





  1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。 2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表 題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びたり引っ込んだりする四つの軸。 3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。 4-それほど深くない水の流れ、 すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内面性の形式としての《時間》。 5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と 底。 6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。 7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。 8-《私》に内在する、可能的経験 の超越論的野(内在平面)。 9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。

  ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、また そのひとつひとつがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、 いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) >

『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より 


ちなみに下はティンゲリーが制作したプルードンです。
プルードンティンゲリーサムネイル



jean tinguely
les Philosophes
1999
p27より


ティンゲリークロポトキン
哲学者シリーズ
クロポトキン

Jean Tinguely



Martin Heidegger

Philosopher
1988
ーーー

[PDF]Tinguely et son hommage aux philosophes où une commémoration ...

histoirart.free.fr/Texteart/tinguely.pdf - このページを訳す
F de Bâle 著 - 関連記事
390 × 520 - 1. En 1967, dans un quotidien bâlois, Tinguely évoque la pensée de Lao Tseu et affirme : « Le mou est plus fort que le dur, la langue qui est molle subsiste, les dents qui sont dures se brisent le définitif est provisoire et le chaos est ordre.

金曜日, 12月 11, 2015

プルードンの貨幣改革について ゲゼル研究会 http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm プルード ン の貨幣改革について ::藤田 勝次郎

プルードンの貨幣改革について       ゲゼル研究会

http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm
プルードンの貨幣改革について

::藤田 勝次郎  

Q よくゲゼル理論の先駆者のひとりとしてプルードンの名前があげられるのですが、今日はその辺のことを聞かせてくれませんか。

A 確かにゲゼルは、プルードンだけではないでしょうが、彼から影響を受けていることは確かですね。ゲゼルの主著のひとつに『自然的経済秩序』という著作がありますね。その序文でプルードンについてふれているところがありますが、ゲゼルは、プルードンとマルクスを引き合いに出して、プルードンは今日完全に忘れられているわけではないけれども、「それは正しく理解されてはいない」といって、プルードンをもう一度現代に蘇らせなければならないといっています。

Q ゲゼルはプルードンのどんな点に注目したのでしょうか。

A もちろんそれはプルードンの貨幣改革論です。少し難しい話ですが、プルードンが「商品と労働を通貨の水準にまで高めることによって、貨幣が行使している特権に打撃を与える」ために、途中で挫折してしまったのですが「交換銀行」とか「人民銀行」という組織を作って、それを実現しようとした点です。ゲゼルは、そのようなプルードンの貨幣改革の理論と実践の双方を評価するのです。

Q 初っぱなから難しくなってきましたね。この機会に、ゲゼルの評価しているプルードンの貨幣改革論や信用改革についてわかりやすいように話をしてくれませんか。

A プルードンはもちろんゲゼルより前の人です。彼が執筆活動をしたのは、1840年前後から彼がこの世を去った1865年までのおおよそ25年間なのですが、この時代のフランスでの大きな出来事は、いうまでもなく1848年の二月革命ですね。プルードンはこの二月革命を一貫して冷ややかな目で見ていました。

Q どうしてですか。プルードンは革命の側に立ったのではないのですか。

A 彼は政治革命としての革命には反対し続けました。二月革命も政治革命の方向へ流されているとみたのです。政治革命は権力のにない手の交代にすぎず、権力そのものの変革ではないからなのです。それは現代でも「社会主義」革命と呼ばれていたものの実体が何であったのか思い出せば解りますね。それは、ひとつの抑圧機関に変わる別の抑圧機関が、しかもそれ以前よりもいっそう抑圧的な機関ができただけでしたね。

Q よくプルードンが主張したのは「社会革命」とか「経済革命」とよばれるものだと聞いたことがありますが、それは政治革命とは違うのですか。

A まったく違います。社会の経済関係のもとで、人間は相互にさまざまな活動を通して同等な関係を結んでいます。同じ価値を持ったものを相互に交換する「等価交換」という形式のなかにそれははっきり示されるのですが、プルードンはそうした人間相互の同等性をそのものとして社会の組織のなかに実現してゆくことを相互主義という言葉で示しているのですが、政治権力のもとでの支配-服従の関係は、この相互性とは反対ですね。その意味で彼は権力そのものに対する批判をし続けたのです。

Q その辺はこれくらいにして、早くプルードンの貨幣改革論に進んでくれませんか。

A 申し訳ありません。でもこのような話を回りくどくしましたのは、これが貨幣改革論に大いに関係があるからなのです。プルードンが「権力」とか「権威」と呼ぶものは別に政治の世界に限ったことではないのです。それは経済の世界にもみられるのです。  仮にいまAが商品をもち、Bが貨幣をもっていると考えましょう。両者が市場で取引する場合、商品をもっているAよりも貨幣をもっているBの方が有利なことはいうまでもないですね。プルードンはこうした場合、貨幣は商品に対してつねに「交換可能性」をもっているからだと考えました。貨幣をもってさえいれば、いつでも、また誰からも商品を容易に手に入れることができますね。この「交換可能性」は今日の言葉で言えば、「流動性」といってもよいでしょう。貨幣はいつでもあらゆる商品に交換されるという意味で、「流動性」は100%ですね。それに対して商品財貨は必ずしも販売されるとは限らないという意味で、貨幣に比べてあまり「流動」的であるとはいえません。つまり商品と貨幣はその意味で「同等性」をもっていないことになります。従って先のBがAに対して優位に立つという意味で、二人は「同等」ではないことになります。プルードンはこのような貨幣の商品に対する優位性を貨幣の「王権」と呼び、政治権力のもとでの支配-服従にも似た関係が経済の世界にもあると考えました。

Q 今までの話は一応分かったように思います。では、このことが彼の説いた「交換銀行」や「人民銀行」とどう関わりをもつのですか。

A おおいに関係があります。彼の「交換銀行」や「人民銀行」は、貨幣の商品に対してもっている優位性=権威を喪失させようという意図をもつものだからです。しかも、この問題を彼が提起したのが、二月革命の時だということは大きな意味をもっていますね。つまり、さっきもいいましたようにプルードンは二月革命が権力=権威の廃棄ではなく、その「交代」にすぎないと見ていましたね。しかも彼にとっては権威は政治的権威だけではありません。経済的権威も(さらに宗教的権威も)等しく廃棄されなければならないと考えました。それが「社会革命」なのだと考えたのです。

Q では彼の貨幣改革を目指す「交換銀行」は、何という著作で提起されているのですか。

A プルードンは二月革命の少し前から何人かの仲間と機関紙の刊行を始め、途中政府の圧力によって休刊を余儀なくされ、合計4種の機関紙を相次いで刊行します。この機関紙のひとつに『人民の代表』という名の機関紙があるのですが、1848年4月に「信用と流通の組織 社会問題の解決」という論文を6回にわたって発表するのですが、そこではじめて「交換銀行」の構想を明らかにします。この論文のほか、同じ機関紙に「交換銀行の定款の計画」、「交換銀行」という論文を発表し、そこで細部にわたる銀行組織についてふれています。

Q ではいよいよその「交換銀行」という組織について説明して下さい。

A そうですね。「交換銀行」についてふれる前にあらかじめお話しておきますが、プルードンは「交換銀行」の構想を明らかにした翌年の1849年に「人民銀行」と名前を変えて新しい銀行について発表したのですが、この二つの銀行は本質的に大きな違いはありません。「人民銀行」は「交換銀行」の改訂版だという人もいます。けれどまったく同じというわけではありません。その点はこれからお話ししましょう。

 「交換銀行」はその設立の趣旨や定款に賛同した人びとと銀行との間で交わされる契約によってこの銀行への参加が決まります。この銀行は、すべてがこの加入者の意志によって運営され、国家から完全に独立した自立的組織です。資本金をもちませんし、また営利を目的にしません。この銀行は、加入者の「受領ないし販売した生産物、また引き渡された、あるは近日引き渡されうる生産物の価値を表すあらゆる商業手形と交換に」「交換券」(bon d'echange)と名付けられた一種の銀行券を発行し、それを受け取った人は、それと引き替えに永続的にこの銀行に参加する別の人のもつ商品サーヴィスを手に入れることができますし、またその逆も可能となります。「交換券」には、20、100、500、1,000フラン券があり、端数だけが通常の通貨で支払われるほか、通貨は一切使用されません。また「交換銀行」は、さきに話しましたように営利を目的にするものではありませんので、「交換銀行」のサーヴィスを受けるには、参加者がほんのわずかの手数料、銀行業務を行うに必要な最低の経費にあたる手数料を支払うだけでよいとされます。

Q その場合、「交換券」が過剰に発行されてしまうことはありませんか。

A プルードンによれば、それはありません。といいますのは、「交換銀行」は、つねに商品サーヴィス手形の時価に見合う「交換券」を発行するので過剰発行は原則としてないと考えています。

Q それともうひとつ。銀行が「交換券」を発行するときに商品サーヴィスの「時価」をだれが、どのように決定するのですか。それらの価格を銀行が算定するのですか。

A よいことを聞いてくれました。この点は難しいのですが、大変重要なのです。プルードンによれば、「交換銀行」はそのような価値ないし価格決定にはいっさい関わりません。それはすべて市場のもとで決定されなければならないと考えているのです。「交換銀行」がそのような価値決定の権限をもつことは、それに不当な権威が与えられると考えたからです。プルードンは、どこでも市場を廃止しようという主張はしません。なぜならば、市場は個人の自立と自由の一面を保証しているからです。  けれどまた、今日の新古典派の面々のようにすべてを市場のメカニズムにゆだねることがよいのだとも考えません。例えば、「交換銀行」が参加者の商品と引き替えに「交換券」を発行する場合、原則として市場によって決められた価格に従うことになるのですが、その場合でも、参加者はそれらの商品の原価(「材料費、賃金一般的費用、保険費」などの総額)についての正確な情報を提示することが義務づけられていますし、それらを含めて「交換銀行」の運営の責任は「管理委員会」と名付けられた組織が引き受け、さらに「管理委員会」はつねに「監視委員会」によって点検を受ける義務をもつとしています。つまり、このようなプルードンの考えは、彼が市場の決定を万能視していないことを意味します。彼は市場原理主義をエコノミスムと呼んで批判します。彼は「統計」や「経済計算」に強い関心を持っており、それらによって得られる経済的データが「市場の誤り」をつねに人為的に修正するものと考えたのです。プルードンは、「交換銀行」がそのように市場に依拠しながらも、同時に人為的操作を加味した運営にゆだねられるものと考えていたのです。  いずれにしても、「交換銀行」は「交換券」の発行の対象となる商品サーヴィスなどの「時価」を一方的に決定するものではありませんでした。

 それに対して、生産を管理し生産物の価値を決定する権限を持つ銀行は、むしろイギリスのオウエンやブレイ、ドイツのロードベルトゥスなどによって構想されました。オウエンやブレイの例を引いてみましょう。オウエンの考えた「国民衡平労働交換所」やブレイの「労働券発券銀行」は、銀行に持ち込まれた生産物やサーヴィスを労働価値論の立場からそれらがどれくらいの労働日に相当するかを計算して、それに相当する労働券を通貨の代わりに発行しようとするものでした。フランスでは、プルードンの前にサン-シモン主義に影響されてマゼル銀行という名の銀行が考えられ、それもオウエンやブレイの「交換所」や「発券銀行」と同じようなものでした。マルクスはプルードンの「交換銀行」をマゼル銀行と完全に同一視し、「それは銀行の専制主義を生むだけだ」といって批判していますが、そのような見当違いのプルードン批判はマルクスのプルードンに対する無知を示す以外のなにものでもありません。

Q 難しいですね。でも少し解ったように思います。それともう一つ聞きたいのですが、「交換銀行」はお話の業務以外にほかにどんなことを行うのですか。

A そうですね。「交換銀行」は、市場で買い手の見つからない生産物、つまり余剰となった生産物を購入することで農工業者を救済します。その場合銀行が買い取る価格は、原価の80%であると定款で定められています。それ以外に、当然のことですが、「交換銀行」は、商工業経営者や農民に長期の「資本貸付」や不動産を抵当とした貸付も行います。その場合、貸付はいずれも「交換券」で行われ、その利子もきわめて低いことは申すまでもありません。

Q この「交換銀行」の計画は結局どうなったのでしょうか。

A はい。これはさっきも申しましたように、プルードンが1848年に計画を練ったものですが、ちょうどそのころ彼は、ボナパルトらとともに補欠選挙で当選し、二月革命後の国民議会の議員になります。そこで48年の7月と8月に国民議会にこの計画の実現を訴えますが、否決されてしまい、実現をみませんでした。そこで、それを機会にプルードンはこの計画を練り直し、翌年「人民銀行」と名を改め再出発します。

Q 「人民銀行」は「交換銀行」とどんな点が違っているのですか。

A 先ほども話しましたように、両者は本質的な違いはありません。しかし、細部についていくつか違うところがあります。両者の違いで一番大きなことは、「人民銀行」の場合加入者の制限が設けられたことです。つまり銀行は不特定多数の人に対してその業務を行うというのではなく、はっきりと「人民銀行」に加入する意思を表明した人に対してその業務を行うということです。

Q 「交換銀行」の場合は参加者は無制限だったのですか。

A そうです。この銀行のサーヴィスを受けたいと思う人は誰でもそれを受けることができると考えられました。

Q 「人民銀行」の場合はそうではないのですか。

A 「人民銀行」はいっそう協同組合の色彩を持ち、加入者はあらかじめその意志を示したものに限られます。それと「株」を発行し、それを所有した人がプルードンとともに「人民銀行」のオーナーとなります。先の「交換銀行」は資本がなかったと申しましたが、この点でも両者は違っていますね。「人民銀行」は500万フランの資本を持ちます。それは、100万の5フラン株に分けられ、引受人に渡されます。ただこれは何の利益を伴うものではありません。

Q 「株主」と「加入者」はどう違うのですか。

A 「株主」は今いいましたように「人民銀行」の資本を提供する人ですが、「加入者」は一種の協力者です。それらの双方とも銀行からの便宜供与を受けることができます。

プルードンは本来「人民銀行」の場合も資本なしで設立することを望んでいたのですが、さきにいいましたように、現実にこの銀行を設立する場合、現実にある法規に従わざるをえないことが出てきます。この資本金も当時のフランスの法規を念頭に置いた現実とのやむをえない妥協であったといえましょう。

Q 「人民銀行」も先の「交換銀行」と同様の「交換券」を発行するのですか。

A そうです。ただ名称が「交換券」から「流通券」に代わっていますが、機能に大きな変化はありません。ここでちょっとお話ししておきたいのですが、そもそも「交換銀行」という名称を「人民銀行」に変えた理由は、プルードンがこの銀行が「上から」国家によって作り出されるものではなく、社会によって「自生的に」作られるものであるということを名称の上でもいっそうはっきりとさせたいと考えたからです。

Q 「人民銀行」の仕事は「交換銀行」の場合と同じですか。

A 大筋から見て大きな変化はありません。定款によれば、「人民銀行」の発行する「流通券」は、「返済としてであれ、前貸しとしてであれ」、次のようなものに対してであるとされています。それはもちろん先にいいました「株主」と「加入者」に対してですが、「商業手形、受け取った送り状、委託商品、協同組合などの共同債務、補償金、年金」などです。この場合銀行は管理費として2%の「利子」を得るとされれていますが、その額は4分の1%まで漸次削減されるとしています。限りなく利子率をゼロに近づけようというのです。プルードンの考えた銀行計画は「無償信用」論の具体化だといわれていますね。そして「人民銀行」の発行した「流通券」は通貨と同じように加入者のもとで流通します。

Q 今のお話の「加入者」のもとで流通するといっても、その「加入者」とか「株主」とかを互いにどうして識別するのですか。

A 実際、プルードンは「人民銀行」の設立準備を進め、その場所をフォーブール・サン・ドゥニ街(ここは今でも労働者街なのですが)に決め、その定款を公証人に提出し、「株主」と「加入者」を募集するのです。これは大変評判を呼び、27,00人の「加入者」を集めたといわれています。プルードンは、これらの「加入者」の名の一覧表を事務所に提示し、さらに「加入者」各人の家のドアーの横に「加入者」であるという標識を出すように決めていました。それを見て「加入者」は自分が手に入れた「流通券」を使って取り引きすることができると考えたのです。

Q この計画は実際実現したのですか。

A 残念ですができませんでした。といいますのは、プルードンが自分の機関紙『人民』に書いた論文が、大統領に就任したボナパルトを誹謗しているということで、裁判にかけられ、有罪の判決が下され、入獄を逃れて一時ベルギーに亡命します。そんなことがあって、彼は「人民銀行」の実現が不可能となったと判断し、やむなく1849年12月機関紙の紙上で「人民銀行」の清算を発表するのです。

 それ以後彼はこのような計画を立てることはありませんでした。けれども、このような貨幣改革への意図はいろいろなところに広がります。例えば、この「人民銀行」の計画が立てられたすぐあとで、マルセイユで「ボナール銀行」(Banque Bonnard)という銀行が設立されましたし、また半世紀後になりますが、1894年ドイツのライン・ファルツ州にハルクスハイム・ツェル(Harxheim Zell)にヴァーレンバンク(Warenbank)----「商品銀行」といってよいのでしょうか------という銀行が設立されましたが、それらはプルードンの「人民銀行」の影響を強く受けているといわれています。

Q このようなプルードンの貨幣改革論は、当時のフランスの経済学者によってどのように受け取られたのでしょうか。

A これにつきましては、プルードンとバスティアという経済学者との間で交わされた有名な論争があるのですが、それについてはまた別の機会にお話ししましょう。ただ一言だけふれておきますと、バスティアのような経済学者にはプルードンの「人民銀行」設立の理論的背景になっている「無償信用」論がまったく理解できなかったということです。

 最後になりますが、プルードンの「交換銀行」についてマドール(Madol)という名のある輸出業者がプルードンにあてた手紙を紹介しておきましょう。

「あなた(プルードン)が考えているような、通貨なして済ませるという考えは、別に新しいものではありません。この道の本職は何年も前から通貨の必要性は社会組織の欠如に他ならないといっております。私は、すべての人びとが勘定の振り替えによって互いに決済できるような社会を考えております。どのような形でも、あなたは公衆にこのような考えの旗を高く掲げ、この実現のための計画を提起した最初の人であるという栄誉を与えられるでありましょう。」

2002 Gesell Research Society Japan: All Rights Reserved


《ドクター・プライスの思いつき… 
 「複利を生む貨幣ははじめはゆっくりふえてゆく。しかし、ふえる率はだんだん速くなって 
ゆくので、ある期間がたてば、想像もでぎない速さになる。われわれの救世主が生まれた年に 
五%の複利で貨し出された1ペニーは、今ではもう、すべて純金から成っている一億五千万個 
の地球に含まれているよりももっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出 
されたとすれば、同じ期間にたった七シリング4と1/2ペンスにしかふえていないであろう。 
今日までわが国の政府はその財政を第一の道よりも第二の道によって改善しようとしてきたの 
である。
」**》(『資本論』第三巻 第五篇利子生み資本 第24章「資本関係の外面化」より、 
大月書店国民文庫7巻141頁) 

s=c(1+z)^2なる数式*まで持ち出して複利を批判するマルクスはまさに二重の態度を取る。 
複利で儲けようとする人間を嘲笑するが、その現実を変えようとしないという評論家的態度だ。 
複利が実体経済と合わないという指摘は正しい。しかし、短期的には複利は現実をそのシステム 
にあわせようとして被害者を生む。長期的にも、現代では国家が複利による赤字を拡大させてお 
り、これは社会秩序に直結する問題だ。『共産主義者宣言』が一面的なら、『資本論』は悪い意 
味で二重の態度を取った書物だ。 

* 
s = c ( 1 + z )^2 
《このsは資本・プラス・複利の合計、cは前貨資本、zは利子率(一〇〇の可除部分で表わし 
たもの)、nはこの過程が続く年数である。》(上記書143頁) 


**
リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕


54頁
19世紀初期に利用できた生存および疾病についての確率表は,1789年に当時
の著名な数学者であったドグター・プライス(Richard Price, 1723-1791)がマセーノレ(Franci::lMaser出,1731-1824)の個人年金法案。ndividual1ifean~ nuities)のために計算したものであコた。プライ1は18世紀末のイギリスではもフとも署名な数学者であったから,19世紀初期には信頼できるものとして使用された。プライス表の使用の経験を通じて,その正確きに対する信頼は低下L, 1825年の友愛協会特別委員会ではそれに対する疑問の戸があがるが,数学者としのてのプライスの盛名のために,それを否定するところまではいっていない。

39) プライスは数学者であると同時に畠進主革酌立場からの政治問題の執牢者で;!;, ,非国教佐牧師で,フランス革命の支持者としても有名。1789年11月4日,彼は「祖国愛について」と題する講演を行なったが,これに対する抗判としてハタ(EdmundBurke, 1729-'97)が「フフンス革命の考察J(1790)を書L、た。またマルサス「人口論」には,プライスに対する批判がある。数学者としてのプライスには,今世紀になると次のような#凶Uがある。40) 「プライスは木揮な瞳敬を残した白被の意見は当時の人びとに大いに重んじられたが,今では控は,その誤りによってのみ記憶されているムCM.C. BueI ; Health,同出lth,and Population 問theEa.rly Days in the Industrial Revolution, Lonnon. 1926. p. 14) C. Ansell, A Treatise 071 Friendly Societies z"nωhich the D



中野保男 論稿

Marx, Capital, Volume III, Part V, Chapter 24 | Library of Economics and Liberty

http://www.econlib.org/library/YPDBooks/Marx/mrxCpC24.html

The idea of capital as a self-reproducing and thereby self-expanding value, lasting and growing eternally by virtue of its inherent power—by virtue of the hidden faculties of the scholastics—has led to the fabulous fancies of Dr. Price,which far outdo the fantasies of the alchemists; fancies, in which Pitt seriously believed and which he used as pillars of his financial administration in his laws concerning the sinking fund.

V.XXIV.10

"Money bearing compound interest grows at first slowly; but since the rate of increase is constantly accelerated, it becomes so fast after a while as to defy all imagination. A penny, loaned at the birth of our Savior at compound interest at 5%, would already have grown into a larger amount than would be contained in 150 million globes, all of solid gold. But loaned at simple interest, it would have grown only to 7 sh. 4½ d. in the same time. Hitherto our government has preferred to improve its finances in the latter instead of in the former way."*81

V.XXIV.11

He flies still higher in his "Observations on Reversionary Payments, etc., London, 1782." There we read: "1 sh. invested at the birth of our Savior" (presumably in the Temple of Jerusalem) "at 6% compound interest would have grown to a larger amount than the entire solar system could contain, if it were transformed into a globe of the diameter of the orbit of Saturn." "A state need never to be in difficulties on this account; for with the smallest savings it can pay the largest debt in as short a time as its interests may demand." (P. 136.) What a pretty theoretical introduction to the national debt of England!

V.XXIV.12

Price was simply dazzled by the enormousness of the figures arising from geometrical progression. Since he regarded capital, without taking note of the conditions of reproduction and labor, as a self-regulating automaton, as a mere number increasing itself (just as Malthus did with men in their geometrical progression), he could imagine that he had found the law of its growth in the formula s = c(1 + i)Ñ, in which s stands for the sum of capital plus compound interest, c for the advanced capital, i for the rate of interest expressed in aliquot parts of 100, and n for the number of years in which this process takes place.


Notes for this chapter


Richard Price, An Appeal to the Public on the subject of the National Debt, 2nd ed., London, 1772. He cracks the naive joke: "A man must borrow money at simple interest, in order to increase it at compound interest." (R. Hamilton,An Inquiry into the Rise and Progress of the National Debt of Great Britain,2nd ed., Edinburgh, 1814.) According to this, borrowing would be the safest means for private people to gather wealth. But if I borrow 100 pounds sterling at 5% annual interest, I have to pay 5 pounds at the end of the year, and even if the loan lasts for 100 million years, I have meanwhile only 100 pounds to loan every year and 5 pounds to pay every year. I can never manage by this process to loan 105 pounds sterling when borrowing 100 pounds sterling. And how am I going to pay the 5 pounds? By new loans, or, if it is the state, by new taxes. Now, if the industrial capitalist borrows money, and his profit amounts to 15%, he may pay 5% interest, spend 5% for his private expenses (although his appetite grows with his income), and capitalise 5%. In this case, 15% are the premise on which 5% interest may be paid continually. If this process continues, the rate of profit, for the reasons indicated in former chapters, will fall from 15% to, say, 10%. But Price forgets wholly that the interest of 5% pre-supposes a rate of profit of 15%, and assumes it to continue with the accumulation of capital. He does not take note of the process of accumulation at all, but thinks only of the loaning of money and its return with compound interest. How that is accomplished is immaterial to him, since for him it is the innate faculty of interest-bearing capital.


An appeal to the public, on the subject of the national debt.

https://macsphere.mcmaster.ca/bitstream/11375/14773/1/fulltext.pdf
p.19

______

以下、別訳


 資本とは、みずからを再生産し、再生産において自らを増殖する価値であり、その生得の属性により──つまりスコラ哲学者たちのいう隠れた素質により──永遠に存続し増大する価値であるという考えは、鍊金術師の幻想でさえ及びもつかぬプライス博士の荒唐無稽な思いつきを生んだのであるが、この思いつきたるや、ピットがこれを本気で信用して、減債基金にかんする彼の法律において財政経済の支柱たらしめたものである。

 「複利を生む貨幣は初めには徐々に増大する。だが、その増大率はたえず加速されるから、ある期間後にはどんな想像も及ばぬほど速くなる。一ペンスがキリスト降誕のとき五%の複利で貸出されたとすれば、それは今日ではすでに、一億五〇〇〇万個の純金からなる地球に含まれるのであろうものより巨額なものに増大しているであろう。だが、単利で貸出されたとすれば、それは同じ期間に七シリング四½ペンスにしか増大しなかったであろう。今日までわが政府は、第一の方法によってでなく第二の方法によって、財政を改善しようとしてきたのである。」〔431〕


八一 リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕第二版、ロンドン、一七七四年〔一八─一九頁〕。彼のいうことは素朴で気がきいている。「ひとは、かねを複利でふやすためには単利で借りなければならない」と。(R・ハミルトン『大ブリテンの国債の起こりと増加にかんする研究』第二版、エディンバラ、一八一四年〔第三部第一篇「プライス博士の財政観の吟味」、一三三頁〕。)これによれば、借金は総じて個人にとっても最も確実な致富手段であろう。だが、私が一〇〇ポンドを年利五%で借りるならば、私は年度末には五ポンドを支払わねばならぬのであって、この投資が一億年間つづくと仮定すれば、そのあいだ、私は毎年いつも一〇〇ポンドを貸出しうるのみであり、また毎年五ポンドを支払わねばならない。この仕方では私は、一〇〇ポンドを借りることによって一〇五ポンドを貸すことにはならない。また、何から私はこの五%を支払うべきか? あらたな借金によって、または、私が国家であるならば租税によって。だが、産業資本家がかねを借りるならば、彼は、利潤をたとえば一五%とすれば、五%を利子として支払い、五%を消費し(彼の食慾は収入とともに増大するとはいえ)、五%を資本化しなければならない。だから、たえず五%の利子を支払うためには、すでに一五%の利潤が前提されている。この過程がつづくならば、利潤率は既述の理由によって、たとえば一五%から一〇%に低落する。しかるにプライスは、五%の利子が一五%の利潤率を前提することを忘れてしまって、この利潤率は資本の蓄積とともに継続するものとしている。彼は、現実の蓄積過程に関係する必要はなく、ただ、貨幣が複利で還流するように貸出しさえすればよい。貨幣の複利還流がいかにして始まるかは、彼にとっては全くどうでもよい、というのは、それは他ならぬ利子生み資本の生得の素質だからである。

 彼は、その著『据置支払にかんする諸考察』、ロンドン、一七七二年、でさらにとっぴなことをいう、──「キリスト降誕のとき」(おそらくエルサレムの寺院で)「六%の複利で貸出された一シリングは、全太陽系が土星の軌道に等しい直径の球に変わったばあいに含みうるであろうよりもいっそう巨額な金に増大していることであろう。」──「だからといって、国家は困難をきたすわけではない。けだし国家は、最小の貯蓄をもって最大の負債を、その利益上必要とされるような短期間に償却しうるからである」(別付、一三、一四頁)と。イギリスの国債にたいする何と結構な理論的手引きであることよ!

 プライスは、幾何級数から生ずる数の尨大さにすっかり眩惑された。彼は、資本をば、再生産および労働の諸条件を顧みることなく、自動的にはたらく機構と見なし、(あたかも、マルサスが人間を幾何級数的に増殖するものと見なしたように)おのずから増殖するたんなる数と見なしたので、彼は、s=c(1+z)^ nという範式において資本増大の法則を発見したものと妄想することができたのであって、この範式中のsは資本プラス複利の総額であり、cは投下資本であり、zは利子歩合(百分比で表現された)であり、nは過程がつづく年数である。〔432〕

  ピットは、プライス博士の誑かしを、すっかり本気にとった。…


『資本論第三巻』(河出「世界の大思想」第一期〈10〉)より

~この邦訳は土星の下りを本文ではなく註に回している。


要するにマルクスは自分の産業資本の分析を引き立てるために、プライスを政治的に貶す。そのため利子の考察は不完全に終わる。また、利潤逓減理論も利子のインフレ吸収を無視した、底の浅いものになり、近代経済学に後れを取ることになる。


木曜日, 12月 10, 2015

チベット死者の書


NAMs出版プロジェクト: チベット死者の書
http://nam-students.blogspot.jp/2015/12/blog-post_13.html(本頁)
NAMs出版プロジェクト: トゥモロー・ネバー・ノウズ - Wikipedia
http://nam-students.blogspot.jp/2016/02/wikipedia_17.html


ドゥルーズはABCのはじめで「ブータンの記録文書」になった気分だと言っている。
これはチベット死者の書のことではないか?(勘違いだった*)

https://ja.wikipedia.org/wiki/チベット死者の書
チベット死者の書は、チベット仏教ニンマ派の経典。
パドマサンバヴァが 著し弟子が山中に埋めて隠したものを後代にテルトン・カルマ・リンパが発掘した埋蔵教法(テルマ)『サプチュウ・シト・ゴンパ・ランドル(寂静・憤怒百尊 を瞑想することによる自ずからの解脱)(Tibetan:ཟབ་ཆོས་ཞི་ཁྲོ་དགོངས་པ་རང་གྲོལ)』に含まれている「バルド・ トェ・ドル・チェンモ(中有において聴聞することによる解脱)(Tibetan:བར་དོ་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ་)」という詞章を指す。ウォルター・エヴァンス=ヴェンツen:Walter Evans-Wentz)により”Tibetan Book of the Dead” というタイトルで英訳され世界的なベストセラーとなり、日本でも一般的に『チベット死者の書』として知られている[1]。『サプチュウ・シト・ゴンパ・ランドル』はニンマ派ではマハーヨーガと分類される無上ヨーガタントラの生起次第の修行法体系であるが、この「バルド・トエ・ドル・チェンモ」と呼ばれる部分は、臨終に際してラマによって「枕経」として読まれる実用的な経典でもある。
この他、中有のプロセスを解説したゲルク派の論書『クスムナムシャ』が『ゲルク派版死者の書』として翻訳・出版されている[2]

脚注・出典

  1. ^ 川崎信定訳『原典訳 チベット死者の書』ちくま学芸文庫
  2. ^ 平岡宏一訳『ゲルク派版 チベット死者の書』解説 - 学研M文庫。18世紀のラマ僧ヤンチェン・ガロ無上瑜伽タントラの「死」「中有(バルド、バルドゥ)」「生」に関する内容を簡略にまとめた著作である。


「チベット死者の書」とは 石濱裕美子
http://www.ghibli.jp/tibet/comment/005644.html 

http://www.geocities.jp/singingstone4/dream4.htm
 また集合的無意識の領域を切り開いた心理学者のカール・ユングは、「『チベットの死者の書』はわたしの変わらぬ手引書であり、わたしはそれに理念や発見 への多くの刺激ばかりでなく、多くの根本的な洞察力を負っている。異なる『エジプトの死者の書』である『チベットの死者の書』は、神々や原始的な野蛮人に とってというよりもむしろ、人類に向けられたわかりやすい哲学を差し出している。その哲学は、仏教心理学上の評論の真髄を含み、人々はこれを本当に比類な く卓越したものだということができる」と述べています。

「チベットの死者の書」とは何か
http://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/misc/newspaper_pr/bardo.html 
はじめに
 「チベットの死者の書」とは、この書をはじめて西洋世界に紹介したアメリカ生まれの人類学者W.Y.エヴァンス・ヴェンツによる命名である。明らかにエ ジプトの「死者の書」を意識した名称であるが、死後の世界を克明に描写するエジプトの「死者の書」の類書とみなすことは適切ではない。正式には「バルド・ トェドル」(中有における聴聞による解脱)というタイトルで、「シト・ゴンパ・ランドル」(寂静尊と忿怒尊の念想による自らの解脱)という文献群の一部を 形成している。
 「バルド・トェドル」はチベットで死者が出たときに、その枕元で唱える経典である。日本の枕経にあたる。経典の読誦は死の直後にはじめられ、その後も七 日ごとに七回、すなわち四九日間、断続的に行われる。これは死者がつぎの生をうけるまでのバルド(中有)の期間に相当する。バルドはわが国では中陰とよば れることも多いが、文字どおりには「中間の存在」(antarbh  「バルド・トェドル」は葬儀における読誦経典としてチベットで広く用いられているが、経典としての権威がチベットのすべての宗派で認められているわけで はない。チベット仏教には四つの主要な宗派、すなわち、一四世紀にツォンカパによって創設され、現在ダライラマを宗主とする最大宗派のゲルク派、インドの 修行者マルパ、ミラレパを祖とし、一二世紀にガンポパによって組織化されたカギュ派、同じく一二世紀のコンチョク・ゲルポを開祖にあおぐサキャ派、そして これらの三派がまとめて新訳派とよばれるのに対し、七世紀から九世紀までの前伝期の仏教に根ざすニンマ派(文字どおりには古派)がある。「バルド・トェド ル」の成立と伝播には、このうちのニンマ派とカギュ派が大きくかかわっている。そのため、ゲルク派やサキャ派のエリート僧たちは、一般に「バルド・トェド ル」の内容を正統的なものとは考えていない。また、同じ宗派の中でも学派や系統によっては独自の葬送儀礼や読誦経典をもつことがあり、これはニンマ派やカ ギュ派においても同様である。
 「バルド・トェドル」がチベットの精神世界の代表的な文献として広く知られているのは、エヴァンス・ヴェンツの翻訳出版(一九二七年)以来、東洋の神秘 思想を求める人々の一種のバイブルとして受け入れられてきたからであろう。とくにドイツ語版(一九三五年)に付されたC.G.ユングの「チベットの死者の 書の心理学」は、この書で語られるバルドの体験を人間の深層心理にまで結び付け、その後の本書の方向性を決定づけた。また、近年では、臨死体験との共通性 の指摘や、ホスピスにおけるデス・エディケーションのための教材としても注目されている。ここ数年のわが国での「チベットの死者の書」ブームも、その流れ の一部である。しかし「バルド・トェドル」の流行はけっして昨今のものだけではないのである。
 「バルド・トェドル」は付属の願文をのぞくと、前半と後半の二部から構成されている。さらに前半はふたつの部分にわかれ、全体が三つの部分からなる。こ れは、バルドの期間全体を、死後直後の「死の瞬間のバルド」(死の瞬間のバルド)と、はじめの二週間の「存在そのもののバルド」(チョエニ・バルド)、そ して最後の五週間に相当する「再生のバルド」(シパ・バルド)の三種のバルドに区切り、それぞれの期間に死者の眼前に展開される光景や、解脱の方法が各部 分でとかれるためである。はじめの部分は「死の瞬間のバルドにおける光明のお導き」と名づけられ、死の直後にあらわれる光明を手がかりに、仏と一体化して 解脱する方法が示される。ヨーガの瞑想にたけた者や善業をつんだ者などのための解脱の方法として紹介される。第二の「存在そのもののバルド」においては、 柔和な姿をした四二の仏たち(寂静尊)と、恐ろしい形相の五八の神々(忿怒尊)がつぎつぎとあらわれ、輪廻からの脱却をいざなう。ここは「バルド・トェド ル」の中心的な部分で、大日や阿などの仏が眷族をひきつれて光明とともに登場するドラマチックな光景は、実際に寺院の境内で演じられる仮面劇の中でも再現 される。最後の「再生のバルド」では、これまでの方法でも解脱がかなわなかったものたちのために、再生への入胎をさける方法と、さらにそれにも失敗した場 合、六道の中の上位の世界に生まれ変わるための手段が示される。

「バルド・トェドル」の成立

 イタリアのチベット学者G.トゥッチは、「バルド・トェドル」の原型となる文献が敦煌で発見されていると述べている。しかし、おそらくこれは「寂静尊 (シ)と忿怒尊(ト)」に関する儀軌で、「バルド・トェドル」とは直接関係するものではない。すでに田中公明氏が指摘されたように、敦煌から発掘されたチ ベット文書の中には、寂静尊・忿怒尊に関する儀軌が二点ある。また、現在パリのギュメ美術館が所蔵する寂静尊のマンダラも敦煌から出土したものである。い ずれも八世紀から九世紀にかけてチベットの古代王朝吐蕃が敦煌を支配していた時代の遺品である。前伝期の時代にすでに寂静尊・忿怒尊を中心とした信仰が成 立していたことの根拠となっている。しかし、注意しなければならないのは、寂静尊と忿怒尊に関するこれらの文献は、いずれも現在みることのできる「バル ド・トェドル」と一致することのない儀軌類で、しかも、バルドとの結びつきすら認められないことである。
 「バルド・トェドル」をふくむ「シト・ゴンパ・ランドル」は、ニンマ派の埋蔵経典(テルマ)のひとつである。ニンマ派では祖師パドマサンバヴァが数多く の文献を土中や寺院の壁の中にかくして、後世の人々に伝えたという信仰がある。のちに発見されたこれらの経典が「埋蔵経典」と呼ばれる。その多くは発見者 自身による創作であったとされるが、一部は本物の古文書もあったらしい。「埋蔵経典」には土中などから発見された「出土経典」(サテル)の他に、霊感をう けたものが著述した「意趣経典」(ゴンテル)と呼ばれるグループもある。いずれもその発見者や著述者は「埋蔵経発掘者」(テルトン)と呼ばれる。「シト・ ゴンパ・ランドル」の発掘者はカルマ・リンパという一四世紀中葉の人物といわれる。「バルド・トェドル」のいくつかの奥書によれば、かれが中央チベットの 西にあるガンポリ山から発掘したらしい。他の多くの埋蔵経典と同様、「シト・ゴンパ・ランドル」も伝説上の祖師パドマサンバヴァに由来すると信じられてい る。
 現在、流布している「シト・ゴンパ・ランドル」には二種類ある。ひとつは一四の文献から構成されたテキストで、このうちの約四分の一(第一書から第六書 と第八書)が「バルド・トェドル」に相当する。さらにこの文献群は、三巻からなる「カンリン・シト」(カルマ・リンパの寂静尊・忿怒尊)と略称される儀軌 集の一部になり、全体は三〇点のテキストをふくむ。もうひとつはやはり「シト・ゴンパ・ランドル」のタイトルをもつが、その中には「バルド・トェドル」は ふくまれない。分量も小さく一巻本で二百葉たらずにすぎない。中にふくまれる文献の数はやはり一四であるが、そのほとんどが寂静尊・忿怒尊に関する儀軌で ある。一九世紀にニンマ派の埋蔵経典を集成した「埋蔵教全書」(リンチェン・テルヅ)にも、第三巻にやはり寂静尊と忿怒尊に関する儀軌が多数ふくまれてい る。その多くは出典を「シト・ゴンパ・ランドル」と明示するが、やはり「バルド・トェドル」に一致するものはない。また一巻本と共通する儀軌名もあらわれ ない。
 三巻本と一巻本の二種類の「シト・ゴンパ・ランドル」のそれぞれの成立過程は、現在のところ解明されていない。しかし、これらの状況をみると、古くは敦 煌文書にもさかのぼることができる寂静尊と忿怒尊の儀軌が、いくつも伝承されていったことは予想できる。そして、これにバルドの思想を結びつけて、「バル ド・トェドル」をその一部としてふくむ三巻本が編纂され、また、これとは別に、いくつかの儀軌を集成した一巻本が作られたり、あるいは「埋蔵経全書」にも 収録されるようになったと考えられる。バルド思想との結びつきは、寂静尊・忿怒尊を中心としたニンマ派の儀軌からの読誦経典への転換の契機であった。な お、「バルド・トェドル」はニンマ派の文献であると紹介されることが多いが、その形成や伝承には、むしろ、新訳派のひとつカギュ派がより大きく関与したと 考えられる。現在伝えられる三巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」はカギュ派の文献の寺院に多く残されている。「埋蔵経全書」や一巻本の「シト・ゴンパ・ラ ンドル」が、ニンマ派の伝統の中で伝えられた文献であるのに対し、バルド思想と結びつけ「聴聞による解脱」という役割を与えたのは、カギュ派の人たちで あったのかもしれない。実際、一九七五年にF.フレマントル女史と原典からの英訳を発表したカギュ派の活仏チュギャム・トゥルンパは、カルマ・リンパ自身 はニンマ派の「埋蔵経発掘者」であったが、その弟子のほとんどがカギュ派のものたちであると述べ、自派と「バルド・トェドル」との結びつきを強調してい る。
 「シト・ゴンパ・ランドル」がバルドの思想と結びついた時点で、葬送儀礼において読誦される経典という性格もおそらく付与されたと考えられる。「バル ド・トェドル」の全編を通じて「死者のために耳もとで語りかけよ」と何度も繰り返される。しかし、「バルド・トェドル」の部分だけが一貫性をもって編集さ れたわけではなかったようである。「バルド・トェドル」の前半部分、すなわち「死の瞬間のバルド」と「存在そのもののバルド」の部分に付された序論は、こ の部分だけではなく「バルド・トェドル」全体の序としても機能している。「バルド・トェドル」の本論が三種のバルドから構成されると説くのもこの序の部分 である。おそらく、もともと独立した文献であった前半部と後半部を、「バルド・トェドル」の一部として合揉したときに、前半部に付属的にふくまれていた 「死の瞬間のバルド」を、それ以降の二段階のバルドと対等のものとして位置づけ、「バルド・トェドル」全体を意識してつけられたのがこの序論なのであろ う。序論には「バルド・トェドル」にふくまれている付属の願文についての言及もあり、「シト・ゴンパ・ランドル」の一七書のうちの少なくとも第九書まで は、このときに成立していたことが確認できる。しかし、その一方で「バルド・トェドル」の本文中には「シト・ゴンパ・ランドル」の一七書の中にはふくまれ ない文献の名称も言及されており、成立の複雑さを示している。
 「シト・ゴンパ・ランドル」の一節が「バルド・トェドル」として意識されたことは、葬送儀礼と結びついた「シト・ゴンパ・ランドル」が、さらに、よりプ ラクティカルな僧侶の読誦用のテキストとして「バルド・トェドル」を独立させるための素地となったようだ。現在、翻訳が発表されている、いわゆる「チベッ トの死者の書」の形態があらわれたのである。
 エヴァンス・ヴェンツが利用したテキストは、とあるカギュ派の僧の家に代々伝えらえた絵入りの「バルド・トェドル」であったといわれる。「シト・ゴン パ・ランドル」の全体ではなく、その中の「バルド・トェドル」の部分と、その他の小さな付編からなると記している。「バルド・トェドル」のみの写本は東京 駒込の東洋文庫にも所蔵されている。紺紙金銀泥の豪華なこの「死者の書」は、特定の死者の追善供養のために創作されたのであろうと川崎信定氏は推測されて いる。
 エヴァンス・ヴェンツはこの写本のほかに、カルカッタのアジア協会にいたJ.v.マーネン所蔵の木版本も用いている。これは三巻本の「シト・ゴンパ・ラ ンドル」であるが、いずれの版本であるかは明らかにされていない。川崎氏の翻訳の場合も、東洋文庫の写本と、シッキムとカム地方の寺院にそれぞれ伝えられ た二種類の木版本が用いられている。また、先述のフレマントルとトゥルンパは、川崎氏と同じカム地方の三巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」を底本とし、こ れに三種の木版本を校合したと述べているが、詳細なデータは明記されていない。いずれも、各版や写本のあいだに大きな相違はないといわれる。
 すでにふれたように、ポン教にも「バルド・トェドル」というタイトルを冠した文献がある。ポン教徒たちも仏教徒にならって、カンギュル(直説部)とテン ギュル(論疏部)という二大コレクションをたてたが、この内のテンギュルの中のやはり「埋蔵経典」のジャンルに「バルド・トェドル」はふくまれている。た だしテルトンすなわち埋蔵経発掘者はカルマ・リンパではなく、一二世紀後半の人物であるタンパ・ランドル・イェーシェー・ゲルツェンといわれ、教えの本来 の説示者も八世紀の伝説上のポン教徒テンパ・ナムカーと信じられている。テンパ・ナムカーはパドマサンバヴァの弟子とも伝えられる人物で、「バルド・トェ ドル」の教えをニンマ派とほぼ同時代の人物に求めていることになる。実際は、カギュ派の中で「バルド・トェドル」が独立してあつかわれるようになってか ら、その影響をうけて成立したと考えられるが、両者の比較研究は現在のところまだ行われていない。

 「バルド・トェドル」の内容

(一)死の瞬間のバルド
 はじめの序の部分では、「バルド・トェドル」を必要としない人たちのことがまず述べられる。生前に特別な修練をしたヨーガ行者は、バルドの期間を経ない で解脱することが可能である。かつて実修した行法の記憶を、臨終に際してよびおこすことによって、自ら解脱することができるからである。この行法は「転 移」(ポワ)と呼ばれる。したがって「バルド・トェドル」は転移による解脱ができない人のために読誦される。転移とは人間の身体をつらぬく神経の脈管と、 その中を流れる「生命の風」(ルン)を支配して、最終的には、頭頂にある「梵孔」と呼ばれる穴から生命の風を放出する行法である。インド以来のタントリズ ムの基本的な身体ヨーガ理論にもとづいている。人間の身体には三二の脈管がそなわっている。このなかでも中央とその左右の三本の脈管がもっとも重要であ る。一般に臨終において、生命の風は中央の脈管から左右いずれかの脈管に流れ込み、目や鼻、耳など八つあると考えられる頭頂以外の穴から放出され、死者は バルドに入ると考えられていた。そのため、転移の実践では左右の脈管への生命の風の流出を防ぎ、頭頂の穴から放出するのである。
 死の瞬間のバルドにおける救済も、同じ身体ヨーガ理論にもとづいている。息がとだえた瞬間に死者の左右の脈管をおさえて、生命の風が流入しないようにし て、導師は転移を実践する。このとき、導師は死者の眼前に「光」が顕現することを強調し、その光が何であるかを語りかける。これは「根元の光明」であり、 「存在そのものの姿」すなわち「空(くう)」である。「法身(真理そのものである仏の身体)である普賢」であり、「明々白々な無垢の明知」である。そして これを悟ることによって阿弥陀仏(文字どおりには無限の光の仏)と死者は合一し、解脱することができる。導師によるこの語りかけは、生命の風が中央の脈管 にとどまっているあいだに行われる。この期間は一定ではなく、生前に善業をつんだ人や瞑想能力のすぐれた人ほど長く、それだけ解脱の可能性も高くなる。
 死の瞬間のバルドではもうひとつ解脱の方法が示される。梵孔から生命の風を出すことに失敗し、左右の脈管に入り、頭頂以外の穴から放出されると、死者の 意識も体外に出てしまう。そうすると、死者の生前の業にしたがって、バルドの幻影があらわれるのであるが、それまでにわずかな時間があると考えられた。こ のとき、導師は死者に向かって悟りをえるための「二種のプロセス」のいずれかを実践せよと語りかける。二種のプロセスとは「生起のプロセス」と「完成のプ ロセス」とよばれるもので、インドの仏教タントリズムにおける基本的な実践方法である。死者がその生前にうけた二種のプロセスのいずれかの記憶をよびおこ し、実修することによって、死者の明知が目覚めて解脱できるのである。このときの様子を「バルド・トェドル」の作者は「あたかも太陽の光によって闇がしり ぞけられるように、業の支配からまぬかれ「道」が開示され解脱が達成される」と述べ「道の光明による解脱」とよんでいる。
 
(二)存在そのもののバルド
 死の瞬間のバルドで解脱できなかったものたちは、第二の「存在そのもののバルド」に入り、さまざまな幻影をみることになる。これは、すべて生前の業から 生じたもので、自分自身の意識が投影したものである。二週間のこのバルドの期間には、一日ごとにことなる神々が登場する。これらが寂静尊・忿怒尊である。
 第一日目には大日(ヴァイローチャナ)が配偶神である虚空界自在母と交接したすがたで、眷族もひきつれてあらわれる。紺青色の強烈な光明をともなってい るため、たいていの死者は恐れおののいてしまう。同時に魅惑的なかよわい薄明かりもさしてくる。これは六道の中の天の世界からさしこむ光で、死者がこちら に引きつけられとらわれると、天上界に再生することになり、再び輪廻の世界にのみこまれてしまう。大日から発する強烈な光を仏の世界の叡智であると悟り、 みずからを導いてくれる光明であると知るもののみが、大日の心臓にとけ込み、大日の仏国土で仏となることができるのである。
 大日のところにもいくことができず、また天上界にも引き寄せられなかった錯乱したもののために、二日目の神々があらわれる。出現の仕方は第一日目と同じ である。金剛薩と阿の神群が登場し、同時にやはり魅惑的な薄明かりもともなっている。これは地獄からさしてくる光である。金剛薩は仏眼仏母と交接し、地 蔵、彌勒の二菩薩、舞女、華女という二女尊をしたがえて、強烈な白い光とともに登場する。もしこの光を金剛薩の慈悲の光で、阿に象徴される「大いなる鏡の ような智恵」(大円鏡智)であると知って、これを強く求めれば、阿の仏国土にいたって仏となる。しかし、薄明かりにまどわされ、引き寄せられると、地獄に いたる。
 同じように三日目以降、宝生、阿弥陀、不空成就がそれぞれの眷族を引き連れてあらわれる。そしていずれもことなった色の強烈な光をともなっている。宝生 は黄色、阿弥陀は赤、不空成就は緑である。この強烈な光が仏たちの智恵そのものであると悟れば、それぞれの仏国土にいたるのであるが、同時に、魅惑的な薄 明かりもあらわれるため、もしこれにひきよせられると、順に、人、餓鬼、修羅の世界に生まれ変わることになってしまう。
 ついに六日目にはこれまであらわれたすべての仏たちと、さらに門衛の八尊、六道を支配する六人の聖仙、そして、すべての仏たちに君臨する法身普賢とその 配偶神である普賢母が一団となって登場する。一方の魅惑的な薄明かりもすべてあらわれる。ひきよせられれば五つの世界にいたる五種の光である。
 七日目には持明者とよばれる神々がかわって登場する。超能力をそなえた半神半人のものたちである。五色の光をともなっている。しかし同時に畜生の世界からの魅惑的な光もさしこまれる。
 八日目以降は、これまでの寂静尊にかわって、忿怒尊がつぎつぎに登場する。その前に「バルド・トェドル」の作者は、これらの忿怒尊の存在意義を強調す る。どんなに密教のヨーガの修練が未熟なものたちであっても、相手が忿怒尊であればたちまちに判別でき、自分の守り本尊を見つけて近づくことができるとい う。しかし、顕教(密教以前の伝統的な仏教)のものたちには忿怒尊は恐怖以外のなにものも与えないため、悟りがえられず、再び輪廻の世界へとのみこまれて しまう。多面多臂、しばしば獣の頭をもち、ほとんど裸の姿で配偶神と交接する忿怒尊の姿は、仏のイメージからはほど遠いのであるが、これを逆に積極的に評 価しているのである。
 八日目から一二日目までは、忿怒尊の中心的な五尊の仏が眷族をともなって順に登場する。ブッダヘールカ、ヴァジュラヘールカなどである。いずれの場合も この忿怒尊が自分の守り本尊であると知り、一体になれば仏となることができる。一三日目にはガウリーとよばれる八人の忿怒の女神があらわれる。一四日目に は四人の門衛と二八人のイーシュヴァリーという女尊たちが登場する。 
 これで存在そのもののバルドの二週間は終わり、この期間中にいずれでもよいから寂静尊や忿怒尊の神々のもとへと至り、一体となれば仏となって輪廻から脱却できる。しかしそれができなかったものたちには、つぎの「再生へのバルド」が待っている。
 存在そのもののバルドで行われているのは、二週間という期間と寂静尊と忿怒尊百尊との一種の数合わせである。二週間を前半、後半の一週間ずつにわけ、寂 静尊と忿怒尊もいくつかのグループに分類してあてはめる。寂静尊・忿怒尊百尊は本来はバルドの思想とは無縁の存在であった。そこで「バルド・トェドル」の 作者は二週間に配分できるように、工夫をこらしている。たとえば寂静尊の場合、中心となるのは五仏と普賢の六尊であるので、七日目には寂静尊にはふくまれ ない持明者のグループを出してきている。また六道も七日に配分するにはひとつ足りない。そのため、普賢がすべての寂静尊をひきつれて登場する六日目には、 それまでの五日間にあらわれた五道の光をもう一度利用している。

(3)再生のバルド
 「再生のバルド」の前半ではこのバルドのありさまと死者の心の状態が延々と述べられる。このバルドでは死者の感覚器官や肢体は完全なものとしてよみが えっている。しかも透視能力やあらゆるところを通過できる能力などのさまざまな超能力すらそなわっている。しかし、その一方で、死者自身には自分が死んで しまったという自覚が生じ、心はうつろで、はげしい苦悩もわきあがる。それに加えて、食肉鬼や猛獣、大火、大軍勢などありとあらゆる恐ろしいものが背後か らおそってくる。これらはすべて自分自身の業が作る幻影なのであるが、なかなかそれに気がつかない。そうこうするうちに閻魔大王の前に引き出され、生前の 悪行のむくいをうける。からだが切り刻まれたり、肉や骨をしゃぶられるという体験をする。このようなさまざまな光景が展開するのであるが、そのいずれでも よいので、すべては自分自身の業が生みだした幻影であり、空であると悟りさえすれば、たちどころに解脱できるという。あるいは、仏法僧の三宝に帰依し、ま たひたすら観音菩薩に祈願すれば、解脱することも可能なのであると語られる。
 これに続いて、死者が自分自身の葬儀や法要を見るという一節があらわれる。チベットの葬儀は「悪趣清浄タントラ」という経典にもとづいてしばしば行われ る。悪趣、すなわち六道の下の四つに至ることがないようにという願いを込めた経典である。しかしこの経典が正しく読まれていなかったり、儀式がいい加減に 遂行されているのを死者は見るという。「バルド・トェドル」の作者は、これは死者自身の心の状態が清らかではないからであると強く戒め、疑念をもつものこ そ悪趣に至り、僧侶や儀礼の遂行者に絶大な信頼をおくものが、よい生まれかわりを得ると強調する。この部分は、「バルド・トェドル」の全体からみると挿入 部分のような印象をうけるが、葬儀を行う側の論理で話を進めている。
 このような段階をへると、死者には自分の生前のすがたが次第に不明瞭になり、逆に次の生でうける身体がはっきりし、また六道の世界も薄明かりとなってだ んだん見えてくる。死者は自分自身がよるべのない存在であることを知り、恐怖と悲しみにおいたてられて、新たな生へと近づいていってしまう。このとき、自 己の守り本尊や観音菩薩を祈願し、それがあたかも水に映った月のように、それ自身の性質をもたない空であると悟ることがもしできれば、再生に至らず解脱が できる。しかし、この段階になってもまだ解脱することができなかったものたちには、再生に至る入胎をさける方法しか残されていない。「バルド・トェドル」 はその方法を五つあげている。たとえば、その第一の方法は男女が交接している幻影があらわれても、これを配偶神と合体した仏であると心に念じ、ひたすら礼 拝し供養せよ、そうすれば解脱することができるというものである。このほかにもさまざまな方法が語られるが、いずれも目の前にあらわれる光景や人物が、自 分自身の心の産物でしかなく、あたかも夢のごとくで空であることを悟れというのが基本になっている。そしてここに至り、「バルド・トェドル」の作者は、こ の教えであれば死者の生前の能力にかかわらず、ほとんど誰でも解脱できるとまで言い切る。その理由として、前にも述べたように、この段階の死者の能力は、 生前の状態に関係なく、完全で、生きていたときよりもはるかに明晰で鋭敏になっているからであると述べる。それだからこそ、四九日目までは「バルド・トェ ドル」を聞かせることが肝要なのである。
 最後は、これでも解脱に至れなかったものたちへの「胎を選択する教え」である。死者は六道の中で少しでもよい生まれを求めよと忠告をうける。よい生まれ とは天か人である。そして人に生まれるならば仏法の広まった国を選び、生まれる身分はバラモンか王侯として生まれよと説かれる。これは実際の社会の上位階 層であるが、釈迦が王侯出身で、未来仏である彌勒がバラモンの出身であることも念頭にあるのであろう。しかし、同時に、悪い業があると錯乱して良い胎と悪 い胎の入り口を判断できず、あやまった選択をする可能性があると警告する。そして、その場合も目にうつるものはすべて空であると観じて、無執着に徹せよと いうことは忘れない。
 このようにバルドの四九日間のあらゆる段階で、数えきれないほどの解脱の方法が示され、「バルド・トェドル」の中心部分は終わる。

ナーローの六法

 「バルド・トェドル」は救済のための書である。その全編をつらぬいているのは、輪廻からの解脱の道である。しかし、そこに描かれる世界は、古代的あるい は中世的な再生の観念に根ざした、一見、荒唐無稽な死後の世界にうつる。それぞれのバルドのあいだの関係も、論理的な整合性を欠き、想像の産物の集積にす ぎないと見られるかもしれない。「バルド・トェドル」の救済理論をつらぬいているのは、空の確証による悟りである。いかなる段階であっても、そこにあらわ れる仏や神々、光、おそろしい災厄、これらをすべて幻や夢であると見抜き、自分の業が作り出した幻影であると知る。そして究極的には空にほかならないと悟 るのである。インド仏教では、空は本来、存在物が実態ではないことを示すネガティヴなことばであったが、密教の場合、空は修行の究極の目的、すなわち悟り そのものであるというポジティヴなものへと変容している。ここで追求される空も、そのような実体視された空に他ならない。そしてこのような空を追求する実 修法こそが、じつは「バルド・トェドル」の成立の基盤となっているのである。
 「バルド・トェドル」がベースとしているのが、一一世紀にインドにあらわれた修行者ナーローパによる「六法」という教えである。ナーローパ(ナーダパー ダ)はカギュ派の祖マルパの師にあたり「ナーローの六法」もカギュ派の中で整備され、この派を代表する実践方法となった。ただし、六法を説いたのはナー ローパだけではなく、彼と同時代のさまざまな人物名を冠した六法が存在する。またカギュ派以外の宗派でも六法の実践はさかんに行われている。しかし、その 中でもっとも有名なのが、この「ナーローの六法」なのである。
 「ナーローの六法」とは?内的火、?幻身、?夢、?光明、?バルド、?転移からなる。これらはいずれも本来は単独の修行法であったと考えられているが、 六法として組織化されると、この順序で実践され、最終的には空を悟り、解脱することが可能になる。?の内的火は準備段階にあたり、ヨーガによって中央の脈 管の基礎部に熱を作り出す行法である。これが?以下の活動源となる。?の幻身は自分自身の姿を鏡に映し、これを陽炎や雲、月影などにたとえ、幻影にすぎな いと確証する。?の夢では覚醒している時と夢を見ている時の状態が、いずれも幻影にすぎないことを理解する。夢の中にあらわれるもの--この中には仏や菩 薩もふくまれる--が、実体をもたないものであると悟る。これによってすべての現象が「光明」へと姿を変える。これが?の「光明」である。行者はこの光明 が空を本質とし、現象世界が展開する前の法身の輝きそのものであると知る。?のバルドは実践の過程における行者の仮想的な死である。あるいは、実際の死に 際して起こることを疑似的に体験することである。?の転移についてはすでに「死の瞬間のバルド」において述べたように、修行の最終的な段階でおこる意識の 移動である。前段階での疑似的な死を経た、仏国土へのよみがえりでもある。
 ?の内的な火は準備段階であるためのぞくとして、?の幻身から?の転移までを逆にして、人間の実際の死後の世界にあてはめたものが「バルド・トェドル」 である。もっともすぐれたものの場合、死の直後に転移を行じて解脱するか、導師の助けをかりてこれを行う。転移に失敗するとさまざまな死後の世界が展開す るが、そのたびごとに、まばゆい光明をたよりに、また眼前に繰り広げられる世界が夢であり、幻影であると悟ることによって解脱の可能性が示される。そして すべての根底にあるのが、空をもとめる熱意である。
 「チベットの死者の書」に「解説」をかいたC.G.ユングが、この書を逆に読むべきであると述べているのは興味深い。彼は人間の深層心理が上昇する過程 を、「死者の書」においては死者が逆にたどるとみているのであるが、「バルド・トェドル」を逆にしたものこそ、悟りに至る行者の実践階梯にほかならない。 「ナーローの六法」もインドやチベットの密教の実践についても充分知られていなかったこの時代のユングの直感にはおどろかされる。
 ところで「ナーローの六法」には五番目にバルドがおかれていた。この場合のバルドは行者の仮想的な死の体験であるので、前後の脈絡とも整合しているが、 「バルド・トェドル」の場合、死者は文字どおりすでに死んでバルドに入っている。そのためここであらためてバルドを実践するのでは、意味をなさない。「バ ルド・トェドル」の場合、転移を行う「死の瞬間のバルド」のあとは、寂静尊・忿怒尊の現出が起こる「存在そのもののバルド」であった。本来、バルドの思想 とは無縁であった寂静尊・忿怒尊の体系が「バルド・トェドル」の中に流入されたのは、内部に実践法としてのバルドをもつ六法を、実際の死後の世界であるバ ルドにあてはめることによって生じた、一種の空白状態を埋めるための手段であったと考えられる。

付記 「バルド・トェドル」からの引用、要約は川崎信定氏の和訳(一九八九)を参照させていただいた。また、「シト・ゴンパ・ランドル」のチベット語テキ ストは、名古屋大学文学部所蔵のアメリカ合衆国国会図書館チベット語文献マイクロフィッシュを閲覧する機会を得た。記して謝意を表します。

参照文献
金子英一 1976 「ニンマ派の埋蔵経典について」 牧野諦亮『疑経研究』 京都 大学人文科学研究所、三六九-三八六頁。
川崎信定 1989 『チベットの死者の書』 筑摩書房。
スタン、R.A.1993 『チベットの文化 決定版』山口瑞鳳・定方晟訳 岩波書 店。
立川武蔵 1984 「チベット仏教における心の本質--カギュ派の大印契説を中 心に」『仏教思想 九 心』仏教思想研究会編 平楽寺書店、二七七-三二〇 頁。
立川武蔵 1987 『西蔵仏教宗義研究 第五巻--トゥカン『一切宗義』カギュ派 の章』 東洋文庫。
田中公明 1991 「敦煌出土の寂静尊曼荼羅について」『秋山光和博士古稀記念美 術史論文集』 便利堂、一一一-一四一頁。
田中公明 1993 『チベット密教』 春秋社。
ツルティム・ケサン 1990 「川崎信定訳『チベットの死者の書』書評」『仏教 学セミナー』 五一号、84-88頁。
東洋文庫チベット研究委員会編 1977 『リンチェンテルズ目録』 東洋文庫。
フジタ・ヴァンテ編 1994 『チベット生と死の文化--曼荼羅の精神世界』  東京美術。
ユング、C.G. 1983 『東洋的瞑想の心理学』湯浅泰雄・黒木幹夫訳 創元社。
Evans-Wents, W. Y. 1957 The Tibetan Book of the Dead. London: Oxford University Press (3rd ed.).
Fremantle, F. & Chogyam Trungpa 1975 The Tibetan Book of the Dead: The Great Liberation through Hearing in the Bardo. Boston: Shambhala.
Kvaerne, P. 1974 The Canon of the Tibetan Bonpos. Indo-Iranian Journal 16(1-2): 18-56, 96-144.
Tucci, G. 1980(1970) The Religions of Tibet. Bombay: Allied Publishers.
(『ユリイカ』(臨時増刊号)第26巻第13号 1994年12月 pp. 30-39)


http://www.freegestaltworks.net/変性意識-asc-とは-応用編/心理学的に見た-チベットの死者の書/

「チベット死者の書」という、 有名な書物があります。 チベット仏教の、 カギュ派の、 埋蔵教(偽典)として知られる、 書物ですが、 この本は、 ゲシュタルト療法はじめ、 体験的心理療法や、 変性意識状態のことを考える上で、 とても参考(モデル)になる本です。
『サイケデリック体験 The Psychedelic Experience』※(『チベット死者の書 サイケデリック・バージョン』菅康彦訳 八幡書店)をもとに、色々と見ていきましょう。
 ◆バルドゥ(中有)と心の構造 まず、死者の書が、 何について書かれた経典(本)であるかというと、 人が死んでから、 再生する(生まれ変わる)までの、 49日間(仏教でいうバルドゥ/中有) のことが書かれた経典(本)である、 ということです。 人間が、 生まれ変わることが、 前提となっているわけです。 ただ、この前提は、 この経典(本)を読むにあたって、 無視しても構わない前提です。 なぜなら、 語られている内容は、 確かに死に際して、 心の底から、 溢れてくる出来事ということになっていますが、 それは、 心の構造そのものに、 由来するものと考えることが、 できるからです。 だから、 生きている私たちにも、 同様に存在している心の世界だと、 とりあえずは、 いえるからです。 ティモシー・リアリーらが、 この経典(本)をリライトしたのも、 薬物による、 サイケデリック体験でも、 同様の出来事(世界)が溢れてくるので、 この本を、 サイケデリック・トリップの、 導きの書にしようという、 意図からでした。 なので、 この経典(本)は、 私たちの深層の心の世界を、 語っているものとしても、 読むことができるのです。 さて、 この経典の形式ですが、 たった今、 死んだ死者に向かって、 語りかける言葉(声かけ)が、 形式となっています。 その死者が、 見ているだろうものを告げ、 アドバイスを与えるという、 形式です。 「聞くがよい、○○よ。 今、お前は、○○を見ているであろう」 という感じです。 さて、 死者は、 死んだ後に 3つのバルドゥ(中有)を体験し、 生まれ変わります。 しかし、 経典(本)の中心のメッセージは、 「さなざまな無数の心惹く像が、 現れてくるが、 それらにとらわれることなく、 本当の眩い光明を、 自己の本性と知り、 それと同一化せよ」 というものです。 そうすれば、 解脱が達成されて、 生まれ変わり(輪廻)から、 脱するというができるであろう、 というものです。 なので、 3つのバルドゥ(中有)の経過が、 刻々語られますが、 それは、 各バルドゥで訪れる、 解脱のチャンスの中で、 解脱できなかった者たちに、 対してであるということです。
◆3つのバルドゥ さて、死者は、 3つのバルドゥを順に体験していきます。 ①チカエ・バルドゥ →超越的な自己の世界 →法身 ②チョエニ・バルドゥ →元型的な世界 →報身 ③シパ・バルドゥ →自我のゲーム →応身 矢印の言葉は、 筆者なりの考えで補ったもので、 一般にオーソライズされているものでもないので、 その点は、ご了承下さい。 さて、この3つは、 心理学的には、 心の表層から、 心の深層までの、 3つの地層(宇宙)を表したものと、 見ることができます。 ③シパ・バルドゥ →自我のゲーム →応身 の世界は、 もっとも身近な、 私たちの自我の世界です。 通常の心理学が扱うのも、 この世界です。 リアリーらの死者の書では、 とらわれの自我のゲームを、 反復してしまう世界として、 描かれています。 サイケデリックな体験の中でも、 低空飛行している段階で、 日常の自我のゲームが、 再演されている状態です。 ②チョエニ・バルドゥ →元型的な世界 →報身 の世界は、 心の深層の世界、 私たちの知らない深層世界が、 ダイナミックに、 滾々と湧いてくる世界です。 死者の書では、 膨大な数の仏たちが現れてきます。 心の先験的とも、 古生代ともいうべき、 元型的な世界です。 系統樹をさかのぼるような、 世界かもしれません。 以前、サイケデリック体験で、 系統樹をさかのぼり、 自分が、まざまざと、 爬虫類になった体験をもった、 という人に会ったことがあります。 ①チカエ・バルドゥ →根源的な世界 →法身 は、根源的な、超越的な自己の世界で、 上の2つの較べて、 空なる世界に一番近い世界です。 実は、心理学の範疇には、 入らないともいえます。 ただ、そのような世界(状態)を、 仮定することはできます。 リアリーらは、 この状態を、 ゲームの囚われから解放された、 自由の、自然の、自発性の、 創造の沸騰する世界と見ます。 それでも、 充分有効なとらえ方と、 言えます。 さて、 死者の書の中では、 それぞれのバルドゥで、 「光明」が2つづつ現れてきます。 そして、 恐れを抱かせるような、 より眩い光明が、 根源の光明であり、 それを自己の本性と見なせと、 アドバイスします。 よりくすんだ方の光明に惹かれるであろうが、 それに向かうなと告げます。 ただ、多くの人は、 この後者の光明に向かうようです。 そして、 転生への道を進んでしまうのです。
◆経過 さて、死者は、 このような3つのバルドゥを、 経過していくのですが、 ティモシー・リアリーは、 サイケデリック体験における、 この3つの世界の、 推移の仕方について、 おもしろい喩えを使っています。 それは、 高いところから、 地面にボールを落とした時の、 「ボールの弾む高さ」 に似ているということです。 落ちてきたボールは、 最初は、 高く弾み上がります。 2度目は、 それより少ししか弾みません。 3度目は、 さらに少ししか弾みません。 つまり、 サイケデリック・トリップの、 初発の段階が、 重力(自我)から解放されて、 一番遠くの、 チカエ・バルドゥまで行けて、 次に、 チョエニ・バルドゥ 次に、 シパ・バルドゥ と段々と、 日常的な心理的に次元に、 落ちてきてしまうという、 喩えです。 この喩えは、 私たちの心の構造や、 心の習慣、可能性を考えるのにも、 大変示唆の多いものです。 2つの光明の喩えといい、 私たちの中には、 大いなる自由に比して、 慣習と怠惰に惹かれるという、 何かがあるのでしょう。
 ◆変性意識(ASC)の諸次元として さて、 「チベット死者の書」の世界を、 心の諸次元として、 見てきましたが、 この世界は、 死の体験やサイケデリック体験を、 経由しなくとも、 色々な変性意識状態の中で、 さまざまに、 あいまみえる世界です。 このモデルを、 ひとつ押さえておくことで、 心理学的航海の、 さまざまなヒントに、 なっていくでしょう。

 
 
 
ジョン・レノン(ビートルズ)が、
LSD体験や、この本にインスパイアされて、
という曲を創ったのは、
有名なエピソードです。
 
歌詞は、
Turn off your mind relax and float down stream
It is not dying, it is not dying
Lay down all thought surrender to the void
It is shining, it is shining
That you may see the meaning of within
It is being, it is being
 
わりと素直な(典型的な)、
サイケデリック体験そのまま、
という感じですが、
イイ感じに表現されてます。
 


(引用者注:はじめはチベット「死者の書」のことかと思ったが、ピエール=アンドレ・ブタンというABCの監督名。英語版では「So, you understand, I feel myself being reduced to the state of a pure archive for Pierre-André Boutang, to a sheet of paper,」となっている。ピエール=アンドレ・ブタンはドゥルーズ以外にも、レヴィナスのドキュメンタリーを1988年(ドゥルーズのインタビューの収録年)に撮っている。)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre-Andr%C3%A9_Boutang