(ニーチェ:インデックス、リンク::::::)
NAMs出版プロジェクト: 権力への意志
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_26.html
四七七 (673─74)
主は内的世界についてもその現象性を固執する。すなわち、私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている
(内省と遡行9頁163頁)
四九〇 (473─74)
主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?
(『内省と遡行』「序説」16頁、「言語・数・貨幣 第1章」164頁に引用、
『日本近代文学の起源』126頁#3告白という制度でも引用)
四九二 (475) 肉体と生理学とに出発点をとること。なぜか? ──私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(「霊魂」や「生命力」ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、「主観」は永遠的なものではないということに関しても同様である。…主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。
(『日本近代文学の起源』127頁#3告白という制度で引用)
同ヶ所
492
主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことである[が、その危険は、おのれを、偽って解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。]それゆえ私たちは肉体に問いたずねる[のであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである。 ]
(内省と遡行9頁163頁)近代文学の起源127頁#3「主観~である。」
五一八 (500─501)
私たちの「自我」が、私たちにとっては、私たちがそれにしたがってすべての存在をつくりあげたり理解する唯一の存在であるなら、それもまことに結構! そのときには、或る遠近法的幻想が──一つの地平線のうちへのごとく、すべてのものをそのうちへとひとまとめに閉じこめてしまう見せかけの統一が、ここにはあるのではなかろうかとの疑問がとうぜんおこってくる。肉体を手引きとすれば巨大な多様性が明らかとなるのであり、はるかに研究しやすい豊富な現象を貧弱な現象の理解のための手引きとして利用するということは、方法的に許されていることである。(結局、すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信ずることにもとづいてのみ可能である。)
(内省と遡行15~6頁164頁)
586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
(『哲学の起源』120頁 柄谷行人 岩波書店2012.11)
一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。
(『トランスクリティーク』定本版186頁)
参考:
NAMs出版プロジェクト: 定本柄谷行人集(付『世界共和国へ』『NAM原理』)総合索引
http://nam-students.blogspot.jp/2006/05/nam_31.html#5
─────────────
帝国の構造35頁では、ニーチェは交換様式ACの区別をしていないと批判されている。
《彼は道徳性を経済的なものから説明しようとした最初の人物です 。もっとも 、ニ ーチェには 、互酬交換 (交換様式 A )と売買 (交換様式 C )の区別がなかったことを見落としてはならない 。》
『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@☆/P.119,120@☆☆
J:『日本近代文学の起源』
T:『トランスクリティーク』定本版
P:『哲学の起源』 柄谷行人 岩波書店2012.11
☆
一〇四一 (834─35) 「然り」への私の新しい道。──私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生在の憎むべき厭うべき側面をもみずからすすんで探究することである。…
「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」──これが私には本来の価値尺度となった。…
この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する──あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──…
このことにあたえた私の定式が運命愛である。
☆☆
586c
この現世が「仮象」の世界で、あの世が「真」の世界であるとみなされるということが、或る症候のあらわれである。
「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では理性と論理的機能がふさわしい、──ここから「真」の世界が由来する。
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『権力への意志』,❶J.126-7@/❸T.186@
『哲学の起源』 柄谷行人 岩波書店2012.11
ニーチェ『権力への意志』,119,120@
権力への意志1066
《ウィリアム・トムソンがそれから引きだした或る終局状態という帰結》
差異と反復でドゥルーズが言及
参考:
NAMs出版プロジェクト: ニーチェ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_5.html
ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。
目次
第1書 ヨーロッパのニヒリズム(ニヒリズム
ヨーロッパのニヒリズムの歴史)
第2書 これまでの最高価値の批判(宗教の批判
道徳の批判
哲学の批判)
付録 計画と草案「ムザリオン版」
ワイド版世界と大思想 第3期 〈9〉ニーチェ (1972,2005,2013)
権力への意志
原佑訳
目 次
◆序 言
第一書 ヨーロッパのニヒリズム
◆計 画
Ⅰ ニヒリズム
1 生存のこれまでの価値解釈の帰結としてのニヒリズム
2 ニヒリズムのその他の諸原因
3 デカダンスの表現としてのニヒリズムの運動
4 危機。ニヒリズムと回帰思想
Ⅱ ヨーロッパのニヒリズムの歴史
a) 現代の暗鬱化
b) 最近の数世紀
c) 強化の諸徴候
第二書 これまでの最高価値の批判
Ⅰ 宗教の批判
1 宗教の発生
2 キリスト教の歴史
3 キリスト教的諸理想
Ⅱ 道徳の批判
1 道徳的価値評価の由来
2 畜 群
3 道徳主義的なもの一般
4 いかにして徳は支配的となるにいたるかの問題
5 道徳的理想
A 理想の批判
B 「善人」、聖者などの批判
C いわゆる悪しき固有性の誹謗について
D 改善、完成、向上という言葉の批判
6 道徳の批判への結論的考察
Ⅲ 哲学の批判
1 一般的考察
2 ギリシア哲学の批判
3 哲学者の真理と誤謬
4 哲学の批判への結論的考察
第三書 新しい価値定立の原理
Ⅰ 認識としての権力への意志
a) 研究の方法
b) 認識論的出発点
c) 「自我」によせる信仰。主観
d) 認識衝動の生物学。遠近法主義
e) 理性と論理学の発生
f) 意 識
g) 判断。真─偽
h) 因果論への反対
i) 物自体と現象
k) 形而上学的欲求
l) 認識の生物学的価値
m) 科 学
Ⅱ 自然における権力への意志
1 機械論的世界解釈
2 生としての権力への意志
a) 有機的過程
b) 人 間
3 権力への意志および価値の理論
Ⅲ 社会および個人としての権力への意志
1 社会と国家
2 個 人
Ⅳ 芸術としての権力への意志
第四書 訓育と育成
Ⅰ 階 序
1 階序の教え
2 強者と弱者
3 高貴な人間
4 大地の主たち
5 偉大な人間
6 未来の立法者としての最高の人間
Ⅱ ディオニュソス
Ⅲ 永遠回帰
◆解 題
◆解 説 信太正三
◆シュレヒタ版配列表
ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
力への意志(ちからへのいし、英:Will to Power、独:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期著作に登場する、突出した哲学的概念のひとつである。
力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意思の表れである。本人の著作では、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」[1]と表現される思想である。ニーチェの著作と言われる『権力への意志』は、ニーチェの死後に遺稿を元に妹のエリーザベトが編集出版したものである。
直接の影響を受けたのはアルフレッド・アドラーである。アドラー心理学には力への意思の概念が反映されている。 これはウィーンの他の心理療法学派と対照的である。それらにはジークムント・フロイトの快楽原則(快楽への意思)、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピー(意味への意思)などがある。それぞれは、人の根源的な動機を別々に定義している。
この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。
力への意志は権力への意志と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない[4]。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている[5]。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変のロゴスとして存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想はジル・ドゥルーズの差異の哲学に受け継がれた[6]。
また永井均はこの概念を指して、「力への意志」というよりは「力=意志説」と呼んだほうが良いと書いている。[7]
ニーチェは、キリスト教主義、ルサンチマン的価値評価、形而上学的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは超人へ至る条件でもある[8]。
力への意志という概念はナチスに利用されたが、ニーチェの哲学を曲解したものとする見方がある[8]。
ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹のエリーザベトによって編纂され、同名の著書として出版された[9]。 ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。このことは、「力への意志」という主題がニーチェにとって著作としてまとまったものになるほど成長することはついになかったということであり、言ってみれば、ニーチェはその偽悪的なポーズにも関わらず、彼のファナチックな読者たちよりもずっと慎重な性格だったということである。
著作としての『力への意志』は「ニーチェの意志」ではないという当然の評価は、第二次世界大戦でのナチスドイツ敗北後に、ハンザー社の『ニーチェ三巻著作集』で編集者シュレヒタが同著作を『八十年代の遺稿から』というアフォリズム集に編集解体して初めて認知された。それまでは、ナチス時代を通じ『権力への意志』こそがニーチェの理論的主著であるというのが通念だったのである。
- ^ ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年、p.216。
- ^ 今村仁司編 『現代思想を読む事典』 講談社〈講談社現代新書〉、1988年、pp.423-424。
- ^ ニーチェ著、氷上英廣訳 『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1967年、pp.193-194。
- ^ 貫成人 『真理の哲学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、第1章§2。
- ^ 貫成人 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2004年、p.134。
- ^ 『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44、宝島社、1984年、pp.22-23。
- ^ 永井均『ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)』河出書房新社、1997年、p.142
- ^ a b フリードリヒ・ニーチェ#思想を参照。
- ^ 日本語訳: ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。
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「人間と世界が、〈と〉という小さな語の崇高な意図によって分かたれながら隣り合っているの
を見るだけで、私たちは爆笑する。」
Nietzsche, Le Gai Savoir , V, 346〔ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、
1993、376−378ページ〕
ドゥルーズガタリがAO2:6で引用
上のニーチェの言葉はゴダールが企画書でドゥルーズガタリ経由で引用
Moi Je , projet de film (1973)
Jean-Luc Godard, documents p.199,215,219
ニーチェ『権力への意志』を解読する(1) | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-wille-zur-macht-1/
ニーチェ『権力への意志』を解読する(2) | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-wille-zur-macht-2/
以下引用、
永遠回帰する力としての世界
最後にニーチェの永遠回帰(永劫回帰)についても触れておこう。
永遠回帰とだけ聞くと何だかアヤシイ。しかしポイントはシンプルだ。そしてこれを押さえておくことは、ニーチェの思想を受け取るにあたってとても重要だ。なぜならこの直観こそ、それまでの価値体系を支配していたキリスト教的世界観に変わる新たな世界観として考え出されたものだからだ。
ニーチェはこれをイメージや物語としてではなく、エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)を手がかりとすることで、誰もが納得せざるをえないものとして示そうとした。その意味で永遠回帰は、仏教の輪廻転生とは本質的に異なるものだ。
ニーチェは次のように言う。
世界を次のようなものとして捉えてみよう。それは無限に反復されてきた力であり、これからも無限に繰り返し続ける円環運動だ。それは創造されたこともなければ、終末を迎えることもない、と。
そのように考えるのが許されるなら(しかもそれはエネルギー保存の法則によって“要請”されている)、私たちはすでにどのような瞬間も何度も経験してきたのだと考えることもことが出来るはずだ。
無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかはいちど達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。
永遠回帰する世界には「救い」がない。苦悩は一度経験されるだけでなく、無限に経験されるからだ。しかし苦悩だけではない。もし一生のうち一度でも快や美や幸福を感じたことがあれば(そうでない人が果たしているだろうか?)、それもまた無限に反復される。
つまり無限性の観点から見れば、苦悩も快楽も、ともに等しく経験されることになる。苦悩が99.9999…%あっても、幸福が0.000…1%あれば、無限性の観点からすればどちらも∞であるからだ。
そうした世界こそ、私の哲学が肯定するものだ。私の哲学はニヒリズムを前提する。しかしだからといって私は生を否定することを目的とするわけではない。あるがままの生を「然り」と肯定すること、たとえ生が欺瞞にあふれているとしても、その生を是認すること。このディオニュソス的肯定こそ、私の哲学の目がけるところに他ならない。
私の生きぬくがごときそうした実験哲学は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する—あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで—、それは永遠の円環運動を欲する、—すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ—、このことにあたえた私の定式が運命愛である。
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http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、
Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf
キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』
『仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』
《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひと つを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないで ね。
――(三行略)――
生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
(理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集Ⅰ」塚越敏訳)