cogito ergo sum変奏:改訂版
(デカルト、リンク::::::::::)
NAMs出版プロジェクト: cogito ergo sum変奏:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/cogito-ergo-sum.html(本頁)
https://x.com/yojisekimoto/status/43270614714302464?s=61
デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html
NAMs出版プロジェクト: 知覚、視覚、触覚。メルロ=ポンティ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_30.html
Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-par-lui-meme-1976_24.html
Cogito ergo sum
https://fr.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
https://translate.google.com/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A%2F%2Ffr.wikipedia.org%2Fwiki%2FCogito_ergo_sum
我思う、故に我在り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%
82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)[1637]の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』(1637)の他、『省察』(1641)、『哲学原理』(1644)、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]。
…
「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)
「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56
「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
「私は思惟する事物である 」
ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)
「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)
「我思う=我あり(同語反復)」?
カント(『純粋理性批判』A355)
「〈私は考える〉とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない」
カント(『純粋理性批判』B132、岩波文庫上 篠田訳P.175。B422-3の注に詳しい。B277をはじめ、B428、A347、A370にも関連した考察がある。)
「我思われる、故に我あり」
フランツ・バーダー((Franz Xaver von Baader、1765-1841全集12,16)
http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
「人間は自己のたんなる思惟のためにも、〈われ〉に対応する〈汝〉に憧れる。」
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm von Humboldt、1767-1835。フンボルト『双数について』より(邦訳31頁別訳)。後年、マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878-1965)が「対話」(『我と汝』岩波文庫217頁)で引用。)
「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770-1831 『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
「我々が存在するということから我々が表象を有することを知るのではなくて、逆に我々が表象を有することによって始めて我々もまた存在することを知るのである」
ボルツァーノ(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano、1781-1848、『知識学』§42、未邦訳より。創文社、藤田伊吉著『ボルツァーノの哲学』57頁より孫引き。)
「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788-1860、『続意志と表象〜』第4章)
「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach, 1775年11月14日 - 1833年5月29日。『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
「わたしはある。わたしはあるという者だ」[『出エジプト記』三章十四節]
プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日-1865年1月19日)が『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)のプロローグで批判的に引用。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる(Cogito cogito ergo cogito sum われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う)」
アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える)」
ニーチェ(『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)§276。文法的に逆転するだけでは意味がないという指摘も含めて、これはハイデガーに先行する認識である。ニーチェは『善悪の彼岸』§54でも主語重視のデカルト及び述語重視のカントを批判している。)
「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
フッサール(1859-1938『デカルト的省察』§14)
「デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的クーデタである。」
ヴァレリー(1871-1945「カイエ(ノート)」Cahiers,T.5,P.144)
「もしも〈コギト〉があれほど繰り返し彼の著作の中に、すなわち『方法序説』に、『省察』に、『哲学原理』に見いだされるとすれば、それは〈コギト〉がデカルトに対して彼の本質をなす〈エゴチスム〉に集合を命ずるラッパを吹き鳴らすからにほかならない。」
ヴァレリー(1871-1945「デカルト考」『ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉』邦訳70頁)
「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
ラッセル(1872-1970『西欧哲学史3』邦訳560頁)
「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
(he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html
「思うということが我なのである」
ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html#id_3f18de39
「〈sum cogito〉(われ存在す、われ思惟す)…最初の言明は〈sum〉であり、しかも、〈われ世界の内にあり〉という意味でのそれである。」
ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976『存在と時間』§43。ちくま文庫上440頁。ニーチェと同じ言い換えをしつつ、さらに補足している。)
「…デカルト的カテゴリー錯誤…。結局、デカルトは問題の論理を誤ったのである。」
ギルバート・ライル(Gilbert Ryle、1900-1976『心の概念』邦訳15〜19頁)
「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固としたものではない。」
ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
http://yokato41.exblog.jp/15189066/
http://psychanalyse.jp/archives.html
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14)
「…《我れのみひとり絶対として存在する》と定式化するかわりに、《絶対的意識のみひとり絶対として存在する》と表明すべきであろうし、これはあきらかに自明の理なのだ。実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりも一そう確実だということはない、ただ、一そう親密なだけである。」
サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905 - 1980、「自我の超越」1937、邦訳「哲学論文集」241頁)
「…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。…有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。」
レヴィナス(1906-1995『全体性と無限』3:B5、柄谷『探究2』単行本108-9頁参照)
「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳一、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉らしい。)
http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm
「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)
「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」
レヴィ=ストロース(1908-2009『野生の思考』邦訳300頁)
http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html
「我思う、ゆえに、そこにすでに我なし」
福岡正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日『無2 無の哲学』1985,春秋社、22頁)
「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』第二章、邦訳142頁)
「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)
「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)
「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
ゴダール(『映画史』1B)
「君あり、故に我あり」
サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)
「無限のなかで疑いつつわれ在り」
柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)
「コギトとは、そうしたシステム間の〈差異〉の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に〈在る〉ことである。」
柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』文庫版94頁)
http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html
「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…("I suffer, therefore I am" )」
ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』邦訳71頁(Ticklish 281))
一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。
追記(番外編):
「…thinking is to be conscious that we exist... 」
アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』1170a25 ff)
http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors
「…また思考しているときには思考しているということを知覚するのであるとするならば、またもし、知覚していることを知覚し、思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならないとするならば、(なぜならわれわれ人間にとっては存在するということは知覚し思考することであったのだから、)…」
アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)
「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁別訳)。パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際の指摘と関連する。引用は別箇所。アルノーも反駁で使用した。教文館版全集第13巻74頁の訳だと「もしわたしが欺かれるとすれば、わたしは存在する。」<si enim fallor, sum.>同300頁。 )
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。」
パスカル(1623-1662『パンセ Pensées』断章77、柄谷『探究2』単行本102頁参照)
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120629/1340917610
NAMs出版プロジェクト: cogito ergo sum変奏:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/cogito-ergo-sum.html(本頁)
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デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html
NAMs出版プロジェクト: 知覚、視覚、触覚。メルロ=ポンティ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_30.html
Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-par-lui-meme-1976_24.html
Cogito ergo sum
https://fr.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
https://translate.google.com/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A%2F%2Ffr.wikipedia.org%2Fwiki%2FCogito_ergo_sum
我思う、故に我在り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%
82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)[1637]の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』(1637)の他、『省察』(1641)、『哲学原理』(1644)、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]。
…
ルネ・デカルト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%
AB%E3%83%AB%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%
AB%E3%83%AB%E3%83%88
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]。
…
「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)
「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56
「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y
「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
「私は思惟する事物である 」
ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)
「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)
「我思う=我あり(同語反復)」?
カント(『純粋理性批判』A355)
「〈私は考える〉とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない」
カント(『純粋理性批判』B132、岩波文庫上 篠田訳P.175。B422-3の注に詳しい。B277をはじめ、B428、A347、A370にも関連した考察がある。)
「我思われる、故に我あり」
フランツ・バーダー((Franz Xaver von Baader、1765-1841全集12,16)
http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
「人間は自己のたんなる思惟のためにも、〈われ〉に対応する〈汝〉に憧れる。」
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm von Humboldt、1767-1835。フンボルト『双数について』より(邦訳31頁別訳)。後年、マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878-1965)が「対話」(『我と汝』岩波文庫217頁)で引用。)
「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770
「我々が存在するということから我々が表象を有することを知るのではなくて、逆に我々が表象を有することによって始めて我々もまた存在することを知るのである」
ボルツァーノ(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano、1781-1848、『知識学』§42、未邦訳より。創文社、藤田伊吉著『ボルツァーノの哲学』57頁より孫引き。)
「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788-1860、『続意志と表象〜』第4章)
「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach, 1775年11月14日 - 1833年5月29日。『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
「わたしはある。わたしはあるという者だ」[『出エジプト記』三章十四節]
プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日-1865年1月19日)が『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)のプロローグで批判的に引用。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf
「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる(Cogito cogito ergo cogito sum われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う)」
アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える)」
ニーチェ(『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)§276。文法的に逆転するだけでは意味がないという指摘も含めて、これはハイデガーに先行する認識である。ニーチェは『善悪の彼岸』§54でも主語重視のデカルト及び述語重視のカントを批判している。)
「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
フッサール(1859-1938『デカルト的省察』§14)
「デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的クーデタである。」
ヴァレリー(1871-1945「カイエ(ノート)」Cahiers,T.5,P.144)
「もしも〈コギト〉があれほど繰り返し彼の著作の中に、すなわち『方法序説』に、『省察』に、『哲学原理』に見いだされるとすれば、それは〈コギト〉がデカルトに対して彼の本質をなす〈エゴチスム〉に集合を命ずるラッパを吹き鳴らすからにほかならない。」
ヴァレリー(1871-1945「デカルト考」『ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉』邦訳70頁)
「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
ラッセル(1872-1970『西欧哲学史3』邦訳560頁)
「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
(he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html
「思うということが我なのである」
ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html#id_3f18de39
「〈sum cogito〉(われ存在す、われ思惟す)…最初の言明は〈sum〉であり、しかも、〈われ世界の内にあり〉という意味でのそれである。」
ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976『存在と時間』§43。ちくま文庫上440頁。ニーチェと同じ言い換えをしつつ、さらに補足している。)
「…デカルト的カテゴリー錯誤…。結局、デカルトは問題の論理を誤ったのである。」
ギルバート・ライル(Gilbert Ryle、1900-1976『心の概念』邦訳15〜19頁)
「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固としたものではない。」
ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
http://yokato41.exblog.jp/15189066/
http://psychanalyse.jp/archives.html
「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14)
「…《我れのみひとり絶対として存在する》と定式化するかわりに、《絶対的意識のみひとり絶対として存在する》と表明すべきであろうし、これはあきらかに自明の理なのだ。実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりも一そう確実だということはない、ただ、一そう親密なだけである。」
サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905 - 1980、「自我の超越」1937、邦訳「哲学論文集」241頁)
「…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。…有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。」
レヴィナス(1906-1995『全体性と無限』3:B5、柄谷『探究2』単行本108-9頁参照)
「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳一、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉らしい。)
http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm
「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)
「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」
レヴィ=ストロース(1908-2009『野生の思考』邦訳300頁)
http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html
「我思う、ゆえに、そこにすでに我なし」
福岡正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日『無2 無の哲学』1985,春秋社、22頁)
「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』第二章、邦訳142頁)
「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)
「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)
「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
ゴダール(『映画史』1B)
「君あり、故に我あり」
サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)
「無限のなかで疑いつつわれ在り」
柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)
「コギトとは、そうしたシステム間の〈差異〉の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に〈在る〉ことである。」
柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』文庫版94頁)
http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html
「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…("I suffer, therefore I am" )」
ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』邦訳71頁(Ticklish 281))
一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。
追記(番外編):
「…thinking is to be conscious that we exist... 」
アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』1170a25 ff)
http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors
「…また思考しているときには思考しているということを知覚するのであるとするならば、またもし、知覚していることを知覚し、思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならないとするならば、(なぜならわれわれ人間にとっては存在するということは知覚し思考することであったのだから、)…」
アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)
「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁別訳)。パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際の指摘と関連する。引用は別箇所。アルノーも反駁で使用した。教文館版全集第13巻74頁の訳だと「もしわたしが欺かれるとすれば、わたしは存在する。」<si enim fallor, sum.>同300頁。 )
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。」
パスカル(1623-1662『パンセ Pensées』断章77、柄谷『探究2』単行本102頁参照)
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120629/1340917610
追記:
第4 八つの詩句の章 14.迅速
https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/buda/buda_4_14_tunoshiku.htm
「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元 訳(岩波文庫)
915
[問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。…」
https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/buda/buda_4_14_tunoshiku.htm
「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元 訳(岩波文庫)
915
[問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。…」
《…「私は考える、ゆえに私はある」115…》56頁
《115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
(コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』[1641]では、Ego sum, ego existo (私はある、
私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
『[哲学]原理』[1644]ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『[方法]序説』[1637]のラテン語
訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
VI.558)となっている。『真理の探究』[la recherche de la verite 1684?,1701?]に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。》234~5頁脚注